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「ウェストミンスター会議」の翻訳に挑戦

・政治的背景

 ウェストミンスター会議は、単に教会の内的な神学的生命であったばかりでなく、その時代の経済学、社会学そして政治的な影響力でもありました。1640年代と1650年代に英国の歴史を大変動期に巻き込んだ宗教的な要因を無視することが不可能だった期間、最近の研究は清教徒革命が制限された期間を明白にしました。価格や土地のような経済要因、議会の力の増大や清教徒の牧師でもある貴族に継ぐ階級の人々の利益の集中などのような政治的要因、欧州大陸の強国の脅しと言ったような国際的要因が、英国の清教徒のみならず英国の商人にも、部分的に及びました。
 ウェストミンスター会議に先行する政治的な準備が、事件の力から部分的に、事件の選択から部分的に協議されました。ウェストミンスター会議の起源は、清教徒の運動、とりわけ清教徒とスチュアート王、ジェームズ一世、チャールズ一世との間の争いに遡ることができます。直接の背景は、1637年のスコットランドの教会において、イングランドの監督派教会を国教遵奉させるようとする祈祷書を強制しようとしたチャールズの企てを含みます。これは、エジンバラ内のフランシスコ会修道士の教会敷地における国家誓約(1638年)や、チャールズの政策に抗議したスコットランドの教会の総会議(1638年)、チャールズがスコットランド人の反乱の鎮圧を企てた時以後に続いて起こる第一次司教戦争に至ります。また、チャールズは財源を上げるため議会を召集しましたが、不平不満の目録収集が始まるとチャールズは議会を休会にしました。税金を伴う論争は続き、そして第二次司教戦争が1640年に起こりました。スコットランド人の軍隊が、イングランドに行進しました。チャールズは、1640年11月に議会を召集するよう再び強要しました。1648年にクロムウェルによってそれが排除されて1653年に彼によって解散させられるまで、この議会は開会継続しました。議会はまた、政治的、社会的な論題と同様、宗教についても王と争っていました。それは、押し寄せてきたスコットランドの軍隊を同盟軍と見なしました。この論争は奮闘の中で噴出し、1649年に王が処刑され、1653年に保護領が確立するまで続きました。王と議会の間の論争は、社会すべての宗教的、社会的、政治的な根深い要素に基づいています。1640年の根源ならびに支流の請願書において、神学と教会の不平不満の長い目録は、ロンドンと王国のいくつかの州において、彼の主権の問題として議会に申し立てられました。宗教的な情勢を処理する改革と教会会議のための非常に多い嘆願の要求が、申し立てられました。1641年の12月1日、下院議会が、神学と教会のたくさんの不平不満のあらましと教会会議召集の重大な忠告を、王に送りました。「将来の改革をより良く成し遂げるために、我々はこの島の、まじめで、信心深い、学識と分別のある神学者の教会総会議があるべきだ、と望んでいます。教会の良き政治と平和のために必要なすべてのことを考えている我々と同じ宗波の同業者である、外国の幾人かの神学者の助力を部分的に得つつです。認められ、承認され、権威の刻印を受け、それによって王国のいたるところに進行と従順が見られるように、それらの相談の結果を議会に報告します」。1642年の4月に、議会は将来の会議のための委員の選択を始めました。1642年5月には、会議を招集するための議案が議会に提出されましたが、王は承認を保留しました。1643年6月、王の拒絶を無視して、議会の両院が会議を成立させる法令に合意しました。その法令は、会議の職務とまたその権限について明確にしています。

 この国は全能の神の無限の祝福の中にあるのですから、我々の宗教の純粋さよりも我々にとって貴重なものはありません。にも関わらず、今までのところでは、目的を達成する以上のもしくはより多くの完璧な改革が必然的に求められている祈祷書、訓練規定、教会の政治規定など多くの課題が残されています。と言う次第で、階層組織に頼っている大司教、司教、大法官、人民委員、管轄区長、支部長、助祭長、その他教会の役員による現在の教会の運営組織は、王国にとって有害であり正に不快で厄介で、宗教の改革と成長にとって大きな邪魔物で、この王国の州と政府にとってたいへんな損害を与えると、議会によって集められた貴族院と下院によって宣言され決定されたのです。それゆえ、それらは解決せられ持ち去られるべきで、そのような政府は神の神聖な言葉に従う教会に落ち着くべきで、気楽に教会とスコットランドの教会の親密な同意者、外国の他の改革派教会の平和を、手に入れかつ保持するようにしなければなりません。そして、より有効な同意のため、またすべての誤った中傷と悪評からイングランドの教会の教義の正しさを立証し清算するために、頭書に触れる題材や事柄のような相談と助言をするため、議会両院の両方か片方によって彼らの中に提案できるように、そして彼らが要求を加えられるべき時ごとに、前記の両院の両方ないし片方に彼らの助言や相談をするため、議会の両院の何人かの委員と共に、学識があり信心深く分別のある神学者の会議を招集するための準備と必要が期待されました。・・・

・・・前記の人々、もしくは召集されたかその職につくべき彼らの多くは、この現在の議会の間の会期中、議会によってさらに命令されたり、もしくは両議院によってそれ以上指図されないように、英国の教会の祈祷書、訓練規定、政治規定に関係したり触れるそう言った問題や事象を彼ら自身が論じ協議するために、もしくは議会の議院の両方か片方によって、彼らに提案されるすべて誤った中傷と誤解から、同様の教義の正しさを立証し明確にするため、そして、時折、議会の議院の両院か片方によって要求されるような風習や性質において、議院の両院か片方に、神の言葉にふさわしくあるように、彼等の意見と助言もしくは前記の問題に触れる事を届けるため、そして同様に、議会の議院の両院か片方の同意無しに、印刷や記述か他の方法によって秘密が漏らされないように、権威と力を持つべきです。

・・・この法令、もしくはそこに含まれるいくつかの事柄は、前記の人々、もしくは彼等の中の一部には与えられないか、この会議において、司法権、権力、もしくはどんな教会的な権威であれ、もしくはここに特に明示にされた他の力であれ、それらを実行するするようには仮定されていない。

 チャールズ一世の禁止令と警告にも関わらず、議長(司会役員)のウィリアム・トュイスによって説得され、1643年7月1日に会議は召集されました。会議の最初の仕事は、アルミニウス主義、ペラギウス主義者、またはローマ・カトリックの解釈のどのような可能性でも取り除くための39ヶ条の改訂でした。
 アルミニウス主義とローマ・カトリック主義は、まったくそれらが示しているのと同じくらいの多くを暗示した宣伝文句でした。アルミニウス説は、アルミニウス(改革された正統性によって保持された予定論を修正することに努めたオランダ神学者)から、その名前を得ています。しかし、イギリスのアルミニウス説はアルミニウスの視点によって識別されることができません。タクニーが非難したように、それは人の自由を強調し、無償の神の愛情を浅くさせる傾向がありました。しかし、アルミニウス主義は神学へ向かう、もしくはキリスト者生活の訓練へ向かう、よりリラックスした態度によってもまた識別されました。それは、同様に監督制と王権神授説とを結合させました。アルミニウスは、人が神の恩寵なしで神の方に向くことができなかったことを強く主張して、ペラギウス主義との区別において彼の主義を定義するように注意していたけれども、ペラギウス主義は評判の良い神学におけるアルミニウス主義と密接に関連しました。ペラギウスは、5世紀のアウグスティヌスとの議論において、神への愛情に反応する人の自由と能力を高めました。彼は原罪を否定し、彼は啓示と人の作られた能力への恩寵を制限しました。ローマ・カトリック主義は、典礼と(新教徒が充分に改革されたと感じていない)教会政治における要素を、特に指し示しています。それはまた、大きな政治的な思惑を持っていました。政府の中には大きな影響を持つローマ・カトリック教徒がいて、その多くはイギリスが再びカトリック国家になることを望んでいました。特に多くのイギリス人が共鳴感を感じていたオランダがまだカトリック国のスペインとの衝突していた時に、政府の中のカトリック教徒の役割は、また外交方針においては敏感な問題でした。さらに会議を開催した時に、(プロテスタント共同社会を根絶するために続けられているとプロテスタント教会が考えていた)三十年戦争は、まだ進行中でした。アルミニウス主義とローマ・カトリック主義は具体的な神学的な関係を持っていたけれども、しかしそれらはまた我々のような世俗的な文化が理解をする事が難しい社会的・政治的な広範囲の関わりをも持っていました。どちらかのどのような残余でも教会の告白から取り除く努力は広い範囲の関心事に傾けられて、そしてそれは会議の仕事全体を適応させるでしょう。10月12日までに最初の15ヶ条の改訂は完遂されて、作業は16ヶ条から始まりました。その作業は決して完遂されなかったけれども、その討論と議論は後に信仰告白と教理問答での作業のために有益な土台として役立ちました。
 長い間期待され望まれていた新しい状況は、別の割り当ての機会でした。1643年の夏の間に、議会は王との戦争において旗色が悪くなり、スコットランドの支援を必要としました。8月17日に厳粛同盟はスコットランド議会によって承認されて、9月にはそれはイギリス議会によって承認されました。厳粛同盟の目的は、防衛と「主義、礼拝、訓練、および政府・・・におけるスコットランド国教会の改革された宗教の保存、(そして) アイルランドとイギリスの王国における改革、・・・神の言葉によって、例えば最も良く改革された教会、宗教、信仰告白、教会政治の形態、礼拝指針、教理問答において均一的なより近い結びつきの三つの王国における神の教会(をもたらす事)・・・」でした。1643年9月25日に、会議の委員達およびスコットランドの委員達は厳粛同盟に同意しました。この時点から、会議は新しい進路を取りました。
 厳粛同盟は、議会が教会政治と礼拝のために時間を主に費やすであろうと言うことを意味していました。これらの範囲において、会議の委員達は彼らの最も深い違いを持っていました。最後に、メルビルとカートライトとトラバーズの長老主義が、組合教会主義と、教会の力が道徳的な信仰によって制限されていると主張するエラストュスによる主義の両方と調整されて、長老主義政治の形態を会議は作成しました。それはまた、礼拝指針を含む定型書式の代わりに、礼拝指針と祈祷書の書式を交換しました(それのいくつかが妥協案であったか、多義的でした)。会議の現実的な合意は、神学の範囲においてと、高度な技術的の業績に行き着いた信仰告白と教理問答おいてありました。
 会議が、教会の会議ではなく、議会の約束であったことに注意することは重要です。その目的は、教会の名において作用することではなく、議会に助言を与えるためでした。勅許状は、議会によって会議に認められた事柄だけに認められた助言で、先導権の自由は与えられていませんでした。委員は、議会の許可無く、印刷や記述や他の方法によって、秘密を漏らす事はできませんでした。会議は、明示的に「どのようなものであれ、司法権、力、または権限を行使する事」を仮定することを禁止されました。委員は、議会によって任命されました。一般の委員は、スコットランド一般の委員を除いて、教会役員としてではなく議会の委員として出席しました。スコットランドの委員、ロバート・ベーリーは、「・・・これは適切な会議ではないけれども、どんな物であれ、尋ねられた事に助言する目的で、議会によって会合は収集されました…」と述べました。
 会議は、時の政治的かつ社会的な事柄から、立派に隔絶して、その神学的な作業を続けました。神学的な問題について、委員達がどのような政治的圧力の下にでも置かれたという徴候がまったくありません。これは、神学者と彼らの教養によって分けられた神学的な合意に寄っていました。それは、神学が、政治的、社会的な危機に無関心であったことを意味していません。議会への、そして一般大衆への会議の委員達の説教は、いつも政治的、社会的な適応を含んでいました。実を言えば、説教はそんなに直接その日の事件には適用されることはほとんどありませんでしたが。会議の委員は、彼らの神学と神の摂理から見て彼等の時代の出来事を理解し、改革を通して、もしくは啓示的な出来事を通して、神はイギリスにおいて神の目的を果たすであろうと、彼らは信じていました。



(2004年 7月25日記載)