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9.平和憲法の危機!?
          (2004年11月7日記載)


 この「戦争と平和」について考えるコーナーの第一回目で、自衛隊と憲法9条について考えた。その時に『歴史にifは無いが、「もし日本が平和憲法を堅持し」ていたら世界中から尊敬を集めていたかもしれないが、侵略や工作で朝鮮半島の北朝鮮のような悲惨な国家になっていたかもしれない。逆に、「もし日本が平和憲法を止」めて、早くから国際舞台に自衛隊を派遣していたら世界から敬意を払われていたかもしれないが、日本が戦争に巻き込まれていたり、公共事業と同様軍備に莫大な税金を垂れ流していたかもしれない』と書いた。そして今、実際に憲法改正への動きが活発になっている。憲法改正には、この9条も含めた大幅な見直しが想定されている。そこで、ここでは日本が戦後保持してきた平和憲法たる日本国憲法を、もう一度しっかりと考察みようと思う。


大日本帝国憲法(明治憲法)

 9条だけを見ても、その憲法が想定した世界観や背景をとらえることができないので、日本国憲法全体を考えることからスタートしたい。
 ご存知の如く、日本国憲法は第二次世界大戦後に作られた憲法である。それ以前は、日本には大日本帝国憲法(※明治憲法と言う言い方をする人もいるが、以下帝国憲法と略す)があった。現日本国憲法は「国民主権」で、大日本帝国憲法は「天皇主権」だと一般に言われている。その通りなのだが、これには若干の誤解があるかもしれない。「天皇主権」と言うと、天皇が絶対的な権能を持っていて、すべての権限を持っているようにとらえられるが、現実にはそうではなかったようである。どんな物事であれ、すべての人の意見が一致して決定されると言うのはなかなか有り得ない。帝国憲法も同様であり、色んな意見の妥協の産物の面もある。起草者の伊藤博文と井上毅との間には、帝国憲法の天皇と内閣制度に対するかなりの認識の差があったようである。伊藤が想定した帝国憲法は、天皇を非政治化して、天皇の不可侵性、政治的・法的無責任性を確保し、内閣総理大臣が政治主体となるシステムを想定した。一方の井上は、天皇を文字通り実質的な政治主体と考えていた。内閣も、天皇の補佐する役割の機関としか想定されていない。
 こうした意見の相違を抱えた帝国憲法は、妥協の産物となった。天皇は名目的な主体でありながら、実際の政治的な意思決定や各国家機関の統括を担っていたのは、元老と呼ばれる人々だった。元老が死に絶えた後はその機能が失われ、各国家機関が割拠するようになり、そんな中で特出するようになったのが軍部である。国務大臣はそれぞれが天皇を補佐する(※正確には輔弼する)役割になってはいたが、実務上天皇は、各部署から上がってきた案件を(天皇自身の意思に関係なく)承認さぜるを得なかったようである(ただし戦時下において、天皇が国務大臣の輔弼のみに基づいて行動してきたのでは無い事実も判明している)。前述の通り帝国憲法体制は、総理大臣の統制権が弱いという欠陥があり、内閣は軍部に意見を差し挟めず、陸海軍大臣などの軍部の政治介入を許す事になる。つまり帝国憲法は、天皇主権とは言われているが、現在考えられている「天皇絶対主義」的な主権ではなく、大臣が責任を負っていた立憲君主的な「天皇主権」を目指していたとも考えられる。
 しかし、中国との戦時下体制に入ると憲法無視の手続きにより国家運営が行われ、到底立憲君主国政治の国と称するには値しなかった。また、帝国憲法は時代の妥協の産物と言う面があり、全体主義化・軍国主義化を阻止することはできなかった(※帝国憲法下でいかに日本が議会制民主主義を形骸化し、戦争への道を突き進んでいったかの詳細は、家永三郎著「戦争責任」を参照するとよく分かる。また、同書に記載された戦時下で国家検定を受けた教科書の記述から当時の憲法に対する国家の考え方が分かる。
下段注記1参照)。
 また帝国憲法は、基本的人権や思想・信教の自由なども謳ってはいたが、制限が多かった。いわゆる「臣民の権利義務」条項は、"法の定むる所に従い"とか"法律の範囲内に於て"と言う制限が付けられていて、実際はほとんどの人権は国の力で圧殺されることとなる。最終的には、悪名高き"治安維持法"によって、日本はファシズムへの道を辿っていった。
 一方の現在の日本国憲法は、「国民主権」を標榜している。この憲法は、当初原則理解として「民主主義」「国際平和主義」「主権在民」の三原則が掲げられていた。現在では、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争の放棄」と言う三原則にとらえるのが主流である。日本国憲法は、帝国憲法下でもその息吹が若干見られた民主主義的傾向(※民主主義的な傾向であって民主主義そのものではない)を復活させ、平和な民主主義国家として新たに出発することを誓った憲法である。
 次に、この現在の日本国憲法が生まれた背景を見ていきたい。


日本国憲法成立の背景

 日本国憲法が、第二次世界大戦での日本の敗戦を受けて作られたのは説明するまでもないと思うが、その辺の背景を少し細かく見ていきたい。そうすることによって、日本国憲法の精神や本質が見えてくると思う。
 第二次大戦で日本に勝利した連合国は、初めから憲法改正を構想していたわけではないらしい。日本政府も、憲法改正を政治日程にあげていなかった。その後、連合国軍最高司令官マッカーサーが帝国憲法の改正を当時の東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の国務大臣の近衛文麿に示唆。その後の幣原(しではら)内閣にも指示し、国務大臣の松本烝治(じょうじ)を委員長とする憲法問題調査委員会を組織。国内の主だった憲法学者を集めて、調査研究をさせる。同委員会は改正が必要であると認め、甲案、乙案の二つの草案を提出。松本乙案は帝国憲法をそれなりに修正したものだが、GHQは憲法改正作業を日本側にさせても帝国憲法を微修正したものしか出してこないと判断し、マッカーサーは憲法の草案作りをGHQの民政局に任せる。GHQは、当初松本乙案のような改正案を認める意向もあったようだが、国際情勢の変化を受けて大きく変わっていったようである。1945年12月27日に「極東委員会および連合国対日理事会付託条項」が発表され、新たに極東委員会と対日理事会が設置されることとなった。極東委員会は、GHQの上位機関でアメリカも含めて11ヶ国で構成され、対日理事会は、米国、英国、ソ連、中国の4カ国の代表からなる連合国最高司令官の諮問に答える機関である。これらが設置されることに伴い、マッカーサーは、自分が思い描く戦後の日本の構想を邪魔されるのではとの懸念を抱き、憲法を先に作ってしまうことで、極東委員会や対日理事会が口を挟めないようにしておこうと考えたようである。
 翌年1946年1月7日GHQを指揮するSWNCC(国務省・陸軍省・海軍省調整委員会)は、「日本の統治体制の改革」と言う文書を採択し、「天皇制存置の道」と「天皇制廃止の道」の二つの道が示される。極東委員会や対日理事会には強硬派もいたわけだが、マッカーサーは(天皇との会談後)天皇制存置の道を選択した。天皇制を廃止すると、日本国民の感情を逆撫でして民主化がうまく進まないと考えたようである。
 こうした背景によって、マッカーサーが松本乙案を否定し、自ら憲法草案を作る方向に傾いていった。2月3日に「マッカーサー・ノート」と呼ばれる、憲法草案起草のための三原則を示した。憲法起草のベースとなるので、三原則を以下に書き記す。
1.天皇は、国のヘッド(最上位)の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲法に基づき行使され、憲法に示された国民の基本的意思に応えるものとする(※天皇制の存置)。
2.国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争を解決する為の手段としての戦争、さらに自己の安全を保持する為の手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦権が日本軍に与えられることはない(※侵略戦争、自衛戦争ともにその権利を放棄すると言う事)。
3.日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は、今後はどのような国民的または市民的な政治権力も伴うものではない。予算の型は、イギリスの制度にならうこと。(※日本の封建制度廃止)。
上記の三つである。これらの三つの原則に基づいて、GHQ民生局で2月4日から12日の一週間ほどで憲法草案を作成する。民政局二十数人の徹夜作業の連続が始まる。その辺の経緯を、当時民生局のスタッフだったベアテ・シロタ・ゴードン女史の「1945年のクリスマス/日本国憲法に男女平等を書いた女性の自伝」(柏書房)から見てみよう。

 1945年時点での連合軍総司令部の仕事は、おおまかに二つあった。「日本の軍事的な力を破壊して再び軍国化しないようにすること」と、「日本を民主主義国家として世界に通用する国に作り変えること」の二つである。ところが、予想していた日本の残存兵力等の反乱や激しい抵抗は無いという意外な誤算で、二つ目の政策に力を注ぐ事となり、政治形態も予定していた占領軍の直接軍政から日本政府を通じた間接占領に変わった。GHQは、経済科学局、民間情報教育局等の8の部局でスタートした(最終的には14部局)。民政局もその一つで、建て前はマッカーサーを補佐して連合軍の日本占領政策を立案、推進する部局だったが、実際は、日本政府に次々と指令を出し、日本の軍国主義的組織を解体し、民主主義化するための政策を推進する中心的な役割を果たしていた(民政局は、皇居前の第一生命ビルの6階にあった)。
 民政局には、国内政治を担当する部と、独立国として形の整っていなかった朝鮮を担当する部があった。国内の政治を担当する部には、後の憲法改正作業のために、ラウエル中佐が中心となって政党や民間の研究会と連絡を取りながら調査していた"法規課"、後に憲法の前文を担当することになるハッシー海軍中佐のいた"政務課"、かつて下院議員だったスウォープ海軍中佐がリーダーだった"行政課"等があった(組織編成はたびたび変更になった)。この他、財政のエキスパートだったリゾー大尉は経済の責任者、地方自治はティルトン少佐が担当、ジャーナリスト出身のハウギ海軍中尉は広報担当だった。当時22歳だったベアテ・シロタ・ゴードン
(※下段注記2参照)が配置されたのは、人権に関する"政党課"だった。日本の民主政治の根本となる政党の調査と、民政局が全力をあげて推進していた公職追放(※軍国主義時代の要職に着いていた人をその公職から追放すること)の調査も分担していた。ベアテが配置された政党課は、当時彼女も含めて三名だった。他のメンバーは、慶応大学で教鞭をとっていたこともある経済学者のワイルズ博士と、民族学者で博士号も持つロウスト中佐だった。この奇妙な三名で仕事は進行した。
 マッカーサー元帥は、8月30日厚木に到着する前の飛行機内で、ホイットニー准将に「日本に着いたら、早速日本の民主化に着手する」つもりであること、「古い軍国主義を一掃する」ことを幕僚に任せ、「日本改造に専念」するつもりであることを伝える。ホイットニーらに取らせたメモによると、「婦人の地位向上」がトップだったと言う。続いて、政治犯の釈放、秘密警察の廃止、労働組合の奨励、農民の解放、教育の自由化、自由かつ責任のある新聞の育成、等々が挙げられていたと言う。実際、GHQは、日本の降伏後に矢継ぎ早に日本に指令を出す。9月10日、言論の自由に関する覚え書き。11日、東条元首相らA級戦犯容疑者3人の逮捕。29日、検閲制度の廃止。10月4日、人権の確立。治安維持法の撤廃。政治犯の釈放。11日、婦人の解放と参政権の授与。労働組合組織化の奨励と児童労働の廃止。学校教育の自由化。秘密警察制度と思想統制の廃止。経済の集中排除と経済制度の民主化。11月6日、財閥解体指令。7日、農地の小作人への分配(農地解放指令)。18日、天皇の資産凍結。12月15日、国家神道の廃止。翌年1月4日の公職追放・・・である。
 さて、話は民政局に戻る。マッカーサー元帥の懐刀である先述のホイットニー准将が、12月15日に民政局長に就任する。ホイットニー局長は、弁護士で法学博士だった。民政局のスタッフは30名ぐらいいたが、後の民政局次長になるケーディス大佐も、弁護士。ラウェル中佐、ハッシー海軍中佐も弁護士で法学博士の学位を持っていた。ヘイズ中佐も弁護士、スウォープ中佐はプエルトリコ総督で元下院議員。ピーク博士は、コロンビア大学助教授、ティルトン少佐は、ハワイ大学&コネティカット大学教授・・・と言うそうそたる顔ぶれであった。民政局のメンバーの多くが、ルーズベルト大統領が大恐慌克服のために行なった諸改革"ニューディール政策"の信奉者で、ニューディーラーを自認していた。改革の夢を、焼け野原の日本で実現させたいと言う情熱を持っていた。後に日本国憲法草案に携わるのは、その中の25人である(女性は6人)。
 1946年2月4日午前10時、民政局の(朝鮮部を除く)25人全員に召集がかかった。マッカーサーの"知的懐刀"ホイットニー准将が現れ、口を開いた。
「紳士淑女諸君、今日は憲法会議のために集まってもらった。これから一週間、民政局は、憲法草案を書くと言う作業をすることになる。マッカーサー元帥は、日本国民のための新しい憲法を起草すると言う歴史的にも意義深い仕事を、民政局の我々に命じられた」。
「諸君は、さる2月1日に毎日新聞がスクープした日本政府の憲法草案について、知っていると思う。その内容は、明治憲法とほとんど変わるところがない。総司令部としてとても受け入れることはできないものである。」
「なぜなら、民主主義の根本を理解していないからだ。修正するのに長時間をかけて日本政府と交渉するよりも、当方で憲法のモデル案を作成し提供した方が、効果的で早道と考える。そこで、ポツダム宣言の内容と、これから発表するマッカーサー元帥の指令に沿った憲法のモデルを作成する作業に入る。」
ホイットニーは、先述のマッカーサー・ノートと呼ばれる三原則を読み上げる。その後、准将の話は続いた。
「この草案は、2月12日までに完成して、マッカーサー元帥の承認を受けることを希望する。と言うのは、その日は、日本の外務大臣や他の係官と、日本側の憲法草案についての内密の会合を持つ予定になっているからだ。その時、日本側から出される草案は、非常に右翼的な傾向の強いものが予想される。しかし、私としては、その外務大臣らのグループが望む、天皇を護持し、権力として残されているものを彼らが維持するための、唯一残された道は、進歩的な道をとる憲法、即ちこれからの我々の仕事の成果だが、それを受け入れ、認める事だということを納得させるつもりだ」。
「私は、説得できると信じているが、それが不可能な時は、力を用いると言って脅すだけではなくて、力を用いてもよいという権限をマッカーサー元帥から得ている」(※この発言は、後々憲法が「押し付けだ!」と言う論拠となり物議をかもす)。
「我々の目的は、彼らの憲法草案に対する方針を変えさせ、このようなリベラルな憲法を制定しなければならないという、当方の要望を満たすように進めるのがねらいだ。出来上がった文書は、日本側からマッカーサー元帥に承認を求めて提出される事になる。そして、マッカーサー元帥は、この憲法を日本政府が作ったものとして認め、全世界に公表するであろう。したがって、通常の仕事は一時的にストップし、今週中に書き上げること。トップ・シークレットである。」
 要するに、日本側の提出した草案の出来が悪いので、GHQ側が書いた草案を日本側が書いたものとして提出して、合格点をあげようと言うことである。日本の歴史は、古くから誰か権力者がいて、その人のために命を投げ出すと言う忠義が美しいと考えられていたので、一般の人々は「権力はあなたが持っている」と言う民主主義の原則に戸惑う面が確かに強かった(実際、民主主義の教えに最も困っていたのが、焼け跡で授業を再開した学校の先生だったようだ)。実際、日本はそれまでは女性の参政権も無かった国なのである。
 スタッフは、8つの委員会に割り当てられた。ケーディス大佐とラウエル陸軍中佐、ハッシー海軍中佐、エラマン女史の四名で運営委員を構成し、その下に、立法、司法、行政、人権、地方行政、財政、天皇・条約・授権規定の七つの小委員会が置かれた。それぞれの委員会に、強者が配置された。さきほども述べたが、彼らの多くが、軍人である一方で、法学博士や弁護士でもあると言ったそうそうたる顔ぶれのメンバーだった。
 憲法草案作成の一週間は、どのスタッフにとっても生涯で一度あるかないかの、睡眠時間のほとんど無い密度の濃い時間だったようだ。憲法草案作りに関わった民政局のスタッフには、戦勝国・占領国としての傲慢さはなく、新生国家の憲法を書くと言う重い使命感で満たされていたようだ。人権感覚の無い(もしくは薄い)日本に人権や、民主主義を根付かせるために、憲法の条文がどうあるべきかも、世界の様々な憲法などを参考にして案が練られた。並居る大学院のプロフェッサー級のメンバー達の中で、ハイスクール程度の法律の知識しかなかった先述のベアテ・シロタは、女性や子供の権利について任されることになる。彼女は10年も日本に住んでいたので、女性の苦労や地位の低さをその目で見てきていたので適役だった。ベアテはタイム誌の元調査員の力をいかんなく発揮し、各国の憲法を集め、条文を練る。彼女は、女性や子供の権利について、出来うる限りの事を書き込んだ。当時は、アメリカですら女性の権利は低く、黒人差別などがあった時代だった。だから、いくら民政局のスタッフが進歩的とは言え、ベアテの主張はすべて受け入れられるわけではなかった。条文が削除される度にベアテは文字通り"泣いた"が、他の委員会の条文も同様だった。条文は、かなりスリムに削ぎ落とされた。草案内の他の条文との矛盾点の整合性も検討された。また草案の議論は、条文の背後にある思想にまで至った。一週間に渡るスタッフの知力、体力共にハードワークな日々の末、GHQ草案が完成する。

 こうして作られた草案は、2月13日に日本側に示される。GHQ側は、吉田茂外務大臣に草案を提示するにあたり、天皇の地位の安泰と引き換えに、GHQ草案を受け入れさせようとした。日本側は、この草案を受け入れる以外に道は無く、これを基に政府も帝国議会(まだ新憲法ができていないので、この時点では旧憲法に基づいた"帝国議会")も、草案を修正していく。3月4日から5日にかけて、GHQ案をもとに日本政府案の作成作業を開始したが、GHQ側二十人に対し、日本側は最初五名で対応したが、事の重大さに気づいた松本大臣は内閣に報告する為に席を立ち、最終的に法制局部長の佐藤達夫や終戦連絡事務局次長の白州次郎達で対応することになった。翻訳の問題や、日本政府側の様々な抵抗は続く。日本政府側にも、色々と譲れない部分があった。天皇の条項はその最右翼だった。日本政府側は、GHQ草案に書かれていた女性の権利の部分なども削除したかったようだ。「日本は女性が男性と同等の権利を持つ土壌がない」と言う理由においてである。GHQ側はそれらを一つ一つ論破していく必要があった。翻訳も大事な問題で、英語と日本語をすり合わせるために32時間のマラソン通訳となった。こうした苦労の末に完成した日本国憲法草案は、6日夜、憲法改正草案要綱として、日本政府から発表された。帝国議会でも、両院に憲法改正小委員会を設けて議論していくが、審議の実質はすべてGHQの監視下に置かれていた。
 6月20日からの帝国議会で修正審議され、現25条一項の「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」の部分、27条一項に規定された「勤労の義務」、同条二項に規定された「休息」の部分などが追加された。そして若干の修正がなされ日本国憲法は成立し、1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行されたのである。


平和憲法に関する僕の考え

 と、憲法についての成立の経緯の概略を見てきた。僕は、憲法改正そのものには反対ではないし、
"本当に"必要なら改正すべきだと思う。憲法自体も、条件は難しいが改正できるように改正条項をきちんと設けている。GHQで憲法草案を作成した民政局の責任者も、ここで作られた憲法が未来永劫に渡って日本国民を縛るのは良くないと考え、未来はその時代の日本国民の手にあると考えていたようだ。
 しかしその一方で、僕は今のような政治体制化での憲法改正には
"大反対"である。「まず、みんなで議論をして時代に合わない憲法の矛盾点を改正しよう」と言う国民主体の論点ではなく、「こう言う風な主義の方向に憲法を直したい」と言う一部の人々の意見・思想を反映している憲法改正論だからだ。現在、憲法の規定に大きく違反した(違憲状態)の問題が確かにいくつかある。その最も端的な例が、"自衛隊"である。しかし、憲法が軍隊不保持を規定しているにも関わらず、自衛隊は歯止めが利かずに世界有数の巨大な軍隊になってしまった。ここで、現在も既に憲法の規定を守れていない国が、さらに平和憲法の規定を外すことには賛成できない。
 「日本国憲法は、占領軍に押し付けられた自主的な憲法ではないから良くない」と言う議論がある。しかし現在の政権は、政治家のプライバシーを過度に守ろうとする(逆に言うとマスコミの表現の自由を制限する)法案を出そうと言う政権である。会計検査院の報告により、全省庁の一部を調べただけでも不正な支出が(毎回、数千億円も報告されると言う)かなりの金額に昇っており、また不正な多額の闇献金が政治家に流れている事実も暴かれている・・・そのような状況の中でマスコミ報道を規制しようとする(もっとはっきり言うと、臭い物に蓋をしようとする)政府の方針には戦慄を覚える。そのような政権下では、国民の立場に立った憲法改正はとても望めないだろうと思う。

 そして、「押し付けられた憲法」と言う考え方自体にも疑問がある。確かに現憲法は、GHQによって作られた草案をベースにしている。そう言った意味では、「押し付けられた」と言う言葉は間違いではない。しかし、当時の日本国政府にこれ以上の民主的な憲法を作ることができなかったのは明白だ。日本側が提出した草案の内容は、明治憲法と同様に天皇主権を前面に押し出し、基本的な人権条項もないものだった(当然、女性や児童についての文字も一つも無かった)。現日本国憲法下でも、政府は言論の自由や人権に様々な制限を設けようと画策しているぐらいだから、もし明治憲法を改正した憲法を日本が採用していたとしたら、あっという間に人権や言論の自由は制限だらけになり、全体主義の暗黒時代に逆戻りしていたことは、ほぼ間違いなかったと思う。当時の日本政府側が天皇制や明治憲法と言う呪縛から解き放たれる事は不可能だったが、GHQの民生局のスタッフは新しい国家の憲法を作るため、戦勝国・占領国の立場としてよりも、より自由に理想的な国家建設を目指し、どうしたら新生日本の人々にとって本当により良い憲法を作れるか、日本に民主主義や人権や平和主義を根付かせる事ができるか、それこそ身を粉にして考え、憲法草案作りに身を捧げてくれたのである。人権条項に至っては日本国憲法全体の1/3も締め(全103条のうち人権条項は31条もある)ていて、男女平等の条文は、西ドイツやイタリアやフランスよりも、早いのだ(アメリカに至っては、未だに男女平等が達成できていない)。もし当時の日本の生粋の憲法学者達だけが集まって憲法を作っていたら、今のような日本国憲法は決して出来ていなかった。これを「押し付け」と言うなら、人権や思想の自由も制限される明治憲法の改正草案は、日本の国民にとって「押し付け」以上に「もっと悪い」憲法草案だったと思うが、いかがだろうか。もし「他の者から"与えられた"」と言う意味で「押し付けられた」と言う言葉を使うなら、むしろ「プレゼントされた」の方が相応しいと思う。

 僕は、この日本国憲法は平和憲法として尊重すべきだと思う。「現在、違憲な巨大な軍隊たる自衛隊が日本にある矛盾はどうするんだ」と言う問題点については、こう考えている。矛盾しているが、僕自身は平和憲法を尊重する一方で、自衛隊を無くすと言う考えにも反対である。残念ながら、この世の中から戦争は無くならないし、こちらが意図しない相手国の挑発や紛争と言うものも避けられないことがある。少なくとも、歴史はその連続だった。「こちらが軍隊を持たず、戦争をする意思が無い」と訴えたところで、それは残念ながら抑止力にはならない。戦争を国連軍やアメリカ軍に肩代わりしてもらうのも、独立国家としては有り得ない考え方だ。「国が軍隊を持つ」と言う事は、人類が長い間の歴史の経験から得た一つの智恵であると思う。日本国憲法草案に携わったGHQ民生局の人々の中にも、「各国家のことは各国家が責任を持つべきであり、戦争を放棄すると言う考えには全面的には賛成しかねる」と言う心情のスタッフもいたようだが、誰もが家族、親類、友人達が戦争で犠牲になっていたから、戦争はもうこりごりだと言う心理と、マッカーサー・ノートの主旨に従って、「戦争放棄」は憲法の条文となったのである。
 第二次大戦直後はまだ戦争が終わったばかりで、世界の大国がまだ諍いを起こしていない時であり、一部に世界連邦構想があったり、世界中が平和を望む傾向が強かった為、日本国憲法にはその"平和的な理想"に委ねると言う崇高な主張があった。しかし、その平和的な世界の流れは、戦後60年経た今でもまったく前に進んでいないどころか、人類が長年犯してきた過ちを繰り返している。"戦争をしない"ないし"軍隊を持たない"と言う平和主義は人類の理想かもしれないが、現実の世界は不完全であり、必ずどこかで紛争が起こっている。外交だけで解決できればそれにこしたことはないが、それで治まらないこともある。例えば、前回紹介した"軍隊を持たない"コスタリカ共和国でも、他国の侵略を受けた場合は"戦う"ことを憲法で定めている。つまり「平和が理想だが、現実には戦わねばならない状況もあるかもしれない」と言う事を想定しているのである。一方で、日本国憲法の場合はどうか。憲法は、軍隊を持たず、戦争もしないと言う、完全戦争放棄・平和主義の主張のもとに書かれた。これは、歴史的に日本がアジアの他国を侵略した加害国であったためその武力の脅威を排除する目的と、当時ソ連とアメリカがまだ冷戦状態でなかったので、それらの大国(イギリス、中国、フランスも含む)が世界の警察活動をしている限り日本が軍隊を持つ必要はない、と言う二つの主な理由があった。
 その後、日本国憲法は国家の自衛権までも否定するものではないと変化し、冷戦時代が到来すると、(アメリカの圧力によって)憲法解釈の連続によって巨大な自衛隊が出来上がっていくのである。憲法を起草された時の純粋な解釈に立てば、これは明らかに違憲である。この辺は、コスタリカ共和国とは大きくかけ離れている。コスタリカ共和国は、現実には紛争と言うものは世の中に存在するが、(有事の際に戦うことは放棄せず)軍隊のみを放棄する。一方、日本は平和主義という崇高な理想を掲げながら、世界有数の軍隊を持っている(この"憲法と現実の矛盾"と"度重なる政治家の歴史認識を疑う発言"が、アジア各国の猜疑心を招いている)。

 僕自身の結論は、現憲法に矛盾するが、現実に存在する自衛隊をまずきちんと認めて、現実のテロ戦や情報戦に対応できるような部隊に編制し直す(つまり時代に合うような組織と装備に変えていく)事である。つまり平和憲法を堅持しながら、巨大な自衛隊を時代に適合させてコンパクトにしていく。それと同時に、(ご存知の通り日本の外務省は現在たいへん頼りにならない面が強いので)日本の外交システムや方針・方策を変革し、外国との交渉能力を高めることで未然に紛争を抑えたり解決する事。この両輪が必要だと思う。これが、現実的な平和憲法と自衛隊に対する関わり方・考え方だと、僕は考えている。少なくとも、現政権下の特定の主義・思想に基づく憲法改正には
"大反対"である。


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※注記1/戦前は、小学校では"国定教科書"、中等学校では"検定教科書"の使用が義務付けられ、その内容は国家によって厳しく統制され、生徒はそれを忠実に学習するよう強制されていた。1942年文部省検定済の中等学校用教科書の穂積重遠・四宮茂共著「新撰公民教科書」では、まず日本が皇国、神の国である事を述べてから、「国憲と国法」の章の「立憲政治」で次のように述べる。「我が国の立憲政体は、天皇御統治の目的を完全に果たすために定められたものであるから、(中略)帝国議会の如きは、民主主義の議会のような名義上の主権者たる人民の代表機関や、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関ではなく、全く天皇政治に於ける民意参酌の顕現であって、これによって臣民の翼賛の道を広め給うた制度である。また臣民の権利・義務の規定の如きも、西洋諸国の如く、主権者に対して人民の権利を擁護せんとするものとは異り、天皇の愛民の御精神と臣民に天業翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大御心のあらわれに外ならぬ」と述べている。帝国憲法は、国民を天皇の「臣民」とし、その権利・自由は天皇から恩恵として与えられるものとし、自然権としての基本的人権を認めていなかった。特に上記の教科書の記述にある通り、戦時下での憲法が定めた立憲政治に対する解釈はそれを一層先鋭化し、国民主権をまったく認めておらず、君主の専横を抑制する事もできず、議会は民意を汲み取る程度の役割しかなく、徹頭徹尾天皇統治の目的を完全に果たすものとされている。この解釈の下では、民主主義の本質的なものはすべて捨て去られている。

※注記2/ベアテ・シロタ・ゴードンについて・・・1923年、ロシアのピアニスト、レオ・シロタの娘としてウィーンに生まれる。
 レオ・シロタはユダヤ人であったため、ロシア革命のユダヤ人排斥の煽りを受け、故郷のキエフからウィーンへ出て音楽活動を続ける。レオはヨーロッパ各地で演奏し、リストの再来とさえ言われるほどの名声をはくす。コンサートの会場で、オーギュスティーヌと言う女性と出会う。彼女は既婚者だったが、遂に離婚をしてレオと結婚をする。そして1923年、娘のベアテが生まれる。しかし、第一次大戦後、ドイツは慢性の不況に悩まされ、ついにヒトラーのナチスの台頭を許していく事になる。ヨーロッパ各地の経済も不安定になり、レオたちの演奏も次々とキャンセルされた。こうした経済的な背景もあって、レオ一家は1929年夏に、以前山田耕筰氏から東京音楽学校への招聘要請を受けていた日本へ、半年間だけの演奏旅行の予定で出発。ベアテが、5歳の時の事だった。日本滞在は半年だけの予定であったが、1930年になるとナチスがドイツ第二党の地位に上がり、ヨーロッパは更なる不況に陥っていたために、日本に留まる。レオは山田耕筰から招聘を受けた東京音楽学校(現東京芸術大学)で働きながら、レオと妻は以後17年間を、ベアテは10年間を日本で過ごすこととなる。
 ベアテ・シロタは、その少女時代を、芸術家のサロンとなった赤坂の乃木坂の家ですごす(少女時代に2・26事件も実際に見ている)。1939年、単身渡米し、大学卒業後、戦争情報局やタイム誌で働く。世界各地で過ごした彼女は、英語、日本語、ロシア語、ドイツ語など六ヶ国語に堪能で、日本のことも生活していたから良く知っており、調査のエキスパートであったため、1945年にGHQ民生局のスタッフとして再来日した。そして、日本で苦しい生活を余儀無くされていた両親と劇的な再会を果たすと共に、22歳の若さで、日本国憲法草案の人権条項作成に携わり、女性の権利を明記することに尽力した。アメリカに戻ってからも、市川房江女史の通訳を務めてアイゼンハワー大統領とのインタビューに臨んだり、日本の若い音楽家や芸術家のための援助活動も行なった。現在も、アジアや日本の文化の紹介や発展ための様々な活動を行なっている。現在、ニューヨーク在住。

 余談だが、ベアテの父が日本に来るきっかけになったレオ・シロタと山田耕筰との出会いについて、歴史の不思議な流れを感じる。今年、田村直臣と言う牧師について調べていたが(
※田村直臣についての詳細はここをクリック!)、彼は江戸時代の士族の出だった。明治維新に伴って社会は大きく変わり、田村も新しき国家の理想に燃えるが、キリスト教に出会って牧師となる。その後、田村直臣は、若き日の音楽家の山田耕筰や画家の岸田劉生達の面倒を見て、彼らを育てる。その山田耕筰が後年、天才ピアニストのレオ・シロタを招聘し、その娘のベアテが日本国憲法起草スタッフの一員となるのである。明治維新以後の保守的な時代に田村は女性の権利のために戦って社会から一斉に叩かれ、ベアテもまた戦後と言う困難な時代に憲法に女性の権利を書く事に最大限尽力した。またベアテは、日本の若い音楽家や芸術家育成のための援助活動をしている点も、田村牧師と重なって見えてしまう。年代が違うので、田村もベアテも直接会うことはなかったが、「明治維新(新生日本)→田村直臣→山田耕筰→レオ・シロタ→ベアテ・シロタ→日本国憲法(新生日本)」と言う、どの鎖が一つ切れても成り立たなかった歴史の不思議さを感じてしまうのである。

2005年10月追記:映画"マッカーサー"についてはここをクリック!!

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