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7.最後に

 さて、前回まで、靖国神社とそれに関わる問題、更に推し進めて日本の戦時中の言論統制や思想弾圧、戦後の教育についても考えてみた。私は細々と個人事業を続ける一市民でしかないので、学者のように体系的にこれらの問題をとらえられたとは思っていない。私が、これらの問題を主体的に、自分自身の頭で考えてみたいと思ったのは、祖父が戦争で死んで靖国神社に祀られている事、戦時中の日本のキリスト教会がアジアの教会に対して大きな罪を犯した事、日本の靖国や平和に関する言論が"左"とか"右"と分かれて激突し問題の本質を見えにくくしている事、主にこの3点が出発点となっている。これらの事を自分の頭で考えるため、"右寄り"とか"左寄り"とか言った価値観に左右されず、様々な立場の文章や資料に目を通したつもりである。6回に渡った一連の考察の最後に、個人的な思いをここで述べたいと思う。

・言論が立つところの価値観

 日本の平和や戦争、靖国に関する言論は、だいたいにおいて"右"と"左"に分かれてしまう。それぞれ、固有の価値観に立脚しているので、結論ありきの言論に終止している(→価値観についてはこちらをクリック!)。テレビの"TVタックル"でも"朝まで生テレビ"でも、市中にあふれる雑誌の討論でも、それぞれの論陣がお互いの主張をぶつけ合うだけで、初めから相手の主張に耳を傾けるつもりなど毛頭無い不毛な議論の連続である。正直、僕はそう言う議論にうんざりしている。それらの議論に、平凡な我々市民の存在感は希薄だ。もっと国民一人一人の実際に即し、国民の幸福に寄与する議論はないだろうか。

 "右派論陣"…右寄りとか、保守とも言われたりする。たいていは、天皇制に立脚する"ナショナリズム"をベースに議論が展開される。色んな事を色んな人が難しく言うので本質が見えにくいが、突き詰めて言うとこんな感じだ。僕は、車好きなので車で例えるのをお許しいただきたい。「車はフェラーリが最高!スピード、フォルム、サウンド。何もかも最高!この車を知らずして、車を語るな!この車に比べたら、他の車は車とは言えない。他のメーカーは、フェラーリを見習うべきだ」。これが偏った思想に根ざした愛国心"ナショナリズム=国家(民族)主義"。対する考え方として、「フェラーリは良い車だ。購入費も維持費も高いし、実用的ではないと言う欠点はあるけれど、あのエグゾーストサウンドだけは素晴らしい!ベンツの安全性は高いし、トヨタの実用性も良いと思うが、私はフェラーリをずっと乗っていて、今でもやはり一番好きです」。これが誰にでもある極自然な愛国心で、愛すべき理由は人それぞれ。右派の議論は、前者・後者をごちゃ混ぜにして、"フェラーリのみが最高。フェラーリを愛する理由は、それが最高にして至高であると言う理由以外には認めないし、他の車がフェラーリ以上などと考えるのはけしからん"と言う思想になってしまう。

 対する"左派論陣"…左寄りとか、革新側とも言われる。左、つまり共産主義(社会主義)は、マルクス主義の唯物史観に立脚しているが、私は共産主義は不可能だと確信している(→共産主義についてはこちらをクリック!)。特定の思想に立脚していると言う点は、右派論陣と変わりは無い。自分達の主張に合わない論理は徹底的に拒否し、自分達の立場を度々美化する(※事実はそれと大きく食い違った事もしばしばだった)と言う点においては、右派との違いは感じられない。保守側が従来の伝統を重視し、どちらかと言うと権力者側に都合の良い論理で構成されているのに対し、革新側がどちらかと言うと立場の弱い市民側(労働者側)の立場に立つ論理で構成されていると言う大きな違いはあるが、やはり特定の思想に根ざした押し付けと言う感は否めない。

 結局どの言論であっても、結論を出すからには、何かしらの思想や価値観に立脚していると言う事であるが、僕自身はもちろん狭隘なナショナリストではないし、かと言って共産主義者でもない。多くの日本人が、僕と同様の立場だと思う。"右"とか"左"とか、そう言う特定の思想から離れた平和や愛国に関する論理を構成できないものだろうか…そう言う事を常々考えているが、そう言う議論はマスコミにおいてもなかなか成熟しないようだ。
 その一方で、最近の国が進めつつある特定の思想に基づいた教育の改革、憲法改正、閣僚や首相の靖国神社公式参拝等を、個人的に非常に愁いている。靖国問題およびナショナリズムの問題は、この日本に住む国民の思想や言論の自由にも深く関わり影響を与える問題なのだ。だからこの問題は、日本人が決して軽視してはいけない問題だと思っている。

・日本のキリスト教会の罪

 靖国問題を語る時に、第二次世界大戦時に日本のキリスト教会がアジアの教会に対して犯した罪を抜きにして、私は靖国問題を考える事が絶対にできない。戦前、日本の宗教は、国が管理・統制し易いように宗教団体法の下まとめられた。こうした状況下で、キリスト教の各教派(34教派)も"日本基督教団"として一つにまとめられた。
 この教団の設立に際し、その教会合同が神の恵みであると言う意見が信徒の大勢を占めたわけだが、実質は国家の強制により合同化されたものであのは明白だった。その合同の道を選択しなければ、キリスト教会に残された道は迫害と弾圧のみだった事は疑いの余地が無い。日本基督教団設立の宣誓文には、次のようにある。「我ら基督信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすをもって第一とする」。
 戦時下では、日本のキリスト教教会の礼拝では、宮城遥拝を強いられた。これを拒むと、不敬罪に問われた。例えば、内村鑑三は天皇の写真に礼を行わなかったために(実際は"ちょっとだけ頭を下げた態度"だったと言う)、不敬罪に問われ謝罪に追い込まれる。キリスト教会にも特高警察により逮捕され投獄される者もいたが、キリスト教会全体としては総じて国家の方針に従う傾向が高かった。しかし、この態度は日本国内に留まらなかったのである。

 朝鮮総督府は、統治下の朝鮮のキリスト教会に対して神社参拝の本格的な強要を開始したが、信者の抵抗にあって難航し、処分や処罰を乱発していた。そのような中、1938年6月から7月に日本キリスト教会大会議長の富田満は、神社参拝拒否の拠点であった平壌のサンジョンヒョン教会に赴いて、神社参拝は国家の儀式であって宗教ではないから参拝しなければならないと、弾圧を受けていた朱基徹牧師等を説得しようとした。
「諸君の殉教精神は立派である。しかし、いつわが(日本)政府は基督教を捨て神道に改宗せよと迫ったか、その実を示してもらいたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したにすぎまい。(中略)明治大帝が万代におよぶ大御心をもって世界に類なき宗教の自由を賦与せられたものをみだりにさえぎるは冒涜に値する」と説得した。信教の自由に反する神社参拝を迫っているのに、明治天皇が宗教の自由を与えたと言うのは、正に詭弁に他ならない。しかしこれがきっかけで、平安南道や平壌の長老教会で、次々に神社参拝決議が挙げられる。日本のキリスト教の教派の代表が、このような信教の自由を害する行為に積極的に加担していたのである。しかし、朝鮮キリスト者の神社参拝拒否運動は続けられ、総督府によって投獄されたキリスト者2,000人余りのうち、約70人が神社参拝拒否によるもので、そのうち50人が獄死したと言われる。

 日本のキリスト教会は、神社は非宗教であると言う詭弁の下、「国民の公の義務」と「各自の私的信仰」を無理に分けた。自らが神社参拝を黙認・実行するだけでなく、朝鮮で信仰の自由のために抵抗していたキリスト者を迫害・弾圧する権力側に加担していたのである(※こうした状況は、キリスト教界だけでなく、仏教界も同様な状況だった。それ以外に、当時の日本では国家神道以外の宗教が生き延びる道は無かったと言う事でもある)。
 私自身は、戦後生まれである。しかし、日本に生まれたキリスト者として、弾圧を受けて投獄されたり、また死んだ韓国のキリスト者達に責任を感ずるのである。二度と同じような時代にしてはならない。
 だからこそ、昨今の特定の立場に立脚した憲法改正論議や、首相や閣僚による靖国神社公式参拝等の問題をたいへん愁いているのである。自民党の憲法改正案は、
思想・信教の自由に関して「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」内の宗教活動を認める方向で書かれている。つまりこれこそ、戦前の「神社の参拝は儀礼であって宗教ではないから国民は参拝しなさい」と言う主張の"現代焼き直し版"に他ならない。私は、断じてこのような憲法改正案を受け入れる事はできない。

・個人的問題

 私の母方の祖父は、戦争で亡くなった。南洋の船上で亡くなったと聞いている。だから、私は祖父に会ったことが無い。どんな人だったのか、それを知る機会は、私の誕生前に永久に失われてしまったのだ。
 前回も書いたが、祖父は靖国神社に祀られ、叔父の家にその遺影と靖国神社の写真が掲げてある。祖父が亡くなった後、祖母がどんなに苦労したか、色々と聞かされている。祖母の手だけで、男1人、女3人の計4人の子供達を養わなければならなかったのだ。戦後の絶対的な食糧と物不足の中、女手一つで子供4人を養っていかなければならなかったのだ。その苦労たるや、とても筆舌に尽くし難いものだったに違いない。祖母が亡くなった時、叔父は人目を憚らず泣いた…祖母、つまり叔父の母の苦労とその愛情を一番良く知っている人だから。実は、妻の父方の祖父も戦争で亡くなっている。やはり祖母は女手一つで、苦労しながら子供達を育てたそうだ。

 国家は、国のために戦争で戦って亡くなったら、みんながその功績を称えるように靖国神社に英霊として祀ってあげる、と言う。だから喜んで死を恐れずに戦いなさい、と命ずる。これは、戦時中だけの昔話ではないのだ。今正に、そんな時代を復古させようとする"流れ"が確実にある。それらの"流れ"を後押ししている人々は、私達のような権力を持たない社会の弱者の立場や生活など、露だに考えてはいない。社会的な格差がもっと大きくなり社会の不満がもっと蓄積すると、不満を抑圧するためないし目を逸らさせるために、より一層その強権的な"流れ"が強まるのも間違いないだろう。
 だから、私達は自分に関係ないものとして、この問題を他人事としてはならないと思う。「〇〇政党の人がビラを配って逮捕されたのか…自分には関係ないなぁ」、「どこかの市民グループが平和運動で告訴されたなぁ…馬鹿だなぁ、一銭にもならないのに余計な事するからだろ」。そんな風に思っているうちに、いつしか自分自身もがんじがらめで身動きが取れなくなり、あなたや私が(私の祖父と同じく)壁に掲げられた一枚の写真の中の故人にならないとも限らないのだ。そして残された家族は、嘆き悲しむ。遺族は、自由に肉親の死を悲しむ権利も与えられない。国は、残された遺族に悲しみ方さえも指導する…故人や遺族の意志と関係なく靖国神社に祀り、「あなたの父は、国のために立派に戦い、英霊として亡くなったのだ。誇りに思いなさい。以上」と。
 そんな時代に、二度としてはならない。

(2006年11月12日記載)


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