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5.戦争と教育の問題
前回までに"靖国神社の歴史"と"靖国神社と戦争の関係"、そして"靖国神社に関わる問題"を考察してきた。今回は、現代の教育について考えてみたい。なぜなら戦前の教育思想は、未だに亡霊のようにこの日本の政治家や官僚や様々な団体の人々の間に彷徨っていると考えられるからである。憲法の改定や教育基本法の改定等の問題も、こうした特定の思想が背景にあることは間違いない。ここでは、教育の問題、取り分け愛国心や戦時中の思想との関連にのみ、的を絞って考えてみたい。
・教育改革の名の下の愛国心教育
日本の教育は、今重大な危機に直面していると言う専門家の意見がある。その危機の度合いは、1930年から敗戦に至るまでの軍国主義教育・教育の全体主義化・軍国主義化の危機に次ぐ重大な危機である。現在の教育の危機は、教育の個人主義化・市場主義化と言う点の危機である。この現代の教育危機は、"個人の利益"と"国家戦略的関心"の2点が歪んだ形で優先されている事で引き起こされている。
この実情を分かりやすく表しているのが、次の三浦朱門氏の言葉だ。
「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に言うと平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんと言うことです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。…(中略)…国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそう言う先進国になっていかねばなりません。それが"ゆとり教育"の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」(「義務教育を問い直す」より引用。元の文章は、文藝春秋2000の掲載記事)。
上の文章はちょっと分かりにくいので、分かりやすく言い直してみよう。「もう、バカは相手にせず、リーダーになるエリートを育てる事に力を注げば良いのだ、これからの時代は。バカは、バカなりに国に忠義を尽くして、文句を言わずただもくもくと働いておれば良いのだ」…だいたいこんな意味で間違いないと思う。格差社会による差別を容認する台詞である。これは、その辺の酔っ払い親父がくだを巻いて言っている台詞ではない。三浦朱門氏は、元文化庁長官にして、元教育課程審議会会長。そう言う人が言っている台詞なのだ。ちなみに三浦朱門氏は、最近では「靖国神社~正しく理解するために」と言う本の監修もしている事からも分かる通り、"靖国神社に日本人が参拝するのは当然である"と言う認識をもっている人物である。文化庁長官を務め、教育課程審議会の会長も務めたという事は、三浦氏はつまりこの国を引っ張るリーダーの一人と言うことだ。その彼が、上の発言を堂々としている。恵まれた子の力だけ伸ばせばよい。バカはグダグダ言わずに、黙ってお国の言う事に従う精神だけ養っておけばよい…とはっきり名言しているのである。おそらく「"国益"を考えての発言だ」とでも言いたいのだろうが、リーダーとしての発言としてどうこう言う以前に、良識ある人間の台詞としてどうかと思う。
三浦氏が教育課程審議会の会長だったからと言って、もちろん教育に関わるリーダー達全部が同じ意見と言うことはないだろうが、教育改革の方向性としては、だいたいそんな方向で動いている。「教育改革国民会議報告」を受けて、文部科学省が作成したパンフレット(※21世紀の未来を拓く教育改革-七つの重点戦略/2002年)の冒頭に「危機に瀕する我が国の教育」と題して危機の点を上げる。①いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊、青少年犯罪、②個人の尊重を強調し「公」を軽視する傾向、③行き過ぎた平等主義による子供の個性・能力に応じた教育の軽視、④これまでの教育システムが時代や社会の進展から取り残されつつある、の4点である。これを受けて、大きくくくると二つの対処方策が示される事となる。
一つは、能力のある子や恵まれた環境の子は、個性・能力を尊重し、早いうちから学校選択性やエリート的な中高一貫校によって、学校やクラスを選べるようにしなければいけない、と言う事。
もう一つは、公共心・道徳心・愛国心、規範意識・社会性を育成する為に、奉仕活動の義務化、国定教材の配布、教育基本法の改正をする、と言う事。
この2本柱である。この二つの柱には、"新自由主義的イデオロギー"と"国家主義的イデオロギー"の二つの考え方が背景にある。そして、これらの方針は、前述の三浦朱門氏の発言に寸分の狂いも無くピッタリと当てはまる。
二つの柱のうち、ここでは"愛国心の育成"について考えてみたい。いじめや青少年犯罪…つまり道徳心の低下、そして公共心の低下等は、果たして愛国心の欠如によるものなのか。現実を見てみると、(内容はどうであれ、ナショナリズムとパトリオットの双方を含む)愛国心教育はアメリカや欧米諸国の方が、日本よりも格段に徹底している。しかし、青少年の犯罪率や怠学・退学率は欧米の方が未だに圧倒的に高い。むしろ欧米諸国の方が、日本の教育を見習おうとしている昨今、日本の教育改革は、時代の流れに逆行しようとしている。政治家や官僚、企業経営者の公共心や規範心・道徳心・責任感については議論から外し、青少年の道徳心のみを問題視し、それを教育に責任転嫁している論理は、独善以外の何ものでもない。
公立学校ならびに義務教育課程では、本来特定の政治思想や宗教を教えてはならない事になっている。時の政権の政治思想も、同様に教育現場に押し付ける事はできないのも同様だ。従って、日の丸や君が代の強制は過去行われなかった。しかし、それが1999年に国旗・国歌法が成立して以来、「望ましい」→「指導」→「強制」へと変化しつつある。こう言った小さな子供への義務教育の過程から、ある一部の人のイデオロギー・思想が強制されるのはたいへん迷惑かつ有害な問題である。
私は、愛国心そのものを否定しない。愛国心には二通りの意味が混在している。"とにかく自分の国が最高"と言う盲目的なナショナリズム的愛国心、もう一つは自分の住んでいる土地の人々、風土、景色、香り、文化等、そう言ったものを愛すると言う故郷や祖国への愛だ。祖国への愛、祖国の人々を愛する心を持つことはどの国民にとって自然な事だが、政治的&強制的ナショナリズムの押し付けは論外であり、統制される側の国民は警戒し抗議する必要がある。
教育全般については他のコーナーで色々と考察しているので、ここでは「愛国心」教育の関連についてのみ考えたが、まだまだ根深い問題がそこにはある。あと何年かすると、うちの子供たちも小学校に通う事になる。息苦しい学校生活をおくらせないためにも、選挙で慎重に政権を選択したい。
・教育基本法改訂の問題点
さて、上記の事と密接に関わり合うのが「教育基本法の改訂」の問題なので、ここで述べておきたい。基本的に上で述べた事と同じ考え方が、「教育基本法改訂」のベースにある。また、"教育基本法の改訂"と現在押し進められている"憲法改正"の問題も表裏一体で、同じ勢力の思想・考え方が根底にある。憲法改正に関する問題はこのホームページの他のコーナーでも取り上げているので、今回は教育基本法改訂問題に絞って考えてみたい。
※憲法改正問題については、
→こちらをクリック!その一/日本国憲法についての歴史と私自身の考え
→こちらをクリック!その二/現在、自民党が推し進める改憲案について
教育基本法の改訂の問題点は、主に二つ。一つは、"愛国心"の明記。もう一つが、"宗教的感性を養う事(涵養/かんよう)"の明記。
一つ目の"愛国心"。「伝統と文化を尊重する」事、「わが国と郷土を愛する」事が求められる。愛国心自体は、どこの国民も持っている普通の感情。どの国にも、大切にすべき文化や伝統がある。しかし一方で、伝統や文化の中にも、継承が好ましくないものだって多々あるし、自国の歴史にも批判の目をもって見るべきものだってたくさんある。それを強制する事は、誰にもできないはずだ。例えば、実際に"日の丸・君が代"の教育現場での教師への強制は、既に良心の自由を侵害している。これが、法律で「愛国心」がはっきりと規定されるようなら、子供達は完全に強制されるようになる。
二つ目の"宗教的感性を養う事(宗教的感性の涵養)"。言うまでもないが、宗教心は人それぞれ。仏教徒もいれば、神道を信ずるものもいるし、私のようなキリスト教信者もいるし、宗教は一切信じない事を信条とする人もいる。しかし、政府が念頭においてるのは、"初詣"や"節分"のような神道的な宗教的感性を前提にしているのである。
このように、改訂が画策されている教育基本法は、"愛国心"や"宗教心"を規定しようとする(これが言いすぎならば方向性を定めようとする)考え方が根底にある。祝日に日の丸を掲げないから"低い評価"、君が代を歌わないから"低い評価"、お祭りで御神輿を担がなかったから"低い評価"、"神社に初詣に行かなかったから"低い評価"…そんな評価だって将来有り得るのだ。実際、一部の市町村では、既に愛国心の評価を取り入れている所もある。戦前の様に"宮城遥拝"や"天皇の写真への礼"をしなかった者が周囲から糾弾される…そんな社会に二度としてはならない。心の問題を学校が評価する…そんな事は、絶対あってはならない。
・新しい歴史教科書の問題
「新しい歴史教科書をつくる会(※以下つくる会と略す)」の教科書(※出版社は扶桑社)の市販本を初めて読んだ時から、もう何年か経つ。うちの親父も少年時代に戦争を経験した立場であり、身をもって戦争の辛さを経験しているが、新しい歴史教科書を読んだようであり僕にこんな事を言っていた。「爆弾3兄弟だもんなぁ。話にならなんなぁ…」。僕は、それが一体何を意味しているのか当時分からなかったし、今もって何の事かさっぱり分からないのだが、親父たち戦争経験世代には受け入れがたい教科書らしいと言う事は理解できた。
2005年に、新しい歴史教科書の採用率は1%に達したと報じられた。保守的かつ強権的な首長のいる自治体では、採択されやすい傾向にあるようだ(東京、他)。新しい歴史教科書の歴史観は、それまでの日本の歴史観を「自虐史観」とみなし、言い換えれば先の戦争を正しい戦争とする史観に成り立っている。そもそも「つくる会」の教科書は、「皇国史観」に貫かれて作られた教科書だ。
当初の執筆者には、右寄り論客で有名な西部邁(すすむ)やあのゴーマニズム宣言で有名な漫画家の小林よしのりもいた。小林よしのりは、その自己の著作物の中で先の日本の戦争を「世界史上もっとも美しい戦争であった」と日本の聖戦論を徹底的に主張し、科学的根拠・論証に欠けたイデオロギー優先の論陣を張っている人物だ(※個人的な感想を述べると、彼の「戦争論」を読破したが科学的思考を欠如したひどく幼稚な内容だった)。当初彼は、アメノウズメの記述や好戦的な戦闘シーンを執筆した(※現在は、西部氏も小林氏も会内の対立により同会を脱会している)。つくる会の教科書を出版する扶桑社は、ご存知の通りフジテレビの子会社である(扶桑社株を84%保有)。右寄り論調で知られるフジ・サンケイグループから、つくる会の教科書が出版されるのは当然の成り行きとも言える。
日本の神話をまるで史実であったかのような微妙な構成をし、日露戦争でのバルチック艦隊を破った日本海海戦を「海戦史に残る驚異的な勝利」と褒め称える一方で、南京事件についても「様々な見解」があると記述し、暗に南京事件の多大な犠牲者の存在に疑問を持つような記述をしている。また明らかに反キリスト教や反共産主義の記述で一貫させている。同様に、憲法改正もGHQが「わずか約1週間」で作成した憲法を押し付けたとして、明らかに批判的な記述もしている。伝統ある皇国としての歴史と栄光ある日本国、そして戦争での輝かしい勝利に固執する記述をする一方で、日本の加害事実の記述は極力矮小化し、また外国から不当な干渉を受けている印象を強く与える構成となっているのである。つまり日本の加害的行為の記述は極力排除して、日本を美化・賛歌する記述を徹底させている。もちろん確信犯的な記述である事は、言うまでも無い。
つくる会の会長がテレビで自ら語っていた事だから間違いない事だが、日本の戦争責任も特定の戦争を指導した一部軍人にあるのではなく、日本人全体が負うべきものだと断言していた。あの戦争は日本人全体の意志によってなされた戦争だから、責任があるとすれば日本人全体にある、つまり「一億総火の玉」や「一億総懺悔」的な思想に裏打ちされている("一億総懺悔"と言う言葉は、当時の支配者・戦争遂行者達の責任を逃れるために考え出されたコピーである)。そこには特高警察の監視によって一般民衆の思想・言論の自由が封じられていたと言うような歴史認識は、会長の発言からは一切まったく感じ取れない。
結論から言うと、扶桑社版の教科書は、その理念も偏っていて、記述内容も問題だらけである。中学校の教科書としては、相応しくないと言えると思う。現在、中学生向けの歴史教科書は、8社から出版されている。初歩的な間違いや不適切表記(検定意見数)が、扶桑社版は124もあり、他の教科書より圧倒的に多いのである。これは歴史を"科学的"により論考するよりも、"イデオロギー(※皇国史観)"を優先させているためだ。124のうち80ヶ所を訂正・削除したが、根本的なイデオロギーが消えたわけではなく、教科書を検定に合格させたいために、泣く泣く訂正・削除したにすぎない。教科書出版には何年もの月日と莫大な費用がかかる。検定に合格しないとなると、扶桑社にも手痛い打撃となる。どうしても、検定だけは通さなければならないため、訂正・削除に応じたと言うところが真相であるとも言われる。つまり、本質的なところは何も変わっていないのである。
この扶桑社版の教科書の問題は、教科書単体の問題ではなく、様々な団体、政治家が背後で絡んでいる。扶桑社版教科書を使用させるべく、現在自民党の中枢部にいる人々が多くこれを後押し、講演会等で"つくる会教科書の正当性"や"採用の薦め"を徹底的に主張したりしている。一方で、他社の教科書の記述についても政治家から圧力が加られたと言う報道もある。自民党の政治家が、NHKの報道番組(※スペシャル番組での慰安婦問題の番組からの削除の事件)に圧力をかけた問題と根幹ではつながっている、この国の裏の世界の問題である。
新しい歴史教科書の内容そのものについては、ここではすべて語る事はできないが、一度読んでみる事をお勧めする(※扶桑社から市販化本が出ているが、わざわざ買うのも勿体無いので図書館で借りて読めばただで済みます。この市販化本は誤記が多いのも特徴だが、一般読者にはその事を伝えていない)。
特に女性の方には、もっと関心を持ってもらいたいと思う。なぜらな「つくる会」の扶桑社版教科書は、歴史教科書も公民教科書も共に、皇国史観回帰をベースに、女性不在、女性蔑視で記述が貫かれているからだ。現在日本がようやくここまで培ってきた男女同権の蓄積は、一気に足元から覆されてしまう。「きゃ~、純ちゃ~ん」「総理がんばって~」と浮かれているうちに、いつのまにか社会で働きづらくなってしまった、身動きできなくなってしまった…と言う社会が来ないとも限らない。
公立の小学校・中学校の教育では、上記の章でも触れたが、特定の宗教や政治思想を教えてはならない事になっている。教科書検定も、同様な立場でなされる事になっている。しかし、扶桑社版の教科書の監修者は、特定の思想において教科書を作成している事を、責任者自らがあきらかにしている。公平さを初めから無視して特定の思想をベースに編纂され、現在もふさわしく無い記述が残されているこの教科書が、検定をパスしてしまう事への特定政党や政治家の政治的思惑・関与の問題、税金によって学校の教育現場で無償配布される事の問題は決して小さなものではないと思う。
ついでなので、もし戦前の教科書(※旧日本帝国文部省の出した尋常小學修身書)を読む機会があったら、これも読んでみることをお勧め。僕も、復刻版の尋常小学校の教科書を手に入れて読んだが、色々な意味で当時の人々の価値観・世界観を学ぶ一助となった。
国家の全体主義と言うのは、まず子供達の教育への介入と、メディアの統制から始まる。日常生活に、少しずつ知らず知らずに"外国への敵対心"、"偏狭な愛国心"が入り込み、その全体主義の最後の仕上げに「軍国主義」がやってくるのは、過去の世界の歴史がはっきりと示している。
狭量な愛国心を作り出すのも「教育」なら、グローバルな平和主義者を作り出すのも「教育」。ここではすべてを語るのは到底不可能だが、私自身はそれこそ「歴史」を振り返れば分かるように、狭量な愛国心は最終的に必ず国を衰退もしくは滅亡の危機に追いやる(…戦前のドイツや日本の例を挙げるまでもなく明らかだ)。だから、そう言う狭い心を生み出す教育をずっと心配していて、またそう言う方向へ子ども達を導こうとする一部の政治家や学者の強権的な言動、それ以外の意見を封殺・圧殺する風潮を深く憂い、警戒している。そんな教育状況や社会にならないよう、選挙権を持つ私たち大人の責任はたいへん重いと思う。
(2006年 9月17日記載)
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2012年3月10日追記:読売オンラインニュースより
「大阪府教委は9日、2月中に行われた府立学校の卒業式で、職務命令に違反し、国歌斉唱時に起立斉唱しなかった14校計17人の教諭全員について、戒告の懲戒処分にしたと発表した。
この教諭らを含め、不起立者は9日現在で計21校29人。卒業式は16日まで順次行われ、処分される教職員は更に増える見込み。
府教委は、国歌斉唱時の起立斉唱を教職員らに義務付けた「国歌起立条例」が昨年6月、全国で初めて施行されたことを受け、卒業式を前に、全教職員に職務命令を出した。このため、過去の計6人と比べ、異例の大量処分となった。
文部科学省によると、2010年度に起立斉唱の職務命令違反で懲戒処分を受けた公立学校の教職員は全国で21人(停職1、減給5、戒告15)」。
やはりと言うか、6年前にこのページで指摘したように、"1999年に国旗・国歌法が成立して以来、「望ましい」→「指導」→「強制」へと変化しつつある"と言う方向へ動いている。取りあえず「強制なんかはしないから」とオブラートに包んで法制化してしまい、徐々に既成事実を作っていくと言うこの国の政治の不公正なやり方がここでも行われつつある。