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6.世界各地の紛争・Ⅳ
          (2002年9月11日記載)


・アフリカの諸紛争

 今回、アフリカにおける諸紛争を取り上げるが、アフリカの紛争の多さとその悲惨さには驚かされる。もちろん、どの国のどの紛争も多大な被害や死傷者を出し、悲惨であることに変わりはないのだが、アフリカの紛争では極端なまでの残虐行為と虐殺を伴うことが多く、結果として大量難民や大量飢餓を生み出す。一体何故このようなことが起こるのであろうか。


ソマリア内戦

 ソマリア内戦のことを詳しく知ったのは、ノン・フィクション小説"ブラックホーク・ダウン"を読んでからであった。ソマリアの悲惨な内戦を終わらせるため、アメリカを始めとする多国籍軍が介入した。しかし1993年10月3日に起こった戦闘で、アメリカ兵の死者18名、負傷者数十名が出た。対するソマリア地元住民は、500余命が死亡、そして1,000名以上が負傷したと言われる…たった一日足らずの戦闘で、である。アメリカを始めとする多国籍軍が、このソマリアに介入したきっかけとなった内戦とはどういうものであったか見てみよう。
 ソマリア民主共和国の住民のほとんどが、ソマリ語を公用語とするイスラム教スンニ派ソマリ族という、アフリカでは珍しい同国語・同宗教の民族国家である。もともと人口の7割は遊牧民で、氏族ごとに自治組織を形成していた。そういった歴史の中で、氏族ごとのアイデンティティが確立されていった。つまり同じ民族でも氏族が異なれば、同族意識を持たない歴史を歩んできたのである。現在の紛争の根底には、氏族の違い、氏族内での派閥争いがある。
 強い氏族意識を持ち自治統治をしてきたソマリア人が、政府の樹立・国家統一を望んだ契機は、西欧列強による植民地支配であった。1886年、北部がイギリスの保護領となり、1889年には南部がイタリア保護領となったが、1960年6月にイギリス領が独立、7月にはイタリア領も独立、両者が統合されてソマリア共和国が独立した。
 独立後の初代大統領オスマンは、「大ソマリア主義」を唱え、植民地支配で分割されていた地方を併合して、ソマリア民族を一つの国家にまとめようとした。ところがこれに対し、周辺諸国が脅威を感じて非難の声を高めた。政権を奪取した第二代大統領シェルマルケは、近隣諸国との関係改善方針を打ち出したが、国家建設は行き詰まっていき、国民の不満は増大していった。1969年10月に、シェルマルケは暗殺されてしまった。同年、軍部が無欠クーデターを起こして、シアド・バーレ将軍を議長とする最高革命評議会が政権を握った。評議会は憲法を停止、国名をソマリア民主共和国と改める。1980年、議会はシアド・バレーを大統領に選出。彼の政権は、自立・自助・社会主義を掲げ、大ソマリア主義を推進しつつも、彼の出身氏族であるダロド氏族を優遇したため、他の氏族の反感をかって各地で反政府武装闘争が活発化していった。1989年首都での暴動以降、シアド・バレー政権は弱体化し、1991年にバーレは首都モガディシオを追われた。
 その後、政権を奪取した統一ソマリア会議(USC)では、実業家のモハメッドが暫定大統領に就任した。しかしUSC議長アイディードが、これに反発して武力で対抗、ソマリアは1991年11月から内戦状態に入った。アイディード議長は、強硬派指導者として中部ハウィヤ氏族を中心とした多数の武装勢力を率いて、同じ氏族であるモハメッド派を攻撃した。首都から脱出したモハメッド派は、国連に部隊の派遣を求めた。アイディード派の活動は激化・悲惨化の一途をたどり、国連安全保障理事会は2万8千人からなる国連平和執行部隊(UNOSOMⅡ)を投入した。それに伴い、アイディード派との戦闘はいっそう激しくなり1993年には平和執行部隊のパキスタン兵23名が射殺されている。
 国内の荒廃は続いていき、旱魃も重なって人々は飢えに苦しみ、130万人もの住民が難民化した。世界規模の大々的な人道援助も始められたが、冒頭でも述べた戦闘に見られるように反政府勢力の抵抗は根強く、国連平和維持軍も目的を果たせぬまま1995年に撤退した。1996年は安保理の主導で、2000年には隣国ジブティの主導で、平和への道が模索されたが、未だに武力衝突は治まっていない。
 余談ではあるが、精鋭部隊がさんざんな目にあったアメリカ軍は、このソマリア(特にアイディード派)に対深い遺恨を残しており、国連軍撤退後のアイディード将軍の暗殺にも関与したと言われる。

 ソマリアで起こったアメリカ軍とソマリア民兵との戦闘時に、そこに居合わせたアメリカ兵の一般的な思考と、常識的ソマリア民間人の思考をみてみよう("ブラックホークダウン"《ハヤカワ刊》より)。

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マイク・グッデイル三等軍曹(アメリカ軍レインジャー兵士)…「ヘリコプターに乗っている男たちは、ソマリアのことをよく知らず、高校生レベルのレポートすら書けないだろうが、そんなことは問題ではない。彼らは躊躇せず陸軍の言葉を受け入れた。軍閥の争いで国が荒廃し、国民が飢え死にしかけている。世界各国が食糧援助をしても、悪い将軍たちが横取りして、それを阻止しようとしたものを殺す。だから、文明的な各国が鉄槌を下すことを決議し、その処理のために地球でいちばん腕っ節の強い若者たちを呼んだ。それだけのことだ。8月末にこの国に来て以来、レインジャー隊員が目にした出来事のほとんどが、そういう認識を裏づけている。モガディシュは、メル・ギブソン主演の映画"マッドマックス"に出てくる核戦争後の近未来世界のようだ。武装したならず者の集団が支配する世界。レインジャー部隊は、軍閥のなかで最も悪いやつらを打ち負かし、正気と文明を回復させるためにやってきた。」

バシール・ハジ・ユスフ(モガディシュ住民)…「ユスフは、アメリカ人に失望した。アメリカで教育を受けたことがあり、友人もたくさんいる。彼らが善意でやっているのがわかっているので、よけいいらだたしい。彼の通った大学のあるサウスキャロライナの友人たちは、国連ソマリア活動は飢餓と流血の内戦を終わらせるだろうと考えている。この街でアメリカ軍兵士がじっさい何をやっているかを彼らが目にすることはない。こんなレインジャー部隊の襲撃で事態が変わるわけがない。国の危機は、彼の人生と同じくらいに長く複雑なのだ。内戦は、うわべだけ保たれていた秩序をすっかり打ち壊した。この混乱した新しいソマリアにおける氏族や部族の連携や反目は、風による砂紋のように絶え間なく変化する。どう動いているのか、ユスフにさえわからないときがしばしばある。それなのに、ヘリコプターとレーザー誘導兵器と格闘戦部隊のレインジャーを使えば、アメリカは数週間でそれを解決できるとでも言うのか?アイディド逮捕ですべてが好転するのか?彼らは、人類のもっとも古く効果的な社会組織である部族を解体しようとしている。指導者ひとりを逮捕しても、そのひとりひとりに兄弟、従兄弟、息子、甥など何十人も後継者がいることが、アメリカには分からないのか?苦境は部族の決意を強固にするだけだ。仮にババルギディル族が力を失ったり、消滅したりしても、二番目に強力な部族が代わりにのし上がってくるだけのことだ。それとも、アメリカはソマリアに成熟したジェファーソン流の民主主義が突然芽生えるとでも思っているのか?…(中略)…英語を流暢に話す弁護士のユスフは、村人を引きつれて国連施設へ苦情を言いに行った。レインジャー部隊についてはどうすることもできないと言われた。レインジャーは国連の指揮下にない。まもなく、戦闘に関係した死はすべてレインジャーに非難の鉾先(ほこさき)が向けられるようになった。ソマリ族は、アメリカが食糧援助に来たのは、太らせてから殺すためだと、辛辣な冗談を飛ばした。」

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エチオピア紛争

 エチオピアは非常に古い歴史を持つ国で、紀元前には王国が成立していたと言われる。
 1962年に、エチオピアは一方的に連邦制を廃止し、エリトリア地方を強制合併(その国土面積は日本の3倍ほど)。この併合に抵抗した多くの住民たちは、エチオピア政府軍に殺されてしまった。この併合が、現在まで続く紛争の火種となった。
 エチオピアでは1974年に革命により王制が廃止され、メンギスツ議長の下で臨時軍事行政評議会が設立された。彼は社会主義の独裁政権を敷き、恐怖政治で数十万から百万人とも言われる人々を虐殺した。このメンギスツ政権に対抗し、ティグレ州(エリトリア州の南)で、政府からの分離・独立を求めるティグレ人民解放戦線(TPLF)が主体となって、1989年エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)が設立され、激しい反政府ゲリラ闘争を各地で展開した。ティグレ州の内戦激化に伴い政府は国民総動員を発令し、内戦は拡大の一途を辿っていった。TPLFも当初マルクス主義を掲げていたが、EPRDF設立に伴って次第にアメリカとの友好関係を構築していった(…EPLFの武装隆起は、イデオロギー的対立ではなく民族紛争の色合いが強い)。1991年、EPRDFはクーデターを起こし首都アディスアベバに進撃。メンディス大統領は辞任(ジンバブエに亡命)し、中央政府は崩壊(冷戦終結によりソ連の支援が受けられなくなったことも原因)し、アメリカもEPRDFの首都への進撃を承認、暫定政権が樹立された。
 メンギスツ政権を倒して以来、エチオピアとエリトリアは友好関係を保っていたが、1998年エチオピア北西部国境地域パドマの帰属をめぐって突然武力衝突が勃発。エチオピアのメレス首相、エリトリアのイサイアス大統領は、ともにティグレ族出身。エチオピアには約50万人のエリトリア人が住んでおり、政府の要職に就いた者もいた。またエチオピアは内陸国だったが、エリトリアの港を自由に使うことができた。この両国が、何故武力衝突をしなければならなかったのかは不明であり、お互い相手が攻めてきたので応戦しただけ…と主張している。パドマは香料の産地で、農業に適した土壌で、金鉱もある。国境付近の両国の住民は同盟意識が強く、明確な国境線の認識はなかったという。この国境線の曖昧さが紛争の要因になっており、また1962年の強制併合によるエチオピアへの不信と、再就職できない元ゲリラたちの怒りが、戦争への道につながったとも言われる。20年以上続いた内戦の影響と恨みは、突然消えたりしないと言うことであろうか。
 2000年2月にも大規模な衝突が起こり、5月にエチオピア政府が勝利宣言をすると、両国は和平交渉の再開に合意。6月にアフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を両国が受け入れ、12月にアルジェで平和条約に調印。国連安保理によるエチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)も派遣され、今のところ一応の平和が保たれている。


ルワンダ内戦

 このルワンダ内戦は、近代アフリカ史上類を見ない大虐殺を生んだ。これは、第二次大戦のナチによるユダヤ人大虐殺や、カンボジア内戦のポル・ポト政権による大量殺戮に比する、アフリカの悲惨な大虐殺である。
 ルワンダ共和国は、日本の四国よりも一回り大きい程度の面積を持ち、起伏の多い土地である。ルワンダには、大きく分けて二つの民族がいる。主に農業に従事する背の低い先住民族の「フツ族」と、牧畜を生業とする巨人種の「ツチ族」である。今から五百年ほど前にツチ族がルワンダに侵入して、フツ族を征服しルワンダ王国を建設した。人口比は、フツ族85%ツチ族15%である。植民地時代が訪れた時も、宗主国ベルギーは少数民族ツチ族の王政を温存し、彼らを間接統治の代理人として極端な優遇策をとった。この身分制度によるフツ族の不満が、その後の悲劇の原因となっていく。
 1957年以降、フツ族の不満が爆発、二つの民族抗争が激化し、ついにフツ族が主導してルワンダはベルギーから独立した。ツチ族は、国王をはじめとして50万人以上が隣国へ逃れた。独立後も両族の衝突は続いたが、フツ族出身の国防相ハビャリマナが無血クーデターに成功して大統領に就任した後は、いったん混乱が収まった(かのように見えた)。
 ハビャリマナ大統領は、1975年に単独政党による独裁制を敷き、20年近くもルワンダを支配していたが、隣国ブルンジに亡命したツチ族が主体となって形成したルワンダ愛国戦線が対抗した。武装化したツチ族難民がウガンダからルワンダに流入、両族の闘争は激しくなり、1993年8月にルワンダ政府もこの愛国戦線との停戦・和平を余儀なくされた。和平協定の翌年4月ハビャリマナ大統領の乗った飛行機を、ルワンダ愛国戦線が撃墜、事態は一機に暗転した。
 国連平和維持軍(PKF)も投入され、フツ族による暫定政府が成立するも、ルワンダ愛国戦線はこれに反発して、約二万人の武装勢力をもって首都キガリに向かい侵攻を開始。キガリで大規模な攻防戦が繰り広げられ、双方の死者は二万人ちかくに上った。そしてハビャリマナ大統領暗殺の報復として、大統領警護隊が訓練したフツ族民兵らが、ツチ族の大虐殺を行った。民兵の襲撃は、反政府的な色の強い地域全体でほぼ同時に起きた。教会や神学校に非難した民間人を、民兵が手榴弾や自動小銃の乱射で殺戮。子供を母親から奪い取り、道路に叩きつけて殺す民兵もいた。短期間の大虐殺で、50~100万人とも言われるツチ族およびフツ族融和派市民が虐殺された。この大虐殺とそれに続く内戦とツチ族の難民化で、ツチ族の占める人口の割合は10%を切った。
 その後、ルワンダ愛国戦線が勝利を収め、1994年7月にツチ族のビジムング大統領のもと新政府を樹立。そして今度はフツ族が難民化し、200万人ものが周辺諸国へ流出した。1996年より難民のルワンダへの帰還が始まっており、現政権は国民の融和と国家再建・復興を進めているが、政府と反政府勢力の対立…言い換えればツチ族とフツ族の対立…は依然続いたままだ。

2007年4月追記:映画「ホテル・ルワンダ」は、この内戦と虐殺を描いた映画です。
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コンゴ内戦

 コンゴ民主共和国(旧国名ザイール共和国)は、面積が日本の6.2倍で、アフリカ最大の鉱物資源国。ダイヤモンド、コバルト、銅などを産する。1960年にコンゴ共和国の名で独立するも、政治は混乱し、チョンベ派、ルムンバ派、カサブブ派の三派が衝突を繰り返した。1965年11月、カサブブ派を掌握するモブツ大佐が無血クーデターに成功すると、自ら大統領に就任した。彼は、5年間の緊急事態宣言を発し、憲法を停止し国会を停止させた。1971年に、国名をザイール共和国へと改めた。そして、30年以上の独裁体制を維持したのである。
 フツ族によるルワンダでの大虐殺後、ツチ族主体のルワンダ愛国戦線が政権を奪取すると、フツ強硬派は大量のフツ人を人質として連れて周辺諸国に逃亡した。モブツ政権のザイール軍はこのフツ武装勢力と共闘関係を形成し、ツチ族殲滅作戦を1995年から開始し、1万5千人のツチ人を殺戮した。ザイールにもツチ人が住んでいたが、彼らも当然迫害を受けた。南キブ州に住む"バニャムレンゲ"と呼ばれるツチ人は国外退去を宣告され、従わないものは処分されると命令を突きつけられた。バニャムレンゲは、自ら武装して戦う以外に生存の道は閉ざされてしまった。当然、フツ族とツチ族の両勢力は戦争に突入した。フツ武装勢力と同盟を結んだモブツ政権と、ツチ系バニャムレンゲ武装勢力と同盟した反モブツ武装勢力の勢力争いとなった。バニャムレンゲ武装勢力は、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(ADFL)を形成。これは決して友好的とは言えない四つの政治勢力と武装勢力が、共通の敵を打倒するために協力関係を結んだ連合である(ちょうどアフガニスタンの少し前の北部同盟のような関係である)。ADFLは、1996年10月中旬にキブ州東部国境を北上しながら進撃し、11月中旬には、フツ武装勢力とモブツ政権のザイール軍を敗北させた。何故ザイール軍が一ヶ月と言う短期間でいとも簡単に敗れたかと言うと、ザイール兵士たちの関心が略奪だけだったこと、モブツに対する民衆の不満が蓄積していたこと、諸外国がモブツ政権を見限って援助を絶ち始めていたこと…などが挙げられる。ザイール軍の敗北によってフツ強硬派から解放された50万人ものフツ人は、2年半ぶりに故国ルワンダへの帰還を開始した。
 1997年にADFLは、首都キンシャサを制圧。議長カビラが元首となって、国名をコンゴ民主共和国へと改称した。しかしその後も旧ザイール軍と一部フツ族による反政府勢力が武装蜂起して、再び内戦が勃発。周辺諸国の派兵もあって、国際紛争へ発展した。1999年に停戦合意が成立したものの、各地で戦闘が発生する不安定な状況が続いていた。2001年1月には、カビラ大統領がボディガードに撃たれて死亡。同月、カビラ大統領の長男28歳のジョセフ・カビラが新大統領に就任し、内戦終結や和平実現など開放路線を進めている。


モザンビーク内戦

 モザンビーク共和国は、10世紀から15世紀にかけてアラブ人に支配されていたが、15世紀になるとポルトガル人による植民地支配が始まった。モザンビークで民族解放運動が始まったのは、第一次大戦後の1920年代。そして本格的な解放運動が始まったのが、1964年にモザンビーク解放戦線(FRELIMO)が結成されて以降である。FRELIMOは、民族民主運動(NDU/ローデシアを基地とする)、モザンビーク=アフリカ民族連合(ANUMU/ケニアを基地とする)、独立モザンビーク=アフリカ連合(AUNM/マラウィを基地とする)の三つの民族運動が、1962年に合併して作られた。議長には、モンドラーネ氏が選出され、タンザニアを基地とした。FRELIMOは、1964年に北部モザンビークにおいてポルトガル植民地軍に対抗してゲリラ活動を開始し、翌年には北部(国土の20%)の解放に成功した。しかしモンドラーネ議長は、1969年に小包み爆弾で暗殺されてしまう。二代目議長はサモラ・マシェルで、1970年から中国とソ連の援助を受けて、南部へ進撃した。1974年にポルトガルで無血クーデターが起こり、新政権がアフリカ植民地放棄政策を打ち出し、1975年モザンビークはポルトガル支配から独立した。サモラ・マシェルは初代大統領に就任し、マルクス・レーニン主義を掲げ社会主義建設を標榜。植民地的な制度を一掃し、植民地主義・帝国主義への闘争の継続を表明した。
 モザンビークの独立は成功したものの、1976年にモザンビーク民族抵抗(RENAMO)が結成された。RENAMOはそもそも、ローデシア(現ジンバブエ)の白人政権が、黒人独立運動を支えるモザンビークを制圧するために創立した対ゲリラ戦の特殊部隊"セルー・スカウト"である。1980年にローデシアが独立すると、南アフリカのアパルト政権がセルー・スカウトを再雇用して、RENAMOを組織したのである。当時、モザンビークには南アフリカの黒人解放のためのアフリカ民族会議(ANC)の基地があり、南アフリカはRENAMOをANCの要人暗殺や基地破壊のために使った。RENAMOの破壊活動は、1970年末から開始され、発電所、鉄道、油送管、港湾、道路などを始め、農村までも無差別攻撃した。さらに、旱魃の支援のための援助物資すら略奪するなど、悪質な工作を行い、諸国から非難を浴びた。しかし、モザンビークのサモラ・マシェル大統領側にも、財務力がなくRENAMOの暴力工作を制止する力がなく、社会主義国家建設も行き詰まる。RENAMOに資金援助を行っていた南アフリカ共和国も、1989年改革派のデクラーク政権が誕生し民主化への道を進むと、南アフリカとモザンビークの緊張が緩和された。
 一方のモザンビーク政府側も、前大統領の後を継いだシサノ大統領が、1989年にマルクス主義からの離脱を決定し、民主化を進め、西側諸国への接近を強め始めた。1992年以降、イタリアの仲介でローマで交渉が始められ、1992年の包括和平協定の調印により、独立以来の内戦は終結した。現在、周辺諸国に流出した難民の帰還が進められ、平和な生活への努力が進められている。


シエラレオネ内戦

 シエラレオネは、反政府勢力による悲惨な残虐行為が国際的な非難を浴びた。日本ではあまり知られていないこの国で、いったい何が起こったのであろうか。
 シエラレオネ共和国は、ダイヤモンド、鉄鋼、ボーキサイトなどの鉱物資源に恵まれた国で、北海道と同じくらいの面積の国である。特にダイヤモンドは、かつて60%を占めていた。しかしこのダイヤモンドが反政府勢力の武器調達資金になっていて、シエラレオネ内戦はダイヤモンド紛争とも呼ばれる。この国は、18世紀末からイギリスなどによって解放奴隷の居住地として欧米都市化されてきた。1808年にイギリス領の植民地となるが、1961年にイギリス連邦の一員として独立し十年後に共和国となった。しかし、独立後の政権は安定せず、軍部によるクーデターが二度成功した。
 一方、1991年のサンコー議長率いる革命統一戦線(RUF)が東部で蜂起して以来、反政府勢力として政府軍と戦闘を繰り返した。RUFの財源はダイヤモンドで、隣国リベリアなどがこの利権を得ようとRUFに接近し事態を悪化させた。RUFの残虐行為は、国連や人権団体の非難の的となった。拷問、レイプ、民間人の手足の切断などその無差別な行為は、悲惨極まりなかった。政府軍の戦意を喪失させ服従させるため、女性や子供を含めた多くの人々が見せしめにされた。内戦により、多くの難民が近隣諸国に流入。またナイジェリアを主力とする西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)の介入で、周辺諸国を巻き込んでいった。軍事クーデター、RUFの蜂起により、カバ大統領は隣国ギニアに脱出。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が仲介に乗り出したが、事態は好転しなかった。混乱の中、1998年2月、ECOWAS監視団であるECOMOGが軍事的勝利を収め、RUFを駆逐し、カバ大統領はシエラレオネに帰還した。しかし同年12月に、RUFのゲリラ活動が活発化し、首都フリータウンを攻撃した。国際社会は、もはや武力制圧によって内戦を終結させることは不可能と判断し、RUFとカバ大統領との対話を促進した。国連も介入したが、国連平和維持軍(PKF)が進める武装解除に抵抗して、各地でPKFとの軍事衝突を繰り返した。2001年5月には一応の和平合意が成立、7月にはロメ和平合意の締結が実現した。しかし、同年5月にダイヤモンド鉱山に近づいたPKFの兵士五百人が拘束されるなど、依然混乱が続いている。
 この内戦が残した問題は、悲惨な無差別残虐行為だけではない。RUFによって誘拐された子供たちが、兵士として教育されたチャイルド・ソルジャーの問題がある。内戦終結後の、15歳未満のチャイルド・ソルジャーの心のケアは深刻な問題として残った。シエラレオネでの彼らの成り立ちは悲惨なものだった。RUFが村を襲撃、残虐行為を働く中で、彼らはそれを目にしながら部隊に吸収されていったのである。RUFは、子供の目の前で親戚の拷問や処刑をしたり、子供の手によって処刑を行わせたりした。性的虐待を受け続け、子供を生まされた子供もいる。そうした子供たちは、シエラレオネ国内に5,000人以上もいると見られる。他の国にも存在するチャイルド・ソルジャー用兵に対して(20万~30万人もいると言われる)、国際連合児童基金(UNICEF)やセーブ・ザ・チルドレンなどのNGOが反対活動を行っている。
 現在、施設において。子供たちの傷ついた心を治療するカウンセリングや、手に職をつけさせるための職業訓練が行われている。最近、RUFは国連と政府の間で設けられている定期会合をボイコットし、武装解除に際しては古い武器のみを差し出すようになった。今後、またあの悪夢が再燃することを懸念する声も多い。

 "世界の子供たちからの手紙"(文化放送編/集英社)から、シオラレオネの子供の手紙を下記に引用する。彼らのような貧しく、そして悲惨な状況で暮らす子どもたちの存在を、私たちは決して忘れてはならない。
「ぼくの夢は村の医者になることだ。ぼくはこの村に生まれ、この村に育った。村の医者になりたいと考える理由はたくさんある。たとえば、ぼくの村はどの病院からも遠く離れている。村の人々は貧しく、村には自動車がない。病気になる人もたくさんいて、いまいったような理由で死ぬ人も出る。にもかかわらず、人口は毎日増えている。医療設備の必要性は刻一刻と増すばかりである。治療が受けられずに子供が死んでいくのは、村では日常茶飯事のことである。これは両親が自分の子どもを何マイルも離れた病院に入れるお金を持っていないからである。それを思うとぼくはたまらなくなり、自分が医者だったら友達は死なずにすんだのになぁ…と思う。ぼくは物心がついたころから医者になるのが夢だった。医者にお金を払う余裕がなく、遠くまで医者を訪ねて行くことができないために死んでいく人たちをたくさん見てきた。ぼくはいまだによく覚えていることがある。ある時、ぼくは高い木から落ちてひどいけがをした。母がぼくを医者へ連れて行ってくれたが、治療代はとても高く、母はそんなお金を持っていなかった。結局、母はぼくの治療代を払うために、大切にしていたたったひとつの宝石を泣く泣く売らなければならなかった。その日からぼくは医者になることを真剣に考え始めた。医者になり、自分の友達である人類の苦痛をなくすために、役に立ちたいと思う。また、医者になるということは、ぼくが育ったときにはなかったものを自分の家族や子どもたちに用意してやることなのだと思う。人間はだれでも医療を受けられるようにならなければならないが、ぼくが医者になれば、彼らにそうしてあげられる。ぼくのいちばんの大きな願いは自分の夢が実現することである。」(サミュエル・ジュニア・デッカー、男子/15歳の時)。
「今回の手紙の依頼をぼくは2月10日に受け取ったばかりです。ぼくの居所がわからずに時間がかかったそうです。ぼくの国の内乱で、ぼくの家族をふくめ、多くの家族がバラパラになりました。ぼくの母と姉妹はとなりの国のギニアへ難民として逃れ、ぼくの父と兄弟、甥たちは難民キャンプにいます。ぼく自身は反乱軍がぼくたちの村を襲撃したときにいっしょに逃げた家族とウイルバーフォースで暮らしています。ぼくは将来医者になりたい。…(以下略)…」(同上サミュエル君、16歳の時)。

2007年5月追記:映画「ブラッド・ダイヤモンド」は、このシエラレオネの内戦(紛争)と悲惨な実態を描いた映画です。
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ナイジェリア内戦

 ナイジェリア連邦共和国は、約一億人というアフリカで随一の人口を擁する他部族国家である。一時期、この国のビアフラは、アジアのバングラディシュと並んで、世界最大の飢餓地域の一つとして世界から注目を浴びた。
 イギリスの植民地支配から、1960年に独立。その後は、多種多様な民族、地域、宗教を一国家にまとめようと、今日まで様々な国家分裂の危機に苦悩してきた。国内には大小248もの部族がありそれぞれ高い誇りを持っていて、統一は困難、内乱は避けがたかった…独立直後から部族間は対立していた。2度のクーデターを経て1966年に政権を握ったゴウォン最高軍事評議会議長は、従来の4州制から12州制への移行を推進したが、軍制長官オジュク氏が率いる東部州はこれに反発、1967年の州会議の決議によりビアフラ共和国として分離独立することを宣言した。
 この独立宣言の背景には、部族の相違だけでなく、東部州で産出される石油の収入分配をめぐる連邦政府と州政府との対立問題があった。連邦政府はビアフラ共和国の独立を承認せず、内戦が勃発した。この内戦に対する各国の対応は、利害により異なっていた。連邦政府側を支援したのは、ソ連、イギリス、アフリカ統一機構(OAU)。一方のビアフラ共和国側についたのは、フランスとアフリカの4カ国、タンザニア、ザンビア、コートジボアール、ガボンである。フランスによるビアフラ支援の背景には、イギリスとの対立関係や石油資源への接近などがあった。これらは大国のエゴイズムとして、国際社会の非難を浴びた。
 ビアフラ戦争は、当初ビアフラ側が有利であったが、ソ連、イギリスの武器援助を受けた連邦政府側が次第に圧倒し始め、2年間の戦闘後1970年にビアフラ共和国の臨時首都オウェリの陥落により、オジュク氏はコートジボアールに亡命し内戦は終結した。ビアフラ側は戦死者、餓死者合わせて約200万人の犠牲者を出した。特に「ビアフラの子供たち」の悲惨な飢餓の映像は、世界に衝撃を与えた。ビアフラ戦争は、史上稀に見る悲惨な戦争として歴史にその名を残した。
 ナイジェリアでは、北部にイスラム教、南部にはきリスト教が浸透しており、この両者間で激しい論争と対立が展開されてきた。1986年、北部ムスリムと南部クリスチャンの対立を激化させる問題が発生。ナイジェリア政府が、密かにイスラム諸国会議機構(OIC)に正式加盟していたのだ。これが、北部における宗教暴動や軍人によるクーデター未遂事件などを誘発した。
 ナイジェリアは、州の権限を強化し経済面での自主性を強め、民族が分布する範囲よりも行政区域を細分化するなど、様々な政策が実施された。1992年には、首都をラゴスからどの州にも属さないアブジャへ移転すると発表された(この首都移転計画は、日本人の丹下健三が作成)。
 こうして改革途上にあったナイジェリアだったが、2001年9月にアメリカ同時多発テロが起こった際には、オバサンジョ大統領は西側諸国に同調しアメリカ指示を明確にした。これにより再び宗教対立が先鋭化、イスラム教徒による反米デモが巻き起こり、キリスト教徒と衝突、犠牲者200名以上を出す大惨事へと発展した。現在も、ナイジェリア国内の治安は悪化している。


 他にも、イスラム原理主義と深く結びついた政府に反発して南部のキリスト教徒らが武装隆起したことから起こった「スーダン内戦」、米ソの代理戦争だった内戦が冷戦崩壊後も続いている「アンゴラ内戦」、アメリカ解放奴隷が国家独立を主導した後、いくつかの勢力が起こって混乱を極めた「リベリア内戦」など多くの内戦が起こっている。
 アフリカの紛争が極端に悲惨になる要因は、元々部族間の争いがあったこと、そこへ植民地支配の終了による混乱や新権力争奪戦が起こったこと(その際十分な国民の教育が進んでいなかった)、大量虐殺や戦闘を可能にする近代兵器が先進国から流入していたこと、などが挙げられる。特に、かつて植民地支配を行った西側諸国の責任はたいへん大きい。また、大量の武器をアフリカに持ち込んで各勢力をバックアップした西側諸国とロシア(旧ソ連)の責任は、もっと大きいだろう。それらは、正に大国のエゴである。

 次回は世界各地の諸紛争の最終回、ヨーロッパと南北アメリカの諸紛争を見てみよう。


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