クリスチャンのための哲学講座
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18.世界一貧しい大統領/ホセ・ムヒカ
「会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください。ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億~80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、エピクレオ、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。『貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』。これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合をそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、1300万頭の、世界でもっとも美味しい牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます。「これが人類の運命なのか?」
私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。ありがとうございました」。
初めてウルグアイ元大統領"ホセ・ムヒカ(Jose'Mujica)"のスピーチの打村明さんの翻訳をインターネットで読んだ時の衝撃を、今でも覚えている。まだムヒカが現役の大統領であった2012年6月20日、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた国連の「持続可能な開発会議(※以後、リオ会議)」でのスピーチ。このスピーチで俄然興味を持ったのでホセ・ムヒカの事をネットで色々調べていたのだが、断片的な情報の寄せ集めになってしまったので、全体を概観するため「いっそのこと、本を一冊買おう」と思い「ホセ・ムヒカの言葉」を購入し、すぐ読破。
スラムダンクの安西先生、もしくはケンタッキーおじさんのような風体から、どことなくユーモアを感じさせるが、ムヒカは信念の人。そのような彼は、どのような人生を歩んできたのでしょうか?
1935年5月20日、ウルグアイ東方共和国(※以後、ウルグアイ)の首都モンテビデオで、スペイン系の父とイタリア家の母の間に生まれる。名は「ホセ」。愛称は「ぺぺ」。ぺぺが7歳の時、家のローンを残して父が病死。父の死後、母は懸命に働き、ぺぺも仕事をして家計を助けるべく働いた。ちなみに、この頃から野菜作りを覚えてそれが好きになったそうだ。彼が住む地域自体が貧しい。ムヒカの政治哲学は、「理想からかけ離れた不公平な社会への憤り」が背景にある。ムヒカは大統領になってから給与の90%を慈善事業に寄付しているが、弱者に手を差し伸べるのは「義務」だととらえている。
「世界が物とお金と資源で溢れている中、人に車を貸すことも惜しみ、貧乏人に手を差し伸べず、野良犬にご飯も家もあげないような、こんなせこい世界は他にあるでしょうか?神様に謝りたい」。
ウルグアイと言う国は、正直なところ、サッカーのワールドカップで国名を聞くぐらいだけど、元々スペインの植民地で、1825年に独立を宣言して、1828年に建国。20世紀初頭には、社会経済改革が行われ、南米で唯一の福祉国家となり、生産も奨励されて経済も成長し、"南米のスイス"とまで呼ばれた。ウルグアイは、牛肉と羊毛の輸出によって経済が成り立っていたが、化学繊維の台頭、そして大規模な戦争が無くなったことにより、1955年を境に経済が悪化し高インフレとなっていき、社会不安が増大していく。ムヒカは、法律を学ぶ学校を中退し政治活動に携わっていたが、1960年代にキューバの革命家チェ・ゲバラの影響を受けた社会主義者によって結成された都市ゲリラ「トゥパマロス」の活動に参加する。「世界を変えたい」と言う思い、「格差のない自由」を望み、ムヒカは戦士の道を歩んでいく。
トゥパマロスと治安組織との抗争は激しくなっていき、ムヒカもついに逮捕される。脱獄などしたが、結局4度捕まる。最後の逮捕は、1972年8月。ムヒカは銃で警官2人に負傷を負わせたが、ムヒカも6発の銃弾を受け、大量出血。治療後、収監されたムヒカは13年間、獄中生活を送ることになる。
この頃、民主国家だったウルグアイは、内線を終結させるために政府が軍に頼ったために軍部の政治介入が強まり、1973年ついにクーデターにより軍事政権支配下に置かれる。そのような状況下、ムヒカも刑務所から軍キャンプに移送された。ここで、トゥパマロスのメンバーたちは拷問などの非人道的な扱いの日々を耐えることになる。ムヒカは、何度も生死の境をさまよう。あのケンタッキーおじさんような風体からは、そんな悲惨な過去は想像しがたいが、そのような極限状況を彼は耐えた。彼は、この孤独な時期を耐え、本を読み、自己と向き合った。たくさんのことを学んだ。「富の無意味さ」や「暴力の無意味」を反省した。
「私は、何もない中で生き残りました。それで、人生において、限度を知り、どんな小さなことにもありがたみを持つようになったのです」。
ウルグアイの軍事政権は、軍の政治介入を合法化する憲法改正を実行しようとしますが、国民投票によって否決される。ウルグアイの民主主義は、失われていませんでした。ムヒカらトゥパマロスのメンバーは恩赦により、1985年3月釈放された。釈放後、ムヒカは自分で栽培した野菜と花を売り生計を立てる。トゥパマロスの仲間と共に政治に参加していくが、1995年左派中道政党「拡大戦線」から下院議員選挙で立候補して当選。その後、上院議員になり、2004年の選挙ではバスケス大統領の下で農牧大臣として初入閣。彼は、農牧大臣として、貧しい人でもウルグアイの伝統料理"アサド"(骨付き牛肉のロースト)を食べられるように尽力した。
2007年の世論調査では国民にとって最も好ましい閣僚となり、2009年11月の大統領選挙で勝利した。
「勝者も敗者もない。我々は支配者を選んだのではない。このことははっきり言おう」。
2010年3月1日、ムヒカはウルグアイ第40代大統領に就任した。彼は大統領官邸に住まず、大統領専用車で移動せず、給与の大半を寄付した。警備は警官2人だけで、自分の農園で生活し、87年型の旧いワーゲンビートルに乗り続けた。彼は、国民の大多数と同様の生活を続けた。「代表民主制」は「多数派の人が決定権」を持つ世界であると言う信念も持っており、国のリーダーは多数派の暮らしをすべきと考えている。少数派のごく一部の裕福な人々が、政治の実権を握るのは民主主義ではない。裕福な少数の人々は、彼らのお金の視点から世界をとらえる。多数派によって統治されるには、多数派の視点に置くよう努力する必要がある。
「お金があまりに好きな人たちは、政治の世界から出て行ってもらう必要があります」。
一方で、元ゲリラ戦士の歯に衣を着せぬ発言は、あちこちで軋轢を生じた。"FIFA"に対する悪態、"アルゼンチン大統領"への暴言、メキシコの"汚職蔓延"と言う発言、イスラエルのガザ侵攻に対して"集団虐殺行為"と言う批判など、数々の舌禍が外交関係の緊張を生んだ。それでも彼が人気を維持したのは、原稿に目を落とさず、パワーポイントで説明せず、自分の言葉でストレートに語ったからである。
彼が大統領任期中に実行した政策は、度々世界に衝撃を与え、世界から注目を集めた。2013年12月、ウルグアイの上院議会は「大麻(マリファナ)」の所持、使用、栽培を合法化した。法案を提案したのは、大統領自身。ウルグアイの大麻消費人数は、30年の間に100倍(15万人)に膨れ上がった。大麻の取引を取り締まり弾圧すればするほど、闇の麻薬組織や暴力社会は拡大し利益を増やしていった。大麻を栽培から使用まで政府の管理下に置くことによって、麻薬組織から市場を奪うための方策である。ムヒカ大統領は、マリファナや麻薬の消費に賛成している訳ではなく、むしろ大反対である。麻薬中毒は、苦しみを与えるだけだと公言している。ウルグアイは、麻薬組織と戦い、麻薬に関して教育とコントロールすると言う壮大な社会実験を開始したのである。結果が出るには、まだまだ先である。ムヒカ自身が語っているように、「計画が成功するかどうかは分からない」。
「ひとつ言えることは、弾圧だけでは問題を解決することはできない、ということです」。
もう一つムヒカ大統領の画期的な政策として知られるのが、「妊娠中絶の合法化」である。中南米諸国はローマカトリック教会の影響が強いので、中絶が禁止されている国が多い。ウルグアイでも、1938年に作られた法律で中絶は禁止されていて、年間3万件以上の違法な中絶が行われていたと言う。2008年にもウルグアイでは中絶合法化法案が議会で可決されたが、当時のバスケス大統領は拒否権を行使した。それを2012年、法案が可決されてムヒカ大統領は署名したのである。
「誰も妊娠中絶に賛成ではありません。しかし、女性はそれを必要とします。これが現実です」。
ムヒカ大統領は、その他「同性婚の合法化」、「社会福祉住宅計画(貧困家庭に住宅を与える計画)」などの重要な政策を実現した。彼は「建前」ではなく「現実」を直視し、彼は自分の信念に従って政治運営をした。2015年3月1日、ムヒカが大統領の任期満了を迎えた時、最後の支持率は65%ほどだった。
ムヒカは、有名な哲学者や著名な学者のように、机上で書き記した書物によって何かを訴えたわけではない。彼自身が実際に歩んできたその行動と実績によって、我々は彼の思想や哲学を知るのである。
現代に生きる我々とホセ・ムヒカの哲学の適用について
ホセ・ムヒカは、大統領までなった政治家としては稀有な存在だと感じられる。僕なりに表現すると「長い物に巻かれない」、「富に左右されない」、「常にマイノリティや弱者のことを考えている」、「民主主義の基本理念に忠実な人」…そんな印象である。
だがしかし、彼を快く思わない、もしくは嫌っている人間も大勢いるのも事実である。「民主主義の原則である多数派の視点に立つ」ことと「貧しい人や弱者に手を差し伸べる」ことの視点に立っているので、逆に言うと「金持ちの少数派」の立場は代弁していないと言う事である。高等教育を受けた人々や富裕層、彼らの不満度は高い。ウルグアイの貧困率は、2000年代前半は40%だったが、2013年には10%ほどにまで下がった。少数派の裕福層を対象に、大幅に税金を上げた税制を導入した効果が大きいと言われる。富裕層は納得がいかない。「自分が払った税金を、仕事をしていない人に使われるのは納得できません」。このような怒りは、ウルグアイだけでなく日本でも同じ意見を聞く。「一所懸命働いて税金を払っているのに、仕事をしていない人の生活保護費に使われるのは納得できない」。しかし、ムヒカは特段"金持ち"を嫌っている訳でも憎悪している訳でもない。
「政治というのは、ある人には有利でも別の人には不利になる、という選択肢を選ばなくてはなりません。マジョリティにいるのか、マイノリティにいるのか、中立でいられず、どちらを助けるのかを決断しなくてはならないのが、政治です」。
ムヒカは、政治的な選択をしているのである。完全に公平な政治など存在しない。ムヒカの政策的な選択は、必ずしも「正しい」とは言えないかもしれない。かつて、共産主義国家が雨後の筍のごとく次々に建国された。労働者の公平な社会の理想を掲げて。結果はどうだったろうか?どの国も経済が破たんしていき、次々に共産主義国家は消えて行った。
何故か?一言でいうと、「一生懸命に働いても働かなくても報酬が同じなら、人間は頑張らない」と言う単純な事実である。あなたが、もしコンビニのバイトで時給850円と決まっていたら、同じ時給850円の仲間よりも倍頑張って働くだろうか?バイトの既定の時間をそつなくこなし、帰っていく。他の時間が混雑してようがトラブっていようが、知ったこっちゃないでしょう。
逆にあなたが、自分で事業を立ち上げていたなら、我武者羅に働くでしょう。トラブルが発生すれば速やかに対処し、商品をより良く品質改善しようとするでしょう。
共産主義の国家では、それがなかった訳です。結果、度々飢饉が発生し、生産品の質は向上せず、経済は破綻していきます。僕は車好きなので、旧ソビエト連邦時代の車と当時の西側諸国の車を比較すると、性能に雲泥の差がある訳です。かたや品質や機能の向上に必死になり、かたや一生懸命働いても報酬は同じなので同じ車の生産を延々と続けるだけ。技術の進歩は停止。経済は低迷。
ムヒカの政策は、そう言う危険をはらんでいます。「貧しい人々を救う」と言うと響きは素晴らしいが、「一生懸命働く人のやる気」を削ぐのです。そうなると、国家全体の経済力が落ちて雇用力が落ち、より多くの貧しい人が生まれる危険もあるのです。しかし、ムヒカは「選択」をしたのです。
けれども、今の世界を見ると、明らかに「極わずかの持てる人(富裕層)」と「大勢の持たざる人(貧困層)」に分離し始めています。公平とはほど遠い世界です。大国アメリカでさえ、1割未満の富裕層とそうでない人々の格差が広がり、まともに医療を受けられない人々も多くいます。大企業がロビー活動(※政治家に影響を及ぼすための政治活動)により、大企業に有利な法案を通していきます。逆に言うと、発言力や資金力を持たないマイノリティの意見は政治に反映されず、ますます貧富の格差は増大していきます。
これは、アメリカだけの問題ではありません。世界規模で起こっています。企業の政党への献金、実質的な選挙への協力などにより、企業側に有利な偏った法案が通り、政策や予算の分配が実行されます。日本も例外ではありません。民主主義政治の原則は、「多数派の意見の視点に立つ」ことと同時に「弱い人々の福祉」の両輪で回っていると私は考えます。これが、弱い一人一人が集まって幸福な社会を築いていくための民主主義社会の最低限のルールです(→政治社会とは何か?)。強い人は保護を受けずに生きられるが、弱い人は保護を必要とする。しかし、現実の社会ではそうなっていません。本当に保護が必要な人にまで「自己責任」と言う罵詈雑言が浴びせられる不寛容な社会が到来しています。
多数派のため、弱者のためになされた選挙時の公約は、選挙後にいとも簡単に覆ります。多数派は選挙に受かるまで利用されるだけです。それはまるで、テレビの視聴者とスポンサーの関係のようです。テレビ局が視聴者に気に入られる番組を作るのは、視聴者のためではなく、スポンサーに気に入られて莫大な広告収入を得るためです。それに、似ています。多数派は得票に利用されるだけで、公約を実行しなくても人の関心はせいぜい75日…。
これでは、極少数の人々に一層富が集中し、格差は増大を続ける一方です。グローバル経済が支配する現代、ますますその傾向に拍車がかかっています。これは、経済問題ではなく、政治の問題なのです。各国はもとより、国連も多数派の貧しい人を助けることができないのです。政治が「無力化」しているのです。解決するための「お金」がない訳ではなく、お金を持っている人に要求できない政治的意気地なしが世界を覆っているのです。ムヒカは、こう語ります。
「世界は、地球全体、グローバルな法整備をする能力に欠けている。本来すべてをカバーすべき政治が弱体化しているからです」。
歴史上、人々を公平にしようとした共産主義は破綻んした。かと言って、資本主義が完全と言うことでは決してない。強欲が行き過ぎたグローバル経済は、今、世界全体を不幸に陥れつつあります。これにコントロールを与え、多数派の貧しい人々を助けるのが政治の仕事だとムヒカは述べます。超消費主義社会は、人類の幸福とは関係ないことに能力を無駄遣いさせ、人間の最も大事な"生きる時間"を奪っているとムヒカは訴える。リオ会議でのスピーチは、それを分かりやすく伝えている。家族や友人との大事な時間も持てないようなこのしんどい現代社会。ムヒカの言葉に耳を傾ける価値は十分にあると思う。貧しいのではない、質素であること。フェラーリやベンツに乗り、ロレックスやカルティエを身に付けることが自己のステータスを現すようなこの社会で、質素であることを貫くのは"自由のための闘い"です。
「物であふれることが自由なのではなく、時間であふれることこそ自由なのです」。
この言葉に共感する現代人は少なくないのではないだろうか?自由のための闘争を、少しぐらい開始してもいいのではと思う。
クリスチャンである私とホセ・ムヒカの哲学の関連について
ムヒカは、何も我々に「石器時代に戻れ」と言っている訳ではない。「人間社会を守るための寛大な精神を学んでほしい」と言っているのである。ローマカトリック教会の影響を多大に受ける中南米諸国にあって、ムヒカ自身は特段神を信じていないようだが、彼の言う事は正に「隣人愛」に通ずるものである。上にも書いた言葉だが「世界が物とお金と資源で溢れている中、人に車を貸すことも惜しみ、貧乏人に手を差し伸べず、野良犬にご飯も家もあげないような、こんなせこい世界は他にあるでしょうか?神様に謝りたい」。神様に謝りたいと言わしめるほどの、隣人愛から遠く離れた現代の社会。
貧しいものや虐げられる人を放っておく社会は、混乱、紛争、死、テロを増大させます。これを抑えるのが、それらの人々に手を差し伸べる「寛大な精神」です。「人間社会を守る」には「寛大な精神」が必要なのです。これは、ごく一部の超リッチにのみ向けられた言葉ではありません。決してリッチとは言えない我々でも、色々とできることはあるはずです。この日本も、今や子供6人のうち1人は貧困家庭と言うが実情です。遠い国の話ではなく、具体的な「隣人愛」を示す機会は身の回りにもたくさんあるでしょう。
ホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領、愛称"ペペ"の言葉を読んで、そんなことを思わされました。少なくとも、今まで個人的に学んできた経済(→こちら)、政治(→こちら)、環境問題(→こちら)、戦争と平和(→こちら)などのパズルの断片が、うまくはまりつつあります。(同意できるかどうかは別として)過去に高名な哲学者の本は色々読みましたが、ぺぺの哲学は素直に受け止められ同意できました。ちなみに、彼の次の言葉が好きです。色んな物をコレクションしてしまった自分への訓告とします(笑)。
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」。
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