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5.世界各地の紛争・Ⅲ
          (2002年7月28日記載)


 最近の中央アジアや中東での紛争は地域内での争いに留まらず、直接・間接に世界に問題を投げかけている。特に中央アジアは日本から物理的に、中東は経済的に近い距離にあり、日本が関われる余地も大きい。紛争の背景には何があるのか、知っておくことは重要である。

・中央アジアの諸紛争

 冷戦が終わり世界は核戦争の脅威から開放され、平和への道を突き進むかのような錯覚を覚えたが、実際は民族紛争・地域紛争が多発し、新たな大規模なテロ戦や核戦争の危機が訪れている。特に中央アジアは、世界を震撼させるテロの土台となったアフガニスタン内戦や、インドとパキスタンの核戦争危機をもたらしたカシミール紛争など、多くの重大な紛争がある。


カシミール紛争

 カシミール地方は、インド大陸の北部、ヒマラヤ山脈のふもとに位置する。その名の示す通り、カシミア・ウールの産地として知られ、かつては美しい避暑地でもあった。この地はかつてイギリスの植民地だったが、直接の支配は受けておらず、多くの藩王(マハーラージャー)と呼ばれる支配者の半独立国だった。また住民の8割がムスリム(イスラム教徒)であったのにも関わらず、藩王がヒンドゥー教徒だった。
 第二次大戦が終わってインド独立の機運が高まった時も、周辺ではネルー(後のインド初代首相)の率いる国民会議派、ジンナーが率いるムスリム連盟、藩王国などの勢力が林立していた。労働党が政権を獲得したイギリスがインドを手放し、ネルーを中心とした暫定政権が成立したが、ムスリム連盟はこれを拒否。イギリスは権力をインドに移譲すると宣言したものの、ガンディーやジンナーとの交渉を重ねても統一インド構想はまとまらなかった。結局、1947年8月14日にジンナーが率いるパキスタンが独立。翌日15日には、残りの旧イギリス領と多くの藩王国を統合してインドが独立。こうして、インドとパキスタンの両国が独立した。しかし、カシミール地方の藩王はカシミール独立の夢を捨てずに、帰属問題を引き伸ばした。
 カシミールにはムスリムが多いことは先に述べたが、それで親パキスタン勢力が多く、パキスタンもカシミールの帰属を望んでいた。1947年10月には、ムスリム連盟系の議長の指導でアーザード=カシミール臨時政府が樹立された。北西辺境部のパシュトーン住民と休暇中のパキスタン軍兵士が、首都スリーナガルに迫ったり、西部ギルギットでも兵士が反乱を起こしてパキスタンへの帰属を求めた。
 ヒンドゥー教徒のカシミール藩王はあわててインドに援助を求め、インドへの帰属文書にサインした。軍事支援を求められたインドは、大軍を投入。こうして、第一次インド・パキスタン戦争が勃発した。1948年1月にインドは国連にこの問題を提訴し、翌年1月には停戦が成立した。そして3月には、臨時政府の首相に国民会議派の議長が就任した。
 インドとパキスタンの、直接の外交交渉による解決は不可能となった。国連の安全保障理事会は、住民投票の可能性を探るため現地に調査団を派遣するが、5月にパキスタンの正規軍が国境を越えてインド軍と交戦した。国連は、8月に停戦ラインを決めた。パキスタン軍と、パシュトーン部族とインド軍の大半がカシミールを撤退すること、そして最終的な帰属は住民投票で決定するという決議をした。両国は、1949年1月1日からの停戦に合意した。7月27日には、全長7,500キロメートルに及ぶ停戦ラインが決まり、国連監視団が置かれた。しかし、両国は国連の決議を自国に有利なように解釈し、軍の撤退や住民投票の方法についても互いに非難を繰り返した(国民投票を主張していたインドは、後にそれを撤回)。停戦ラインをはさんで、西北部はパキスタン側のアーザード=カシミールが、南東部はインド側のジャンムー=カシミールが、そして後には東部の一部を中国が支配するという状況が続いた。
 1962年に、パキスタンはアユーブ・カーンの統治下にあったが、国名からイスラムの文字を外したため伝統的な層から反発を招き、1965年の第二次インド・パキスタン戦争も彼の地位を危うくした。東部ベンガルでは、中央に虐げられる政策や弾圧が不満を増大させ、1971年3月にパキスタンからの独立を宣言し内戦に突入。このゲリラ戦にインドが軍事介入、第三次インド・パキスタン戦争が勃発。戦いはインド側が勝利をおさめ、バングラデッシュが誕生した。
 1980年代末からは、インド領内でもカシミール紛争が激化。インド国内のパキスタン過激派が、テロ化(背後でパキスタンが後押ししているとも言われる)。
 1999年に、クーデターが起こって核保有国として初めてパキスタンに軍事政権が誕生した。2001年7月には、インドのバジパイ首相とパキスタンのムシャラフ大統領が、国交正常化に向けた首脳会談を行ったがカシミール問題をめぐって対立(この会談の期間中も、両国はカシミールで軍が衝突して42名の死者を出している)。核保有国同士の紛争であるにも関わらず、カシミールは核戦争の舞台になる可能性は小さいと言われていた。インドにとっては、偏西風により放射性物質がインド国内に流れ込み、パキスタンにとっては、放射性物質がインダス川からアラビア海に流れ出すからである。しかし最近になって、インドとパキスタンの緊張が高まり核戦争の危機が増大した。パキスタンにはアメリカが、インドにはイギリスが介入するなどして、国際社会が両国に自制と対話を求めている。現在もこのカシミール問題は解決しておらず、インドとパキスタンが互いに相手を非難し続けていて、互いに一歩も引く様子はない。


アフガニスタン内戦

 大惨事となったニューヨークでのテロ事件を発端として、昨年末から今年初めにかけてアフガニスタンがテレビに登場しない日がないほどだった。それまでは世界中の人々はたいしてアフガニスタンに目を向けていなかったが、この国の問題と内戦が世界中の関心の的となった。
 このアフガニスタンの問題を考えてみる。何故アフガニスタンはこれほどまでに、内戦の激しい国になってしまったのか。そもそもこの国は、かつてイギリスの保護領下にあった。1919年にイギリスの保護領から独立する時、国境線はその地域に住む民族の分布に対する配慮がなく、列強国の都合で定規で引かれたような真っ直ぐな国境線が引かれた。これが、後々様々な問題を巻き起こす原因の一つとなる。
 独立した「アフガニスタン王国」は、ザヒル・シャー国王下の統治下で、東西どちらの陣営にも属さない非同盟中立の立場をとっていた。ところが1973年に国王が海外に出ている隙間を狙って、国王の甥のモハメド・ダウドがクーデターを起こした。ダウドは1953年から首相の地位にあったが、パキスタンと戦争状態にまで悪化した1963年に国王に辞表を提出した(強硬姿勢による和平交渉の失敗により、責任を取られされたとも言われる)。クーデター後、ダウドは王制を廃して共和国に移行し、国名は「アフガニスタン共和国」となった。ザヒル・シャー国王は、滞在先のイタリアで退位を宣言。ダウド政権は、次第にソビエト連邦との軍事協力色を強くしていった。しかし、一方でパキスタンとの関係修復、イランとの接近などのアメリカ寄りの姿勢も強めていく。バランス外交を駆使しようとするアフガニスタンだったが、ソ連はアフガニスタン内の左翼連合の人民民主党と軍部を後押しして、1974年4月に「四月革命(第一革命)」を決行させた。王宮は戦車に包囲され、空軍機による攻撃でダウド大統領と王族30名、および数千人の政府関係者が殺された。この後、革命評議会が発足し、社会主義者であるタラキ政権が発足した。国名は、「アフガニスタン民主共和国」と変わった。
 1979年、アフガニスタン民族主義色の強いアミンが大統領に就任すると、ソ連はこれを排除しようとするが失敗。そこで、アミンの私邸を襲って殺害し、同年12月にソ連はアフガンに侵攻を開始。同時に、カルマルが政権を奪取した。ソ連は当初国際社会からの反発を考えて軍事介入には消極的だったが、大衆から支持されないアフガン内の派閥抗争の激化による既得権益喪失を憂慮したため侵攻した。ソ連はカブール北方に空輸部隊を増派したが、アフガンの反政府ゲリラ組織のムジャヒディンが、ソ連の侵攻をイスラム教に対する重大な挑戦とみなし、各地で激烈な反撃を展開、民衆もそれを支えた。ソ連の目論見は、アフガン難民の大量発生と、難民を支援するアメリカ、パキスタン、サウジアラビアによってくじかれた。また、アフガニスタン介入による戦費の高騰による国民の負担は、ソ連国民の不満を増大させた。1986年にゴルバチョフ政権のソ連は政策転換し、1989年にアフガンからソ連軍を完全撤退させた。1992年には、アフガニスタンは共産党ナジブラ政権が崩壊し、首都カブールは戦功のあった反政府ゲリラ組織のムジャヒディンの手に渡った。しかしアフガンに平和は戻らず、各地の武装勢力が権力抗争を繰り返す群雄割拠(日本でいえば戦国時代)の状態になった。そして、アフガニスタンは泥沼の内戦へと突き進んでいく。
 かつての美しい国土は荒廃し、一人あたりの年間所得は100ドル以下(1万円程度)となってしまった。国民1900万人の内、約300万人が難民として、イラクやパキスタンで悲惨な生活を送ることとなった。その後、タリバンが首都を制圧したが、タリバンにはアフガン全土を統一するだけの力はなかった。アフガニスタンは、もはや民族でも、イスラム原理でも統一できない国家になってしまった。その後のアメリカでの同時多発テロやタリバンへの空爆は、ニュースで周知の通りである。
 現在、アフガニスタンでは安定した政治基盤作りが模索されている。各武装勢力や各民族間の均衡を保つ努力がなされているが、もともと民族の分布を考慮していない国境線を持ち、かつ長く続いた内戦による憎悪と荒廃により、国家の基盤は不安定である。2001年12月、国家再建を目指し、アフガニスタン暫定行政機構の議長にカルザイ氏が就任した。カルザイ議長はザヒル・シャー元国王を訪問して支持を取り付けたり、各国を訪問してアフガンへの支援を要請したりしている。カルザイ議長は、治安維持・経済復興・民主化の三つの課題を柱に、国内産業の発展と海外からの投資を期待するなど、復興への期待が持たれている。

 中央アジアの紛争を二つほど見たが、中央アジアには他にも多くの紛争がある。シク教徒の農業革命による経済力を背景にした勢力の拡大と、それに対するインド政府との軋轢。そこからシク教徒とヒンドゥー教徒の過激な対立に至った「パンジャーブ問題」。長年続けられてきた専制君主制に対する不満が爆発した形の「ネパール民主化運動」。スリランカの第一勢力の民族シンハラ人が、第二勢力の民族タミル人を疎外しようとした政策に端を発する「スリランカ民族紛争」。アルメニア人大虐殺や弾圧の歴史を背景に、ソビエト連邦の崩壊で火ぶたを切った民族自決の戦いの「ナゴルノ・カラバフ紛争」。その他、いずれも民族問題が主因である「ウズベキスタン問題」「キルギス問題」「タジキスタン内戦」等々、多くの紛争・問題が山積している。


・中近東の諸紛争

 中近東での最大の問題は、やはり「イスラエル・パレスチナ問題」である。現在、世界各地で起こっている紛争やテロの原因の多くは、この問題が多かれ少なかれ関係している。イスラエル・パレスチナ問題は先に第三回目で取り上げたので、今回は中東の別の紛争を取り上げる。


エジプトのイスラム復興運動

 1952年7月の自由将校団の決起によって、政権を奪取したエジプトの独立の英雄ナセルだが、将校団には統一的なイデオロギーがなく構成・思想は雑多だった。当初の戦略目標は「イギリスからの完全独立」「ファルク国王体制打破」で一致して、政権奪取後は国王ファルクの廃意(1952年7月)、第一次土地改革、共和国宣言(1953年6月)などの成果をあげた。次の段階で「革命司令会議」内部のナセルとナギープとの闘争が、「革命司令会議」と「ムスリム同胞団」との闘争と重なった。結果的にナセルの主導権が確立していき、外交面での立場も先鋭化していった。これは、チェコスロバキアからの武器購入決定、これに反発したアメリカ・イギリスのアスワン・ハイダム建設への資金援助撤回、またスエズ運河国有化宣言(1956年7月/スエズ運河の収益をアスワンハイ・ダムの建設費に充当するため)、第二次中東戦争(1956年9~11月)の遠因となった
 スエズ運河のエジプト国有化は、一世紀近く運河で甘い汁を吸っていたイギリスとフランスを怒らせた。両国はイスラエルと共謀して、1956年10月30日にシナイ半島へ侵攻した。こうして、イスラエル・イギリス・フランス三国による侵攻から、スエズ動乱が勃発した。しかし、ナセルの断固とした態度と国連総会の停戦勧告、アメリカとソ連の警告の結果、イギリス軍はエジプトから最終的に撤退し、1882年以来のスエズ軍事占領にピリオドが打たれた。1958年、シリアとの統合も行われエジプトは「アラブ連合共和国」と国名を改めた。この後、ナセルはアジア・アフリカ諸国の指導的地位について活躍し、国内社会主義的建設に尽力した。
 記憶にまだ新しいが、1997年11月にエジプト南部ルクソールでイスラム原理主義過激派「イスラム集団」による、史上まれな惨事、観光客襲撃事件が起きた。この集団は、反体制的なイスラム主義の中でも最も過激で急進的な集団の一つで、暗殺、誘拐、無差別銃撃、爆破テロを行う。エジプト政府は、1992年からこれらイスラム主義急進派と全面対決に突入した。軍や治安部隊の圧倒的な威力の前に急進派の指導者の多くは海外に逃亡し、ルクソールの事件は壊滅状態の組織の自暴自棄の行動ともみれた。この事件を契機に、過激派は国民の一部にあった指示を失った。
 今日のエジプト社会において、民衆の不満はイスラム復興運動という形で噴き出している。イスラム原理主義には、穏健派の「ムスリム同胞団」と過激派の「イスラム集団」等に分かれる。ムスリム同胞団はテロは行わず、イスラムの実践を呼びかける地道な活動を行っている。一方のイスラム集団は、イスラムの実践だけでなく政権を打倒し社会をイスラム化すべきだと主張し、警察や観光客への襲撃を続けている。政府VIPに対するテロ戦術も強化している。これらの過激派は、アフガニスタンでの戦闘にも参加したイスラム過激派が大勢いたように、イスラム諸国を初め各国に広く散らばり情報網とテロ網を作っている。


クルド人問題

 クルド人の起源は古いが、その歴史は大国の支配の連続だった。総人口2,500万人の彼らの居住地域は、イラン、イラク、トルコの三国によって分断されている…彼らの住む山岳地帯クルディスタンは、イラン、イラク、トルコ、シリア、ロシアの国境によって分断されている。クルド人は国家を持っていないが、固有の言語や文化を持ち民族的な一体感を持っている。どこの国においても、クルド人は少数で蔑視の対象になっている。第一次大戦後、独自の国家を作る好機があったが、歴史に翻弄されて条約は破棄となり、クルド人統一国家の夢はつぶれてしまった。
 イラク北部に住むクルド人は、これまで何度かサダム・フセイン政権と衝突している。1988年に反政府運動を起こしたが失敗し、100万人単位で難民化した。多国籍軍は、イラク北部を安全保障地帯にしてクルド人居住区とし、実質上イラク北部のクルディスタンに自治権が与えられた。ところが、ここでは自治区北部のクルド民主党(KDP)と南部のクルド愛国党(PUK)が内部抗争に明け暮れ、戦闘が勃発。KDPはサダム・フセインと組んで、PUKを撃退し自治区を支配下においた。
 クルド人は民族の数としてはアラブ人、トルコ人、イラン人についで四番目だが、険しい山岳地帯とその協調性に欠ける性質から、一度も統一国家を樹立した経験がない。イランとイラクとトルコの各クルディスタン間では、協力関係がないばかりか、むしろ関係は悪化している。現在、クルド人のトルコからの分離独立運動はさかん(トルコの総人口の1/4がクルド人)で、1984年以来クルド労働者党(PKK)が激しい武力闘争を開始した。PKKの党首オジャランは、山岳部ではゲリラ戦を、都市部では爆弾テロを行使して、トルコ政府軍に対抗してきたが、1999年にオジャランはトルコ当局により国家反逆罪で逮捕され死刑判決を受けた。EU諸国の指導者たちは、死刑執行をすればトルコのEU加盟の見通しは危うくなると警告、トルコは死刑を執行できない。現在、PKKはトルコ内での自治権要求など、現実的な目標を掲げている。


レバノン内戦

 学生時代、よくテレビでレバノン内戦のニュースを見たが、一体どんな理由でここで内戦が起こっているのかよく分からなかった。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の宗教が三つ巴で争っていて、街中はまさに瓦礫の山で、世界中のテロリスト達の集積場、そしてテロの見本市のように思えた。
 レバノンという国名は、アラム語の「ラバン(白い)」に由来し、急激な山岳地帯は雪に覆われている。西を地中海、東と北をシリア、南をイスラエルに囲まれ、こうした地理的・地形的特質が、レバノンに特有の宗教宗派を生み出した。レバノンには、四大キリスト教宗派と三大イスラム教宗派を中心とする七つの宗派が存在。その中で最大の宗派が、マロン派のキリスト教である。
 第一次大戦後より、レバノンはフランスの支配下にあったが、1943年に独立。政府は、大統領をキリスト教徒から、首相をイスラム教徒から選出するなど、国内の権力を分割したが、イスラム教徒はこれに憤慨。1970年のパレスチナ解放機構(PLO)のレバノン侵攻に端を発し、キリスト教マロン派、アルメニア教会、イスラム教スンニ派、同シーア派など各宗教が私兵を擁して対立、1975年に内戦が勃発。当初はPLOを中心としたイスラム勢力がベイルートを治める勢いだったが、PLOの優位確立を嫌うシリアが1976年に内戦に介入。事態は、泥沼化の様相を帯びて行く。
 1982年6月には、レバノンでの親イスラエル政権樹立を目指して、イスラエルが国境線を越えてベイルートに侵攻した。レバノン戦争の勃発である。この結果、PLOはアラファト議長以下一万人以上がレバノンから脱出。しかし、パレスチナ人の大量虐殺やシーア派系住民によるテロ事件が頻発するなどして混迷し、1985年イスラエルはレバノンから撤退せざるを得なかった。その後、シリア軍が進駐して勢力を拡大し、1990年にキリスト教グループの最有力指導者の将軍を攻略、15年も続いた戦争は終結へと向かった。1991年5月、レバノンはシリアと友好協力条約を締結した(しかし、宗教的対立の根は除去されたわけではない)。レバノン駐留のシリア軍は一部を除いてベイルートから撤退し、撤退した部隊の多くはベッカー高原に再配置された。
 このレバノン内戦で、テロ戦略におけて転換期となる重大な戦略が行われた。自爆攻撃である。この究極の殉教(と彼らが考える)テロ行為を組織化した最初の武装集団は、「ヒズボラ(神の党)」である。ヒズボラは、1982年夏にレバノンに侵攻したイスラエル軍に対抗するため、ベカー高原に送り込まれたイラン革命防衛隊の遠征軍が、現地のシーア派民兵をその傘下に結集したのが最初である。
 ヒズボラの黒幕は、イランのイスラム過激派だと言われる。イラン・イスラム革命の指導者ホメイニ崇拝の思想操作が徹底して行われ、兵士たちには殉教の精神が叩き込まれた。自爆テロは、こうして生み出されていった。1983年10月には、ベイルート駐在中のアメリカ軍海兵隊兵舎とフランス軍司令部に、ヒズボラ兵士が運転するトラック爆弾が突入、297人もの犠牲者を出した。イラン政府や各国のシーア派原理主義者たちは、これを聖なる殉教行為だと称えた。その後も各地で起こっているイスラム原理主義者の自爆テロは、こうした殉教思想によって起こされている。訓練を受けた殉教テロリスト達は任務を帯びると秘密裏に行動し、例え任務遂行中にばれても命を失うことを恐れていないので、当局の説得や脅しがまったく効かず自爆テロを制止することが困難である。

 この他にも、多くの紛争がある。ご存知「イラク問題」…かつてイラン・イラク戦争や湾岸戦争を起こした独裁フセイン政権は今も健在で、テロの支援国家と言われている。ギリシャ人とトルコ人の対立が原因の「キプロス紛争」。過激な国内イスラム原理主義者と政府との抗争から起こった「アルジェリアのイスラム復興運動」。広大な砂漠を抱えるサハラの領有権を巡って争われる「西サハラ独立運動」等々、中近東にも多くの紛争・問題があるのだ。

 次回は、アフリカの紛争を見ていきたい。


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