クリスチャンのための哲学講座

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16.この人を見よ/フリードリヒ・ニーチェ

 読もうとして、ずっと机の横に積みっぱなしだったニーチェの「この人を見よ」を、今年(※2010年)の8月にようやく読み終えた。「この人を見よ」は、彼が発狂して死ぬ11年前に書かれた著作で、自伝的でもあり、彼の人生と哲学が最も端的に現れていると言う最終的な一冊(※なのでこの本を選んで読んだ訳)である。「この人を見よ」に関する細かな感想は後ほど書こうと思うが、最初に身近な読後感想を一言だけ記す…。
「なんだ、この戯言(たわごと)、戯言(ざれごと)は!?」
「こんな人の、こんな哲学が、後世に影響を与えた?冗談でしょ?」
ニーチェに傾倒している方々には申し訳ないが、これが僕の正直な感想である。ちなみにこんな哲学で、とても平和に人生を歩むことは、僕にはとうていできない。僕だったら、気がおかしくなってしまうな。…と、批判だけ展開しても(貴重なプロバイダー料を支払っているHPの)このページを裂く意味がないので、彼の哲学を冷静に客観的かつ簡潔に考察してみよう(←まあ、ニーチェにしてみれば、この"客観的"も曲者なんだけどね)。

 マルクスやフロイトと共に、現代思想に大きな影響を与えたニーチェ。1844年生まれのドイツの哲学者。「ツァツストラはかく語りき(※こう語った)」などのいくつかの有名な著作を残す。1889年に発狂し、1900年に亡くなった。産業革命がヨーロッパに広がり、工業化や文明化の弊害が見え始めた19世紀に登場した哲学者ニーチェ。
 彼は、善悪についてこう考える。人が「善悪」と言う時、そこには現実世界の力関係がある。強大な民族が弱小民族を征服して、ありとあらゆる物を奪っていく。残された人々は、悲惨な目に会わせた相手を"悪"として呪い、自分たちを"善"とする。力では相手に敵わないが、道徳的には優位に立って相手を見下す心理「ねたみ(ルサンティマン)」から、善悪の価値基準が発生する。"正義"や"節制"や"勤勉"や"清貧"など、あらゆる道徳的価値が同様である。要するにニーチェが言いたいのは、そう言ったものはすべて、
弱者が強者から身を守ろうとする「畜群本能」から生まれたのである。そして、キリスト教はローマ帝国の奴隷にまず普及した「奴隷道徳」なのであると、ニーチェは考える。神と言うのは「ねたみ」から作った善悪の構図を支えるために捏造したものだと、ニーチェは考える。そして彼は、そんな神は不要であり「神は死んだ」と説く。
 彼は、徹頭徹尾、キリスト教の価値観の一切を否定した。その代りに、
相手を打ち負かそうとせめぎ合う"生の力"を肯定した。ニーチェは、善悪をはじめとして"価値"と言うものを否定した。昨日と違う今日の変化を、改善か改悪かを判定する基準などないとする。昨日は洗濯機や冷蔵庫がなかったが、今日、洗濯機と冷蔵庫が家にやってきた…これを我々は「進歩」と考えるかもしれないが、この変化が良いのか悪いのかを判断する基準などない、と彼は考える。ただ、単にすべては同じことを繰り返し、「永遠回帰」を続けるだけだであり、これを不服に思っても何が望ましいか決める尺度となる価値観がないので、現状を受け入れて、永遠を積極的に捉えるしかない。前述のように、ニーチェは善悪は現実世界の力関係の中で生まれたと考え、見えてくるのはせめぎ合う力と力の抗争「力への意志」(この"意志"は主体を持たない働き)である。例えば、生理学的な人の健康に関して、体を悪化させる働きとそれを阻止しようとする働きがせめぎ合うが、各々は相手を打ち負かそうとする力であり、自分の支配圏を拡大しようとする意志である。また例えば、"朝起きよう"とする意志と"寝続けよう"とする意志のせめぎ合いで、起きる意志が勝った時、人は自分が勝ったと思い、一瞬生まれた「自分」と言う虚像を固定した時に「私」と言う概念が生まれるが、この虚像を固定しようとする傾向を「遠近法症候群(パースペクティズム)」と呼ぶ。ニーチェは、それは変化し続ける生に対する反感であり、それも否定されねばならないとするのである。

 さて、最初に言及したニーチェの著作「この人を見よ」に関する、僕の率直な感想と意見を、以下に述べる。最初のページから最後のページまで、徹頭徹尾
「俺様は天才」「俺様はすごい」「俺様が凄すぎるので誰も俺に着いて来れない」「俺様は人類の随分先へと言ってしまった」で貫かれた天上天下唯我独尊な記述である。典型的な日本人は、他の人に賛辞をもらって自分を持ち上げたりするものだが(笑)、ニーチェは自分で自分自身を徹底的に孤高の存在へと持ち上げる。彼自身は教祖になるつもりなど毛頭ないと述べるが、自らを旧価値を否定した新時代への橋渡し役たる価値転換者と考えているようだ。彼を批判した者や彼を理解していないと判断した者に対する対応は、容赦の無い攻撃と徹底的な自己防衛の論述の連続を続ける。前半はシニカルな表現も、後半に移行するに従い(ゆとりを失い)攻撃の辛辣さは増していく。正に「力への意志」を自ら実践しているような文章の連続である。正直な話、半分ぐらい読んだところで、続きを読むのがほとほと嫌になってしまったが、僅かに残った根性だけでこの本を読破した。
 ニーチェは、前述の「ツァツストラはかく語りき」を初め、過去に自分が記した著作に対して自ら惜しみない賛辞を贈り、それらがいかに素晴らしい著作であるかを語る。特に「ツァツストラ…」は、彼自身彼の最高傑作…人類が到達しえないような孤高の作品…と考えているようだ。ツァツストラは語る…「そして、善と悪において創造者であろうとする者は、まず破壊者となって、諸々の価値を砕かざるを得ないのだ」と。
 ニーチェは、価値の価値転換を徹底的にさせることによる、人類に対する自分の使命を思っていたのは間違いない。彼は、自分をキリストに匹敵するような、新しい時代に自らを犠牲として捧げる孤高の存在(※自らをディオニュソス=酒神に例える)と考えていたのは確実である。そのような訳で、ニーチェは従来の(また彼と同時代も含む)価値の根幹をなす哲学、道徳、宗教を徹底的にこき下ろす。
 ニーチェは、自ら認めているように、特にキリスト教への攻撃は最大限に徹底的に行う(※イエス・キリストそのものと言うより、キリストの教会や教義、僧侶に対してである。キリストについては、ある種の時代の変革者や価値観の転換者と捉えていたのかもしれない)。キリスト教に対する攻撃は、あれやこれやと幅広くて全部書き記せないが、それを端的に表しているのは次の一文である。「ルター、この呪うべき修道僧は、教会を、そして千倍も悪いことにはキリスト教を、それが敗北して倒れたその瞬間に再興したのだ」。これは何を言っているかと言うと、ローマカトリック教会が自らの腐敗で倒れつつあった時に、古い"理想"(※ニーチェ曰く"嘘をつく権利の擁護")へ立ち帰る隠れた裏道をルターが見つけ出したのだ…と揶揄しているのである。
 ニーチェは、価値の価値転換を人類に対する自分の使命と思い、従来の価値基準を徹底的に覆そうとしていたのである。


現代に生きる我々とニューチェの哲学の適用について

 あの、はっきり言いますけど(ニーチェのキリスト教攻撃に対する反撃や狭量な心で言うのではなくて)、学問の哲学としてニーチェから一体全体、どれほどの事が学べるのかな?僕はニーチェの著作に触れて、彼の自己陶酔&自己満足しか感じられなかったのだけど…。これ学問なの?直観?単なる思い付き?…もっとも、哲学は「哲学者が百人いれば百個の哲学がある」と言われるぐらいに主観的なものだけどね…。そんな訳で、現代人へのニーチェの哲学の適用について、いったいこの僕が何を述べることができるだろう?
 この日本にも、自分を孤高の存在に自らを祀り上げようと、大金を費やし、多数の人手を労し、あの手この手を使って周りの人々に自分自身(と自分史や自説など)を持ち上げさせようとする、虚しい栄光を追い求める高慢な"憐れむべき著名人"達がいる。一方、ニーチェは、他人の手を借りずに自らの手でそれを成そうとしているように僕には見えるのだ。いずれにせよ、ああ、何という虚しさ!何と言う空っぽの栄光!
 「この人を見よ」が書かれたのは、1888年の秋、ニーチェ44歳の時である。この自叙伝は正に彼の最終段階の著作であり、彼の哲学的論考が凝縮された著作である。ニーチェがこれを書き終えた年末には、友人に宛てた手紙において既に精神錯乱の兆候が表れているという。そして、その後の11年間あまりを狂気の闇の中に生きて、1900年に没することになる。彼が発狂して死んだからと言って、その人生の最盛期に書かれたものを、その事実によって否定したり、貶める要因には決してならない。しかし、その書かれた内容から考察して僕がもし一言あるとすれば、「この人を見ないでいいよ、別に…」。


クリスチャンである私とニーチェの哲学の関連について

 アリストテレスの章でも述べたけれど、ギリシャ哲学の流れは人の知の追及の系譜である。人の力(知恵)によって神の領域に到達できる、神の視点で世の万物を説明することができる、これがその系譜の哲学の究極的な目標だと私は捉えている。しかし、聖書は神と人の間には断絶(※罪)があり、神の側が近寄ってくれるのでなければ人は神に近づけないと説く。人が知を追及することは罪ではないが、人が自らの力で神と等しくなれると言う高慢となると、話は全く異なる。
 ニーチェの哲学は、イコールギリシャ哲学ではないけれど、まるで現代でリスタートしたストア学派のような、間違いなく人の知の絶対視の上に立つ哲学であり、否、正確には"ニーチェの頭脳のみ"の上にすべてが成立する世界である。ニーチェは、彼自身が編み出した価値転換の哲学がそれ以後の世界を変えてしまうと考えていたし、そうする事を自らの使命と考えていた。彼は人類が到達したことのない孤高の領域に達したと、自分自身を捉えていたようだ。だから彼は、神を全面否定し、過去のそして同時代の高名な哲学者や神学者に対して(その他大勢の人々に対しても)上目線で、徹底的にこき下ろす。人の高慢がここまで極められた例もそう多くはないと思う(笑)。"(笑)"と書いたが、これは笑い事ではない。人間のこの高慢=「私は自分の力で神のようになれる」と言うこの思いが、すなわち聖書の語る人間の
"罪"なのである(←これこそがニーチェが否定しかつ転換したかった価値そのものである)。聖書のイザヤ書14章12節を見ると
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」。
とある。これは、バビロン王に対する嘲りの歌だが、高慢となった天使が天からよみに落とされ、悪魔(堕天使=サタン)となったのもこのような理由からであると考えられている。もっともニーチェにとってみれば、この聖句も、強国の新バビロニアに滅ぼされた弱小国イスラエルの"畜群本能"から出た"戯言(たわごと)"の言葉でしか無いのだろうが、ニーチェのこの高慢さは「天に昇ろう」とするこの高慢さに匹敵すると私は思う。ニーチェは、自分が限界のある人間であると言う謙虚さを忘れて、その哲学の礎を自分自身の有限な知恵の上に築いた。しかし、人間は永遠でも無限でも絶対でもない、有限な存在である。その上に完璧なる城を建てようと思っても、所詮それは砂上の楼閣であり、いつかは崩れ去る。最終的に、崩れ去ったその土台の上には"虚無"しか残らないだろう。少なくも私なら、耐えられない。ニーチェは、その人生の最後の時に何を見て、何を思ったのだろう。私には知りえない事柄だ。また、同じく聖書のコロサイの信徒への手紙2章8節には次のように書かれている。
「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」。
 人間の知恵と力を絶対視してその上に生きるのか、キリストと言う躓きの石を乗り越えて(人知を超える)"信ずる"と言う世界を受け入れるのか(※→アリストテレスの章参照)、人が生きる上で
究極の二者選択である。何が良いかのか悪いのか、そんなものの判断基準は「ない」とニーチェは考える。私は「ある」と考える(←これこそニーチェが軽蔑する考え方である)。私はニーチェの道でなく、イエス・キリストの福音を受け入れて、人生を生きていきたいと思う。

(2010年10月31日記載)


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