聖書とメディア

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★聖書を題材にした映画の歴史とメディアの問題

(2005年9月18日記載)

 僕は、クリスチャンのCG映像屋なので、聖書を題材にした映画の歴史、ならびにそのメディアの問題を取り上げたいと思います。こんなマニアックな事は僕しか書かないと思うので、取り上げた次第です。ちなみに、聖書を題材にした映画自体の詳細は、以前映画のコーナーで取り上げているのでそちらをご覧下さいませ。

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Ⅰ.聖書を題材にした映画の歴史・概略

1.無声映画時代~ハリウッド黄金期

 映画はエジソンによって発明されたのは有名ですが、現在の映写式によるものはフランスのリュミエールによって発明されました。その後、映画技術を使って、様々な映画が撮られていきます。
 19世紀末の映画創生期以降、早くも聖書を題材にした映画が撮られています。1897年には、二人のアメリカ人演劇プロデューサーが、キリストの受難劇をボヘミアで撮っています。これが、
キリストを描いた最初の映画と言われています。
 翌1898年には、ニューヨークのビルの屋上でも受難劇が撮影されました。以後、フランスやイタリアでも受難劇が盛んに撮られています。キリスト受難劇は、映画創生期に好んで題材に選択されていたようです。1906年には、フランスのフォンテブローと言う所をゴルゴダの丘に見立てて受難劇が撮影されました。1908年に、やはりフランスで作られた「キリストの生涯」は、最初三巻ものでしたが、1914年には、七巻の長尺に増大されて好評をはくしたそうです。

 映画制作のシステムが確立してくると、映画産業が台頭してきます。ハリウッドをはじめとするプロデューサー達は、競って聖書エポックの原作の映画化権を手に入れていきます。キリスト教の影響が決して小さくなく、聖書を題材にした映画の集客力が大きくあった時代でした。
 ウォーレス原作の「ベンハー」は、1899年にブロードウェイで大ヒットしましたが、プロデューサー達は早くからこの映画化権を手に入れたがっていました。この「ベンハー」を最初に映画化したのが、シドニー・オルコットと言う監督です。このオルコットは、1912年に「まぐさ桶から十字架へ」を撮って公開し評判になりましたが、所属していた会社の首脳が彼の金と時間の浪費に腹をたてて首にしてしまいました。そんな問題児オルコットが、1907年「ベンハー」を撮ったのですが、なんと原作者に無許可でした。映画自体は評判になりましたが、起訴されて罰金を払っています。「ベンハー」の正式な映画化は、ずっと後の1926年の事です。
 その後、ハリウッドの大物監督・プロデューサーであるセシル・B・デミル監督が、「十戒」(1923年)や「キング・オブ・キングス」(1929年)等の大作映画を撮りました。負けじと、マイケル・カーティズ監督が、1928年「ノアの箱舟」を撮りましたが、今のような特撮技術が無かったので、撮影中に3人の死者と無数の怪我人を出しました。

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 ハリウッド以外でも、大作映画が作られていました。1912年、イタリアで
世界初の長編映画である「クォ・ヴァディス」(主よ、何処へ行きたもうか)が撮られています。2時間半の一大スペクタクル映画だったそうです。
 その後も、世界中で色々な聖書題材の映画が撮られました。日本では、そういったキリスト教映画の類の情報は少ないのですが、特筆に価するのは、1935年に撮られたフランスの巨匠デュヴィヴィエ監督の「ゴルゴダの丘」です。「ベンハー」や「クォ・ヴァディス」のように小説をベースとせず、聖書そのものを原作とし、新鮮な映像感覚で撮られました。この作品の頃は、無声映画ではなく、すでにトーキー映画(音声の付いた映画)でした(世界初のトーキー映画は1927年の「ジャズシンガー」です)。

 無声白黒映画はトーキー映画へと発展し、カラーフィルムの技術が確立するとと、本格的なカラー映画の時代が到来します。第二次世界大戦後、堰を切ったように、次々と聖書の物語を題材にした大作映画が登場してきます。

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 題名だけを掲げますが、「サムソンとデリラ」(1950年)、「クォ・ヴァディス」(1952年・リメイク版、この映画の成功がベンハーのリメイクに続く)、「聖衣」(1953年・
世界初のシネマ・スコープ)、「続・聖衣」(1954年)、「十戒」(1957年・デミル監督自らのリメイク版・小道具数はハリウッド映画史上最高記録なった)、「ベンハー」(1959年・リメイク版・アカデミー賞11部門獲得はアメリカ映画史上の記録)、その他次々と大作映画が、アメリカとヨーロッパで作られていきますが、その辺の詳細は前述の映画のコーナーをご覧下さい。

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2.映画産業の斜陽・衰退期時代

 ハリウッドの1950年代の黄金期は、1960年代に終息の方向に向かいます。聖書を題材にした映画も、予算も規模を縮小していきます。1966年の、アメリカ・イギリス・イタリアのスターが結集した「天地創造」は、終末期の超新星の爆発のような映画で、以後聖書題材の映画は、急速に下降線を辿り激減します。
 映画産業自体が危機的状況で、老舗の映画会社が次々と身売りしていきます。ハリウッド大作は鳴りを潜め、ベトナム戦争以降の時代を反映して、ニューウェーヴシネマと呼ばれる若者受けの映画が台頭してきます。
 聖書題材の映画も、規模だけでなく質的変化を強いられていきます。1973年の「ジーザズ・クライスト・スーパースター」は、大ヒットロックオペラの映画化作品ですが、時代考証が初めから無視されているのはともかく、イエス・キリストを超能力を持っただけの単なる人間として描き、むしろユダにヒーローとしての視点を持って描いています。また、聖書の言葉一つ一つに、本来の意味とは違う意味を持たせています。ベトナム戦争の泥沼化やヒッピー文化の台頭がもたらした、アメリカでの権威の失墜や価値観の混沌が現れた映画です。
 1988年の「最後の誘惑」も、同様な面があります。名匠マーチン・スコセッシ監督の本作は、ニコラス・カザンザキスの小説を原作にしていますが、全米公開時に社会問題化しました。問題になった描写は、キリストが十字架の死を逃れ、マグダラのマリアと安穏に暮らす事を夢見るシーンでした。しかし、この映画の問題点の本質は、この映画のイエス・キリストが、何故自分が十字架に架からねばならないのかすら理解していない単なる人間として描かれている点です。作品の内容は、聖書が語る内容とは別物の世界を描いています(ちなみに「ジーザズ・クライスト・スーパースター」も「最後の誘惑」も、ユニバーサル映画作品です)。
 1985年の、リチャード・ギア主演の「キング・ダビデ」もダビデ王の内面に迫ろうとした映画ですが、聖書の語る内容とは少しかけ離れた内容となっています。

 聖書解釈に否定的・疑問的な映画に対し、一方で正統的な聖書解釈に重きを置く聖書題材の映画も登場します。1976年のイギリスとイタリアの合作映画、巨匠ゼフィレッリ監督の「ナザレのイエス」は、福音書の忠実な解釈、厳密な時代考証、きめ細かい考察によって作られました。
 ジョン・ヘイマン監督の「ジーザズ」も同様に、製作者の創作が極力入らないようにして、聖書の記述と歴史に忠実である事を目指して製作されました。
 日本で2004年に公開された「パッション」は、徹底したリアリズムで撮られています。特に、キリストの受難のシーンは顔を背けたくなるほどのリアリティを持って迫ります。この映画の製作のため、メル・ギブソンは12年の歳月と27億円の私財を投げ出しました。

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 上記に揚げた以外にも、数多くの聖書題材の映画が作られていますが、大作の映画は少なく、日本ではほとんど公開すらされていません。1970年代以降、人々の記憶に残る聖書題材の映画はあまりありません。


Ⅱ.聖書題材映画の問題点

1.利益に左右される方向性の問題


 映画期創生期から、聖書を題材にした映画が数多く作られていました。それは主に欧米の社会が、まだまだキリスト教の影響力や関心が高かったためだと言えると思います。聖書を題材にした映画は、確かに集客力が高くヒットしました。映画会社も、お金と時間をかけ、スターを投入して、次々と大作を世に送り出しました。日本では、もともと社会にキリスト教と言うベースが無いので、聖書を題材にした大作映画を見る時、宗教的な価値観よりも、単なるスペクタクル巨編映画として楽しまれていたと思います。
 ベトナム戦争前後を境に旧き良き時代のアメリカは消え、ハリウッドは衰退し映画会社が身売りされるようになると、若者を再び映画館へ取り戻そうと、若者の心理や文化を反映したニュー・シネマが盛んになってきます。従来の権威や伝統を覆して、新しい方向性を模索した映画がヒットしていきます。
 その様な歴史の流れの中で、聖書を題材とした映画も質的変容を遂げます。キリストの神性を否定し、単なる人間として描いた映画が作り出されていきます。こういった類の映画は、旧き良き50年代以前のアメリカでは企画する事すら困難な映画でした。
 また、聖書を題材にした映画そのものも、次第に製作されなくなっていきました。1970年代以降、人々の記憶に残る聖書の映画はほとんどありません。 ハリウッドの歴史を見て分かる事は、映画産業はビジネスだと言う事です。かつて聖書を題材にして映画をたくさん作ったのは、映画産業に関わっている人々が皆深い信仰を持っていたからと言うよりは、キリスト教社会でそう言う映画がヒットして利益を生むからです。だから原作にも、高い権利代金を払うのです。もちろん、当時も映画界には深いキリスト教信仰者はいたでしょうし今だっているでしょうが、聖書を題材にした映画が作られるかどうかは、その企画が利益になるかどうか、という事です。製作者が信仰とは無縁な場合、聖書題材の映画を作る時に彼らが気にするのは、それがセンセーションを巻き起こしヒットするかどうかです。聖書の記述に照らし合わせて、正しい解釈かどうかは大きな問題ではありません。利益を上げて、会社を潤し、出資者に報いる事が彼らの目標です。
 映画、特にハリウッド映画は、世界中の不特定多数の人が見、多くの人が影響を受けます。有名な監督がメガホンを取り、有名な俳優が出ている映画となれば尚更です。聖書題材の映画が上映されて、それが聖書の記述を否定する内容だった時、キリスト教徒であればとても悲しむと思いますが、映画会社はただ単に市場原理に従って"売れるか""売れないか"だけで製作しているだけです。ここに映画に限らずメディア全般の問題があります。福音の前進を拒む内容の映画やドラマでも、それが適法である限り、表現の自由が許されているからです。逆に言えば、我々も自由に福音を前進させる映画作りが可能なわけですが、実際"売れる"か"売れない"かで判断される市場原理社会で、聖書題材の映画に出資してくれる人は、少なくとも現代では、特に日本では、難しいでしょう。
 フランコ・ゼフィレッリやメル・ギブソンのように(彼らは熱心なキリスト教徒である)自分自身の名前や財産を投げ打ってでも製作しない限り、正統的な聖書解釈に法った聖書題材の大作映画はなかなか製作できないのが現状でしょう。

2.映画における画像と音声の具体性・確実性の問題

 では、善意の信仰者である製作者が、時代考証をきちんとして、聖書の記述に極力忠実であろうと作れば問題は無いのか、と言ったらやはり問題はあります。映画を作った後に、学説が大きく変わって、時代考証が変わったと言う様な事は、特に映画だけでなく、小説や論文にも見られる事です…こう言った事も問題の一つですが、特に映画における大きな問題は別にあって、映画が画像と音声によって作られていると言う点です。当たり前の話ですが、これが大問題です。
 映画は、画像と音声によって成り立っています。しかし、聖書は元々文字です。絵もありません。実際の声も聞こえません。映画は、そこに実際の絵と音を提供します。例えば、聖書にはイエス・キリストの顔や体の特徴についての情報は、ほとんどありません。しかし、紙芝居にしろ、漫画にしろ、映画にしろ、それを目に見える形にしなければなりません。映画やテレビドラマだったら、声も必要です。でも、イエス様を実際に見た人も、その声を聞いた人も、現在一人もいない訳です。役者を選ぶ時に、製作者や演出家が選ぶ訳です。「イエス様はこんな人だろう、こんな声だろう」と言う推測で選ぶ訳です。しかし、それが正しいかどうかは誰にも判定できないわけです。製作者や監督の目、つまりフィルターを通して推測されたイエス像を、観客は受け取る訳です。ゼフィレリやメル・ギブソンは優れた信仰者かも知れませんが、それでも彼らのかけたフィルターが間違っている可能性もある訳です。 実際、映画の中のイエス像は、製作者によって変わります。 ある時は、金髪で青い目の白い肌のイエスだったりします。「でも、中東生まれの人ですよ…金髪で青い目で良いの?」「しかも炎天下で父親の大工の手伝いをしてた人ですよ…真っ黒に日焼けしていて、筋骨隆々だった可能性は無いの?」と言う疑問だって的外れとは言えないでしょう。 またある時は、思索に耽る哲学者のように「静かに民衆に語るイエス」がいます。でも数千人に話すのに、幾らなんでもその声の大きさでは聴こえないでしょう…と僕は思ってしまいます。反対に、大群衆に聴こえるように「大声で叫ぶキリスト」を描いている映画もあります。 イエス・キリストを描く事の難しさを突き詰めていくと、表現不可能と言う所まで行ってしまいます。実際に、イエスキリストが登場するのに、顔も声も一切出さない映画が一本あります。それは「ベンハー」ですが、イエス・キリストの姿は後姿や遠景だけで顔は判別できません。声も一言も発せず、ただ他の俳優がイエスから聞いた言葉として語るだけです。イエスの姿や声は、観客それぞれが心の中で思い浮かべるのです。映画表現としては、面白い試みの一つだと思います。
 イエス・キリストの顔や声一つ映像にするにも、こう言った問題をはらんでいるわけです。だから、聖書のあらゆる場面を映像と音声で描くという事はとても難しい事なのです。
 そう言う訳で、我々が映画を見る時、注意をしておくことがあると思います。それは例えどんなに良くできていても、間違った表現が含まれている可能性があると言う事、ましてや聖書そのものではないと言う事です。これは映画に限らず、テレビドラマ、漫画、紙芝居、聖画、あらゆる画像と音声のメディアについて言えることです。

3.メディアの有効利用

 問題点を列挙しましたが、もちろん否定的な面だけではないと思います。イエス様の時代においても、弟子達はその頃手紙と言う手段(メディア)を用いて、各地の教会の信徒と連絡を取っていました。
 私たちの時代は、数多くの手段があります。多すぎると言うぐらいに、あまりに多くのメディアがあります。新聞、ラジオ、テレビ、映画、インターネット、携帯電話…。それらの文明の利器を、問題点を把握しながら、有効利用していく事が求められています。イエスの弟子達にしても、手紙と言うメディアの欠点と長所を理解していたと思います。フェイス・トゥ・フェイスで話せば表情で真意が伝わる事も、手紙では誤解されるかもしれません。様々な事を慎重に配慮しながら、手紙を書く必要があったでしょう。実際、使徒達の手紙には細かい配慮があります。
 私たちも、紙芝居、漫画、ビデオ、映画、インターネット等の様々なメディアを利用する時に、そう言った細やかな配慮をしながら利用していく必要があると思います。もっと積極的に言えば、福音の宣教のために、メディアをもっと賢く上手く利用していく者である必要があるのではないでしょうか。


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