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パール判事と東京裁判
(2008月6日1日記載)
日本では、"パール判事"として知られるラーダービノード・パール博士(Radhabinod Pal)。歴史に詳しくない人でも、一度くらいは名前を聞いたことがあるだろう。今回は、パール博士の人生と東京裁判で彼が執筆した"反対意見書"について書きたい。
予めおことわりしておくが、私はパール博士の主張や見解、理念に対し、すべての面で賛同しているわけではないが、パール博士の権力や政治に左右されずに"法にのみ従う"と言う公平な姿勢と、国際法に対する一貫した筋の通った主張に対し、深く敬意をはらうものである。
パールが取り上げられ知られるのは、主に彼の所謂"パール判決書(※反対意見書)"に拠る。東京裁判が依拠した「平和に対する罪」「人道に対する罪」が事後法(※物事が起こった後に制定された法律)でると言う点を強調し、連合国の裁判を批判した。この"パール判決書"が、しばしば「東京裁判」を批判する立場や、果ては「大東亜戦争」の肯定論の論拠とすらなった。
しかし、結論から先ら述べると、これらの論拠は"パール判決書"の都合の良い部分を切り取って引用し、自分の都合の良い歴史観補強に利用していると言える。"パール判事その人"と"パール判決書の背景と内容"について、「パール判事」(中島岳志著/白水社)を基幹資料に、このページで追ってみたい。
ラーダービノード・パールの生い立ちと学問的背景
パール判事の生い立ちを、この僅かなページだけですべて辿るのは無理だが、簡潔に書き記しておきたい。
彼は貧しい陶工カースト(※インドは厳しい身分制度であるカースト制社会)の家庭で学業の困難な立場だったが、自らの努力で道を切り拓き、試験でトップクラスの成績を収め高校に進学。1903年にラージシャーヒー・カレッジに合格して奨学金を獲得し(※奨学金の大半を貧しい実家に送金した。生活はプルーナと言う人が見かねて学生生活を支援した)、そこでも成績優秀だった彼は、カルカッタの名門プレジデンシー・カレッジに入学して数学を専攻。トップの成績で学位を取得、在学中に結婚した。1908年には、カルカッタ大学で数学の修士号を取得した。
当時、インドでは(ベンガル地方を中心に)英領からの独立運動の機運が高まっていた。パール自身は平和主義者で独立運動に身を置く事はなかったが、ちょうど期を同じくして、日露戦争で東アジアの日本が快進撃して白人の侵略主義に立ち向かうニュースを聞き、多くの仲間と同様に連日歓喜していたと言う。
1910年、パールはアラハバードの行政機関に就職。仕事の合い間を縫って法律を勉強して、予備法律試験に合格。最終試験の結果が出る前に、アーナンダモーハン・カレッジから数学者として教員採用され、一旦法学者になる道をあきらめた。
彼はそこで十分な報酬を得て、それまでの借金を返済するだけでなく、多くの苦学生を家に招き支援した(※この支援は生涯続けられ、多くの学生に慕われた)。彼は、立派な法律家になって社会の不正を正してほしいと言う母親の願いを忘れず(※彼は母親の期待に応える事を使命と考えていた)に法律の勉強は続け、1920年カルカッタ大学で法学の学位を取得した。1923年には、カルカッタ大学の法学教授に就任した。翌年には、博士号を授与された。パールは、38歳でインドを代表する法学者として注目される存在となった。
パールは、インド植民支配下のインドにおいて、近代法の研究ではなくサンスクリット古典籍を研究する道を選んだ。宗主国イギリスは商事や契約、訴訟に関してはイギリス流の近代法を、家族法の分野に関してはインドの伝統慣習に委ねるという、二分法的構造を採用していた。政治と経済の領域はイギリス流、宗教・文化の領域はインド流、と言うことである。ただし、インドはとても広く地域の伝統もまちまちで、体系的なヒンドゥー教と言うのは存在しない(→ヒンドゥーの歴史についてはこちらをクリック!)。インド社会の構成原理を開明すべくイギリスから派遣された学者は、ヒンドゥー教の体系化を成し遂げていった。時間・空間・階層の差異を超えて施行されたヒンドゥー法は、イギリス殖民支配によって初めて統一の法体系で括られたのである。
パールは、「調子相続法」の研究で高い評価を受けた。文明国と言われる世界各国のものとの比較を通じて、イギリスの啓蒙主義者達がいだく「非民主的で封建的なインド社会」と言う前提を批判し、「長子相続」の世界史的・社会的意義を明らかにしようとした。パールにとって、「法」とは歴史的に受け継がれてきた文明的叡智であり、宗教的価値を内包しており、"真理(もしくは宇宙の原理)"にこそ法は基礎付けられていると論じた。また彼は、非暴力によるガンディーの思想や運動に共鳴する、ガンディー主義者であった。ガンディーに対する敬意と賛意は、生涯を通じて貫かれた。
1930年代のパールの研究は、古代ヒンドゥー法の領域を超えて広がっていく。1930年代半ばには、さらに国際法の研究に従事し始めた。彼は、インド政庁の法律顧問を務めた後、カルカッタ高等裁判所の判事に任命された。1944年からは、カルカッタ大学の副総長に就任した。これらの時期は、"大東亜戦争"の期間と重なっていた。日本軍は、1942年2月にシンガポールを占領し、3月初めにはラングーンを陥落させ、日本の爆撃機はカルカッタまで飛来して部分的な爆撃を行なった。タイ・マレー・シンガポールでは、インド国民軍が組織された。
インド独立の闘士"A.M.ナイル"氏が銀座に開いたレストランがナイル・レストランに、2008年5月に行ってみた。有名な店だし目立つので以前から知っていましたが、入店するのはその時が初めて。現在、社長であられる息子さんのG.M.ナイルさんがたまたまおられて(大学の講義などでいないことが多いそうだ)、なんとカレー食べながら30分も僕との会話に付き合ってくれた。
闘士の息子さんと言う事で"寡黙"で"恐い"感じの方かな~との勝手な想像は的外れで、非常にフレンドリーで気さくな方だった。
初めて会ったにも関わらず、かなり込み入った事まで話していただいた。お父様の事、子供の頃可愛がってくれたパール判事の事(※父のA.M.ナイル氏はパール博士の通訳をしておられた)、その他(ここでは簡単に書けない)戦争に関わる種々諸々のこと等、色んな話を聴いた。。
A.M.ナイル氏は、イギリス植民支配下のインドにて、R.B.ボーズらと共にインド独立運動を展開し、インド国民軍の運営にも携わり、戦後は日本に留まり、パール博士の通訳も務めた。カレーは、たいへん美味しかったです。
日本軍の侵攻が、インド国境の目前に迫っていた。そんな中、イギリスはインド人の懐柔策に乗り出した。インド人にとっては難しい選択である…日本帝国主義に対して戦わねばならないが、イギリスは自国を植民地化している憎き帝国である、と言うジレンマ。ネルーはイギリスと共に日本と戦う提案に賛同したが、ガンディーはこの懐柔案を退け交渉は決裂、戦争協力は拒絶された。ガンディーの非暴力レジスタンス運動は、指導者の逮捕により拡散、沈静化。一部の期待は、国民党総裁に着任したチャンドラ・ボーズに向けられたが、インド国民軍が加わって挙行されたインパール作戦は失敗に終わり、日本軍の侵攻によるイギリス支配打倒と言う構想も瓦解した。
独立運動は暗闇の中を迷走し、パールはイギリスの植民地支配にたいする義憤をつのらせていた。カルカッタで、封鎖線を横切ろうとした少年を警官が射殺した事件を契機に、大規模な葬儀の行進が沸き起こり警官はこれにも発砲した。行進にはカルカッタ大学の学生も多く参加していたことから、パールは現場に駆けつけた。警察からの学生を諌める要請をパールは断固拒否し、民衆の圧力に抵抗できなくなった警察は葬儀の行進を許可した。
終戦間際、インド国民軍に参加した兵士達を、イギリス国王への反逆罪で軍事裁判にかけることが決定されると、国民議会は反発し、逆に兵士への支援を開始した。反対運動は盛り上がりを見せ、1946年1月に、ボンベイでのインド海軍反乱事件を機に、イギリスはインドへの権力委譲を本格化させていった。パールは一連の政治動向を見つめつつ、カルカッタ大学での仕事をこなしていた。
そのような時に、インド中間政府(※独立の暫定的各派統一の政府)から、東京裁判へ判事として出廷してほしいと言う依頼がなされた。パールは悩んだ挙句、カルカッタ大学の職を辞し、1946年4月29日、戦禍で廃墟と化した東京へと向かう。
"極東国際軍事裁判"とパールの"個人意見書"
靖国神社内のパール博士の碑
かつての戦争で日本が無罪であり、東京裁判は野蛮な復讐の儀式であった…と言う文脈で建てられている碑。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を決定して戦争は終結した。宣言には「一切の戦争犯罪人」に厳重な処罰を加える文言が加えられ、極東国際軍事裁判(以後"東京裁判"と記させていただく)の開廷の法的根拠となった。ところが、「一切の戦争犯罪人」には厳密な規定が無かった。つまり「誰が戦犯容疑者として拘束され、誰が裁判にかけられるのか」と言う深刻な問題があった。国際法上の「犯罪」も明確ではなかった。
1946年1月19日、マッカーサーは「極東国際裁判所憲章」を公布した。ここで特に問題となったのは、第5条の「人並に犯罪に関する管轄」で、「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」が定義された。通例の戦争犯罪は、以前の国際法でも規定されている犯罪であったが、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、当時の国際法で確立されているわけではなかった。特に、「平和に対する罪」は、侵略戦争などの計画・準備・開始にたいする"共同謀議"の存在が前提とされていた。
ところで、パール判事であるが、初めから選出されていた訳ではない。アメリカ政府は、裁判官の指名権は対日降伏文書への署名9カ国に限る方針だった。インドとフィリピンは、当初は裁判官を派遣する権利を有していなかった。しかし、インドはあくまで連合国の一員であり、「日本軍の蛮行」の被害者としての権利を訴えた。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と国家の威信、名誉に関わる問題だった。宗主国のイギリスも味方につけ、根気強い働きかけで、4月3日にインド人判事(とフィリピン人判事)の選出が正式に決定された。東京裁判は、5月3日に開廷した。
カルカッタを出発したパールが、東京の地に降り立ったのは5月15日だった。すでに行なわれていた「東京裁判の正当性をめぐる弁護人の動議」には、残念ながら参加は間に合わなかった。彼は、裁判所の管轄権に対する疑義を後に提出するが、法廷での一連の動議には接する事がなかった。
パールはインド政府から半年の任務を与えられて出廷したのだが、4ヶ月経った段階で裁判は未だ検察側による立証の途中だった。年内の閉廷は在り得ないと判断し、インド政府へ帰国の判断を仰いだ。と言うのも、インドに重要案件を積み残してきたのである。インド政府からの返信はなく、ついにパールはウェッブ裁判長に辞任の意向を伝える。この報告を受けたマッカーサーは裁判への悪影響を避けるべく本国へ連絡、アメリカ政府のアチソン国務次官がインド政府と交渉を行なった。この結果、インド政府はパールに東京に留まるように要請した。パールは合意したが、妻の健康状態が悪化したため、一時的にインドへ帰国した。しかし、妻に「使命を全うするよう」促されて、すぐさま日本へ戻るのである。
このパールが不在の間も審議は進み、戦争が「日本の侵略戦争」であったかどうかが討議される重要な局面に突入した。検察側は、日本の指導部が共同謀議を重ねて、侵略戦争の開始を計画的に進めたと言うシナリオにしたがって議論を展開した。この日米開戦に関わる審議は、約1ヶ月にも渡って続いた。しかし、パールが日本に戻ったのは、これらの審議が終わった後であった。ここでも、先の動議と同様、パールは日米戦争問題に関する検察の主張を、法廷では直接にはまったく聞いていないのである。
検察側の主張は、1947年2月3日にようやく終わり、約20日間の休廷をはさんで、今度は弁護団による反証が開始された。この頃から、パールは法廷への欠席が目立つようになり、9月には僅か4日しか出廷せず、10月6日から11月26日までは一度も出廷していない。
何をしていたかと言うと、帝国ホテルの自室に閉じ篭って、資料の整理と読破に熱中した。パールは独立独歩の姿勢を崩さず、自分の信念の下に行動を続けた。
1948年4月16日公判が結審すると、パールは「個人意見書」の執筆に本腰を入れた。長大な意見書を完成させた後、一時インドへ帰国を二度繰り返した(※妻の様態が悪化したため)。
1948年11月4日、ウェッブ裁判長による判決文の朗読が始まった。11名の判事中5名の判事が個別意見書を提出した事は、衝撃を持って受け止められた。フランスとオランダの判事は多数意見に一部反対し、インド人は全面的に反対したと言う。しかし、それらの個別意見書は、法廷では一切朗読しない事を決定していた。次々に判決が下されていき、こうして約2年半に及んだ裁判の幕は閉じられた。
法廷では朗読されなかったパールの個人意見書、「パール反対意見書」(以後"パール判決書"と記させていただく)は、英文で25万語(※日本の文庫版で1400ページ!)と言う大作である。法律関係の専門書だけでなく、歴史書、哲学書、手記等様々な文献から引用がなされていた。7部構成で「予備的法律問題」、「侵略戦争とは何か」、「証拠および手続きに関する規則」、「全面的共同謀議」、「裁判所の管轄権と範囲」、「厳密なる意味における戦争犯罪」、「勧告」の7部である。
厳密を言おうとすると物凄いページ数になるので(^_^;;)、そのエッセンスのみ書き記す。
・パールは、裁判が"復讐劇"であってはならないとする。戦勝国が敗戦国を裁くと言う構図を批判し、戦勝国も敗戦国も「通例の戦争犯罪」に関しては、共に公正な裁判が行なわれる事が原則であるとした。戦勝国、敗戦国を問わず、双方の犯罪を裁くべきである。パールは、判事が戦勝国側に属すると言う偏りを問題視したが、国籍そのものは裁判を否定する問題にはならないと論じ、国籍ではなく判事個々に「道義的節操」が要求されるとした。
・弁護側は、開戦時には存在しなかった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」だけでなく、「通例の戦争犯罪」についても訴追を取り消すよう訴えた。しかし、パールは"厳密ナル意味"の戦争犯罪を裁く意味を、積極的に肯定する。「通例の戦争犯罪」は、国際法で確立されていたため、東京裁判で裁かれるのは当然であり、その意義を認めた。しかし、その"通例の戦争犯罪"をその指導者にまで訴追できるか(責任があるか)と言う点についは、あくまで被告の個人責任を追求すべきと言う立場を明示する。
・「どの戦争を裁くのか?」と言う問題について、パールはどう考えたか。パールは、"盧溝橋事件(1937年7月7日)"をもって戦争の開始時点として、それ以前の日中間の戦争を"裁判の管轄外"とした。日本は、盧溝橋事件以降の日中間紛争は「戦争」ではなく「事変」と呼び続けたが、パールはその実質的状態が"戦争"であると判断し、東京裁判の管轄範囲内に留めようとした。パールが半ば強引にこの定義にこだわったのは、日本の帝国主義姿勢に対する厳しい批判のためである。日中戦争から第二次大戦に至る経緯を、ファシズムの一貫した流れととらえていて、痛烈な批評を加えた。
・パールは「通例の戦争犯罪」の国際法の上意義を認めていたが、"極東国際軍事裁判所憲章"に規定されている「平和に対する罪」や「人道に対する罪」に関しては、国際法上の根拠が無いとして、その罪そのものを否定し厳しく批判した。「罪刑法定主義=何が犯罪でどのような刑罰を加えるかは予め法律で定められている事」であり、"事後法の禁止"は近代法の根本原理の一つである(※つまり権力者が法律を変えた時、過去に遡ってその法律を適用できる可能性があれば、誰も安心かつ安定的な社会生活を送る事ができなくなる。よって事後法は無効なのである)。"極東国際軍事裁判"も"国際軍事裁判所"として設置されたのであり、司法に従うべきである。勝った側(軍事力の強い側)が、自由に敗戦国を裁くのは、反文明的行為であると断罪した。パールは、真に重要なのは「正式な法的手続きの遵守」と「法の支配」であると、深く認識していた。
・このページで取り上げておくべき重要な点に、第二次大戦当時、国際社会において"戦争"が国際法違反であるという共通認識は無かったと言うパールの指摘である。現代に済む我々は、漠然と「戦争は行けない」と思っている。ところが、昔は戦争は(国際法上は)違法とする共通認識が無かったのである。太古から近年に至るまでの戦争(※第一次大戦まで含む)は、戦勝国の敗戦国への仕打ちは目に余る不正の連続であったが、法的にはどんな戦争も犯罪とはならなかった(※注:国際的な法文ないし慣習が無かったと言う次元の話であり、道義的・倫理な"正・不正"の話は別である)。では、第一次大戦後、1928年にパリ条約が締結されてから世界は変わったのか?文言の上では「国際紛争を解決する」ために「戦争に訴える」事を放棄することになっている。しかし結論としては、パリ条約は"自衛のための戦争(自衛権)"まで放棄したものではないとされ、その戦争が「自衛か否か」の判断は、各国に委ねられた。例えば、最近のアメリカの論理のように、「自国を守るため=テロ撲滅のため」に他国のイラクに出かけていって爆弾を落としても、「自衛戦争である」と宣言してしまえば、(相手国に大量破壊兵器がまったく無かったにも関わらず)それで"自衛戦争"が成立してしまうのである(…個人的にこれは極端すぎる酷い話だと思っているけれど)。パールが主張したのは、あの時代において"パリ条約"の結果として、国際法違反に問われた戦争は存在しないと言うことである。
・また、上記に付随する事であるが、敗戦国だけが"侵略"行為を行なったとする連合国の欺瞞も暴いた。東京裁判の訴追国であるソ連とオランダは、両国とも日本に対して自国から宣戦布告をして戦争を開始したが、ソ連の対日宣戦布告に関しては「自衛のための戦争」と考える余地は皆目無く、明らかにソ連は侵略国である。しかし、「侵略」の定義すら確立されていない国際社会化にあっては、オランダもソ連も"法的には"無罪である。日本に「侵略」や「平和に対する罪」の定義が当てはめられるなら、ソ連にも適用されなければならない。国際社会において、西洋諸国は植民地獲得のために不当な戦争を行なってきた。そのような暴力的な行為は、"正統な戦争"と見なす事は決してできないが、国際法上は犯罪でない以上、それを犯罪として裁くことはできない。パールは、日本のアジア侵略も西洋諸国の植民地支配も、道義的・社会通念的には間違いなく不当な行為であったと言う義憤を持っていたが、(母国インドにてイギリス植民支配と言う屈従に耐えた個人感情は抑え)厳密な法学者として、植民地支配そのものを国際法違反とする事はできないと言う立場を取り、国際法上の犯罪と認定する事はできなかったのである。
・同上と同じ意味で、パールはアメリカの投下した原爆投下は「残忍」で「非人道的」な行為は許す事のできない卑劣な行為だが、国際法上では、国際法で成立していない「人道に対する罪」では裁けないとした。パールは、あくまでも「"道義的な戦争責任"と"法的な戦争犯罪"は別」と言う立場を堅持した。
・さて、東京裁判において、検察側は「共同謀議」と言う概念を訴追の中心に据えていた。張作霖爆殺事件から日米開戦に至るまで、指導者による共同謀議が存在したと言う主張である。これが、「平和に対する罪」訴追の根幹をなす主要素である。しかし、パールは、共同謀議など存在しなかったと繰り返し指摘する。「14年に渡る相互に孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ」たに過ぎないと主張する。内閣は何度も変わり、相互に会った事もない人間、ないし敵対関係にあった人間達が共謀し、一貫した侵略的方針に基づく共同謀議によって戦争を引き起こした、と言うストーリーは明らかに破綻していて、パールはこれに真っ向から批判を加えた(※日本の戦争は、ドイツのヒトラー・ナチスのような一部個人や関係者の一貫した方針によって起こったものではなく、当時の一部軍関係者の方針や権力争いないし利権争い、為政者の混乱や無策が重なって起ったと考えるのが妥当である)。張作霖爆殺事件以降の日本の行為は、欧米列強の植民地支配と同様に肯定できるものではなく、「正当化できるものではなかった」のだが、一方で「共同謀議」などはしていなかったと、パールは強調した
・「平和に対する罪」に関しては上記のような主張だったが、「厳密なる意味における戦争犯罪」については判決対象と見なした。まずは"南京虐殺事件"については、証拠書類・証言の信憑性、証言の演繹的解釈(=推測・思い込みによる解釈)が目立ち、問題が多く事実認定の困難さを指摘したが、それらの事柄をすべて考慮に入れても提出された証拠や証言は圧倒的であるとし、「南京における日本兵の行動は凶暴であり、(中略)残虐はほとんど3週間にわたって惨烈なものであり、合計6週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない」と(個別毎のケースはともかく)事件を事実として認定した。また、パールは日本軍による残虐行為が行なわれた20ヶ所の地域を列挙し、それらの事件を「残虐な非道」と断罪した。「主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定しえない。(中略)これらの鬼畜行為の多くのものは、実際に行われたのであると言う事は否定できない」。ただし、A級戦犯容疑者がこれらの事件の遂行に、命令・授権・許可を与えたと言う証拠は存在しない、と論じた。これらの残虐な事件は現場の判断レベルで行なわれたものであり、すでにB・C級戦犯として処刑されていると主張する。最後に、パールの議論は、"捕虜の虐待"問題を取り上げる。フィリピンにおける"バターン死の行進"とタイ・ビルマにおける"泰緬鉄道"の問題である。「"バターン死の行進"は、実に極悪な残虐である」としたが、これも現場の"残虐行為の孤立した一事例"であり、"泰緬鉄道"建設は「単なる国家の行為」であるとして、最終的にはA級戦犯容疑者に刑事罰を負わせられないと論じた。
※A級、B級、C級戦犯の意味解説
ここでA級戦犯と言う言葉の意味を、説明しておこう。
A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯と言う言葉を聞いた事があるかと思うが、(よく勘違いされがちだが)A級、B級、C級と言うのは、罪の重さや刑の重さのレベルの等級差ではない。
「A級戦犯」は、東京裁判で裁かれた「平和に対する罪」のことで、すなわち侵略戦争を指導した(共同謀議した)罪に問われた戦犯の事である。
「B級戦犯及びC級戦犯」は、「通例の戦争犯罪」のことで、交戦法規違反などの国際法規違反に関わる罪である。主に、捕虜取扱いに関する不法行為の摘発で、B級は指揮・監督にあたった将校や部隊長、C級戦犯は直接捕虜の取り扱いにあたった下士官や兵、軍属である。「戦争犯罪」とは、"非戦闘員の殺戮、毒ガス、非人道的兵器の使用、捕虜の虐待、海賊行為"、"非交戦者の戦闘行為"、"略奪"、"間諜、戦時反逆"である。よって、捕虜取扱いだけでなく、戦闘とは関係無い一般住民に対する殺人や殲滅、奴隷化、拷問、追放その他の非人道的行為の罪も当然裁かれる。つまり、A級戦犯とは戦争指導者の「平和に対する罪」、BC級戦犯は「通例の戦争犯罪」に問われた軍人や軍属の事である。
ざっとだが、"パール判決書"のエッセンスを書き出した。パールは、検察が提示した起訴内容のすべてについて、「無罪」と言う結論を出した。「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、近代法の禁ずる"事後法"であり、そもそも国際法上の犯罪としては確立していないので、刑事上の"犯罪"に問う事はできない。「通例の戦争犯罪」についても証拠不十分であり、A級戦犯容疑者に刑事的責任を負わせる事はできないとした。公平に裁くべき「法」よりも、一部の軍事力や権力(つまり「政治」)が、上位におかれる事を厳しく批判したのである。
ただし、これらは国際法上の刑事責任において"無罪"である事を主張しただけで、日本の道義的責任は(上記を読んでお分かりの通り)無罪としたわけではない。日本の為政者は、様々な「過ち」を犯し「悪事」を行なった。アジア各地では「鬼畜のような性格」を持った残虐行為を繰り返し、多大なる被害を与えた。どれほど非難してもし過ぎることはなく、その道義的罪は重い。
このように、パールは敗戦国日本に"同情"して"反対意見書"を書いたのでは無い。彼は、あくまで厳密な法学者として、その崇高な使命をまっとうしようとしたに他ならないのである。
"極東国際軍事裁判"後のパール博士
パール博士の"反対意見書"は、判決直後に一般公開されることはなかったが、裁判所言語部によって即座に日本語訳に翻訳さて、弁護団や受刑者に回覧された。A級戦犯として処刑された7人のうち4人が、パール判決書に対する熱い想いを語り、精神の支えとなったようである。
しかし、批判的見解を示す者も少なくなかった。その一人が、インド首相のネルーである。インド・メディアは概ね"パール判決書"に好意的であり、世論も西洋帝国主義批判に極めて同調的であったが、インド政府は連合国との協調路線を取っていたため、全面的には支持を表明できなかった。そこで、死刑を求刑された7人を終身刑に減刑するよう勧告するような玉虫色の対応でお茶を濁した。インド政府の立場は、パール判決書とは同一のものではなかった。パール博士は、連合国からもインド政府からも(もちろん日本からも)自由な立場で、自分の"法"を貫き通したのである。
パールは、インド帰国後、社会活動を再開させた。彼は、先にも述べたようにガンディー主義者であり、平和主義者であり、「法の支配下にある世界共同体」言う世界連邦の理想を掲げ各地で活動をした。
1952年8月には、国連の国際法委員会の委員に選出された。国際法の法典化を進める会議で「人類の平和および安全に対する犯罪」の法案の審議を行なっていた。東西対立が激化する中、インドネシア独立戦争の泥沼化や朝鮮戦争の長期化を解決できない国連の脆弱性を批判した。パールの目によれば、国連の最大の問題点は、基本理念をめぐる共通認識の"基本観念(=国家、法律、主権に対する観念)"が構築されていない事だった。当時の状況において、その観念の共有を阻害しているのはソ連であるとされたが、(彼は"パール判決書"の中で国際社会での「共産主義の脅威」にたいする警告を繰り返したが)パールはその元凶をソ連のみに押し付けてはならないとした。例え基本概念の合意を見出す事は難しくとも、国際法による秩序の維持と言う点においては、共通の合意を見出す事ができる…と考えていた。しかし、西側諸国は敵意を煽るばかりで、粘り強い交渉を放棄している。東西両陣営とも相互不信を取り除く努力をしない限り、国連の本来の機能は果たされない…パールの考えは、始終一貫していた。
彼は、国連の存在そのものを否定したわけではないが、人類の基本理念を共有する国際機構の早急な確立と、宗教的真理に基礎付けられた国際法による秩序の維持を推進しなければならない、と訴える。
パール博士は、東京裁判後に4度の来日を果たし、日本でも精力的に講演や活動をした。
パール判決の所謂"日本無罪論"が一人歩きをしていたせいもあって、パール博士はしばしば誤解を伴って歓迎された。「日本に同情して無罪を言い渡してくれた」と言うような類の言葉には、激しく抗議した。また、博士の"インド独立の志士達に向けた詩"を、日本の大東亜戦争肯定の詩であるかのように曲解して石碑に刻まれもした。パール博士の判決書は、一部の論陣から度々都合よく引用された。
パール判決書の都合の良い引用は、現代まで連綿と続いている。1998年6月、日本映画「プライド-運命の瞬間」が公開された時には、息子のプロサント・パールが抗議を行なった。当初聞いていたパール判事メインの企画が反故にされ、東条英機の生涯が中心の映画になり、父パールの判決が、東条の人生を肯定するための都合の良い「脇役」として利用されていたためだ。息子プロサントは、父が中心の映画と、東条が中心の映画では、その本質はまったく異なる事を見抜いていた。父パールは、日本の戦争を美化や擁護しようとしたのではなく、一法学者として「法の正義」を守ろうとしたのである。
"パール判事の日本無罪論"および"「南京事件」の総括"(共に田中正明著/小学館文庫)
「パール判事の日本無罪論」は、"パール判決書"より日本が無罪であると言う部分を抜き出して構成された本で、後の議論に多大な影響を与えた本。
"パール判決書"の全体像や体系を知っている人が読めば、問題点がすぐさま理解できる。
国際社会での国家としての"無罪"だけに的を絞ってを論じているので、徹底的な為政者目線・国家側目線であり、日本国民やアジア民衆の戦禍による苦しみの共有が完全に欠落しているが、その点は著者の背景からして仕方の無い部分であり(※著者は、大亜細亜協会、興亜同盟などの活動に従事した人で仲間に政治家や軍人が多かった)、よって学術的な著作と言うよりは、個人の価値観を元に構成した本と言う色彩が濃い。
事実、パールが日本や日本軍の非道な残虐行為について批判した部分は、僅かなページを割くのみで、かつ都合の良い箇所のみを引用してお茶を濁す。
また、パール判決書の本文の年号すらも確信犯的に改竄したと言われても仕方のない記述をなし、自己の主張に都合の良い論理を構成している。
自己の主張を正当化せんとする余りに行なわれたこれらの"公平性を欠いた"記述は、法による裁きから一歩も引かずに"法"にのみ従ったパール博士の公平な姿勢と比較すると、疑問を感ずる。「本著の主張」=「パール博士の見解」と、まったく同一的に語る著者の主張には私は同意できない。
科学的方法ではなく、自己の価値観や論理に合うように、資料を取捨選択すると言う点では、「日本の戦争が聖戦であった」と言う価値観に適合するように資料を取捨選択して描き上げた小林よしのり氏の迷作「戦争論」に相通ずるものがある。
また、パール博士は、アメリカの言いなりになっている半独立国家のような当時の日本の状況をたいへん憂いた。イギリス帝国の植民地インドで過ごしたパールは、帝国主義大国の"本質"、白人西洋諸国のアジアやアフリカ諸国への"差別"をするどく見抜いていた。
パール博士は、アメリカの要請に従った日本の再軍備に批判を向け、日本の大学の講演で次のように語る。
「いま、日本の希望のごとく見えるあの国の一つの灯(※アメリカの事)は、諸君らを指導してゆくごとく見えるが、しかしながら将来において、その火が、諸君の家庭を、さらに諸君ら自身の身を焼く火となりはせぬかという事を、私はおそれ、かつ注意するものである」。
京都で行なわれた講演では、明確に日本の平和憲法を支持した。
「日本は武器をもって無類に勇敢だったが、平和憲法を守ることでも無類の勇気を世界に示して頂きたい。伝統的に無抵抗主義を守って来たインドと勇気をもって平和憲法を守る日本と手を握るなら、平和の大きく高いカベを世界の中に打ち建てることができると信じる」。
パールは、世界が永久的な平和の方向に進んでいないように見える国際社会の厳しい現実を見据えながら、広島・長崎の市民にもしっかりと説く。
「友人のみなさん、私があなたがた全部にとくにお願いしたいことは、人類の未来に、そしてあなたがた自身の将来に、あなたがたが責任の一部になっていると言うことを忘れないでいただきたいのです」。
パール博士は、4度目の日本滞在から4ヵ月後の1967年1月10日、カルカッタで息を引き取った。妥協を許さぬ信念の人、80年の生涯であった。
アメリカ依存を強め、アメリカの顔色を伺う日本。アメリカに原爆投下の責任も問えず、命じられるままに再軍備を進める日本。平和憲法堅持から一歩退き、アメリカの要請に従い海外での活動に歩を進める日本。アメリカ社会のあり方に倣い、僅かな富裕者と多くの貧しい者に二極分化しつつある日本。…パール博士がかつて憂いた日本の姿が、今ここにある。
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