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ザ・価値観   (2003年5月4日記載)

 今回は、"価値観"についてのお話し。"物事の見方"と言っても良いかもしれない。こんなことを真面目に考え出したのは、大学ないし社会人以降の事。高校時代までは、比較的"のほほん"と過ごしていた気がする。これは、学校での授業でのあり方と関係しているかもしれない。中学、高校の勉強と言うものは、単語を覚え、熟語を覚え、年号を覚え、方程式を覚える…そんな詰め込み記憶型の勉強が主であった。もちろん、本質はそうでない事は承知しているが、テストの点数を取るには、結局のところ無理やり暗記するより他なかったからである。今日でこそ、ようやく「ゆとり教育」の一環として「自分で考える勉強」とかが推し進められているが、受験となれば、結局のところ知識を詰め込むしかなくなってしまう現実がある(そんな危機感があってか、私立小・中学校の人気が高まり、公立離れが進んでいる)。さて、話題が脇に逸れたので、話を戻そう。そう、「価値観」の話である。

 価値観は、社会人になってからはとても重要になってくる。社会人は、様々な局面で、自分自身で思考し、判断し、結論を下し、行動しなければならない。それも頻繁に、である。その頻度とプレッシャーの度合いは、学生の比ではない。そして、物事を自分で判断するには、「自分が今、何処に立っているか」をしっかり認識する必要がある。この「どこの立っているか」の認識が、まさしく「主観」であり、「価値観」であると言えよう。そもそも、こんな事を考えるようになったのは、大学時代に読んだ数々の本を通してである。
 学問…特に「科学」について考えてみよう。論理と実験により物事の再現性を求めるのが、科学であるならば、数学はその最上位に来る。「1+1」は、いつでも2と言う答をはじき出す(…余程の屁理屈を言わなければ…)。続いて、物理学も再現性の高い科学だと言える。天体の運行も、リンゴの落下速度も、計算によってはじき出せる。化学等も、同様だ…これらは一般に自然科学と呼ばれる。ところが、同じ科学でも社会科学になってくると、再現性が怪しくなってくる。例えば、経済学には様々な理論があるが、どれも経済動向を正確に予測することが困難だ。政治学、社会学も同様。一体、自然科学と、社会科学は何が違うのか。一言で言ってしまうと、人間の意志が介入している、と言うことに尽きるだろう。これを分かりやすく言うと、次のようになる。
 ある二人の男が、道を歩いているとする。すると向こうから、犬がやって来る。男Aは昔犬に噛まれたことがあり、犬が怖い。もう一人の男Bは、子供の頃から犬が大好き。男Aは男Bに向かって、「あの犬怖いから、迂回しようよ」と言う。一方の男Bは、「なあに、平気だよ。尻尾を振っているし、あんなにかわいいじゃないか」と言う。さて、実際犬はどういう行動にでるだろうか。何もしないで通り過ぎるのか、吠えるのか、噛むのか…結局、その犬が側に来るまでは分からないのである。これが、墜落する飛行機だったら、間違いなく地表に落ちてくると断言できる。何故なら、物理法則に基づいているからである。しかし、犬の行動は物理法則に基づいていない。犬の行動は、その犬の気質、その日の気分、男たちの行動の仕方等の要因によって、変化するのである。日頃おとなしい犬だって、腹が空いていたり、虫の居所がわるければ吠えるかもしれない。この例では、まさに二つのポイントが指摘できる。第一に、犬の行動を予測する側の男たちが、それぞれの先入観をもっていて、違う予測を立てている点。第二に、犬の実際の行動は、その場になってみないと分からない点。

 実は、社会科学には、そういう側面があるのである。経済学に話を戻そう。経済は、世の中のお金の流れをとらえようとする。お金の流れは、人間の行動の結果である。"人"が物を作り、"人"が物を売り、"人"が物を買い、そしてお金が流れる。しかし、個々の人間の行動は、予測が困難。自分のことを考えても、その事がよく分かる。明日の昼食に、吉野家の牛丼を食べるのか、マックのハンバーガーを食べるのか、九州じゃんがらのラーメンを食べるのか、自分ですら明日になってみないと分からないのだ。ましてや、他人の行動など、心理学を駆使しても正確に予測することはほぼ不可能と言って良い。せいぜい行動傾向を指摘できる程度だろう。そんな人間の行動の集大成である経済を、どうやって科学たる学問にし得るのか。予測できない個々人の行動ではあるが、大集団…何百万人、何千万人、何億人…となってくると、ある傾向、つまり一定の法則性が出現してくる。それを、経済学者が方程式に当てはめようと日夜奮闘しているのである。ところがである。"X+Y=Z"のような単純な数式ならともかく、経済はさまざまな要因をインプットしなければならない。どの因子を重要視するかは、経済学者によってまちまちで、様々な経済理論が百出するのである。時の政府は、自分の政策に都合の良い経済理論を唱える経済学者を採用し、「ほら、専門家もこう言っているじゃないか」…という具合になったりする。最近の経済を見ていると、経済学が(少なくとも政府が採用する経済理論が)、時代の役に立った試しがないのもその為である。バブル時代には、ゴーゴー、イケイケのバブルを煽る経済理論が採用され(○○総研のあなたのことですよ、□□先生!)、バブルに警鐘を鳴らす理論はことごとく無視された。一転、バブルが弾けると、今度は、銀行や大企業を守るため公的資金を注ぎ込む経済理論が採用され(△△大学のあなたですよ、××先生!)、中小企業を活性化させる声は実質上無視された。ここまで血税を注ぎ込んでも、負の遺産が一掃されるどころか、戦後最大の不況、リストラ、デフレである。結局、経済学は人々からまったく信頼に足りえない学問に成り下がってしまった…それは、経済学者達自らの責任である。

 経済学だけではない。価値観が、いかに学問の成果に影響を及ぼすかと言う例は、他にいくらでもある。歴史という学問もその一つ。実際、歴史の過程において起こった事実は、たった一つである。動かしようのない歴史的事実が、たった一つ存在するだけである。それなのに、まったく異なった歴史的考察が百出するのはどうした分けだろう。度々引き合いに出される、"南京大虐殺(南京事件とも呼ばれる)"の話を基に考えてみよう。例えば、中国側の学者が述べる南京事件の犠牲者の数は、30万人~40万人。一方で、日本の学者の中には、犠牲者は数千人~一万人程度と言う者もいるし、中にはそもそも虐殺自体が存在せず、犠牲者などいなかったのだと言う学者もいるのである。ここでは南京事件の真実について考察するのが主眼ではないので、この話はここでストップするが、何故こんなに説が分かれてしまうのだろう。ある説は、別の説と180度違っている。しかし、歴史上の真実は、たった一つである。それ以外の真実は、歴史に存在しない。「一方で30万人と言っていて、一方では一万人と言っていますから、間をとって15万人ぐらいにしておきましょう」と言うことではないのである。例えばもし仮に、ある飛行機事故の犠牲者数が140人だったら、「犠牲者数140人」以外の事実は存在しないのと同様である。50年後にデータが欠損した為、「あの事件の犠牲者は50人だった」、「否、150人だった」と意見が分かれ、「では、はっきりしないので中間値を取って100人と言うことにしておきましょう」、と言うことはないのである。歴史的事実の考察・解釈が数多くあるとすれば、それは探求している人間側の欠陥であり問題である。歴史学の欠陥を成す原因は、経済学と似ている。過去の歴史的事象は、完全なデータが残っていないので、様々な断片から歴史的事実を再構成しなければならない。しかし、過去の文献やデータも完璧ではないから、真実の再現が難しいと言う点が第一点。第二点は、数多くある文献の、どのデータを重要視し、どのデータを採用するかと言うことは、学者によって異なっている。そして、データの取捨選択は、各学者の歴史観に大きく左右されている。中国側のある学者はこう考える。「日本軍は、我が国に侵略して非道な行為をした。中国各地での様々な残虐行為は、目に余るものがあった。南京大虐殺も、相当な被害だったはずだ」。こうした歴史観を基に調査を進めると、自ずとデータを見る眼がそっちの方向へ傾いていく。一方、日本の保守的なある学者はこう考える。「あの戦争は、西側列強諸国からのアジアの開放のために行った素晴らしい戦争であり、侵略戦争などではない。日本軍はきちっと統制された軍隊で、他国で残虐非道な振る舞いをした分けが無い。犠牲者の数は、便衣兵などへの攻撃が主体であり、とうてい虐殺などと呼べるものではなかっただろう」。こうした歴史観を基に調査を進めると、自ずと選択するデータはそっちの方に傾いていく。しかし、どの学者が何を考え、何を言おうが、歴史の事実は「たった一つ」なのである。中国も、日本も、それぞれ自国政府の主張や政策に都合の良い歴史学者の理論を採用する(そんな分けで、日本の教科書も少しずつ変ってきている)。経済学理論と同様、科学に忠実であろうとする良識ある歴史学者は、時代の影に埋もれることとなる…日本と言う国は、手術をしたこともない、論文ばかり書いている医大の教授が、出世していくような国なのである。

 さてさて、話が再び脱線したので、話を基に戻そう。そう、「価値観」である。価値観が、学問にいかに影響を与えるものかが、分かっていただけたかと思う。しかし、学問だけではない。社会の中のありとあらゆるものが、それぞれの価値観を基に構成されている。
 日ごろ、何気なく見ているニュース。どの局も、似たり寄ったりの報道をしているし、一見公平な報道をしているように見える。しかし、そのすべての段階で、それぞれの価値観に基づく何らかの取捨選択がなされている。まず、とある国の現地の報道カメラ。ビデオカメラの捉える画角は、60度ないし90度といったところだろう。そこには、抗議をする大声で叫ぶ人々の姿が映っているかもしれない。しかし、フレームに入っていない残りの270度ないし300度の範囲には、平和そうにニコニコしているもっと大勢の人々が写っている可能性だってあるのだ。それじゃニュースにならないから、抗議している少数の人々を写す。そう言った映像が、あちこちからテレビ局本社に送られて、会議で篩(ふるい)にかけられ、視聴率が取れるかどうか検討され、オンエアーするかしないか決定する。もっと残虐な虐殺のニュースがあるが、聞いた事もないアフリカの小国の出来事で、しかも映像がないので、今回はカット…そして、先程の抗議行動の映像が、オンエアーされることに決まったとする。その映像を流しながら、キャスターが渡された原稿文を読む。「○○国では、このような抗議行動が全国で繰り広げられております」(もちろん、キャスターは現地の実情を知っているわけではない…ほんの一部の人々の抗議なのか、全国に広がっている不満なのか、知る由もない)。このニュースを見た人々は、「ああ○○国って、酷い国なんだなぁ」と思ってしまうだろう。その逆のこともあるかもしれない。酷い国なのに、「ああ××国は、自由だなぁ」みたいな。報道の現場から、視聴者の基に届くまで、カメラマン、プロデューサー、ディレクター他、多くの主観&意見が介入している。つまり、真実を伝えるってことは、それほどに難しいのである。ましてや、ニュース報道に国や企業の介入があった場合、その国や企業が見せたいものだけを見せることになって、とても真実の報道とは言えないものとなる。例えば、自由の国(であるはずの)アメリカの報道が、とても偏った報道姿勢に貫かれているのは、近年、世界中の人々が感じ始めている。

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 ニュースだけではない、単なる娯楽ですら変質してしまう。韓国の「シュリ」という映画を、テレビでのオンエアーで見た時のことを例に挙げよう。映画館で見たのとは、まるで違うのである…これには驚いた。主人公の特殊部隊出身の女性暗殺者が、心で葛藤を覚え、アルコールに溺れ、アルコール依存症になっているシーンがある。これが、テレビ版にはまったく登場しない。暗殺者の心の苦しみを最大限に現すシーンなのに、そこが全部まるまるカット。だから、見ている側には、主人公の苦しい気持ちが少しも伝わってこない。どうしてこんな事になったかというと、某アルコール飲料メーカーがスポンサーだったからである。ビールなどのアルコール飲料メーカーにとって、アルコール依存症ないしアルコール中毒と言う言葉や映像は、絶対にご法度なのである。なので、大事なシーンでもカット。そして、映画がいよいよクライマックスのシーンへ。この映画で、重要な役を担う北朝鮮の特殊部隊長が、韓国の情報部員に向かって激白するシーンがある。映画での台詞は、確かこうだった。「ハンバーガーや、コーラで育ったおまえらには、決して分かるまい」。ところが、テレビでは「チーズやミルクで育ったおまえらには、分かるまい」に変っていた。とても大事なシーンなのに、これでは意味をなさない。極貧の北朝鮮の現状を訴え、豊かなアメリカ食文化の象徴である"マ○ドナ○ド・ハンバーガー"や"コ○・コーラ"をわざわざ引き合いに出しているのに、チーズやミルクでは真意が伝わってこない。むしろ、"アルプスの少女ハイジ"のような、牧歌的なシーンを想像してしまう。この台詞は、クライマックスのシーンには、まったくそぐわない。これも、某飲料メーカーや某ハンバーガーショップに配慮した結果なのだろう。こうして、テレビ放映版の「シュリ」は、真意を十分に伝えられないつまらない映画になってしまった。要は、テレビ局はまず「スポンサーありき」と言う絶対的な価値観の上に成り立っているのである。最近のバラエティ番組では、スポンサーでない同系商品にはモザイクを入れる念の入れようである。そこまで、スポンサーに気を使っているのである。

 ざっと見てきたが、学問、ニュース、CM、ドラマ、映画、雑誌、あらゆる媒体に、様々な価値観が入り込んでいることが分かる。一つ一つを考察していたら、とてもこのコーナーだけでは収まりきらないが、コンビニの棚に陳列してある100円のお菓子ですら、様々な商品開発コンセプトの取捨選択を潜り抜けて生産され、ようやく陳列棚まで到達して、「買ってくれ」と主張しているのである。私達は、テレビやラジオや新聞や雑誌の様々な情報に触れながら、日々生活している。そこには確実に、情報の送り手の何らかの主観、価値観が伴っている。そう言ったものの影響を受けて、我々は日々行動している。そう言う情報の洪水の環境下で、思考し、判断し、決断し、行動している。自分自身が考えて結論を下したと思っていたこと、自分が正しいと思っていたことが、実は日々影響を受けているそう言ったメディアの単なる受け売りかもなのかもしれない…そんな可能性だってある。否、そうなのだと断言できる。何故なら、自分独自の価値観は生れた時はゼロだったのであり、その後、様々な情報を取捨選択して現在のような自分自身が成立しているのだ。政府の発表、学者の意見、マスコミの報道等々、それらを鵜呑みにして、全財産を失ったり人生を台無しにしても、彼らは絶対に責任など取ってはくれない。せいぜい、「あれは時代の風潮、時代の流れだった」と言うのが関の山だ。それを踏まえて、もう一度、自分の立っている場所がどこなのか、しっかり考えてみよう…そんな事を考えた、今日この頃の自分なのであった。


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