クリスチャンのための哲学講座
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13.自殺について、他/アルトュール・ショーペンハウアー(ショーペンハウエル)
古代、中世、近世の哲学者が多かったですが、次第にようやく近代の哲学者も増えてきました。今回は、ショウペンハウエル(またはショーペンハウアー/以後、ショーペンハウエル表記に統一)。
アルトュール・ショーペンハウエルは、1788年生まれのドイツの哲学者。父は裕福な商人で、母は名門家の出身。父からは商人の道を進むよう促され、その間の周遊旅行で社会底辺の多くの人々の労苦に接し、厭世主義が育まれてしまったようです。父が死ぬと、彼は商業教育と精神的な仕事への欲求の板挟みになるが、母からの励ましで最終的に学問の道に進むことになります。医学部に席を起きながら哲学を勉強し、まずはカントとプラトンを学び、その後ベルリン大学で本格的な哲学研究を始めます。その後、イエナ大学に論文を提出して、哲学博士の学位を取りました。
数々の論文を発表し、イエナ大学やその後ベルリン大学での講義も行ったが、余り理解はされなかったようです。45歳の時に隠遁生活に入り、論文をかいたり出版したりの生活。1860年、72歳で死去。フランクフルト市の墓地に埋葬されました。
今回読んだ「自殺について」はタイトルは衝撃的ですが、自殺を勧めていると言う訳ではないです(否定もしていませんが)。人間の本質的な欲求や意志について語っています。
この本は薄いです。哲学者の本は、五百~七百ページとかクドクドとダラダラと長くて、「ええ加減せい!箇条書きにして、5ページ以内に要旨をまとめろや!」と思う事も多いですが(笑)、この本は五編で百ページ・・・短くて良し!(爆)
この短い百ページを更に簡潔に追ってみましょう。
まずは「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであると言う教説によせて」から。
ショーペンハウエルは、カント哲学には大いに不満があるらしく、大学の月給や謝礼が何よりも大切な連中の哲学とこきおろす(笑)。
で、彼自身は何を言っているかと言うと、我々人間は時間の流れの中で生きているが、意識がある故に過去も現在も未来も同一の自分として意識できる。現在は一切の実在性は、我々の内から湧き出でるのであり、彼(=我々人間ね!)自身の本質の不滅性に疑いを差し挟む余地は無い。だが、死によって彼のその意識は消失してしまう。知性は明らかに脳髄の作用(生理的機能に基いている)であり、死と共に確かに意識は消滅してしまうのは疑いの余地はない。これは、人間も動物も持ち合わせている自然の仕掛けである。
つまり我々は、無意識でない状態と言う物を、認識的な状態としてしか捉えられない。そして我々が死によって知性を喪失する場合、根源的な非認識的な状態に移されるのに過ぎない。ただし、全くの無意識な状態であるとも限らず(=おそらく死後のことは我々には分からないと言うことかな?)、主観と客観との対立が脱落している状態かもしれない。認識されるべきものが、認識するそれ自身と直接に一つになっているのかもしれない。(※その事を他の哲学者の言葉で引用もしている)。
ショウペンハウエルは、次の様に考える。死は確かに我々には無への移行として現れてくるが、死にゆくすべての者のうちの何者も永久に死んでしまうのではない。この先の話しは、彼は「再生の神秘」と言う。今の舞台(※=世界の比喩ね!)には我々が座っているが、千年前の舞台に他の人たちが座っていたのである。この辺りの話しは、エジプト神やバラモン教や仏陀の話しで取り留めなるので割愛する。ただ、輪廻と再生を区別していることだけ指摘しておく。
彼がここで言いたいのは、(肉体的な)「可死的な部分」と(霊的な)「不滅的な部分」を区別していると言う事である。彼は、これらの全ての対立を統一するのが、哲学本来のテーマなのだと考えている。
人間にとって死はどこまでも否定的なもの(=生の終焉)だが、死には積極的な面もなければならないはず。しかし、その面は我々には隠されたままだと考える。我々の知性には、この面を把握しうる能力が全く欠けているから分からないのである。我々は死によって失うところのものは良く認識するが、それによって獲るところのものについては知らないのである。(・・・そりゃ、そうだよね)。
この辺の事を、ショウペンハウエルは二人の架空の配役を施した小話で伝えるが、長くなるので割愛する。
次に、彼は「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」にて、空間と時間の個体の有限性と、対照的な無限性について述べる。
幾億年無かったものが、今やここに存在し、そして時を経て同じように永劫に無くなってしまう。そのように現在だけが実在的なのだから、現在を楽しめ(享楽せよ)と説く。動揺が現存在の原型であり、どのような安定性も持続も有り得ず、旋回と流転の世界で幸福などは考える事すらできない。幸福な人間は誰もいない。誰もが自分の思い描いた幸福を目指すが、結局は難破する。
人間と動物を複雑で休みのない運動へと駆り立てるのは、飢餓と性欲の二つ。そして、人間の個体的意志は飽くことを知らない。あらゆる満足はまた別の新しい願望を生みだし、意志の欲求は永遠に満たされない。虚無である。人生とは、一種の「幻滅」である。
三つ目の小論文は「世界の苦悩に関する教説によせる補遺」。
と言うことで、人生は、世界のいたるところで苦痛に満ちている・・・と言う原則に達するショーペンハウエルは、次の例えを用いる。
我々は牧場に戯れている羊の群れに似ている、― その間にも屠殺者は既にそのうちのこれとあれとを眼で選り分けているのだ。一体我々は、我々の幸福な日において、どのような禍をちょうどその瞬間運命が我々に用意しているか ― 病気・迫害・零落・怪我・失明・発狂・死等々 ― を知っているであろうか。―
人類の歴史は、戦争と反乱の連続で、平和は時折訪れる小休止に他ならず、絶え間ない他人との戦闘の生活を送り、武器を手にしたまま死んでいくのである・・・とも語る。労働と心労と困苦と困窮は、ほとんど一切の人間の運命である。もし何の苦労もない極楽島にでも送られたら、人間自身が改めて苦悩を引き起こすとまで言っている。。
動物は、まさしく今を生きている。今、追われている苦悩とか、今、獲物を獲た歓喜とか、「The現在の権化」である。一方で人間は高い「意志」を持ち、つまり動物の持つ視界を超えてしまったために、動物の持つ苦悩と歓喜と言う狭い地盤の上に「人間的」幸福と不幸の高層建築を建ててしまった。動物は現在に満足を見出すが、人間は現在の充足に決して満足しない。このことによって、人間の生活は動物のものより苦痛の多いものとなった。「認識」それ自体は苦痛から離れているが、「意志」は苦痛に関わる。
結局のところ。ショーペンハウエルが言いたいのは、またもや人生とは「失望」や「惑わし」と言うことである。幼なじみの老人が再会して思うのは、お互い年を取ったみすぼらしさであるというのである。
大いなる羨望に値する人間はだれもおらず、大いなる憐憫に値する人間は数知れずいる。人生は労苦して果たさるべき課役である。世界はまさしく地獄に他ならない・・・ショーペンハウエルはそう訴える。
4つ目の「自殺について」の論考(※移後、自死と言い換えます)。
ショーペンハウエルは、自死を犯罪と考えるのは一神教のユダヤ教だけであると説く。彼は、人間は自分自身の身体と生命に関して、争う余地の無いほどの権利を持っているのは明白だ、と主張する。殺人や暴行などの犯罪に対する感情は腹立たしさだが、自死の場合は哀愁と同情である。自死を犯罪と同列に扱うのは、断じて「否」である。
(宗教の教義とは別に)刑法は罰則によって自死を禁じているが、一体死を望んでいる者を、脅かして思いとどまらせるに足るような刑罰などあり得るであろうか、と彼は続ける。また彼は、再び古代哲学者の言葉を引用して自死を擁護する。ストア学派に至っては、自死が一種の高貴な英雄的行為として賞賛されているのを我々は見出す、とも書く(※以前このシリーズでも取り上げたセネカなど)。その他、自死が正当化される論拠を書き連ねる。
最後の「生きんとする意志の肯定と否定に関する教説のよせる補遺」について。
人生には2つの事が起こる。一つは「膨張」=生きんとする意志の現象、もう一つは「収縮」=生きんとする意志の否定の現象。意慾していたものが、意慾しなくなると言うことである。この二つの行為の主体は、唯一同一である。「知性は生きんとする意志の器官に他ならない」のであるが「非意慾がこの意志を否定した後で一体何のために知性を生み出さねばならないのか?」。我々は非意識の主体についても、何も語ることができない。ここでまた彼は、ギリシャ人倫理とインド人倫理やらキリスト教やらを持ち出して対比させるが、長いので割愛する。
その先を読んで、ショーペンハウエルは色々キリスト教について批判するのだが、キリスト教義の本質を全く理解していいないことに愕然とする。自分の論考の都合の良いように、独自の聖書解釈で論考を埋めて文章に挿入していく。これは社会学者にありがちな基本的な過ち。自分の論考にあうものだけ採用、ないし合うように改変する。新約聖書の教えを「生きんとする意志の否定」と言い切っているのである。そんな教説、聞いたことが無い(笑)。私、一生懸命生きていますが?
時々こう言う論説に出会うのだが、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的に、徹底的に自らが嫌う宗教をこき下ろさないと納得しない方々が多いのです。で、ショーペンハウエル自身は「私の哲学こそ本当のキリスト教哲学であるとも言われ得よう」って自信満々に書いていますが、「はっ?」。(※自らをキリストになぞらえたニーチェにそっくり)。頼むから止めてくれ(汗)。
この先生の本、読むのにもう疲れているが、まあ先へ読み進もう。世界が供する享楽を無価値なものとして退けると言う、空虚な誘惑から解放された人々が、修道院の修道士や僧院の僧侶達である。(※ただし大抵の僧侶は最高の栄誉に値しない仮面舞踏会の仮装であるともこき下ろす)。何が言いたいかと言うと、苦悩から解放されるためには本物の「禁欲」=「生きんとする意志の否定」を説いているのである。
そして、最後にギリシャ哲学の本流であるストア哲学もこき下ろす。鈍重なドイツ人はこう言うのがおすきなのねぇ~、と。
とまあ、100ページを読み終えました。薄い本なのに疲れました。疲れの原因は、最近のネットで炎上しがちなネットなんちゃら達の文章を読んでいるかのような内容だからです。傾向として
①「俺様」の意見が絶対的に正しくて他の主張は「ゴミ」扱い(自分の世界だけで生きている)。
②自分の都合の良い資料だけ使う。
③自分の意見よりまず他人の批判。&同様に否定ワードの多用。
です。現代なら「炎上狙いの閲覧数稼ぎか?」と思わされるような内容で、これが短いのに読むのに疲れた原因です。
裕福な環境で育って現実社会ではあまり苦労していない、机上だけであれこれ考えているような学者に思えてなりません。本当に苦労している人は、多分こんなこと書かないと思います。他人や人生に対する敬意と言うものが、微塵も感じられないのです。文章は、徹頭徹尾ずっと上から目線。ショーペンハウエルの本は他にも出版されていますが、これ以上読むのはもう嫌ですm(__)m。
現代に生きる我々とキェルケゴールの哲学の適用について
ショーペンハウエルの哲学的主張を一言でまとめると、「人生を忌避するペシミズム(厭世主義)」です。歴史的な背景で、政治・歴史・宗教を信頼しなくなった世紀末の市民に人気となりましたが(※どの世紀末にもありがちな潮流)、その哲学に救いや慰めは無い。
私自身の考えを述べれば、ショーペンハウエルの論理はかなり破綻していると思う。
彼の哲学(…と言えるかどうかは置いといて)は、後の世の哲学者ニーチェ達にも影響を与えていく。
以前にも書いたが、私はニーチェと言う哲学者が大嫌いだ。学問は極力バランスよく公平に客観的に見る態度を維持しているつもりですが、その立場を差し引いても、ニーチェの「この人を見よ」という著作は全然見なくて良いし、読まなくて良い。ニーチェに見い出される態度は、自分を神にすらなぞらえた人間の傲慢に達した姿そのものなので。人間の罪の極みが「高慢」「傲慢」だとしたら、その姿がニーチェそのものである。
その同じ渓流の源流の匂いが、まんまショーペンハウエルにある。「百人の哲学者がいれば百個の哲学がある」と言われる哲学だが、人生に有用なものもあれば全く役に立たないものもある。自分の頭の中だけで成立する世界観のみが完璧であり、それ以外の論絶はこき下ろすと言う学者のいかに多いことか。ショーペンハウエルやニーチェは、そうした学者達の一人。先人の学者への敬意は一切見られない。自分を類まれなる天才だと思っている。
自分の論考に役立つことなら、エジプトの宗教でもバラモン教でも仏陀でもギリシャ神話でも取り入れるが、気に入らない宗教の教えは一方的にこき下ろす態度で一貫している。
物理や化学等の自然科学は、実験でその論考を証明することができる。しかし、社会科学・・・取り分け哲学・・・の論考は証明のしようがないので、言ったもん勝ちのところがある。ショーペンハウエル自ら書いているように、残念ながら彼の哲学に「希望」は無い。彼は、人生を「苦悩」「失望」「幻滅」と見なし、現世界を「地獄」と表現する。こうした悲壮感漂う考えの流れは、ニーチェ達に影響を与えて引き継がれていく。
百歩譲ってショーペンハウエルの論考が正しいと仮定しても、学者であるならば「苦悩や地獄を幸福に変える」と言う「処方箋や対応策(=希望)」が必要だが、何処にもない。ただ現状にダメ出しをするだけならば、SNSに批判ばかり投稿する無責任なネット民や、国会で文句を言うだけの野党と同じで、何の説得力も無い。つまり、役に立たない哲学と言うことです。
彼自身はこう語る。
私の倫理学は根拠と目的を持っている。それはまず正義と人間愛の形而上学的根拠を理論的に究明し、ついでまた、これらの正義と愛が完全に実践せられた場合にそこへ導いてゆかれるに違いないところの目標を示している。
どこにそんな記述がありました?文章中、他人の批判と否定ワードのオンパレードですが?
唯一、ショーペンハウエルを擁護するとすれば、ちょこっとだけ「人類全ての欠点は我々の身にも備わっているのだから、人間のどのような愚鈍・欠点・罪悪に対しても、我々は思いやりを持たねばならない」と書いてあるところぐらいでしょうか。
クリスチャンである私とキェルケゴールの哲学の関連について
ショーペンハウエル自身が、自らこう書いている。
またしても私は、お前の哲学には慰めがない、と言う声を聞かねばならぬのだろうか。― それと言うのも、私は真理に従って語っているのに、人々は主なる神が万物を立派に創ったと言うようなことを聞きたがっているからにほかならないのだ。それなら教会に行かれるがいい、そして哲学者のことはそっとしておいて貰いたい。少なくとも哲学者に対して、その教理を諸君の雛形にしたがって裁断してくれと言うような要求は差し控えてもらいたい。
と、彼自らが親切にこう書いてくれているので、私は彼の哲学をさっさと離れて教会に行きます(笑)。
彼が何をさして「真理」と言っているのか知る由もありませんが、神がこの世界を甚だ良く創られたことと、人は神に似せて創られたことを私自身は信じているので、こうも真向から否定されしまっては取り付く島もありませんm(__)m。
彼の言葉を使ってそのまま返すならば、「少なくとも信仰者に対して、その哲学をあなたの論理に従って裁くような要求は差し控えてもらいたい」。
いずれにせよ、そして彼の倫理の最終目標は、自分でも追いきれない重荷を背負わせる律法学者やファリサイ派の言説のようで、誰にもとっても背負いきれるものではありません。
(2022年 4月11日記載)
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