フェラーリ・365GT4BB&512BB

(2006年9月10日記載)

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 ライトウエイト・スポーツカーの長いシリーズを終え、今回からまたスーパー・スポーツカーのシリーズを再開します。最初に登場していただく車は、フェラーリのベルリネッタ・ボクサー!!


フェラーリBB(世界の名車コレクション77にて)


 このコーナーでは、過去に数多くの世界の名車を取り上げてきたのに、フェラーリの車を取り上げたのは"ディーノ246GT"のたった一回のみ。何故かと言うと、ディーノを除くフェラーリが、個人的にどうもあまり好きではない気がする。何故あまり好きではないかと言う理由が、今一つ自分にも良く分からないのだが(おそらく"でかく"て"重そう"で"機敏そうじゃない"から…かな?)、子供の頃から食指が動かないのである。
 とは言っても、スーパーカー世代の我々にとってフェラーリ365GT4BBないし512BB(※BBはベルリネッタ・ボクサーの略)は、ランボルギーニ・カウンタックと共に絶対に外せないスーパーカーである。下の写真を見て欲しい。僕が小学生時代に写した写真である。地元のデパートにBBと数台のスーパーカーが展示のためにやってきたのだが、まるでミッキーマウスにでも群がるかのように、老若男女を問わず多くの人々が集まってきた。これほどまでに、BBはみんなの耳目を集める人気者だったのだ。今回は、このBBを取り上げたい。
 
 BBに群がる人々(地元にて・子供時代撮影した写真)

 BBの後ろ姿(地元にて・子供時代に撮影した写真)

※上記のBBは、365GT4BBです



 BBの話しに入る前に、せっかくだからフェラーリと言う会社や創始者のエンツィオ・フェラーリ(故人)について、今回はページを割いてみよう。エンツィオ・フェラーリと言う人は、半ば神格化されている向きもあるが、ゴースト・ライターやエンツィオ自身によって情報操作された彼の虚飾の人生ではなく、生のエンツィオの姿を追ってみたい。

 1898年の2月18日、イタリアのモデナにてアルフレッド・フェラーリの次男としてエンツィオは誕生した。第一次大戦時、父親のアルフレッドが肺炎をこじらせて死亡。続いて兄のアルフレッド(通称ディーノ)も戦場で病死すると言う悲しい知らせが届いた。19歳になるとエンツィオも徴兵されたが、肋膜炎で軍病院へ収容され次々と周囲の人々の死と向き合うこととなった。頼りの父も兄も既にこの世に無く、自分の死すら目前にしてエンツィオは超現実主義者になったと言われる。
 戦後エンツィオは、カーレースの世界に飛び込んで行く(※レースの世界に引き込まれていった理由は、何故か明らかになっていない)。彼は、フィアットのレーシング・チームへ入ることを決心した。フィアットは、当時の世界の自動車技術をリードする一流メーカーの一つだった。戦後のイタリアは職を求める若者で溢れ返っていて、フィアットにも大勢が押しかけた。そんな状況で、上官の推薦状を持っていたエンツィオも簡単にフィアットから"無視"された。彼は深い失望と敗北感を味わい、傷つき、その怒りは長い長い"フィアットへの復讐"を彼に誓わせたのである。

エンツィオのフィギア人形(御殿場・フェラーリ美術館にて)

 彼は数々の困難を乗り越え、22歳の時にアルファ・ロメオのテスト・ドライバーの地位を得る。この頃に、エンツィオは後に妻となるラウラと出会った(※このラウラとの出会いについても、エンツィオは多くを語らず謎が多い。ラウラが上流階級出身と言う情報も真実では無いようだ)。アルファ・ロメオは、当時国内のレースを転戦する小さなチームに過ぎなかった。その後、エンツィオはスクーデリア(※厩舎=レーシングチーム)・フェラーリ株式会社を結成した。マシンについては、当然アルファ・ロメオと提携した。ちょうど、イタリアはムッソリーニのファシスタ党時代に突入しており、自動車メーカーに様々な圧力をかけていた。軍需品の生産増大を強要しながらも、「グランプリでも勝て」と圧力をかける。一方、この時期ナチス政権下のドイツでは、国家の威信をかけてドイツの技術力を世界に見せ付けようとしていた。この時期には、伝説となるようなドライバーやレースの話しがいくつもある。その一例を挙げよう。

 孤高の名ドライバー、タッツィオ・ヌヴォラーリの活躍はいくつもの伝説になっている。レースの世界でもドイツの技術力を見せつけようとするナチス・ドイツ政権下のドイツ・グランプリで、最新のメルセデスやアウトウニオンのマシンに対し、明らかに非力で旧式のアルファロメオのマシンで挑むイタリア勢。そこで、ヌヴォラーリが鬼神の如き走りを見せドイツ勢を破り優勝を飾る。ドイツが表彰台を独占するのは間違い無いと思われていたので、誰も(ドイツの主催者もイタリアのチームすらも)イタリア国歌のレコードを用意していない。するとヌヴォラーリが、自分で持ってきたイタリア国歌のレコードを渡した。そして、センターポールにあがったボロボロのイタリア国旗を見て、「新品のイタリア国旗を買えとドイツの奴等に言ってやれ!」と言ってのけたという。そんな面白い実話が、数多く残されていた時代である。

 ファシスタ等政権下で、アルファ・ロメオも混乱し、自動車生産はほとんど中断され、自動車部門の収入はモータースポーツ関連だけになっていた。こうしたあおりを受けて、アルファ・ロメオとの契約はフェラーリに次第に不利になっていく。紆余曲折を得て、1939年、エンツィオはアルファ・ロメオに解雇された。彼は、故郷のモデナに帰る。故郷で新規事業を始めたエンツィオだったが、アルファ・ロメオとの関係は永久に絶たれ、またその契約で4年間「スクーデリア・フェラーリ」の名称使用を禁じられていた。これらの事件は、エンツィオのプライドをひどく傷つけた。ここから、エンツィオの長い"アルファ・ロメオへの復讐劇"が始まる。もう一件、エンツィオの癇に障る出来事が起こった。マセラッティのレーシング部門が、目と鼻の先の近所にショップを開くと言うのである。こうした奇妙な状況下で、エンツィオのモデナでの仕事が展開されていく。フェラーリは、初代フェラーリと言われるティーポ815を作った。1.5リッター8気筒レーシング・エンジン・ブロックはボローニャで鋳造されたが、その他すべてスクーデリアの工場で製作された。

 (ついでと言っては何だが)せっかくの機会なので、フェラーリが跳ね馬(※カヴァリーノ・ランパンテ)のデザインをエンブレムに採用した経緯も書いておこう。エンツィオは、1923年にバッカラ伯爵と出会う。バッカラ伯爵の息子は、戦闘機乗りで撃墜王となったイタリアの英雄だった(空中戦で死亡)。バッカラ伯爵の夫人は、エンツィオに「あなたのレーシング・マシンに息子の跳ね馬のマークを付けたらどうかしら。きっと素晴らしい運が開けると思うわ」と言ったと言う。ただし跳ね馬のマークは、そもそもバッカラ家のものではなく、イタリア空軍スクーデリア91a部隊のものである(※この部隊は現在もジェット飛行中隊として残っているそうだ)。この跳ね馬のマークの元を辿ると、バッカラが撃墜した一機のドイツ空軍機が付けていたものを採用したのだと言う。この撃墜されたドイツ戦闘機に乗っていたパイロットの出身地が、ドイツのシュツットガルト市出身で、彼はこの市の紋章である「跳ね馬」のマークを機体に書き込んでいたのである。後にシュツットガルト市を拠点とするポルシェが、跳ね馬のマークを採用しているのは決して偶然ではない。最大のライバルであるフェラーリとポルシェの跳ね馬のマークは、共にシュツットガルト市の紋章が元になっているのである(※そのため、フェラーリが跳ね馬のロゴマークを商標登録しようとした時に、シュツットガルト市がこの所有権を主張して紛糾することになるのである)。

 フェラーリグッズ専門店で買ったカヴァリーノ・ランパンテのステッカー

 フェラーリは、政治の道具と化してしまったレースにも出場したが、時代はもはやレースどころではなくなっていた。敗戦が近づくにつれ、国内は無政府状態に近くなり、略奪、殺人などの行為が当たり前となっていた。様々な不幸がエンツィオを襲う。V12気筒エンジン計画は、提携先のフラスキーニ社の幹部が敗戦でパルチザン・ゲリラに捕われたりして解散してしまった。1945年2月には、スクーデリア・フェラーリの工場が爆撃されて、操業できなくなってしまった。エンツィオは、再び敗北感を味わっていた。

 1945年に戦争が終わると、スクーデリア・フェラーリの再建が始まった(アルファ・ロメオとの名称使用禁止期間も終わっていた)。この年、エンツィオの愛人リナ・ラルディがエンツィオの次男ピエロを出産していた(エンツィオの女性好きは公然の秘密で、数多くの女性と関係を持っていた)。ちなみに妻ラウラの子、長男のアルフレッド(※通称ディーノ)が生まれたのは1932年である。彼は生まれつき病弱だった。リナとピエロの存在については、極僅かな関係者を除いて極秘にされた。
 フェラーリは業務を拡大し、前進していく。新しい車を作り出していき、レースでも勝利を得た。そして、1951年のグランプリ、シルバーストーンサーキットで遂にアルファロメオを破り、悲願の優勝を成し遂げる。エンツィオが1939年にアルファ・ロメオを追い出されて以来の、復讐を成し遂げた瞬間だった。そして、次の有名な言葉が生まれる。

「私は嬉しくて嗚咽した。だが、感激の涙には悲しみも混じっていた。なぜなら、私は自分の母を殺してしまったのだ」。

 フェラーリは、その後F1グランプリで活躍し、ワールドチャンピオンも獲得するようになっていく。しかし、熱狂的なフェラーリファンの信じている神話とは異なり、フェラーリの神話は現実とは大きくかけ離れていた。そのいくつかを挙げると、フェラーリは"最新のテクノロジー"をほとんど"生み出していない"。むしろ、最新技術の採用はいつもずっと遅れていた。エンツィオは、マシンはエンジンパワーがすべてと信じていた人だったから、マシンのトータル・バランスに関してはちょっと偏った考え方をしていたようだ。例えば、FR形式を重んじ、理論的には優位なミッドシップ形式の採用を長い間拒んだ。その他、ディスクブレーキ、マグネシウム・ホイル、直接燃料噴射システム、コイルスプリング・サスペンション、鋼管スペース・フレーム、グラスファイバー・ボディ等、続々と登場する新技術を他社が採用していくのに対し、フェラーリは常に旧式の技術に固執し最新技術に関しては後手後手だった。スクーデリアの技術者は度々エンツィオに進言したが、エンツィオ自身はエンジン出力にのみ頑固にこだわった。その結果、ロータスやクーパー等のイギリス勢のあきらかにパワーの劣るエンジンのF1マシンが、ミッドシップ方式の採用や新型フレームやディスクブレーキや各種新型技術を採用して勝利を積み重ねていくのを、ただじっと歯がゆく見守るしかなかった。

 事実と異なるフェラーリ神話は、他にもたくさんある。V12気筒エンジンがフェラーリの思い付きと言うのも事実と違い、当時フェラーリ以外の自動車メーカー達も、V12気筒エンジンの優位性を理解していた。またフェラーリが、F1グランプリで圧倒的な勝利を重ねていったと言う人々の記憶も、多少事実とは異なる。フェラーリが勝っている年と言うのは、アルファ・ロメオやメルセデスやフォード等の強豪チームが出場していない年に限っていて、強豪チームが出場した年はまったくチャンピオンを取れていなかった。20世紀後半においも、ホンダの1.5リッター・ターボエンジンが圧倒的なパワーを誇るようになると、フェラーリはまったく勝てなくなった(※しかし、F1の観客の3割はフェラーリ目当てと言われ、開催主側もフェラーリないしフェラーリ・ファンの意向は無視できない。紆余曲折があるものの、ロータス等のイギリス勢が優位になったり、ホンダが優位になったりした際に、技術の差を埋めるべくレギュレーション変更が度々行われ、その度に新興勢力は一気に不利になり、結果としてフェラーリが有利になった。とは言うものの、21世紀に入ってからは新体制のフェラーリは逆にあまりにも強くなり過ぎ、結果2005年には実質的にフェラーリが不利になるレギュレーション変更が行われた)。
 いずれにせよ、フェラーリは最新技術を採用するまでに他社より時間がかかっていた。フェラーリの事業が拡大するにつれ、エンツィオの回りには都合の良い情報しか伝えない"取り巻き連中"や"Yesman"が増えていったのも、フェラーリを衰退させていった原因の一つであろう。

フェラーリ250GTO(御殿場・フェラーリ美術館にて)

 スクーデリア・フェラーリ内の人間関係は複雑怪奇で、多くの技術者やメカニックやドライバーが、この人間関係と渦巻く陰謀に疲れてしまったと言う。また、レースで勝利すればそれはフェラーリのマシンの優秀な性能のおかげであり、負ければドライバーの腕の未熟のせいにされ、エンツィオからの容赦ない罵声が浴びせられた。同時にフェラーリでは、多くのドライバーやメカニックが命を落としていった。時には観客も巻き込み、大勢の人々が死傷する事もあった(※フランケンハイマー監督の映画"グラン・プリ"は、フェラーリのドライバーと15名の観客を死亡させた1961年の大事故を脚色して映画化した)。フェラーリのマシンは信じがたいほど数多くの人々の命を奪っており、幾度となく裁判を起こされ批判された。その一方で、フェラーリが負けるとマスコミは、弱いフェラーリを批判して一斉に叩いた。フェラーリには有名ドライバーが星の数ほど在籍しては去っていたが、その多くは死んでチームを去るか、喧嘩別れをしてチームを去るのだった。円満にチームを去ったドライバーはほとんどいない。多くのドライバーがプライドをズタズタにされ、またチームの複雑な人間関係に嫌気がさしてチームを去っていったのである。また、多くの技術者も、嫌気が差してフェラーリを去っていった。

 こんな状況のスクーデリアではあったが、北米ではフェラーリの車が金持ち連中に売れていた。それは、エンツィオの情報操作の巧みさもあったのだが、フェラーリには他の車にはない神秘性があった。レース用マシンと言うのは、翌年はもう使い物にならず、新しいマシンを開発さねばならない。フェラーリは、旧いマシンをロードカーに仕立てて、金持ち連中に高価格で売り捌いて資金を得る。世界の金持ち連中は、フェラーリに行けば本物のレーシングカー(※スポーツカーではない)が手に入ると言う事で、こぞってフェラーリ・マシンを買いたがる。しかし、レーシング・マシンなんてそう何台もないから、レプリカを作って売る。元々、レーシングカーなんてGTカーのような快適性は無いから、金持ち連中は苦情を言い始める。フェラーリは、その金持ち連中を黙らせるために、レーシングカーとは無縁の快適で乗りやすいロード・カーを作り始めることになる(※それが1963年に登場した"275GTB(B=ベルリネッタ)"である)。
 一方、エンツィオ自身はフェラーリのスポーツカーをありがたがる金持ち連中を、あからさまに"軽蔑"しその事を口にもしていた。エンツィオにとって、フェラーリの市販車のロードカーはレース活動を続けるための資金源でしかなかったようだ。だから、フェラーリ車は他社の同程度の性能の市販車と比較してかなり高価格である。が、フェラーリを買う金持ちユーザー達は、フェラーリのレース活動を支援しているのだと言う自負があった。エンツィオ自身は、日常はフェラーリのマシンには乗らずフィアットに乗っていた(笑)。エンツィオ自身は、サーキットのレーシングカーと初期の一部のマシンを除いては、フェラーリのロードカー達を、本心では本物のスポーツカーとは認めていなかった。

 1955年、エンツィオに再び不幸が襲った。病弱だったディーノの病状が重くなっていた。ディーノは、誰もが好青年だったと言う。気性の激しい父親とは違い、人見知りはするがはっきりした意見を持つ青年だったらしい。そして翌年、ディーノは亡くなった。これは、エンツィオにはかなりこたえたようだ。

 フェラーリ275GT(河口湖自動車博物館にて)

 さてフェラーリ車は一台一台手作りであり、1960年前半には受注台数を生産がカバーすることができなくなっていた。増産により品質が極度に低下し、ひどい組み立てで"錆"やすく"水漏れ"が起こるほどで、メカニック達にも"理解不能の配線"のフェラーリがディーラーに届けられる始末だった。壊れたクラッチが、顧客の足を傷つけるような事故も起こった。最高傑作と呼ばれる250GTOのような美しいロードカーも作り出す一方で、北米市場を担当するディーラーが頭を抱えるような、見るに耐えないデザインのフェラーリも生産された。

 フェラーリ330GT2+2(河口湖自動車博物館にて)

フェラーリ330GTC(世界の名車コレクション77にて)


 さすがにフェラーリ信望者の間でも、フェラーリに対する不満が高まっていった。例えば、ボローニャのトラクター製造業者のフェルチッオ・ランボルギーニが自動車メーカーを起こしたのは、愛用しているフェラーリの品質低下とエンツィオの気まぐれに我慢できなくなったからであるとも言われる(※これは尾鰭の付いた伝説と言われるが、あながち嘘でもないようだ。この辺の事実については、今後ランボルギーニを取り上げる時に述べたい)。

 フェラーリ288GT(御殿場・フェラーリ美術館にて)

 フェラーリ308GT4(石川県・日本自動車博物館にて)

 フェラーリ308GT(御殿場・フェラーリ美術館にて)


 本国モデナのスクーデリア内には、相変わらず陰謀が渦巻いていた。1960年代に入ると、フェラーリは経営に行き詰まり身売り先を探していた。フォードと提携(※買収)寸前まで行っていたが、契約寸前でエンツィオは契約を白紙にしてフォードをかんかんに怒らせる。交渉決裂を受けて、フォード二世は冷静こう言った。「OK、それでは奴(※エンツィオ)の尻を蹴飛ばしてやろう」。本気になったフォードは、その技術力と資金力を惜しみなく投下してマシンを開発し、フォードのエンジンを搭載したレースカーはレースの世界で勝ちまくるようになり、フェラーリを奈落の底に突き落とすことになるのである。

 フェラーリ328GT(世界の名車コレクション77にて)

 街中を走行中のフェラーリ328GTS(足立区内にて)

 子供時代に撮影したフェラーリ・デイトナ(田園調布にて)


 一方、フェラーリは最終的にフィアットと資本提携をした。エンツィオの半世紀に及ぶフィアットへの復讐は、フィアットと対等な提携関係を結ばせたことによって終了した。真のフェラーリ・ロードカーと呼べる最後の車はデイトナ(365GTB4)で、以後のフェラーリのロードカーは、フィアットにより大量生産されるフェラーリとなる。308GTBやGTS、328GTBやGTS、365GT4BBや512BB等は、基本的にエンツィオ・フェラーリとは関係ない。しかし、我々スーパーカー世代の少年のDNAには、BBはフェラーリ神話にリンクして刻まれている。

 フェラーリ365GTB4デイトナクーペ(河口湖自動車博物館にて)

 フェラーリ365GTB4デイトナクーペ(御殿場・フェラーリ美術館にて)


 カウンタックの章でも述べたが、ランボルギーニさんのところのカウンタックが300km/hの最高速度を主張したのに対し、フェラーリさんは老舗の維持で365GT4BBは302km/hを主張した。しかし、どちらも実測では300km/hに遠く及ばなかったと言われる(笑)。
 このBBは、フェラーリのそれまでの芸術作品から、初めて真の意味で量産商品になった車である。365GT4BBの最大のコンセプトは、軽量化である。そしてデイトナよりも、350kg近くも軽い車となった。徹底した軽量化へ固執したが、一方で基本的な設計コンセプトの欠陥も指摘される。リアオーバーハングの重さ、エンジンの高い重心などにより、タイヤのコーナーリング・フォースが絶対的に低く、大きなコーナーリング角度を超えるとアン・コントローラブルになってしまう。その他、量産化のための設計の簡略化などによってもたらされた、耐久性の劣化などの問題点も指摘されている。この365GT4BBは、フェラーリ量販車の実験的作品だったと言えるかもしれない。この365GT4BBは、387台作られたと言う。
 512BBは、365GT/4BBの後継車で、180度V型12気筒エンジンを5リッターに拡大した車で、1976年に発表された。出力は、340psを誇った(※ホントはもっと低いらしいけどね…)。ただ、より真の意味での量産体制を築くために、365タイプではFRPやマグネシウムパーツだったものは、スチールやアルミキャストに取って代わられた。結果、車重は120kgも重くなってしまった。1割も重さが増えたのだから、当然走行性能は365よりも"眠く"なるのは当然である(インジェクション化された512BBiは更に重くなり、テスタロッサに至ってはデイトナのレベルまで重くなってしまうのである…)。

 フェラーリ512BB(那須PSガレージにて)

 さて、エンツィオの本妻ラウラは、1978年に亡くなった(※リナ・ラルディとピエロを認知する準備は進んでおり、後に認知される)。エンツィオの存命中の生涯最後のF1グランプリ・チャンピオン獲得は1979年だった。それ以降、エンツィオが亡くなるまでフェラーリはチャンピオンになれない。
 エンツィオの晩年は、長年に渡って周囲の人々の誠意を踏みにじり続けたツケがたたったような、寂しい孤独な人生だったと言う。エンツィオは、馬鹿でかい邸宅にたった独りで生活することとなった。大事な祝祭日にフェラーリ関係者が皆故郷へ帰って、墓場のような邸宅に独りぽつんと残されてしまうと、泣きながら運転手にすがり付いて「独りにしないでくれ」と頼んだと言う。1988年8月14日早朝、エンツィオはこの世を去った。19世紀の後半に誕生したレース界の偉人は、こうしてその人生を終えた。

フェラーリ512BB(河口湖自動車博物館にてにて)

フェラーリ512BBiの後姿(御殿場・フェラーリ美術館にて)


 数多くの嫌な面が数多くありながらも、故エンツィオ・フェラーリはレース界の、そしてスポーツカー界の偉人として未だに敬意をはらわれている。それは、彼が頑固なまでに一途に自分の使命をまっとうし、自分の信ずる道を駆け抜けたからなのだろうと思う。エンツィオは、グランプリレースそのものだった。そして、エンツィオが生涯に渡ってこだわったエンジンが発するフェラーリ・サウンドは、その魅力を知ってしまったファン達をいつまでも魅了して止まないのである。
 一方で、何故僕が長年フェラーリにあまり魅力を感じなかったのかを理解したような気がした。要するに、フェラーリを好きになるにしては、僕はあまりに小市民なのである(笑)。


2009年11月追記:地元で、ピッカピカのフェラーリ328GTSを見ました。ドライバーさんは撮影を快諾してくれ、わざわざ車を降りて撮影させてくれました。328は、やっぱり美しいラインです。

 


2017年7月15日追記:サイクリングで、栃木県の魔法陣スーパーカーミュージアムに行き、512BBと365GTBデイトナも見ました。

 


2019年12月18日追記:子どもの頃撮影したモノクロームのフェラーリ・365GT4BB(ベルリネッタ・ボクサー)をカラーライズしました。
この写真、車その物よりも、背景の人物や自転車の着色に10倍時間がかかった(汗)。背景、細かすぎ!・・・疲れた(笑)。
小学生の頃、地元のスーパー西友でスーパーカー展があって(スーパーでスーパーカー!w)、移動するBBに群がる市民。今じゃポルシェもフェラーリもランボルギーニもよく見るのでこんな事はありませんが、かつてはこんな機会でもなければ見られない超珍しいスーパーカーだったのです。












 マイコレクションより"フェラーリ512BB"

 上記BBのドアとエンジンフードを開けたところ

 うちの子がクリスマスにもらったBBのラジコン

 マイコレクションより"フェラーリ250GTO"

 マイコレクションより"フェラーリ250GTO"

 マイコレクションより"フェラーリ250GTカリフォルニア"

 マイコレクションより"フェラーリ400SA"

 マイコレクションより"フェラーリ365GTB/4"

 マイコレクションより"フェラーリ365GTB/4"

 マイコレクションより"フェラーリ288GT"

 マイコレクションより"フェラーリ288GT"


参考・引用文献
エンツィオ・フェラーリ/跳ね馬肖像
      ブロック・イェイツ著・桜井淑敏訳 (集英社文庫)
幻のスーパーカー  福野 礼一郎 著      (双葉文庫)
フェラーリ・コレクション    (アシェット・コレクション)
ロッソ 2002年2月号      (ネコ・パブリッシング)
他多数

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