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政治について考える

5.政治社会の問題       (2010年11月21日記載)

 このシリーズで、簡潔に政治的社会の目的、その構成員、方法などを見てきました。私達の国家が、また世界中の多くの国家が、民主政を採用しているのは、政治的社会の目的たる"人民の安全や福祉向上"(=幸せの追求)を実行するのに最も相応しい方法と考えられているからだ、と言うことも前回考察しました。
 しかし、だからと言って、民主政が完璧と言うことではありません。歴史上の過去の政治制度よりも不公正が少ないと言うだけで、色々と欠点があること自体は否定できません。その例をいくらでも上げることができます。いくつか例示しましょう。
 本来、官僚は行政を担当する訳ですが、立法能力のない政治家に代わって裏側で実質的に法案を作成し、国民の福祉のためでなく官僚や関連団体に利益を誘導するような法律をしばしば成立させてしまうことがあります。これは、立法、行政、司法の三権分立に実質的に違反しているわけですが、表面上は政治家が法案を提出しているので問題とされない点。これは、私たちが"国民の福祉の向上"のために法律を作ってもらうために選んだ議員が、その責務を果たしていない典型的な例です。そもそも議員は立法のために選出されたわけですが、法案の作成や提出を行わず、周囲の企業や団体の利益誘導や地元の陳情の調整ばかりしているような議員も存在します。
 国民の福祉向上のために法律を作らず、官僚のレクチャーの下で官僚や関係団体への利益誘導の法律を作り、また周囲の利益調整ばかりしているような議員は、政治的社会が彼を選出した本来の目的である"国民の福祉向上"を果たしていない訳ですから、彼を速やかに政治の場から退場させるべきなのですが、法の規定により任期の間は彼は議員でいられる訳です。
 そして更に問題なのが、このような怠慢で不公正な議員が、次の選挙でも選ばれてしまうことが頻繁に起こります。地元の企業や団体と政治家が癒着しているため、利益誘導を求めて引き続きその議員を選ぶためです。結果として、その地域や団体に利益は誘導されますが、国家全体の人民の福祉は(税金=予算の総額は限りがあるので)損なわれる訳です。議会の場が、政治的社会の本来の目的である"人民の安全確保や福祉の向上"の達成のための議論から離れて、官僚組織や地域や企業の"税金分捕り合戦"の修羅場と化してしまう訳です。
 多額な資金(税金)を確保して利益誘導の覇権を握った政権は、かくして絶大な権力を保持する訳です。税金の配分に預かりたい団体や人々は、その政権との癒着や政権の長期化を願います。こうなると、一部の議員が当選しようが落選しようが、大勢には影響ありません。絶大な権力を保持した怪物的な政権は、清廉潔白な大義とは関係なく、関係団体への利益誘導を行うと同時に利益関係者への負担を軽くしていきます。結果として、逆に人民へは高い税負担を強いて税を徴収し、増税にも関わらず人民への福祉向上のための予算は減少していきます。政権が長期化すると、官僚組織との癒着も増大します。本来、立法権のみを委ねられた議員が、司法権や行政権を担う人々との深い癒着が生まれ、三権分立の神聖な垣根は侵されて崩れていきます。そうならないように選挙制度があるのですが、利益を求める地元の業者や団体は、その硬直した怪物政権を維持し続けてしまいます。
 こうして、本来"人民の安全確保や福祉の向上"を果たすべく結ばれた政治的社会は、その目的からどんどんと離れていき、人民を苦しめる"怪物"となるのです。人々は幸せになるどころが、増税ならびに法制度などの可視&不可視両面の圧迫で人々の生活は苦しくなってしまいます。現代の民主政治が持つ限界がここにあります。では、民主政に変わる新時代の新しい政治制度があるかと言うと、残念ながらまだありません。過去の絶対王政に戻ったり、無政府状態になるのもあり得ないでしょう。
 政治の制度は、人間が行うものです。制度がどのように変わっても、人間の本質は変わりません。個々の人間にも、集団としての人間にも、他人より儲けたい、偉くなりたい、力を持ちたいと言う思い(※言い換えれば行き過ぎた欲=どん欲)があります。他人の権利を侵害せずにそれを実行できればよいですが、不公正な手段でそれを実行しようとする人間や集団はどの時代のどの国にも存在し、またこれからも存在するでしょう。そう言う不公正をなくし、相互に安全で自由な生活を営めるように政治的社会を取り結んだはずなのですが、その社会を作るのは人間の法によってであり、不公正な人間は法を抜け穴だらけにする悪知恵を持っています。泥棒が自らを有罪とするような法律を作らせないように、それらの不公正な人間も自らに不利となるような法律を作らせません。結果、不正を犯しても厳罰に処される議員はほとんどいなくなるような不公正が出現します。数多くの法案を通して(民間企業の常識では考えられないような)報酬を税金から受け取る制度を次々と成立させた官僚達も裁かれることはありません。適法だからと言って、それらがイコール正しい訳ではないのです。
 民主政に変わる新しい政治制度が生まれていない現代、否、新しい政治制度が生まれたとしても、人間が不公正である限り、その新しい制度も限界が生じて行き詰まりになるでしょう。かつてロシアが社会主義国家になった時、本来は"労働者"が"幸せ"になるために起こした革命でした。結果はどうだったでしょう?皆さんがご存知のように、官僚の腐敗は極限に達し、秘密警察が増大し、マフィアが跋扈し、人々の生活は最貧最低の苦しいものになりました。大義や制度がいかなる形に変わっても、人類に見られる貪欲や不公正は変わらないのです。
 民主政は完璧ではありませんが、当面この疲弊した政治制度でもやっていかないといけません。そのために、議員や官僚の不正を厳しく罰する法律を作る必要があります。高額の罰金、懲役刑などを盛り込んだ不正を罰する法律を作る必要があるでしょう。当然、有罪となった当該議員や官僚は、二度と議員や官僚に戻れません(※"禊(みそぎ)"と言うのは、日本独自の詭弁です)。個人で犯した軽微な償える犯罪と、公的使命を担う官僚や選挙で選ばれた議員のなす重い不正に、明確な一線を引くべきです。
 また、議員や政党が選挙でなした公約の結果を調査、検討、報告する義務を、明確なルールのもとに行わせる制度も必要でしょう。公約の結果への評価がたいへん曖昧だったり、官僚文章的な"言語明瞭・意味不明"の公表だったりするので、はっきりした間違えようの無い基準が必要です。これらすべては、私達自身の身の安全、福祉の向上、つまりは幸せを追求することのできる国を作るために必要な事です。そのために、政治があるのであり、それ以外に政治的社会の存在する理由などないのです。国家がこの目的に反して、どんどん国民に増税や重い義務を課して、一部の議員や官僚達が安穏かつリッチに生活する中、大多数の国民の生活が追い詰められるなどと言うのは、あってはならないことなのです。何度でも言いますが、これは政治的社会が存在する目的から大きく外れているのです。根本的に間違っているのです。

 このシリーズで考え続けてきた、「一体、政治って何なのさ!」と言う問いに対する答えは、「みんなの安全や幸せのために、みんなでルールを決めて一緒に生きましょうよ」と言う事に尽きると思う。「一緒に生きましょうよ」と言いながら不正なやり方で貪欲に人を出し抜く人もいるように、現代の政治制度は完全無欠ではありませんが、私達が政治に関心を向け、きちんと選挙で一票を投じ続けることで、少しずつ本来の"政治的社会の存在する目的"を取り戻していくのです。

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