クリスチャンのための哲学講座

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10.市民社会の原理/ジョン・ロック

 

 ジョン・ロック。1632年イギリス生まれの、経験論哲学を代表する哲学者(1704年没)。イギリス社会が新興の中産階層の力で、近代市民社会へ脱皮していく時、その政治思想の代弁者がこのロックである。君権神授説を否定し、人間の平等、人民の政府改廃の権利を明らかにした彼の論説、とりわけ"市民政府論"は、アメリカ独立宣言の原理的核心となり、フランス革命にも影響を与えた。現代の民主主義にも大きな影響を与えたと考えることのできる、ロックの哲学を今回考えてみる。

 17世紀までの哲学全般が宇宙と人間の秩序を全て見通す"理性"に信頼をおいていたのに対し、ロックは("思弁"に頼るより)各人の"経験"を重視した。この経験を重視する傾向は、知識や認識に関する新たな哲学を生む。何かを経験する前の人間の心は、"白紙"である。ロックは、人間の知識は、経験によって知った事柄を組み合わせたり、比較する事で形成されていくと考える。砂糖に触れたり舐めたりして、白いとか、サラサラとか、甘いと言う"複雑な知識"を得る。白や赤や青を比較して、色と言う"抽象的な知識"を得る。これらは、知識の入手過程である。こうした
五感や知覚によって経験し得たものを知識・認識とみなす方法を"経験論"と呼び、思弁によってすべてを把握しようとする(それまでの哲学の)合理論の対極にある(※しかし、ロックにも合理論の影響も残っていた。彼は、固さや運動などを事物の"客観的性質(第一性質)"とし、色や味、におい、触感などを「主観的性質(第二性質)」とした)。

 さて、彼の哲学がどのように、市民社会の原理たる"市民政府論"につながっているかを、ロックの「市民政府論」から考察する。この著作は、哲学的(…って言うか哲学そのもの)なので、法、経済活動、社会活動、政治など多岐な分野に関わる記述である。それを簡潔に紐解いてみよう。
 ロックは、公権力の機能を弱め、市民社会に受け入れられるように"社会契約論"を改めた。17世紀に活躍したイギリスの哲学者ホッブス(1588年生まれ、1679年没)は、"社会契約論"を提案した。人間は自然の状態では、各人が他人を押しのけてでも拡大する権利
"自然権"を持つが、これは"万人の万人に対する戦い"となり、万人それぞれが危険に晒されるから、各人が共存するための最低限のルールである"自然法"によって各自の自然権を制限する事が望ましく、人々は相互に契約を結んで、自然法を監督するために、強力な公権力に自然権を委ねる…これがホッブスの唱える"社会契約論"である。しかし、この自然権を委ねた国家は、臣民に絶対服従を強いる怪物(リヴァイアサン)である。これは、絶対王政(絶対君主論)を根拠付けるものだった。

 しかし、ロックはそうは考えない。まず、彼は人間の(法を持たない)自然状態について次のように考えた。
自然状態では、「人間は"完全に自由な状態"であった。そこでは、他人の許可も、他人の意志に依存することもなく、自らの適当と信ずるところにより、自分の行動を規律し、その財産と一身を処置することができる」…と。しかし、これは"自由の状態"ではあるけれど、"放縦の状態"ではない。自然状態には、これを支配する一つの"自然法"があり、何人もこれに従わねばならぬ。一切は平等かつ独立であり、何人も他人の生命、健康、自由、財産を傷つけるべきではない。自然状態においては、自然法の執行は各人の手に託されている。この論には異論があるが、例えば「自然状態で、自分が自分自身の事件の裁判官となったら、大きな不都合が生じるに違いない」と言った反論である。その反対側にあるのが、政府(※当時は絶対君主)による裁きと言うことになるが、君主も誤謬や感情に支配された人間に過ぎなく、それに服従しなければならないと言うのはどうなのであろう、とロックは言う。
 さて、このような人間の自然状態を述べた後、実際に起こる"争い"、つまり"戦争"の状態をロックは述べる。
自然状態において、誰かの所有物(命を含む)を奪おうとすれば、それを企図した相手に対して人は"戦争状態"に置かれる。このような力から自由であることが、自分の生存を維持するための唯一の保障である。この自由を奪い取ろうとする者は、すなわち戦争状態にあるものと見られねばならない。戦争状態に入ったら-例えば暴力を用いて人から奪おうとする場合-彼はその泥棒を殺すことを合法化する。"自然状態"と"戦争状態"の区別は、このようなものである。
 戦争状態の中では、人は当事者間に決定をなすべき権威をもたず、天に訴える他に途は無い。こう言う状態を避けると言うことが、人が自然状態を離れ、社会の中に身を置く(つまり共同体内の法で生きる)大きな要因となる。
 ロックは、それらを述べた後で、人間の所有権について語る。人が、物を所有すると言うことはどう言うことか。一つの例を挙げて考える。自然状態の人が、人類共有の大地のリンゴの木を取り、それを運び、それを保管し、そして食べる。一体、どの段階で、そのリンゴはその人の所有物となったか?大地の木になっている状態では、誰の所有ぶつでもないことは明らかである。人の所有物となるのは、その人が働いた時、つまり木からリンゴを取った時にその所有物となった、と考えるのが妥当である。リンゴの木に他人の共有の物として十分に残されている限り、
彼の労働により、共有の権利を排斥するなにものかが附加された、つまり所有の権利を得たとされる。拾ったどんぐりも、捕まえた魚も、殺した鹿も、(その前は万人の共有物だったが)同様にその人の物となる。通常これらの量は、腐らないうちに"生活の役に立て得るだけ"のものについて、誰でも自分の労働によって所有権を確立できる。所有権の対象は、土地そのものも含まれる。人が耕し、植え、改良し、開墾し、その産物を"使用し得るだけ"の土地は、その範囲だけのものは彼の所有である。土地の広大さに対し人類の数が限られていた時代には、十分な財産の余地がありこれらは大きな問題(具代的には戦争状態)を起こさなかったが、人類の数が増大してからは同じようにはいかなくなった。現代は、共有の土地(例えば国家の土地)のどの部分も、共有者仲間全部の同意無しには、囲い込んだり専有することはできない。
 自然は、人間の労働の程度と生活の便宜とによって巧みに所有の限度を定めたが、人間が必要とするより以上を持ちたいと言う欲望(※いわゆる貪欲)を持つと、人間生活にとって有用であるかどうかに依存する物の本来の価値は変わった。消滅しない"金"のようなものを、肉や穀物のなにがしの量に値するものと定めるようになった(…要は、貨幣の使用である)。これら金銀、ダイヤモンドと言った物は、生活維持に必要であるかと言うよりは、嗜好や約束によって価値を与えられたものである。金銀宝石は、食物・衣服などと比較すれば生活にほとんど役に立たず、その価値はただ人の同意によってのみ得られるものである。自然状態では、自分の使用分以上に蓄積することは不正直なものであり馬鹿げたことであったが、現代では、一週間で腐ってしまう労働の産物を、金銀やダイヤモンドと交換して自分の物として保存するとすれば、彼は他人の権利を侵したことにはならない…そうロックは論ずる。
このような不均等な私有財産を作り出す物の配分が、社会の限界の中で、また何の協約もなしで実行されるようになったのは、ただ人間が金と銀とに価値を置き、かつ貨幣の使用に暗黙に同意することによってであった。

 さて、いよいよロックの論述は、市民政府の核心に近づいていく。彼は、
"父権"と"王権(君主制)"の違いを明確にする。王権の根源は、決して父権(※彼はそもそも伝統的なこの言い方も否定し、そもそもは父と母両方の"親権"と呼ぶべきとする)にあるのではないとする。親は子に対し一種の支配権、裁判権を持っているが、これは一時的なものである。両親がその子供達に対して持っている権力は、不完全な子どもの状態にある間、彼らの教育と世話をすると言う、その負わされた義務から生ずる。しかし、彼の父を自由人とならしめたその状態に彼が達するや、息子たる彼もまた自由人となるのである。要は、"分別のある年代の人間の自由"とまだその年齢に達しない間の子どもの"両親への服従"とは、両立もし、また区別もあるのである。父権と言う権力は、何ら特別の自然権によって父に属するのではなくて、ただ彼がその子どもの保護者であるからに過ぎない。これは、自然法であれ、市民法であれ、人間が服するあらゆる法に通じて真である。両親は子孫を養育する義務があるが、一方、両親に対する尊敬は子どもの義務である(王であっても、親に対する尊敬を払わねばならない)。
 古代においては、同意によって自然法執行の権力を父親にのみ許した。つまり、父親に王権を委ね、第三者の犯罪人処罰などをできるようにした。実に古代の厳しい環境では、父の支配以外のところでは、彼らの平和自由および財産に対するこれ以上の良い保障を発見することは出来なかったからである。こうして、"家族の自然の父"は彼らの"政治的君主"ともなったのである。彼らに有能な後継者が育ち世襲王国の基礎を築いた場合もあった。だから、父権を君主制(絶対王政)の権限の基礎に置くのは正しくない。父権と王権とは、まったく別の権限なのである。

 ロック論点は、政治社会の話、すなわち市民社会に移っていく。人間が一人の状況は、社会とは言わない。人間の最初の社会、つまり最も小さな社会は、"夫婦"である。しかし、それは政治社会ではなく、男と女の任意の契約によって作られた関係である。夫婦の親としての権利については上述した通りであり、家族の個々人に対しては制限された権限しかなく、これは政治社会とは大きく違う。
 では、政治社会とは何なのか?人間は(前に述べたように)、完全な自由と自然法上の一切の権利特権を享受する権限を持っている。自分の命や財産を護る権力を持っているばかりでなく、他人がこのこれを犯した場合は(その事実があまりに凶悪で断罪の必要があると確信すれば)刑を処す権力も有する。しかし
"政治社会"は、この自然権を放棄して定立された法の保護を訴求することを認められている一切の事件について、これを共同体の手に委ねるところに存する。私的審判がすべて排除されるので、共同体が定まった永続的規則に従って一切の当事者に対しての審判者となる。このようにして、国家はその社会の構成員の間で犯された刑罰に価する種々の犯則に対して、どんな刑罰が加えられるべきかを定める権力(立法権の権力)を持つようになる。この全ては、その社会のすべての構成員の所有を可能な限り維持せんとするためのものである。このように市民社会を取り結び、いずれかの国家の一員となったすべての人々は、これによって"自分自身の私的審判を実行して自然法違反の罪を処罰する"自分の権利を放棄したのである。そこにのみ、"政治的"または"市民的"社会が存する。それゆえに、"絶対君主政治"は"市民的社会"とは相容れないし、市民的政府の形態では決してあり得ない。絶対君主は、立法権も執行権もすべて自分だけが持っていると想定しているのであって、君主自身が侵した、もしくは命令したことで生じた、どんな侵害や不都合について、これを訴える途はどこにもないのである。理性的被造物である人間たる自分の権利について、審判しそれを擁護する自由を拒否されるのである。絶対君主政の下では、絶対権力を以って武装している者の手で、人が蒙るだろうと思われるゆうな一切の不幸と不都合とに人はさらされるのである。そのような状態では、人はそう言う(絶対君主政の)人に対する関係において、自分たちも(本来の自然権を持つ)自然状態にあるとし、安全と保障とを手に入れるべく市民的社会を取り結ぶのである。これが、市民的社会設立当初の唯一の目的である。そして、立法院を設けると言う方法によって、初めて全ての人は立法府の一員として、自分が定立した法に服従する者となったのである。それ故、市民社会では、人は自分自身の権威によって、一度作られた法の効力を免れることはできない。これが、政治的な、市民的な社会と言うことである。つまり、本来自由な人間が、法と裁判と法の執行力を持つ(立法権と執行権を持つ)政治的社会を形成するのは、自然状態では彼らの生命・自由・財産の維持は甚だ不安定なので、相互的維持が必要だからである。
 では、本来自由な人間が、いつその政治社会の一員となるのか?イギリス臣民がイギリスの婦人との間にフランスで子供をもうけた場合、イギリス国王の臣民とはならない。イギリス臣民たる特権を得るには、許可を得ねばならない。しかし、かと言ってフランス国王の臣民でもない。彼の親は、フランスから自由に彼を連れ出し養育する自由を持っている。このように、自分の祖先のどのような契約によっても、人は束縛されない自由の元に生まれる。では、人がどの政府の法の下に服せしめられるか、その同意の表明として何が必要なのであろうか?同意には、一般に"明示の同意"と"黙示の同意"がある。明示的同意は理解しやすいが、問題は黙示の同意についてである。これについては、どの政府の領土のどの部分にでも財産を持ちそれを享受している場合は、黙示の同意をしたと判断せられ、その政府の法に対し服従の義務があると考えられる。何故なら、何人でも所有権を確保し、これを規律するために他人と社会を結んでおきながら、彼自身の財産はこの政府の法の支配権から除外されるべきと言うのは辻褄が合わないからである。しかし、政府は直接的には土地に対して権限を持つだけで、この財産を手放しさえすれば、彼は自由に他のどの国家にでも加入できる。
 しかしながら、どこかの国の法に服し、それらの下における特権や保護を享受することだけでは、人をその社会の一員とはしない。これは、他人の家に一時滞在している人と同じ状態である。つまり、外国人でも、他国の下に生活する場合は(その特権と保護とを享有することによって)その施政に服すべき義務を負うが、これによって彼がその国の臣民ないし成員となることはない事が分かる。確実な協約および明示の協定契約によって現実的にそれに加わること以外には、人を臣民(国家の成員)とするものは他にないのである。

  ここまで見たように、
人々が社会を取り結ぶ大きな目的は、その所有を平穏安全に享受することにあり、そのための手段はその社会で立てられた法にある。なので、全国家の第一のかつ基礎的な実定法は、立法権の樹立にある。同様に、立法権自身をも支配すべき第一のかつ基礎的な自然法は、社会およびその内部の各個人の維持にある(※公共の福祉と両立しうる限り)。
 この立法権は、国家の最高権であるばかりでなく、共同体が一度それを委ねた者の手中で神聖不易である。それ以外のどのような法も、民衆が選任した立法権によって承認を得ていないものは、法としての拘束力をもつことができない。またこのようにして制定された法に違反し、またその認めるところ以上に及ぶどんな義務をも彼らに課すことはできない。また立法権は、人民の財産に関し絶対的に恣意的ではないし、
立法府の権力の究極の限界は"社会の公共の福祉"に限定されている。それは、臣民を滅ぼし、隷属させ、故意に疲弊させるような権利を持つ事はできない。何故なら、それは自然法上の義務に違反し、臣民が社会を取結ぶ目的に反しているからである。このように自然法は、立法者にもその他の者にも、万人に永遠の規則として存続する。自然の根本法は、人類の存続にあるから、どんな人定法もそれに背反しては正当性を持たず、有効となり得ない。

 このような市民社会が解体される、大きな要因は二つ考えられる。
 一つは、国外からの征服者たる外敵の侵入である。政治社会として取り結んだ団体が征服により強制的に無くなるので、各々が自活の道を講ずる自由があり、自分の安全を確保する自由がある。
 このような外部からの政府の転覆の他に、もう一つ内部からの政府の解体も有り得る。それは立法府が変わる場合、つまり立法府が人民から託された信任に背いて行為する場合や、人民に任命されないで法を作る権限があると称して権限無しに法を作る場合などである。つまり、国家の中で権力を乱用する者が現れ、立法者が人民の所有を奪い取り破壊しようとする場合、または恣意的な権力の下に人民を奴隷におとしいれようとする場合は、人民はこれに服従する義務は無い。同様に最高の執行権を持っている者がその責任を怠り、これを放棄し、制定されていた法がもはや執行され得ない場合もーこれは一切を無政府に帰す事でありー、確実に政府が解体する。これらの場合ないし類似の場合に、人民は自分たちの安全と福利のために新しい立法府を作り、自由に自分達のための備えをなすのである。このページで何度も述べているように、政府の目的は人類の福祉であるので、政府が人民の財産の保存でなしに破壊のために用いる場合は、これに抵抗する権利を持つのである。

現代に生きる我々とロックの哲学の適用について

 ロックの哲学は、現代の日本人が学ぶべき諸問題を多々含んでいる。例えば、日本国憲法の改正論議があるが、そもそも"憲法"をどうすべきかりの論議をする前に、日本人が"法とは何か"や"法とはどうあるべきか"を、多くの日本人が理解していないのではないかと思う。法の根本原理を理解せず、その表面上の法文を「ああすべき、こうすべき」と闇雲に議論しても、それは砂の上に城を建てるようなものである(日本の政治家には「日本国憲法を読んだことが無い」者もいると言われるが、それが事実なら酷い政治の現状である)。このHPでも度々憲法の問題を取り上げているが(→その一例はこちらをクリック!)、まずこの"法の根本原理"を知る事が先である。人間の体の根本的仕組みを教える前に、先に医術のテクニックだけ教える医大なんて無いでしょ?本末転倒で馬鹿げている。それと同じ。法だけじゃない。この民主主義社会が成り立つことの根本原理も知らないといけない。「民主主義とは何なのか?」、「何故、多数決に従わねばならないのか?」、「この一票にはどう言う意味があるのか?」、「何故、立法権、司法権、行政権が別れているのか?」等々、一度突き詰めて考える必要がある。それだけじゃない、「人間の権利とは何か?」、「国とは何なのか?」エトセトラ、色んなものが、相互に関連して結びついているのだ。
 現在の憲法は、アメリカによる押し付け憲法だからいけないと言う論議があるが(この押し付け論議自体にも問題があるが)、この論点はナンセンスである。この国に生きる国民にとって良い憲法であるかどうかが重要である。もし私がどこかの国の国民で、その国で生産される車が命のかかわる非常に危険な車だったとする。家族の身の安全を確保するために、外国の車の方が安全な車だったらそちらに乗るはずだ。「乗っている車が国産車でないからけしからん!」と言うのがナンセンスなのと同じように、押し付け憲法論議もナンセンスだ。そもそも、(日本に限ったことではないが)色んなものが諸外国から流入してきて、我々はそれを利用しているのだ。稲作しかり、仏教しかり、儒教しかり、資本主義しかり、民主主義しかり…。元々はすべて借り物だった物を、日本の国と人間に合うように長年に渡り改変してきたのである。
 話がやや逸れたが、市民的社会設立当初の目的は「自らの安全と保障とを手に入れること!」、つまり"国民の福祉"それが唯一の目的だった。互いの平和と安寧を守る法や政治体制であるのか、否か?江戸時代は、はっきりとした士農工商と言う身分制度があり、武士には切り捨てご免の特権があり、農民は過酷な年貢の取り立てで時折一揆を起こした。江戸時代の政治体制は、徳川家(ないし大名家)を守る幕藩体制なのであり、市民の安全と保障は二の次であり市民社会では決してplantなかった。では、明治時代以降はどうであろう?武家社会は終わりを迎えたが、絶対王政的な君主が徳川家から国体たる天皇に移ったと言う事であり、市民にとっては"安全と保障を手に入れた"と言う状況からはほど遠かった。事実、国家の大義名分の下、多くの国民が戦争で犠牲となった。ロックは語る。「絶対的支配者の暴力と圧迫とに対してどんな保障、どんな防壁があるか」と。そんなものは無いのである。ロックが絶対王権の君主制を批判した要因と同じ事が、江戸時代以前のみならず、明治から昭和初期の時代にも続いていたと言える。
 では、"現代"はどうなのか?形式上は"民主主義"である。法や政治は、市民の安全と保障を果たすものになっているのか?では、何故に市民の自殺がこれほど多く、失業者がかくも多く、市民の幸福度がこんなに低いのか?その一方で、なぜ国家官僚の報酬があれほどまでに高く、待遇が良いのか?これは、また別の形の絶対的権力ではないのか?市民の安全と保障の目的が果たされていないのなら、この日本は市民社会ではないのではないのか?
 政治家が選挙の時に成した公約に従わず、官僚や天下り先の法人や一部の企業に多額の税金を垂れ流す法案を多数作る一方、国民が苦しい生活や増税を余儀なくされた場合、これは明らかに国民の福祉に反した立法府の国民の信任に対する背任や、権力の乱用とは言えないだろうか!
 我々一人一人が、今こそ考えるべき時、そして考えた末に行動する時に来ている。そうでないと、日本にはいつまで経っても市民の社会とならないと思うのだ。表面的な体制はどう変わっても、江戸時代の「農民は死なぬように、生き過ぎぬように」と言う市民のあり方から脱することはできないと思うのだ。本当の時代の変革の鍵は、国民一人一人の"市民としての"自覚と成熟のあると考える。

クリスチャンである私とロックの哲学の関連について

 ロックの哲学は、最初にも述べたように、経済や法、歴史、政治と言った広い分野の考察を元に構成されている。またロックの哲学は、キリスト教のベースを抜きには考えられない論理構成で、"市民政府論"のそれぞれの核心に聖書の言葉も引用されている。他の哲学と同様、ロックの哲学も完全無欠という訳ではないが(例えば彼は各人の"所有権の保持"にかなりこだわっているが、現代的には各人の"幸福の追求"の方が適当かもしれない)、クリスチャンが耳を傾けるべき部分も多い。
 例えば(上述したように)、彼は所有権についても述べている。この例を引き合いに出して、"富"について考えてみよう。かつて自然状態の人間は、自分(とその家族)が必要な物以外の取得をなさなかった。つまり食べられる分の十倍も獲得し、それらを腐らせて無駄にしてしまうようなことは馬鹿げていた。しかし現代人のある者達は、自分の人生を百回繰り返しても使い切れないような財産を蓄えている。その一方で、食べる事も、医療を受けることも出来ず、死んでいく大勢の人たちがいる。ロックは、自分の必要な物以上を、金銀宝石や貨幣に代えて蓄財していく論理を示している。かつての"必要なもので足れり"とする思想は時代の背景に消え去り、"もっと人を出し抜け!もっと稼げ!もっと買え、もっと買え!もっと売れ、もっと売れ!足りない、足りない、まだ足りない!"と言う貪欲に取って代わってしまったかのようだ。この貪欲は、いったいどう言うことか。紙切れ同然の証券に頭脳明晰な学者達がお墨付きを与え、一部の人達だけが稼ぐだけ稼いだ後、その後はやっぱり紙切れと化す…元々紙切れでしかないのだから当然である。これほど馬鹿げた事が起こりうる、異常な貪欲の支配する時代である。
 聖書は、決して各人の財産を否定していない。しかし、この貪欲に支配される異常な富についてはきっぱりと否定する。聖書は「神と富の両方に仕えることはできない」と言う。二つの主人に仕えれば、必ずどちらかを疎かにするからだ。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのである」。イエス・キリストは、ある金持ちの例え話をする。こんな話だ。ある男が大豊作で、それまでの倉庫が小さいので建て増しをして収穫物をしまいこむ。そして彼は「ああ、もう何年も食べていけるだけの財産がある。これから、毎日騒いで楽しもう!」と心高ぶる。しかし、神は彼に言った。「愚か者よ!お前の命は、明日にでも取り去られる。そうしたら、一体それらは誰のものになるんだ?」と。また、イエス・キリストは言う。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がたやすい」と。
 このHPの経済のコーナーでも述べたが、現代の異常な貪欲のグローバル経済世界はもはや見直さねばならない時期にきている。所有とは何か、富とは何か、それはどうあるべきか、どう使うべきか…根本から問い直しても良いと思う。例えとして、経済上の富を取り上げたけれど他に、法の根本原理、民主主義の根本原理、市民社会の根本原理、これらは何なのか、どうあるべきか…グローバル社会が行き詰まりを見せる中、クリスチャンである私も、こう言った根本をじっくり見つめて、考えないといけないと思う。

(2010年 5月30日記載)


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