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「ウェストミンスター会議」の翻訳に挑戦

序  文

 ウェストミンスター信仰告白と信仰問答書を研究する事は、原子力と核政略の時代においてさえ、少なくとも4つの点で未来への神学の開放として正当化されます。まず第一に、信仰告白と信仰問答書は3世紀以上の間、英語圏の長老派教会の基本的な信条の文書とされてきました。同様に、それらは会衆派教会とバプテスト派教会の伝統にも、重大な影響をもたらしました。第二に、信仰告白と信仰問答書は、壮大かつ記念碑的方法で、キリスト教会の歴史におけるたいへん大きな神学的な区切りの一つを、クライマックスへと至らせます。第三に、キリスト教の教義の歴史における信仰告白の役割は、現代神学の状況の理解の中で信仰告白の意味を理解する事が重要であるのと同様です。最後に、信仰告白と信仰問答書は、全般に神学事業の業績と危険の両方を指し示します。
 ウェストミンスター会議とその働きは、歴史家の考察または教会史家には、軽んじられてきました。その怠慢の理由は、明白です。その会議は、政治的な動向の結果が失敗だったのです。それは、哲学ではなく、主として神学であったのであり、そしてそれは終焉に達したのです。現代の世界においては、それは多くの人々が重要な意味を持つように強さと品性を与えるよう論議されたかもしれないが、現代の世界においては創造性はなかったのです。ピューリタンの思考やスタイルに対する文化的な嫌悪は、同様に後の歴史家達にも影響を与えました。ウェストミンスター会議の見落としや過小評価は理解できますが、その会議の額面通りの評価を容認する必要はないのです。
 三百年の間、ウェストミンスター会議の作品が、英語圏の長老派教会の主要な神学的規定でした。それは、同様に組合派教会やバプテスト教会における彼らの神学的な縁戚にも影響を与えました。ウェストミンスター信仰告白は、英国組合派教会のサヴォイ宣言として、多少の修正を加えられ採択されました。1648年にはケンブリッジとマサチューセッツの組合派教会の会議で採択。1680年にはボストンの会議でサヴォイの修正として採択、1708年にはセイブロックの会議にてコネティカットの組合派教会が採択、1677年にはロンドンのバプテスト派によって修正されたものが採択、1742年にはバプテスト派の信仰告白としてアメリカで採択されました(フィラデルフィアにて)。確かに、短い信仰問答集から宗教的な教育を受けた数多くの子供たちが、何百万人もいると見積もられています。ウェストミンスター会議の信仰告白と信仰問答の影響を受けた数多くの人々は、学者から受けるよりもはるかに大きな評価を、その会議に対して送っています。
 ウェストミンスター信仰告白は、ルターの95箇条により1517年10月31日に始められた神学活動に、偉大な終止符を打つ最終的な文章の一つでした。16世紀最初の半世紀の間の改革者達の神学的業績は、時折、1564年のカルヴァンの死後にプロテスタントの中で起こった神学的な事業と対比させられます。最初の期間は、予期と、新たな洞察力の沈着冷静な無我夢中と、発見による更新によって特徴付けられ、二番目の期間は、革新よりはむしろ保守による注意深い定義と正確さによって特徴付けられるのは、疑問の余地がありません。ウェストミンスター会議の偉大な歴史学者と言われるアレクサンダー・ミッシェルのような、二回目の宗教改革時の神学者でさえ、ツグィングリやカルヴァン、ヴーリンガーによって始められた事業を完了させる為に、彼等が作業をまだ続けていると信じていました。たいへん現実的な感覚において、ウェストミンスター信仰告白は125年もの神学的作業の産物なのです。
 キリスト教教義における信仰告白の位置は、その意味の理解が、現代の神学的状況の理解のために重大であるのと同じです。信仰告白は、プロテスタント神学の125年の結論と言うだけでなく、それはまた現実的な感覚において、16世紀の神学事業の結論、次の17世紀の信仰の声明書でもあるのです。人類の理知的な歴史における根本的な転換点は、19世紀の社会の発展と知識人と啓蒙と共に起こりました。科学的な革命、産業革命、歴史的な意識における変革、ダーウィンやマルクスやフロイトやアインシュタインの業績、そして他の多くの根本原理が、世界やそれに関連した事を熟考する人々の道を変えました。現代の人々が信仰告白の執筆者達と共にあるよりも、信仰告白の執筆者達は新約聖書時代の人々と遥かに多く共にいました。信仰告白は、それゆえに、現代の人々の害された知性や社会経験より以前の、信仰の最後の声明書なのです。
 神学的な時間は、しかしながら、年代順と同じではありませんでした。すべての人々は同じ年代順の各時系列において生きていますが、20世紀の人々が、神学的に17世紀で生きることは可能です。20世紀においては、信仰告白の言葉は、人類の理知的な歴史における変わり目以前の時代の神学的な確信として、懐古的なもしくは必死な熱望を伴って繰り返されました。一方で、信仰告白は、古臭いそして不可能な神学の具体化だとする人々の憤慨も起こりました。懐古も憤慨も両方理解はできますが、しかしながらどちらも、信仰告白に対する有効かつ建設的なアプローチにはなりません。17世紀に書かれた信仰告白の言葉の目的と意味は、懐古や憤慨の中で繰り返されている今日とは、もはや同じではないのです。懐古や憤慨よりもより建設的なアプローチは、第一に、信仰告白がその時代の中で告白していた事を理解しようとすること、第二に、今日、神学の建設的な回復と声明において信仰告白を用いようとすることです。現代の神学の問題は、信仰告白の書き手達が初めから終りまで彼らの世代で示したような十分さで、神学者達が我々の時代の信仰を理路整然と表現できない、と言うたくさんの証拠です。神学の深さと知恵の一つの前提条件は、いつも過去における教会の信仰の声明の要約であることです。断固として過去の神学を通して生き、その神学によって一体となることができる人々にのみ、今日、神学において建設的な働きができる道が用意されるでしょう。
 ウェストミンスター信仰告白は、また重要な神学的業績と技術的能力の実例でもあります。言語は、注意深く定義され、正確です。論理的明快さと、すべての神学的観点や微妙な差異に正確であることは、双方注目に値します。信仰告白は、驚くほど完全で包括的です。それは、教義と実践を結合させています。今日、ここまでハイレベルな技術的完成度に達した神学はありません。ウェストミンスター会議の作品に対する皮肉でさえも、"それ自身の偉大さがそれ自らの転落の原因"であると言うものです。歴史は、すぐにその信仰告白がとても正確で、とても包括的だと言う事を論証しました。それは天の啓示や人々の経験のいずれよりも論理的で、人が知るべく与えられるよりも、より多くの確信と知識の価値があります。ラインホールド・ニーバーの"解釈の分類"によると、ウェストミンスター会議の神学的作品の歴史的運命は、哀れでも悲劇的でもないが、皮肉です。確かに、ウェストミンスター信仰告白は、悲哀や弱さの感覚はありません。それは、より勝るところが少なかったり負けるたりすることが滅多にない、そう言う技術的能力の神学を表しています。同様に信仰告白は、悲劇的でもありません。実存の残忍な事実の最終的挑戦ではなく、また理路整然とした信仰に不足であるか無力であると言ういかなる意識的感覚もありません。むしろその運命は、皮肉的でしょう。強い人間のその強さが、彼がそれを信頼するが故に取り消しになってしまうように、ウェストミンスター信仰告白の偉大な業績が、取り消されるような隠れた欠点を内包しました。
 神学者には、決して大勝利などと言うものはありません。そして彼の作業は、いつも不完全で欠点があります。神学事業は、終りの無い長旅もしくは対話なのです。すべての神学的業績が、新しい可能性を開いています。そして同様に、すべての神学的声明が、特定の時代と場所の誓約を受けた、有限なものなのです。ウェストミンスター会議の神学者達は、皆彼らは有能であるにも関わらず、彼らの信仰告白と教理問答にも関わらず、すべての彼らの優秀さにも関わらず、やはり例外ではないのです。この理由によって、信仰告白は、神学事業の業績と危険の両方を指し示しているのです。

(2003年 4月27日記載)