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7.世界各地の紛争・Ⅴ
          (2002年10月27日記載)
           

・ヨーロッパの諸紛争

 ヨーロッパと言うと世界の先進諸国の集まりで、紛争とは無縁と思っている人も多いかもしれない。しかし、他の地域の例にもれず、ヨーロッパでも紛争は多い。特に、つい最近まで激しい戦闘をしていた地域もある。ヨーロッパの紛争を見てみよう。


北アイルランド紛争

 北アイルランド紛争は、近代西欧史上最大の民族問題として注目されてきた。つい最近まで悲惨な戦闘を繰り返していた北アイルランド紛争とは、どのような紛争であったのだろうか。
 この紛争は、民族、宗教、土地という三要素が絡んだ紛争である。もともとフランスに住んでいたケルト人が、紀元前2世紀頃から始めたローマとの戦いで不利になって、大陸からイングランド北部を経由してアイルランドに逃れ住むようになった。ところが12世紀に、ローマ法王がイングランド王ヘンリー2世にアイルランドの領有権を与えた為、イングランドによるアイルランドの植民地化が進み、17世紀には北アイルランドの土地の90%がイングランド人のものとなっていった。植民地には、当初あえて粗野で荒い男女を殖民させたりしたため、居住地からはケルト人が駆逐され、殺された。英国国教会がローマ教会から分離して以後は、アイルランドではカトリックへの弾圧が激化した。クロムウェルは、二万の兵を率いて一万人ものアイルランド人を虐殺したと言われる。
 こうして、とうとう18世紀末に、アイルランド人による対英武装蜂起が起こった。しかし蜂起は鎮圧させられ、アイルランドはイングランドに併合されてしまったのである。19世紀半ばの大飢饉では、75万人もの人々が餓死し、総人口の6割の500万人もの人々が祖国を見限って、アメリカやカナダへ移住して行った。アイルランドは、屈辱的かつ悲惨な歴史を背負うこととなった。
 が、第一次世界大戦時に、再び対英武装隆起が起こった。アイルランドの伝説的英雄マイケル・コリンズの指揮の下、3000人が6万人の英国軍を相手に、正規戦ではなくゲリラ戦を挑んでいった(この時開発されたゲリラ戦法が、現在世界各地で頻発しているテロ・ゲリラ戦法の元祖であるとも言われる)。彼らは1918年に独自政府を設置し、巧妙なゲリラ戦で英国軍側を恐怖に陥れ、圧倒的な軍事力の差にも関わらず、ついに和平合意を勝ち得て、1922年に自治権を獲得した。しかしこの時の妥協が、その後の紛争の火種となって残ることとなった。全アイルランドを独立させず、プロテスタントの多い北部6州をイギリス領として残してしまったのである。1949年にアイルランド共和国は成立したが、北部アイルランドはイギリス領のままだった。
 北部に残されたカトリック教徒は危機感を抱き、イギリスに自治要求を強めた。しかし多数派のプロテスタントは、これを押しつぶそうとカトリック側と激突した。イギリス本国は、1969年北アイルランドに軍隊を投入して、直接統治を始めた。カトリック側(※アイルランド側)は武力組織「アイルランド共和国軍(IRA)」を結成して、対英テロ活動を開始した。これに対して、プロテスタント側(※英国・ロイヤリスト側)もいくつかの武装組織を作り対抗した。1985年には、イギリスとアイルランドの間である合意が成立したが、抗争は収まらなかった。1993年には、死者の累計がついに3000人を超え、イギリスはIRAをテロリスト集団として一切の妥協を拒否、IRA関係者のテレビ出演すら禁止した。一方のIRA側も、北アイルランドからイギリス軍が撤退し、北アイルランドがアイルランド本国と融合するまで闘争を止めない方針であった。
 北アイルランド紛争はよく宗教紛争だと言われるが、それは主に紛争の発端となった歴史上の過去の話である。現在双方の武装集団に、キリスト教徒はほぼいないと言われる。双方の武装集団の抗争は、卑近な例で敢えて比較するなら、日本の暴走族同士の対立や、暴力団同士の抗争に近いようである。若者が、武装テロ集団に入るのは信念に殉ずるためでなく、かっこ良さに憧れて入るのだと言う(※北アイルランドで活動した元テロリストで、現在神戸で牧師をしているヒュー・ブラウンの著書、"なぜ、人を殺してはいけないのですか"《幻冬舎》を参考とした)。
 最近ではようやくこの紛争も、徐々にではあるが和平の兆しが見えてきた。昨年の10月23日には、北アイルランド紛争で武器廃棄を監視する中立的な国際委員会は、IRAが一定量の武器、弾薬、爆発物を完全に使用不能にしたことを確認したと言う声明を発表し、イギリス側もこれを歓迎した。しかし、4半世紀以上に渡って互いに多くの同胞を犠牲にしてきた歴史があり、住民の多くは親族や友人・知人など誰かしら関係者が抗争の被害者になっていると言われ、双方の遺恨は根深いものがあり、真の平和への道のりはこれからだろう。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦

 この紛争も、つい数年前までテレビを賑わしていたので、覚えておられる方も多いだろう。ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴスラビア社会主義連邦国を構成する共和国の一つであった。そもそも、旧ユーゴスラビアには「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言う、複雑な国家だった。そして、18もの少数民族があるのだ。ボスニア・ヘルツェゴビナには、クロアチア人、ムスリム勢力、セルビア人という三つの民族がいて、彼らが紛争の当事者である(ムスリムは、セルボ・クロアチア語を母国語とするイスラム教徒)。この三つの主要民族は、言語はボスニア語、セルビア語、クロアチア語、宗教はイスラム教、セルビア正教、カトリックとそれぞれ異なっている。
 第二次大戦中、ボスニアは・ヘルツェゴビナはドイツの傀儡国家の支配化にあった。その時代にセルビア人は、ファシスト集団「ウスタシャ」がイスラム教徒たちを使って実行した大量虐殺の犠牲者となった。しかし、第二次世界大戦後はお互いの慣習を認め合い、一応混在・共存できていた。1945年にユーゴスラヴィアを統一したティトーの功績も大きく、彼は民族主義の混乱を避けるため、独自の社会主義政権を推進し共和制を強いた。ところが、ティトーが1980年に死去すると、経済危機が深刻化、同時に鬱積していた各民族の不満が噴出した。6つの共和国の間で民族主義に基づく自治独立の要求が高まっていった。かつて大量虐殺の犠牲者となったセルビア人の憎悪も、無視できないものであった。三大勢力による戦闘が激化し、彼らは残酷な「民族浄化」への死闘を展開していくことになるのである。最も民族問題の解決が難しくなっていったのが、ボスニアだった。
 ボスニアの内紛は、1991年の第二次ユーゴ・サミットの頃から始まる。ボスニアをスイス型の連邦国家にしようという構想が提案され、6月に三民族代表が「主権宣言」を提案したが、決議はセルビア人勢力を抜いて行われた。翌年2月末には、ボスニア独立について住民投票が行われたが、セルビア人勢力をボイコットしていた。3月3日にボスニア独立宣言が出されたが、これによりムスリム勢力とセルビア人勢力の対立が激化しただけでなく、各地で主要三民族の衝突が激化していった。三大民族たちは、異民族を支配地から追放したり、強制収容所に送ったり、さらには集団レイプまで行っていた。悪行はセルビア人だけでなく、クロアチア人やムスリム達も同様なことを行っていたらしい。あまりにも残虐な戦いに対して、1994年に北大西洋条約機構(NATO)が非道な戦闘を阻止する為に武力行使を開始した。1994年にはムスリム勢力とクロアチア人が連邦化に合意した。残るセルビア人勢力を鎮圧するため、7月にNATOの連絡調整グループがボスニア二分割の新和平案を提示した。しかし、兵力の多いセルビア人勢力は新和平案を拒否し、安全地帯などへ空爆を続けたため、1995年5月からNATO軍の戦闘機はパレのセルビア人勢力に攻撃を加え、8月にはセルビア人の軍事拠点に空爆を行った。その年12月14日、20万人の死者と200~300万人もの難民を出したボスニア・ヘルツェゴビナの内戦が終結した。アメリカの強制的な調停により、紛争当事国首脳がパリで和平協定に正式に調印した。
 和平協定の骨子は、次の通り。①ボスニア・ヘルツェゴビナは現在の国境線のまま「単一国家」として存続すること。②ボスニアはボスニア連邦(ムスリム勢力とクロアチア勢力)とセルビア人のスルプスカ共和国で二分され、分割比率は51%と49%とすること(ちなみに現在中間地域に、国連が管理する非武装地域がある)。③ボスニア連邦とスルプスカ共和国は、隣国(クロアチアと新ユーゴ)と「特別な関係」を樹立すること。④NATOを中心とした多国籍軍の和平実施部隊(IFOR)が停戦監視すること、などである。
 平和実施部隊(IFOR)は、規模を縮小して平和安定化部隊(SFOR)として駐留を継続している。SFORは、17ヶ国が参加している国際部隊である。アメリカによる力添えもあり、現在ボスニア・ヘルツェゴビナは秩序を取り戻しつつある。国政は複数政党制に基づく共和制で行われ、元首は三主要民族の代表からなる大統領評議会議長となっている。議会は代議院と民族院からなる二院制で、三主要民族からなる閣僚評議会が政府の役割を果たしている。内政は、1998年9月の総選挙に基づき、三主要民族のバランスを考慮した国家機構によって運営されつつある。2001年11月に第三回目となる国政・地方選挙が実施され、非民族主義政権が中央レベルで成立した。外交では、ボスニア全体としては欧州諸国の一員としての道を歩もうとしている。
 しかし、三大勢力は依然としてそれぞれ独自に軍備を保有し続けており、場合によっては再び紛争が再燃する余地が残されている。


コソヴォ紛争


 コソヴォ紛争は、上記のボスニア・ヘルツェゴビナ内戦と同様、旧ユーゴスラビア連邦内の紛争である。悲惨な内戦・紛争を繰り広げるユーゴスラヴィア連邦は、欧州各国から「ヨーロッパの恥」とさえ言われた(旧ユーゴスラビア連邦については、重複するので記述を省く)。コソヴォ自治州は、ユーゴスラビア連邦南端に位置している。人口は200万人で、民族構成はアルバニア系住民が9割、セルビア人が1割(正にアルバニアの国と言っても過言ではないのだが、歴史上はコソヴォはセルビア民族発祥の土地であり、多くのセルビアの遺跡や教会が残っている)。ティトー大統領時代に、コソヴォ自治州は広範な自治権を得ていた。ティトーが逝去した後、少数民族としての扱いに憤っていたセルビア人と、共和国への昇格を熱望していたアルバニア系住民との間で衝突が多発した。このセルビア人の不満を利用したのが、ミロシェビッチである。
 彼は、1987年セルビア共和国幹部会議長に就任すると、「緩やかな連邦制」から連邦の権限を強化する政策に変えて、セルビア人の指示を集めた。1989年3月には憲法を一部改正し、コソヴォの権限を縮小した。一方、アルバニア系住民側は「コソヴォ共和国」を樹立し、独自の憲法を制定して、1992年には大統領選も実施して、ルゴバが大統領に選出された。コソヴォ解放軍(KLA)の動きも活発化する。コソヴォ解放軍への支持は、若者を中心に急速に広がっていった(現在その兵力は4万人いるとされる)。
 自治拡大や独立を求めるコソヴォ自治州のアルバニア系住民と、それを阻止するユーゴスラヴィア連邦軍の武力衝突が激化していった。またユーゴ側は、反発するアルバニア系の住民を激しく弾圧した。世界は政治的解決を模索し、1999年2月にアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアが仲介グループを構成し、和平調停を行ってきた。しかし、ユーゴスラヴィア連邦の大統領ミロシェビッチが、NATO主体の和平維持軍によるコソヴォ展開を拒否したため交渉は決裂し、3月に再会された交渉もユーゴ側が退席し、アルバニア系住民代表の単独署名に終わった。同月22日のアメリカ特使とミロシェビッチの会談も決裂し、翌々24日NATO軍によるユーゴスラヴィアの軍事拠点空爆が始まった。NATO軍には、全体主義的な国家に苦しむ民衆を助ける義務があり、外交努力も尽きて、武力行使以外に民衆を弾圧から救う方法はないと判断した。
 NATOの空爆後に、ユーゴスラヴィア連邦軍は、コソヴォ自治州からアルバニア系住民を追い出す「民族浄化」の暴挙の愚に出て、アルバニア系住民の90万人が難民化した。妥協を知らないミロシェビッチに対して、NATO軍はアドリア海の艦船から巡航ミサイル攻撃、イタリアの基地からはNATO軍機による爆撃が行われた。NATO軍による熾烈な攻撃を受けて、1999年4月6日にはユーゴスラヴィア側が一方的な停戦を発表したが、NATO軍はこれを拒否して、政権打倒のため権力の中枢や経済基盤にまで空爆を拡大した。6月3日、ついにミロシェビッチは折れた。ミロシェビッチは主要8ヶ国の和平案に依拠した案を受諾し、NATOは78日間にも渡って続けた空爆を停止した。和平案には、①コソヴォでの戦闘の即時停止。②ユーゴスラヴィア軍と警察の撤退。③コソヴォへの国際的な文民組織と治安維持組織の展開。④国連による暫定統治機構の設立。⑤難民・避難民の安全な帰還。⑥コソヴォ自治に向けた枠組み確立への政治プロセスの推進。⑦コソヴォやその周辺諸国の経済復興を推進すること、等が盛られており、ユーゴ部隊のコソヴォからの全面撤退、NATO参加の国際治安維持部隊の派遣などが始まった。同月二十日には、コソヴォからのユーゴ軍の撤退が完了した。これにより、コソヴォは治安面・軍事面を担当するNATOを軸とした国際部隊と、難民帰還と民政面を担当する国連コソヴォ暫定統治機構(UNMIK)による国際管理下に入った。
 そのような中、2000年9月に大統領選挙が行われ、ミロシェビッチは民主派の統一候補であるコシュトゥニアに破れ、12月のセルビア共和国議会選挙でも、ミロシェビッチは完敗した。2001年4月にミロシェビッチは逮捕され、現在国連の戦争犯罪国際法廷で裁かれている。
 紛争は収まったコソヴォだが、問題は山積みである。90万人もの難民が母国へ帰還できるのか、帰還できたとして平和に暮らせるのか、破壊されたコソヴォの復興・再建築はどうするのか。また、アルバニア系の武装組織「コソヴォ解放軍」の非軍事化や、具体的なコソヴォの地位の決定など、まだまだ問題は多い。
 また国連安保理事会の承認なく行ったNATO軍の空爆や、誤爆による民間人の死傷など、NATO側の問題も露呈された。

 旧ユーゴスラビア連邦解体に関連する紛争は、他にもある。アルバニア系武装勢力とマケドニア政府軍との間に起こった「マケドニア紛争」、旧ユーゴでは比較的優等生だったスロベニアやクロアチアで起こった「スロベニア・クロアチア独立紛争」である。

 また、旧ユーゴ以外でもヨーロッパには紛争がある。ソ連崩壊を発端とするチェチェン共和国の独立紛争である「チェチェン紛争」、ソ連解体後に独立したモルドバで起こった民族紛争の「モルドバ紛争」、イスラム教徒のアブハジア人とキリスト教徒のグルジア人が対立した「グルジア内紛」、フランコ将軍に反発した少数派のバスク語族が起こしたテロが発端の「バスク民族運動」等々。先進国の集合体のイメージが強いヨーロッパにも、紛争は多いのだ。
 今これを書いている正にこの日(10月23日)、チェチェン共和国の独立を求めるイスラム武装勢力がモスクワ中心部の文化宮殿劇場を占拠して、800人以上の人質を取って立てこもる事件が起こった。武装勢力は、ロシア政府に対して「チェチェン戦争の終結」を要求したが、26日早朝ロシアの特殊部隊が突入して劇場を制圧した。この際に、人質117名が死亡(その内115名がロシア特殊部隊の使用した鎮圧用の催眠性特殊ガス(※無能力化剤との見方もある)によって死亡したことが判明、重体者も多く今後死亡者数は増えると見られる)。テロ事件は鎮圧されたが、チェチェン紛争自体は終結するどころか混迷を深めている。


・アメリカの諸紛争

 ずっと世界の諸紛争を取り上げてきたが、その最終回はアメリカの諸紛争。アメリカと言うと、まず北米のアメリカ合衆国を思い浮かべてしまうが、南米には多くの貧しい国が存在する。そこでは、貧困、社会不安、政治不安等が恒常的にあり、常に紛争の危機にさらされている。


コロンビア反政府運動

 1810年7月20日、スペイン軍を撃破してグランコロンビアが独立した。グランコロンビアには、エクアドル、ベネゼエラ、パナマが含まれていたが、1830年にエクアドルとベネゼエラが独立。1903年には、パナマが分離独立した。コロンビアは政情不安定ながらも、1849年には、大地主と教会の利益・権益を守る「保守党」、コーヒー生産と貿易で力をつけた資本家層の「自由党」からなる、二大政党制を確立した。両党の対立は激しく、19世紀中は内乱が多発した。
 20世紀初期は、保守党政権下でコーヒー貿易も盛んになり、比較的安定した時期だった。ところが1929年の世界恐慌でコーヒー価格は暴落、経済は大打撃を受け、翌年自由党政権の復活につながった。1946年まで続いた自由党政権の後は、暴力と騒乱の時代に入っていった。自由党指導者が暗殺されたことで、支持者たちが大統領官邸を襲撃したのを機に、両党の支持者たちの衝突は全国に広がった。1953年、軍が事態の収拾に介入して、ピニーリャ将軍が大統領に就任した。これを機に両党は1957年に「国民協定」を結び、4年交代で大統領を出すことで和解した(協定は1974年に解消した)。
 しかし権力構造が次第に固定化し、中央集権的になっていった。民衆は次第に不満を募らせ、非合法活動が活発になり、様々なゲリラ組織が誕生した。コロンビア革命軍(FARC)は、1964年に結成されたコロンビア最大の左翼ゲリラで、兵力は1万5千。資金源はコカイン栽培で、世界のコカインの65%を生産しているという。また、アメリカ国内で消費されるコカインの9割が、コロンビア産だと言われる。コロンビア自警軍連合(AUC)は、左翼ゲリラに対する自衛の為、大地主、企業家、麻薬マフィアらが組織した民兵組織で、1980年代に勢力を拡大した。兵力は5千。AUC側は、ゲリラに協力した農民、農村、左翼系の学者、ジャーナリストもテロの対象にし、FARC側も報復として、要人の誘拐、暗殺を繰り返した。
 サンペール前大統領が、麻薬密売組織から多額の選挙資金を受けたことが明るみに出て退任した後、1998年3月に野党保守党のパストラーナが大統領に当選した。彼の最重要課題は、左翼ゲリラとの和平交渉である。南部五市に緊張緩和地帯をもうけ、1999年1月からFARCとの対話を開始、5月に農地改革など12項目の交渉入りで合意した。しかし、緊張緩和地帯に指定された土地は、コカの葉の栽培地でもある。コロンビアは、経済の安定化、民主化を柱とする社会再生と開発の総合計画「プラン・コロンビア」を発表したが、そのうち13億ドルのアメリカの支援が、麻薬撲滅のための軍事援助のためであり、麻薬を資金源とするFARCは警戒を強めている。コロンビアの、政情はまだまだ予断を許さない。


エクアドル問題

 エクアドルは、貧困層が6割、そして最貧困層が3割も占めるという、貧しい人々が大多数を占める国家である。
 エクアドルでは経済が悪化し、1999年の始め1ドルが7000スクレから2万スクレにまで下落し、マワ大統領は2000年1月5日に非常事態宣言を出した。同月9日に、自国通貨を米ドル紙幣に置き換えた。貧しい先住民の怒りは爆発し、15日には先住民の三度目の蜂起も行われた。そして19日、エクアドルの首都キトは、非常事態宣言にも関わらず、約2万5千人の民衆で埋め尽くされた。先住民、労農団体、一部の軍人達が合流して、大統領の辞任と国家機構の変革を求めて、各地で道路封鎖やストライキを行い、キトに終結してきたのである。そして、ついに21日、陸軍の応援を受けた先住民は、国会と大統領官邸を占拠した。その夜マワは追放され、三代表(先住民のバルガス議長、軍のメンドーサ将軍、ソロルサノ元最高裁長官)により、救国評議会が宣言された。しかし、アメリカの圧力などを受けて軍が離脱、わずか三時間後にメンドーサ将軍がノボアを大統領に指名して、評議会は崩壊した。とりあえず合法的な政権移譲は実現し、事態はひとまず収拾した。
 政変後、ノボア新政権は、経済改革基本法を制定した。ドル化の実施、民営化の推進、労働調整がその三本柱である。他にも、いくつかの政策が予定されていた。先住民側は、このようなノボア政権の方針と対決していく姿勢を崩すことはなかった。先住民のリーダー、CONAIEのバルガス議長は、先住民の主張が政策に活かされなければ内乱につながる、と述べている。
 エクアドルには、ペルーとの国境線をめぐる紛争もある。国境紛争は19世紀まで遡り、合意をみることがなかった。結局1941年に戦争がはじまったが、軍事力で勝るペルーの圧勝で終わった。アメリカ、チリ、アルゼンチンの調停を受けて、1942年に両国はリオ議定書に調印した。これにより、約1660キロの国境線が画定され合意に達した。しかし残る80キロに新しい川が発見されて、あいきいなまま残った。そして1960年、エクアドルはそれを理由にリオ議定書の無効を主張。それ以来、毎年一月末になると、国境紛争が繰り返されるようになった。1995年1月の紛争は武力衝突に発展、国境線に4000名もの両国の兵士が集結した。周辺諸国やアメリカが調停役となり、両国はブラジルのリオデジャネイロで交渉を開始することとなったが、双方一歩も引かない。双方譲らないのは、紛争地域は、金、ウラン、石油といった地下資源の宝庫と見られているためだ。しかし、事態収拾への道は開かれ、再びリオで停戦協議が開かれ、ようやく両国は非武装地帯の設置で基本合意をみることとなった。そして、1999年5月13日、マワ大統領とフジモリ大統領の直接交渉で、最終的に国境線が確定された。

 さてアメリカ大陸の問題や紛争は、他にもある。貧困や収奪、抑圧からの解放を求めて独裁と汚職政治に挑む「メキシコ先住民の闘争」、少数富裕層と多数派の先住民系の貧困層の不平等が生み出した「ペルー反政府運動」など。そして、最近ではアルゼンチンでの暴動のニュースも記憶に新しい。南米の紛争や問題で共通しているのは、抑圧され収奪されている貧困層があまりに多い点だ。政権がいくら変わろうとも、この貧困問題が解決されない限りは、紛争が後を絶つことはないだろう。

 さて、ここまで数回に渡って、世界の諸紛争について見てきた。駆け足だったのですべて概略ではあるが、世界中にいかに紛争や問題が山積みになっているかを、改めて思い知らされた。紛争の原因は一つではなく、様々な要因が重なっている。ある紛争の原因は植民地支配まで遡ったり、ある紛争は冷戦時代の関係がベースになっていたり、ある紛争の原因は民族間の反目であったり、宗教的対立であったり、貧富の差であったり、資源の奪い合いだったりする。そして、紛争の多くはそれらが複雑に絡み合ったりしている。紛争を解決するのに模範解答というものはなく、世界中の国々と人々がそれぞれ和平を実現するために苦慮している。

 次回は、私たち一人一人が、具体的に平和を築くために何ができるかを考えていこう。


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