ランボルギーニ・ミウラ&イオタ

(2006年10月8日記載)

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 世には、その実物を目にする事すら難しい稀有な存在のスーパーカーと言う物が存在する。ランボルギーニ・ミウラもそんなスーパーカーの一台でしょう。かく言う僕も、ランボルギーニ・ミウラを実際に見たのは、たった2回のみ。しかも、いずれも少年時代の話である。
 一度目は、田園調布にスーパーカー撮影に赴いた時に、偶然発見した走行中のミウラ。二度目は、晴海で行われたサンスター・名車コレクション'77にてである。いずれの場合も、美しいミウラにスーパーカー少年達が群がった。ミウラは"サーキットの狼"にも登場したスーパーカーで、ミウラの実車がスーパーカー少年の僕の心を躍らせたのは当然である。
 ミウラには他に想い出もあって、小学生時代になけなしのお小遣い3,000円ほどを注ぎ込んで、1/12と言う大スケールのプラモデルを買った事がある。プラ塗料を買って、きれいに作ろうと意気込んでいた…まあ、スーパーカープラモは今で言うガンプラに相当するものだったと思う。ドアやエンジンフードが開く、精密モデルである。ところがである…その高価なミウラのプラモデルだが、非常にいい加減な作りで、パーツ同士がうまく組み合わさらないのである。例えば、凹部と凸部の位置がずれていてはまらない…等がざらだった。結局、ミウラの形には取り敢えずなったものの、エンジン等の細部はうまく完成できなかった。精密モデルが聞いて呆れる、ひどいプラモデルだった(どこのメーカーだったかな?)。
 そんな悲喜交々の想い出が、ランボルギーニ・ミウラには詰まっている。

 ランボルギーニ・ミウラ(田園調布にて/子供時代に)

 さて、前回フェラーリの歴史も触れたので、せっかくなのでランボルギーニの歴史についても軽くご紹介しておこう。

 ランボルギーニの創業者は、スーパーカー好きならご存知(?)フェルッチオ・ランボルギーニ。彼は、1916年4月28日にボローニャの北の裕福な農家に生まれたそうな。小さい頃から機械が好きで、大学も工科大に進んだが、卒業後は徴兵されて整備兵を勤めたそうである。ただし1944年に捕虜となり、2年後に帰国。戦後の混乱期に、"軍の放出トラックを売る"商売から身を興したフェルッチオは、資金に余裕が出るとそのお金を車に使った。トッポリーノから始まったこの道楽は、一時チューニング・ガレージの経営にまで至っている。しかし、彼は車改造のバックヤードビルダーに留まる道を選択しなかった。
 彼はその後、(軍放出のトラックを改造した)"トラクター"を売り始め、1949年にランボルギーニ・トラットリーチ社を設立。トラクター製造の実業家として成功する。1960年にはボイラーと空調の会社を設立。そして、1962年4月に自動車会社を設立するのである。会社の名は、アウトモビリ・ランボルギーニSPA。
 ランボルギーニが、自動車会社を起こした背景となる有名な逸話がある。彼は高価なフェラーリの愛好者だったが、そのフェラーリ車の品質低下とエンツィオの気まぐれに我慢できなくなった事から、自分で会社を設立した…巷で語られるランボルギーニ伝説だ。しかし、これは俗説の脚色話とも言われる(※エンツィオ・フェラーリにしてもそうだが、イタリアの高名な人々の伝説には尾ひれが付きまくる)。しかし、これはあながち嘘と言う訳でもなく、フェルッチオがフェラーリ車の品質に疑問をもったのは確かなようで、彼の改善策をエンツィオ・フェラーリに送ったところ採用を丁寧に断られたので、フェルッチオ・ランボルギーニ自身が一念発起して車作りにチャレンジしたと言う事らしい。
 ちなみに、彼がスポーツカー製造に手を染めた直接のきっかけは、フェラーリのクラッチである…と言う話もある。フェルッチオが、フェラーリ・スポーツカーの故障したクラッチをフェラーリから取り寄せたところ、なんとそれはランボルギーニ・トラットリーチ社が製造しているトラクターの物と同じ、ドイツのボーグ&べッグ社の製品だった。しかし、フェラーリはそれに10倍近い値段をつけて売っていたのである。この事に対する疑問と憤懣が原因と言う証言もある。
 同時期、フェルッチオは何度も日本に足を運んで、近代的な工場を多数視察している。中でも、本田技研の栃木工場の設備には感銘を受けたらしい。彼は、会社を興した際、親会社のトラットリーチの広大な敷地内にホンダ工場のラインをモデルにした近代的な工場を建設した。

ランボルギーニのエンブレム

 ランボルギーニは、1970年まで順調な経営を続ける。しかし1971年にボリビア動乱で、大量のトラクターのキャンセルで苦境に陥り、トラクター会社を売却。自動車会社の株式も半分手放し経営建て直しを図るが、オイルショックにより断念。1974年に残りの株式も手放して、引退。フェルッチオの"ランボルギーニ"は、たった10年で幕を閉じた。
 フェルッチオの晩年はワイン作りに情熱を傾け、葡萄畑に隣接したリゾート施設の開発も手がけた。熱血漢のイタリアーノで親分肌の"ランボルギーニ"は、慕われつつ1993年2月20日に亡くなった。この辺りは、エンツィオとは対極にあるような晩年である。

 ちなみに、1974年にフォルッチオの手を完全に離れたランボルギーニ社は、1978年4月に倒産に追い込まれ、21ヶ月間もの間イタリア政府管理下に置かれる。その後、フランスの実業家がランボルギーニを購入して梃入れを模索したが、結局1989年にクライスラー社の手に渡り、1993年10月に今度はインドネシアのグループによって買収されている。現在は、ご存知の通りアウディ・グループ傘下である。ランボルギーニは、このように親会社を転々と変えながらも不死鳥のように何度も蘇っては、新車をランボルギーニ・ファンに供給し続けている。

 ミウラの後ろ姿(田園調布にて/子供時代に)

 ランボルギーニの歴史を軽く触れたところで、ランボルギーニ・ミウラの話しに戻ろう。

 ランボルギーニが最初に作った車は、350GTV(※僕も子どもの頃、このミニカーを持っていた)である。この車は、フェラーリを辞めてきたエンジニア達によって作られた車である(※フェラーリの奇々怪々な社内事情やエンツィオの人間性に嫌気がさして辞める技術者やドライバーが大勢存在した→詳しくはここをクリック!)。ジオット・ビッザリーニや、カルロ・キティ、ロモロ・タブオーニ達も、そう言った技術者達である。最初のプロトタイプ"350GTV"のエンジン設計やシャシー設計は、ビッザリーニが行った。ボディはベルトーネがデザイン。46歳の若い社主と36歳の若きチーフ・エンジニアは、フェラーリを超える最高のスポーツカーを作ろうと決意していた。
 しかし、1号車の製作は、突貫工事。エンジンも積まぬまま、1963年10月のトリノ・ショーで衝撃的なデビュー。工場の完成は、翌年の2月。生産開始は、それから2ヶ月以内。この強引なタイムスケジュールは、"完璧なGTカーを作る"と言う理想には無理なもので、12月にビッザリーニはランボルギーニを去った。代わりに、ジャンパオロ・ダラーラがチーフ・エンジニアの席に座った。1964年5月、ランボルギーニの最初の市販車350GTがデビュー。しかし、完全無欠のスポーツカーを目指したランボルギーニだったが、350GTはそのラインの評判が悪く、ツーリングが招聘されてボディが変更された。トラクターメーカーがスポーツカーを作れるとは世間が信じておらず、販売は低調だった。一方その間にダラーラは、既にミウラの設計に没頭していた(※以後の350GT以後の車の発展の詳細は割愛します)。

 1964年、ランボルギーニは新しいモデルに着手した。このプロジェクトの背後にいたのが、前出のダラーラ、バオロ・スタンツァーニ、ニュージーランド人のウィリアム・ウォレス(※通称ボブ・ウォレス)の3人である。彼等はレースに参戦したいと考えていて、勤務時間外にランボルギーニに隠れてP400プロジェクトに着手していた。この車は大型の3.9リッターのV12気筒DOHCエンジンを、コクピットの後(つまりミッドシップ)に横置きした。エンジンがあまりに長く、縦に置けなかったのである。ギアボックスも、ドライブユニットの幅を抑えるため、エンジンのオイルパン内に配置した。これらは、BMCのミニを作ったアレック・イシゴニスのコンセプトを踏襲したものだ。
 フェルッチオは、この車を見て大きな関心を抱いたが、レースへの参戦については「No」だった。しかしながら、1965年のトリノ・モーターショーで、このミッドシップ・シャーシを発表した。その後、ベルトーネのマルチェロ・ガンディーニが設計した美しいボディを付けて、1966年3月のジュネーブ・モーターショーで発表された。ランボルギーニ・ミウラが、初めて世間の目に触れた瞬間だ。ランボルギーニ自身が牡牛座生まれであり、フェラーリの跳ね馬の対抗するため、エンブレムは牡牛が選ばれた(のだろう…)と言うのは有名な話しだが、ミウラと言う車名も、有名な闘牛士"ドン・エドゥアルド・ミウラ"の名にちなんで付けられた。大勢のビジターが、ランボルギーニのブースを訪れ、この美しいスポーツカーに熱い視線を送った。しかし、当のランボルギーニに、ミウラの市販化の意志が無いのを知ると大勢が落胆したが、この顧客の関心を集めたショーが終わる頃には、100台以上の注文がランボルギーニの元に舞い込んでいた。
 ミウラの開発は、ダラーラ達が予想して以上に難航していた。プロトタイプ・ミウラには、解決しなければいけない課題が山積みだった。高速コーナーリングの不安定性、テストカーのデフのブロー、オーバーヒート、長い冷却管の爆発、ウォーターポンプの故障、ボディ剛性の不足、etc…。中でも、大型エンジンの発する熱と騒音と振動の問題が大きかった。ランボルギーニ工場は近代的な"組み立てライン"は持っていたが、自社に"ボディ生産設備"を持っていなかった。ベルトーネに発注したシャシーやボディの生産も遅れていた。
 しかし、フェルッチオは強硬にミウラの発売を決定してしまい、1967年3月に最初のミウラが出荷された。ミウラは、すぐさま映画スターや著名人のステータス・シンボルとなった。だが、待ちわびた顧客のもとに納車されたミウラは、当然の事ながら"完璧なGTカー"とは程遠い車で、開発途上のプロトタイプ同然の車だった。初期のミウラの発売は"商売として"は成功したものの、ランボルギーニの技術者のプライドを大きく傷つけたのである。

 横から見たミウラ(世界の名車コレクション'77にて/子供時代に)
(↑※上記写真はストロボの設定を間違ってこんな残念な写真に…当時はマニュアル・カメラでした…。)

 ミウラの全長は、4,370mm(全幅は1,753mm)で、車重はなんと980k!!搭載するエンジンの巨大さを考えれば、かなり軽量に仕上がっている。3.9リッターエンジンは、350psの出力を発生し、最高速度は280km/hに達したと言う。ミッションは、5速MT。サスペンションは、前後とも独立懸架のコイルスプリング&ウィッシュボーン方式。
 1969年1月、改良型のミウラSが発表された。エンジンパワーは、370psにアップしている。2年後には、出力385psを発生するミウラSVが発表された。残念な事に、ミウラの生産は、短所や欠陥の大部分がようやく解決された1972年に終了している。そして、その後はカウンタックにその道を譲るのであった(→カウンタックについてはここをクリック!)。
 生産台数は、ミウラが475台、ミウラSが140台、ミウラSVが150台の総計765台が作られた(この他に、国際亜鉛研究機構のために作られたスペシャルな"ロードスター"のミウラがある)。ミウラによって、ランボルギーニは世界のスーパーカーメーカーとしてその地位を確立したのである。ランボルギーニ・ミウラは、今でも世界中で熱烈なファンに支持されて丁寧な扱いで乗られ、もしくは貴重なコレクターズ・アイテムとして大切に保管されている。

 ランボルギーニ・イオタ(世界の名車コレクション'77/子供時代)

 ミウラについて触れたならば、やはりイオタについても触れておかなければなるまいな~。イオタは、ミウラのシャーシとエンジンをベースに軽量化されたボディが奢られ、たった一台だけ1970年にワークスのレーシングマシンとして作られたマシンである。シャシーNo.5084…この一台きり。410psで最高時速は310km/hだと言われるが、エンジン・テストでは440psを叩き出したと言われる。このマシン、マイナーなレースにも出たが、ランボルギーニの社是は"レース活動はしない"であり、フェルッチオのGOサインが出る事は無かった。
 ところが、ランボルギーニの本業の車作りが忙しくなりレースどころではなくなって、イオタは工場の片隅で眠っていたらしい。しかし「イオタが欲しいよぉ~!」と言う声はあちこちにあり、このイオタは母国イタリアの富豪の手に渡るが、1972年このイオタはモンツァサーキット走行中に大クラッシュして真っ二つに…修理不能となる。みんながイオタを欲しがったが、既にオリジナル・イオタはこの世に無かった。
 そこで、ドイツ(※当時は西ドイツ)のランボルギーニ・ディーラーの社長の注文で、イオタのレプリカが6台だけ作られて(※一説には7台とも言われる)デリバリーされたと言う。シャシーNo.は、4860、4892、4990、5090、5100、3781。オリジナルを足すと7台(※一説では8台)が、ランボルギーニが関わったイオタと言う事になる。
 しかし、イランのパーレビ元国王が直々にオーダーしたシャシーNo.4870と4934の2台も知られている。オリジナルのレーシングイオタの450psに近いエンジンが搭載され、紆余曲折を経て、前車はあボブ・ウォレスの手に渡り、史上最強のミウラとして知られるようになり、後車はニコラス・ケイジによって落札されたと言う。一体全体本当のところ、イオタは何台存在するのか?このように、イオタの伝説は奥深い…。
 何はともあれ、本物が失われた一台のみとするならば、世界中に出回ったのはイオタの"レプリカ"達と言う事になる。つまり上の写真も、しっかりイオタ・レプリカ。中には、ミウラを適当にちょこちょこっといじっただけの完璧な"偽イオタ"も多々あったようだから、ある意味7台(?)のイオタ・レプリカは"準本物"と言っても良いかもしれないし、実際これらのイオタは本物として扱われている。ちなみに、イオタも"サーキットの狼"に登場してました。また、ナンバーNo.3781、4892、4990の3台のイオタが、日本にあるそうです。さすがスーパーカー好き大国の日本、幻のスーパーカーが3台もあるなんて…。

 さて、今年(※2006年)の1月、衝撃的なニュースがあった。ランボルギーニが、ミウラを復活させて2006年の北米国際オートショー(※通称、デトロイトモーターショー)に、コンセプトモデルとして出品すると言うニュースだ。
 初代のミウラのデザインをほぼ踏襲して、現代に復活させたモデルだ。ミウラ・コンセプトは、ランボルギーニのデザイン部長のワルター・デシルバ氏が指揮を執った最初のランボルギーニ車だと言う事だ(※デシルバ氏は、アウディグループ全体のデザイン監督も努めていると言う)。このコンセプトカー、(僕も写真は見たが)極力オリジナルデザインの純粋さを守っている。付属的な部品デザインは排除して、簡素なラインを強調している。かなり初代ミウラのデザインを再現しているモデルだ。まだ量産化は決定していないようだが、ミウラを再び街中で見れる事を楽しみにしているぞぉ~。



追記:2008年1月、お台場ヒストリーガレージの特別展示にて、ミウラを見ました。




追記:2004年4月、トニーノ・ランボルギーニのMTBを買いました。 →詳細はここをクリック!




追記:2006年9月、ランボルギーニのお財布を買いました。 →詳細はここをクリック!




追記:2017年7月15日、サイクリングで、栃木県の魔法陣スーパーカーミュージアムに行き、2台のミウラを見ました。

 


追記:2019年12月16日、子どもの頃撮影したモノクローム写真のミウラをカラーライズしました♪

















 マイコレクションより"ランボルギーニ・ミウラ"
(※↑同じミウラを2台所有)

 マイコレクションより"ランボルギーニ・ミウラ"

 マイコレクションより"チョロQ・ミウラ"


参考・引用文献
ランボルギーニ・ミウラ       (デルプラド・カーコレクション)
ロッソ 2002年2月号      (ネコ・パブリッシング)
幻のスーパーカー 福野 礼一郎 著 (双 葉 文 庫)
各種HP


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