BMW2002
(2013年 6月12日記載)
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「羊の皮を被った狼」と言うニックネームを与えられた車たちをご存知だろうか?見た目は「おじさん用セダン」だったり「ファミリー向けハッチバック」だったりするのに、中身は生半可なスポーツカーを凌ぐ性能を持つ、見た目と性能がかけ離れている車の事である。例えば、以前このコーナーでも取り上げたワーゲン・ゴルフの"GTi"は、ホットハッチと呼ばれるそんな一台である。今回取り上げるBMW2002も、まさに「羊の皮を被った狼」と呼ばれた車である。
と、その前に、まだBMW社の歴史を書いた事がなかったので、ここで軽く触れておこうと思う。BMWは、そもそも1916年に設立された航空機エンジンメーカーで、現在社名のBMWには翌年改名せられた。BMWとは"Bayerische Motoren Werke"(バイエリッシェ・モトーレン・ヴェルケ=バイエルン発動機製作所)の意味。
このロゴマークの青と白のエンブレムは「プロペラを表現している」と実しやかに言われるが、実は飛行機とは関係がない。実際は、外周の黒は母体となった社名のロゴに由来、青と白はバイエルン州旗に由来するそうです。
BMWは自動車や航空機を作った(※航空機部門は分離して製造=後のメッサーシュミット)が、第二次世界大戦終了後の1945年、連合国から戦時中に"航空機"や"ロケット"を生産したことで操業停止処分を受ける。乗用車を生産していたアイゼナハ工場はソ連に没収される。戦後ドイツは、アメリカ、英国、フランス、ソ連の4カ国によって統治され、ソ連が統治した領土は東ドイツ、残りは西ドイツとして独立することとなった。これにより、生産拠点のアイゼンナハを失ったBMWは壊滅的な打撃を受けた。乗用車を生産していたソ連側のアイゼナハ工場は、ソ連軍の管理当局によりアウトヴェロと名前を変え戦前型のBMWを生産した。
一方の西側では、"BMW AG"と言う会社の存在が許されたが、航空機、自動車、モーターサイクルの生産は全面的に禁止された。工作機械や図面も、連合国側に没収されてしまう。しかし、BMW本家の元の姿に戻りたいと言う思いは強く、極秘にモーターサイクル生産再開を決定する。1947年にR24と言う実車が完成し、翌年から生産を開始する。
モーターサイクルを復活させたBMWは、四輪車復帰を画策する。しかし、資金が不足していた。そんな中、終戦時に工業設計室長だった"ファルケンハウゼン"と、1940年ミッレミリア出場時にチームマネージャーだった"ルーフ"の二人は、自動車会社を設立して四輪車の生産を始めた。彼らのマシンは、レースシーンでずば抜けた速さを秘めていたが、開発資金不足で信頼性に欠け、会社を畳む。(しかし、エルンストの情熱は消えず、1952年のアルパイン・ラリーにBMW328で優勝し、2年後にはBMWエンジニアに復帰する!)。
一方のルーフは、328をベースにしたスポーツカーを製作、モデファイしたが、このプロジェクトは、工場を管理していたアメリカ軍に見つかって仲間共々追い出されてしまう。しかし、翌年フランス軍の管理地域に移ったルーフは、フランス車をベースに特別仕様車を作るのを条件に、軍当局から援助を受けるのに成功した。そして1949年、ルーフは会社を組織し、念願のBMW6気筒エンジンを積んだモデルを造り始める。が、これはあまり売り上げを記録できなかった。フランス車ベースの方もフランス軍が提示した目標を達成できず、軍の援助打ち切りとなった。ルーフは、再び資金を集めて会社を結成するが、目だった活動をせぬままBMWに吸収される。
この間、BMWは四輪自動車市場復帰のため、様々な手段を講じていた。他メーカーのライセンス生産や、小型車生産などの方策も考えられたが、販売部門のチーフのグレヴェニッヒの強硬な主張により、結局BMWは高級車路線の道を進むこととなった。こうした流れで誕生したのが、1951年に発表され翌年発売された501である。初代501はあまりに非力で、その後パワーアップも図られたが根本的解決にはならず、1954年にV8エンジンが搭載された502が発表された。
本家BMWの人々がこんな苦労をしていた頃、東ドイツのアイゼンナハ工場では、相変わらずBMWのエンブレムを付けた乗用車が生産され続けていた。BMW本家が怒るのも当然で、弁護士と相談して商標権の侵害として、BMW社長のドナートはアウトヴェロを訴え、結果、アイゼンナハ工場で造られる車は以後"EMW"(アイゼナハ・モトーレン・ヴェルケ)と名を変える事となった。
努力で売り出した501や502だが、販売は振るわなかった。終戦後のドイツは経済が混乱・低迷していて、国民の手が届くのはせいぜいフォルクス・ワーゲンなどの小型大衆車だった。モーターサイクル販売も下降線を辿り、BMWは経営危機に陥り、エンジン工場が売却された。
BMWを高級車路線に導き、経営危機に追い込んだ張本人のグレヴェニッヒは、今度は戦前の327や328の後継モデルを作るべきだと主張する。社長のドナートは難色を示すが、アメリカでメルセデス・ベンツが300SL(→こちらをクリック!)をデビューさせた事に衝撃を受け、スポーツモデル開発に合意する。アメリカにおいて事業で成功を収めたオーストリア出身のホフマンと言う人物も、BMWファン&エンスージアストであり、BMWに助言した。彼は、アメリカのスペシャリティカー市場に精通しており、300SLも彼のアドバイスが活かされていた。ホフマンは、MG(→こちらをクリック!)やトライアンフ(→こちらをクリック!)と、300SLの中間に位置するスポーツカーを作れば成功を収められる…と確信していた。こうして、2+2の503、2シーターの507などが生み出される。1955年のことである。しかし準備不足等の要因で、これも商業的には失敗作となる。
マイミニカーコレクションより"BMW507"
販売不振の中、BMWを救ったのはイセッタである。イセッタについては、→こちらで取り上げているので、ここでは割愛。BMW史上最小のBMW車は、ヒットした。しかし、西ドイツ国民の生活も戦前と同じまでに回復しており、1957年をピークにイセッタ販売も下降線を辿る。
そんな状況を察知したBMWは、1957年に600を発表する(これは大きなイセッタである)。この年、社長はドナートから財務畑出身のブロームに交替。ブロームは、ミドルクラスのモデルが必要との考えを示した。しかし、開発資金はあまり無い。そこで600のメカニズムを活かし、ニューモデルを作り出した。こうして生み出された2ドアクーペが、1959年に世に送り出された700である。後にセダンも追加された。しかしドイツ銀行は、BMW再建は無理であると判断していた。株主総会は荒れ、これを不服としてドイツ銀行は監査役から手を引いてしまう。BMW最大の危機である。これを救ったのが、クアラント・グループである。大口株主となり、1960年に経営権を手に入れ、(自グループの会社の社長の)ゾンネをBMW社長に据える。クアント兄弟が大の自動車好きだったのが、BMWにとって幸いだった。700は改良され、クーペもセダンも素晴らしい販売台数を記録した。BMWは、こうしてようやく戦後期の長い低迷期から立ち直った。
クアント・グループが実権を握ってから、ミドル・クラス(※ノイエ・クラッセ=ニュークラスと名づけられる)の開発は急ピッチで進められた。そして、1961年に1500が送り出される。開発を担当したのは、前述のBMWに戻ってきたファルケンハウゼンである!その後、503を受け継ぐ3200CS、1500に代わる1600や、1800やその改良版、1965年には3200CSを受け継ぐ2000CやCSがなどが登場、と言うように次々とノイエ・クラッセが世に送り出された。他にも続々と登場するのだが、長くなり説明しきれないのでここでは省略し、このページの本題の"BMW2002"に話を移します。
子ども時代に撮影したBMW2002
BMW2002は、1968年に登場した2ドアのスポーツモデル。それから半年遅れで登場したBMW2002tiは、120psまでチューンした直列4気筒SOHC1990ccのエンジンを搭載した。1971年には、130psまでエンジン出力を高めたBMW2002tiiに発展した。最高速度は、190km/hに達した。強力なエンジンをコンパクトで軽量なボディに積むことで、tiとtiiはレースシーンでも活躍した。
全長は4230mm(全幅1,590mm×全高1,410mm)&車重990kgと、(安全基準が違うとは言え)現代のセダンの基準からすると、随分とコンパクトで軽量である。ブレーキは、フロントがディスクサーボでリアはドラムサーボ。サスは、フロントが独立懸架のマクファーソンストラット コイル、リアがセミトレーディングアーム コイル。
子ども時代に撮影したBMW2002ターボ
1973年には、BMW2002ターボが登場する。BMWはそもそもが航空機メーカーなので、ターボチャージャーはノウハウがある。そこで、ターボの技術をツーリングカーレースのワークスマシンに1969年に投入し、そのデータを市販車にフィードバックしたのが、この2002ターボである。
エンジンパワーは170psまでアップさせられ、トルクも(tiiの18.1kg/4500rpmから)24.5kg/4000rpmと大幅にアップ。最高速度は211km/hと、2リットルエンジンのセダンとしては異様に高い性能を誇った。増大したパワーに対応すべくフロントのディスクブレーキは、ベンチレーテッドとなり、リアのドラムブレーキの径も拡大された。タイヤとホイールも太いタイプになり、それをクリアーするため(上記の写真のように)オーバーフェンダーが装着されたたり、フロントにエアダムスカート&リアにスポイラーも付けられた。上記の写真に価格399万円の表示があるが、中古でこの価格は1970年代当時では相当に高価なマシンだった。
子どもの頃作ったBMW3.0CSL
余談だが、実は子どもの頃、スーパーカーのプラモデルもたくさん作っていて、BMW3.0CSLもその一台。ヘッドライト部に豆球を仕込んで光るモデルで、水に浸して貼るデカール(※シール)も丁寧に貼りました。流線型主流のスーパーカーブームの真っ只中、何かセダンなのに"速い"BMW2002ターボや3.0CSLが気になって仕方ありませんでした。
2019年12月21日追記:子どもの頃撮影した2002ターボのモノクローム写真をカラーライズしました。
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参考・引用文献
カーコレクション (デルプラド・ジャパン)
スーパーカー写真カード
名車館HP
BMW 1502/1602/1802
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