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東日本大震災から一か月が経過して…   (2011年 4月 11日記載)

 3月11日に起こった東日本大震災(東北関東大震災os東北地方太平洋沖地震)から、一ヶ月が経過した。この一ヶ月、僕自身、物理的にも(時間的にも)、精神的にも、この大地震についてゆっくり振り返る時間が無かった。この大地震の記憶が僕自身の中で風化してしまう前に、自分自身の言葉で書き記しておこうと思う。

(※本ページをUPする直前、また大きな揺れに見舞われました…一ヶ月経ちましたが余震はまだ続くようです)。

●未経験の大地震

 3月11日の午前中、僕は打ち合わせのため、都内の某社へ行っていた。僕の中で過去前例がないような、ランディング地点の見えないハードなCG制作の仕事で、正直、僕は1ヶ月以上その仕事で精神的にまいっていた。打ち合わせを終え、午後には事務所に戻ってCG制作を開始。この件で、日々帰宅が深夜だったり徹夜だったりして、妻には苦労をかけているし子供ともまともに過ごせていないので、その件で13時23分に看護士勤務中の妻に携帯メールを入れた。
 そして、14時45分過ぎ(正確には覚えていないが壁から落ちた時計から電池が吹っ飛び、長針は45~50分の間で止まっていた)、大揺れが起こった。大きな揺れなので、事務所にいた仕事の相方と立ち上がって、パソコンのデスクや棚を抑える。僕らは二人とも通常の地震のように「すぐに収まるだろう」と思っていたが、収まるどころがどんどん揺れが大きくなっていく。人間の力では、棚を抑えきれないほどの未体験の大揺れ!かつて地震体験車で体験した大揺れなど、比較にならない。地震体験車の揺れは時間がくれば停止するが、この大揺れは収まる気配がない。
 僕らが抑えているラックや棚も位置を大きくずらしながらどんどん崩れていくので、当然、抑えていない別の棚からは色んなものが崩落していく。本がバサバサと床に落下し始め、デスク上の多数のモニターも落下し、ステレオコンポやまだ新しいFAXも落下し、コップやお皿や魔法瓶も落下し、PCその他様々なものが棚や壁に衝突…それらのことが周囲で同時に起こっているので、それらが次々に壊れていくのをただ傍観していることしかできず、僕ら二人ではどうにもならなかった。大揺れは、まだまだ止まらない。事務所の相方と目を合わせながら、自然と言葉が出てしまう…「おお、もう勘弁してくれよ!」。
 僕らの事務所は鉄筋コンクリートビルの中にあるのだが、南北に狭い(薄い)構造の建物なので北方で起こった地震にダイレクトに衝撃を受け、更に4階なので低階層よりも揺れが大きかったのかもしれない。大揺れは30秒や1分では収まらずに予想以上に長時間続き、さらに色んなものが落下し、遂には市販の棚が全壊した。自作の棚ならともかく、市販の棚が機器の重みと大揺れに耐え切れず、棚のつなぎ目が崩壊したのである。

 
足の踏み場もなくなったグチャグチャの事務所内 

 どのくらいの揺れが、どのくらいの時間が続いたのだろうか(※気象庁の発表によれば、わが町の震度は5強。大揺れはいわき市では3分以上続き、東京でも2分続いたとのこと)。大揺れが収まった時、事務所内にはもはや足の踏み場もなかった。しっかりと蓋を閉めてあった頑丈な魔法瓶がなんと内側から割れて、床にはお湯がぶちまけられていた。しばし呆然とする事務所内の男二人。窓から外を見ると、マンションや家から近所の人々が続々と道路へ出てくるところだった。
 モニター(テレビ)が落下して液晶画面が全損してしまったので、テレビ映像が映らない。テレビのスピーカーだけは生き残っていたので、かなり広範な地域で大地震が起こったと言うことだけは理解できた。インターネットで聞いていたラジオも、モデムやケーブル回りがグチャグチャになっていて聴くことができず、いったいこの大地震が何なのかよく分からない。情報が無いと言うのを、これほどまで不安に思ったことはない。
 
事務所のドア付近にヒビが生じたり、建物の壁の崩落も複数生じました

 事務所の相方と相談し、事務所内はそのまま放置して、取りあえず各々自宅に帰って被害を確認することにした。僕は、学校と幼稚園に通っている子供たちの身をまず案じた。地震後、妻とは携帯電話ならびに携帯メール共に連絡が取れなかったので、僕が小学校と幼稚園に迎えに行くことにした。小学校は、大地震を受けて一斉下校となっていた。小学校でも被害はあり、息子によるとしっかり耐震ベルトで支えられていた視聴覚用のテレビが落下して壊れたそうだ。僕らは、息子および近所の子供たちと一緒に下校した。その後、自宅の被害をざっと確認し、息子を一階の両親宅に預け(両親も無事だった)、自転車で娘を幼稚園に迎えに行く。娘は、お友達と幼稚園バスの中で待機していた。幼稚園舎の窓ガラスが割れ、スロープにもヒビが入り、余震も考えられたためバスの中での待機となったのである。娘を自転車に乗せて、帰宅。
 こうして、子供たち二人の無事を確認してホッとして帰宅。看護士勤務を終えた妻も帰宅していて、両親、妻、子供たちの全員の無事を確認した。


●事務所と我が家の大地震の被害

 この大地震で、我が家と事務所には少なからず被害があった。自宅に戻ると、2階のキッチンとリビングは色んなものが散乱していた。本やノートなみならず、CD&DVDラックも倒れて割れた扉のガラスが床に散乱。耐震用の突っ張りポールのいくつかも吹き飛んでいた。食器棚は(地震用のロックがしてあるが)、棚の中で色んなものが割れまくっている。僕のワイングラスコレクションは、一脚1万円のバカラグラス2脚を初め、クリスタルシャンパングラス他、計11脚が割れて粉々になった。むしろあの揺れで割れなかったワイングラスの方が奇跡とも思える。その他、コップ、コーヒーカップなどの種々の食器が割れた。でも、正直な思いとして"物の破損"なんてどうでも良くなった。家族が無事ならそれで良い。

 
地震後の我が家のリビングの様子

 一方さらに高所の3階の寝室では、ロッカータンスや本棚やミニカーコレクションの棚が、僕のベッドの上に倒れていた…夜の就寝時でなくて良かった。ロッカータンスの下敷きになった数百台のミニカーのうち、かなりの数のミニカーが壊れた。ワイングラスでも感じたが、もう物なんてどうでも良くなった。ただ、このちらばった数百台のミニカーを片づけるのに時間がかかり、この多すぎるミニカーの存在がとても鬱陶しかった。他にも、壊れた物が色々とあった。自作のテーブル棚は荷の重みに耐えかねてあっけなく崩壊していたし、あの大揺れの力は半端でなかったようだ。

 
倒れたロッカータンスや棚などの様子

 床にちらばったガラスは危険なので、普段から鞄に入れている防刃手袋を出して、割れたガラスを一遍ずつ丁寧に片づけ、その後寝室のタンスやミニカーも片づける…大雑把に片づけるだけで2日かかった。

 一方、事務所の被害は更に大きかった。夜、取りあえず事務所にもどり、落下したFAX(電話兼用)やモデムやケーブルだけチェックしインターネット接続を復旧させた。
 大地震の翌日、足の踏み場もない事務所内を見回し、何から手をつけたら良いか分からず、取りあえず機器のチェックを開始。多くの機器が損傷を受け、業務の継続は無理と判断して、インターネットでお客様に"工房の業務一時停止"を宣言。年間の最繁忙期3月のCG受注をキャンセルし、受注しているCGは他の会社やクリエーターに振り分ける交渉を週明けに行うことにした…これだけで気が重い。どうしてもやらなければならない仕事は、生き残った機器で制作することに…。事務所内を大雑把に片づけるだけで、土日の二日間かかった(業務スケジュールに追われる中なので、完全に片づけるには1ヶ月近くかかった)。

 しかし地震の当日、テレビニュースで宮城や岩手や福島などの被害の甚大さを見て、僕の事務所や我が家の被害など取るに足らぬものだと知った。阪神大震災の時もそうだったが、被害者の数は日毎に増していくのだろうと言うことも直観的に理解できた。日本は、未曽有の危機の中に入ったのだとも悟った。


●大地震後の我が家の対応

 大地震翌日から、今までの日常生活と違った日々が始まった。
 余震に備え、すぐに荷物を運び出せるように玄関付近に、各々着替え等を入れたリュックや緊急持ち出し袋、寝袋などを用意。飲料水は以前からアウトドア用の水タンクに確保してあるが、念のため水を入れ替え、ついでにもう一つのアウトドア用水タンクにも水を入れておく。お風呂にも水を貯め、水道停止時に備えトイレ用の水などとして確保(…と言っても、我が家は普段から地震に備えてお風呂の水を抜いていない)。乾パンや缶詰、カップ麺などの保存食のストックも確認。お米があと三日分しかなかったので、取りあえずお米だけは10kg買う。

 玄関付近に準備した持ち出し品の一部

 計画停電が発表になると、これにも対応。ライトマニア&電池マニアの僕は、懐中電灯や電池で困ることはなかった。我が家の電池は半分以上エネルーブなので、充電すれば何度でも使える。度々の夜の停電の時には、ライトを蝋燭代わりにして家族でおにぎりを食べた。節電対応のため、お風呂は沸かさず、短時間のシャワーで日々過ごす(節水も実は節電になる。お風呂は週に一~二回となった。このお風呂が楽しみ…やっぱり日本人にはお風呂が必要と感じた)。

 停電時の夕飯の様子  ミニマグはこう使えます

 僕は、子供の頃、停電と言うのを度々経験していたが、子供たちは初めての経験だったので、精神的に暗くならないように、複数あるテントのうち簡易テントを一つを出してベッドの上に設置して、夜を過ごしたりした。このテント生活に、子供たちのテンションは高まり、喜んでいた。

お部屋でテント

 停電で大変なのは家庭よりも、むしろ職場の方だった。CG制作の仕事は電気がないと、何一つできない。しかも前述の通り、胃の痛む滅茶苦茶たいへんなCG制作の真っ最中で、かつ損傷せず生き残ったマシンだけで作業せねばならない。ハードな仕事、壊れた機器、その上に日々の停電…かつて経験のないひどいCG制作環境である。CGの制作は、モデリングやアニメーション付けやライトの設定などの具体的な人の手によるCG作業と、ひたすらコンピューターのCPUに計算させるCGレンダリングと言う2つに大別される。いずれも停電で、度々ストップしてしまう。停電の前にPCを停止させて落とし、事務所のブレーカーを落とす。もはや何もできないので、おとなしく帰宅して停電が終わるのを待つ。停電が終わると再び事務所に出勤してブレーカーを上げて、作業再開。この繰り返しである。停電は主に昼間から夜21時ぐらいの間が多いので、CG制作作業やCGのレンダリングは夜間に集中する。夜間の仕事は、睡眠不足もあり非効率的である。毎日、停電の時間帯が変わるので、日々のスケジュールがめちゃくちゃになり、体力的にも精神的にもクタクタになった…しかも仕事の内容は前例のないくらいハード。これは、ホントに辛かった(体力的よりも精神的に辛かった…正直に告白すると、被災地の方々に最も"思い"を向けるべき時期であるはずなのに、その余裕が無かった。自分自身の人間の弱さ、無力さについて、徹底的に思い知らされた)。

 次に襲ったのが、水道水の放射能汚染騒ぎ。皆が水を買いに走り、店頭から一斉に水が消えた。先述のように、我が家は水はポリタンク2つに確保してあるし、以前から事務所に3年間保存水と言う水を確保してあったので慌てふためくことはなかった。ある程度落ち着いてから、(かつて事務所で契約して飲んでいたいた)アクアクララを自宅で契約した。

←事務所/秋葉原時代のアクアクララ  現在の我が家のアクアクララ→

 こういった非常時的対応の生活はまだしばし続くと思うので、長期戦を覚悟して生活している。

●被災地のために我が家でできること

 この未曽有の大地震で、私だけでなく多くの方々が人間の力の無力さ、人間の智恵の不完全さを思い知ったと思う。以前の阪神の大震災で高速道路が倒れた時、「想定以上の地震だった」と言う台詞を聞いた。今回の地震においても…特に原発の事故で…似た台詞を何度も聞いた。「想定外の大地震、大津波だった」。机上の想定外の事が、現実の世界で起こった。津波被害による原発の危険性は20世紀中にIAEAに指摘されていたし、原子力安全基盤機構からも「電源が喪失した場合、原子炉の圧力容器が破損する」と既に昨年報告されていたし、国会質疑でも以前からこの危険性が指摘されていたが、東京電力側は検討せず対応策も講じなかった。現実に起こりえた事を想定外とし、専門機関の警告や指摘に一切耳を貸さなかったのだから、天災のせいだけにするのは無理がある…人災の面は大きいと言わざるを得ない。人間の浅知恵や過信した力は、大自然の力の前ではまるで役に立たなかったと言う現実をもう一度見つめる必要がある。
 しかし、この震災に当たって、やはり人間が智恵を振り絞り、力を出して対処していかなければならないのも事実。過去、日本は幾たびもの大地震をそうやって乗り越えてきた。人間一人一人の力は小さく無力にも感ずるが、力を合わせることでこの大きな危機を乗り越えていく。具体的に、私たち一人一人、つまり"自分自身"に何ができるのか?スーパーマンのように、大きなことはできないです(※注:映画の中でスーパーマンは、時間を逆行させて地震も逆行させた…無理です)。

 まず、義捐金などの募金の送金。援助物資が足りてきた現在では、次は何と言っても必要なのは"お金"。我が家も募金を送った。子供も自分のお小遣いから募金した。そして、スーパーやコンビニのレジ横の募金箱(多くは赤十字へ送金される募金)にも、事あるごとに募金している。今後も、定期的に募金することになると思う。

 被災地に対する直接の支援と言うことにはならないが、節電も心がけている。無駄な電気は消し、不必要な家電(例えばシャワートイレや24時間タイマーの暖房機器)のコンセントは抜く。お風呂は週に一回ないし二回にして、平日は短いシャワーのみ(節水も節電になるのをご存じだろうか?)。

 次に買い占めをしない。例え、ティッシュやトイレットペーパーや水やパンや牛乳や納豆や玉子等が複数買える状況にあっても、最低限必要な1つだけ買う。被害の少なかった都市部が買い占めると物が都市部に流れてしまい、被災地に届かない…と言う状況は避けなければならない。

 それから、被害の少なかった人はなるべく普通の日常を送る。仕事を一生懸命がんばる。浮き足立たない。被災地の復興には、長い時間と巨費がかかる。日本の経済が滞ったら、復興もままならない。日々の経済活動を普通に続けるのが大切だと思う。
 あと、ボランティアと言う選択肢もあるが、今の私にはちょっと無理。阪神大震災の時には体力にも自信があり「何か役に立ちたい」と言う思いだけでボランティアにとして現地に行ったが、今は家族も仕事も放っては行けないし、役に立てる専門分野がないことを知っている。残念ながら、気持ちだけで震災地のボランティアはできない。行っても余り役に立たないばかりか、実際に混乱を招いてしまうことも多いのが事実。前回のボランティア活動で、専門分野、体力、心のケア力、経済力、またボランティアに送り出してくれる家庭や職場環境などのバックボーンが必要だと感じたので、今回、僕自身はボランティア活動は見送る。

 そして、とても必要なのが"祈り"と"思い"。それも、具体的に現地に届く"祈り"と"思い"。"お金"や"物"だけでなく、"人の思い"が被災地に必要だと強く思う。震災から時間が経つと、被災者の現状がニュースで報じられる回数も減り、被災地の人々が「忘れられていく」と言う孤独感や不安感に見舞われるでしょう。日本中の人々が被災地の方々を覚えて、心を一つにして"祈っている"と言うことを被災地の人々に伝える。テレビなどマスコミや有名人ならそう言ったことは可能かもしれないが、現実的には一般人の私たちがそうしたことを伝えるのは難しいかもしれない。現地に家族、友人、知り合いがいれば、フェイスtoフェイス、ハンドtoハンドで直接的に思いを伝えられるけれど、そうでなければ被災者に思いに伝えるのは難しいかもしれない。しかしインターネットが発達している今、HPやブログやSNSでそうした"思い"を発信し続けていくことはできると思う。

 被災者の気持ちになって、あと一体何ができるのか考えているけれど…今後他にも色々と可能な事がでてくるかもしれない…その時にまた考えよう。取りあえず、今は自分にできることから始めてます。


<補足/日頃の地震への備えについて考える>

 そもそも我が両親や親族が一斉に東京や埼玉の関東圏に出てきたのは、1964年の新潟の大地震によって住んでいた故郷の土地が地すべりで危険になったためである。だから、わが一族(?)は地震に無関心ではいられない。また親父が消防士だったこともあり、僕自身も防災への意識がそれなりに高かったので、地震への備えは他人以上に備えていた自負はあった。それでも、これだけ大きな地震では役に立たないものもあった。

<今一つ役に立たなかった物>
・地震用突っ張りポール

 自宅も事務所も地震に備えて、背の高い家具を突っ張りポールで固定していたが、棚のいくつかは崩れた。
 これほど大きく(地域の震度5強)、かつ長時間の揺れ(2分)だと、さすがに無理だったか?
 壁にネジでしっかり固定していた棚も吹っ飛んだぐらいだから、仕方のないところか…。
 (一方、食器棚の地震用の扉ロックは役に立った。食器の破損自体は防げなかったが、床への散乱は防いだ)。

 
←対地震用突っ張りポール 

・点検を怠った道具たち
 次に役に立たなかったのが、壊れていたライトやラジオなど。日頃から地震の備えをしていると言っても、点検を怠っているといざと言う時、自然劣化で耐用年数が過ぎていたり、電池の液漏れで使えなくなっていたりする。我が家にもそう言うものがいくつかあった。一つはソーラーランタン、一つは電池式ランタン、一つはラジオ付き電灯。この3つはアウトだった。非常用だからこそ、定期的に点検しておく必要があるのを痛感した。

    
非常時に使えなかった道具の例

<役に立った物>

・電池やライトやラジオ

 前述の通り、充電池やライトはたいへん役に立った。我が家では、トイレやお風呂にもライトを設置している。
 子供たちにも、一つずつ専用のLED懐中電灯を持たせてベッドに置かせているぐらいである。
 日頃から妻に「何でこんなライトがいっぱいあるのよ?」と言われていたが、こんな時のために用意している。
 (妻の職場には懐中電灯もろくに備えがなかったようで)さすがに今回は、このライト&電池群には感謝された。
 電池は、僕が最高の充電池と判断したエネルーブが何十本も用意してある。
 すべて単三と単四だけだが、単一や単二にも使えるバッテリーケースも用意してあるので問題なし。
 時計と一体になった電池式ラジオも、停電時には役に立った。
 ちなみに小型の電池式ラジオも色々と用意してあるし、最近は携帯電話にもラジオやテレビ付いているし…。

 
 
   
他にも色々なライトやラジオを用意

・飲料水のポリタンク
 言うまでもなく、これは役立った。あの放射能汚染水問題の時にも、パニックをおこさずに済んだのはこれのおかげ。

 

・スリッパと防刃手袋
 地震後、部屋の中に片づけきれなかったガラス破片の残存の可能性があり(実際に残っていた)、スリッパは必需品。
 当然、子供たちにもスリッパを履かせた。
 ガラスを片づけるのに、アメリカの警察も使っている防刃手袋も大いに役立った道具の一つである(いつもは鞄の中)。

 

<まだ出番はないが、地震後に玄関に用意した物>
↓その一覧はこちら
非常用持ち出し袋
寝袋など寝具類
アウトドア調理用具
テントなど

 事前に防災の用意をしていても、被害の度合いによっては役に立たないこともあるかも知れない。しかし、日頃から備えていなければ、いざと言う時に役立つ機会を初めから失うことになる。緊急時に何も用意がなくて慌てないためにも、やはり面倒とは言わずに日常の防災の備えは必要であると強く思う。

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2011年4月23日追記:事務所の相方のSが、ボランティアでいわき市に行きました。市内の掃除や家屋内の掃除(ヘドロの泥出し)などをするそうです。

2011年5月27日追記:事務所の相方のSが、再び東北へ行きました。今回は石巻で、友人と共に軽トラックやテレビなどを搬送します。

2011年7月10日追記:私の友人が企画・実行する『アートの力・チャリティー展』に、私もボランティアとして参加します。
→アートの力・チャリティー展』の詳細はこちら


2011年7月24日追記:教会のボランティアTシャツを購入しました。このTシャツの代金は、東北へボランティアへ行く人たちの代金となります。ボランティアに行けないので、せめてTシャツは購入しようと思って買いました。
生地もデザインもたいへん優れています。表には、"REFORMED CHURCH IN JAPAN HIGASHI-KANTO 2011"のロゴデザイン、裏には日本キリスト改革派教会の東関東中会の12の教会名が入っています。

ボランティアTシャツ ボランティアTシャツ背面


2012年 3月11日追記:祈りと募金
 本日の教会の礼拝にて「東日本大震災献金」が捧げられ、祈りの時が持たれました。私たち家族も、被災地を覚えてそれぞれ献金を捧げました。
 また(午後は仕事で事務所に出勤し)14時26分にクリック募金をクリックし、ラジオで流れる「一本松で録音された風の音」の間、1分間の黙祷を捧げました。


2012年 3月11日追記:震災から1年が経過して
 震災から1年が経過しました。この1年何ができたかと言うと、大したことはできていません。まず、募金などのお金の金額では対してお役に立てていないし、これからも余りお役に立てないでしょう。個人の小さな私ができる事として、"毎日、震災地の被害者のことを忘れない事"、そして"毎日、家族で祈ること"を心がけてきました。
 一つ例を挙げると、震災地を忘れないために、インターネットのクリック募金の存在を知ってからこの募金を続けてきました。1回クリックごとに、企業が代わりに1円を募金してくれます(※今回の協賛企業はユニリーバ)。1日1回クリックができます。僕はこの募金を知ってから3月9日までの間に、211回(つまり211日=211円)クリックしました。募金額は小さな額ですが、震災の被災者の事を忘れないためにこの募金クリックを続けていこうと思います。



2012年3月31日追記:インターネットのクリック募金が3月31日をもって終了しました。僕の最終的なクリック日数は、232日でした。(※)