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1.憲法第九条と自衛隊
          (2001年12月23日記載)


 20世紀の終わりには、「21世紀は環境の世紀になる」とか「平和・共存の世紀になる」とか言われていた。しかし現実は、史上最悪の悲惨なテロで幕を開けてしまった。今、世界には「平和」が求められている。「平和」と「安全」には、大きな違いがある。自国一国が敵に攻撃されず衣食住を保障されることを「安全」と言い、一方世界中のどこにも紛争や戦争がなく、世界の人々が貧困や飢餓と無縁で生きられることを「平和」と言う。歴史上「安全」は限定的に存在したが、「平和」が実現した世紀は一度もない。常時、世界のどこかでは内戦や地域紛争、戦争が起こっている。とうぜん難民の発生は続き、貧困や飢餓、病気も、恒常的だ。この「戦争と平和」では、世界が平和になるにはどうしたら良いのかを模索してみたい。
 聖書に、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる」と書いてある。イエス・キリストの言葉だが、「平和」を「願う者」や「平和」を「祈る者」が幸いとは書いていない。「平和」を「実現する者」が幸いだと言っている。世界で人々が苦しんだり死に追いやられている中、部屋に閉じこもって「戦争やだなぁ。平和が来るといいなぁ。」と願っているだけでは、決して平和は実現しない。「平和」は観念論や理想論だけでは訪れない。具体的な「現状分析」、「分析に基づいた的確な判断・計画」、そして「実行」が必要である。
 初回の今回は、私達の住む国・日本のしばしば問題となる「平和憲法と自衛隊問題」について考えてみたい。


・憲法第九条と自衛隊

 さて、イラクがクェートに侵攻したことに単を発する湾岸戦争。その際に、日本は世界中から白い目を向けられた。諸先進国は軍事も含め様々な人的貢献をする中、日本は何の貢献もできないまま、結局130億ドルという途方もない巨額のお金を差し出した。日本円にして、約1兆4千億円!小国の国家予算にさえ匹敵する巨費である。ここまでの資金を出しながら、日本は尊敬の念を受けるどころか侮蔑の目を向けられたのだった。「日本人は金だけ出して血を流さない」と受け取られた。私のような日本人にしてみれば、「1兆円もの税金を捻出するのに日本人がどれだけ苦労しているか分かっているのか!多くの者が睡眠時間を削り、ある者は過労死している。そうやって集めた血税だぞ!こんな血の流し方、おまえらなんかにできるか!」とでも言いたいが、こんな主張は国際舞台では当然まったく通用しない。事実、湾岸戦争後にクェートが新聞に出した「感謝広告」に、多くの国の名前が列挙されていたのに、130億ドルもの巨費を出した日本の名前はそこになかった…。では、なぜ世界第三位の軍備を持つ自衛隊が国際舞台に登場できないのか。ご存知、日本国憲法第九条があるからである。戦争放棄の条項であり、平和憲法の核でもある。ちゃんと読んだこともない人もいると思うので、第九条全文をまず見てみよう。

第九条
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 
 素直に読めば、永久に軍備と戦争を放棄していると読める。それが普通の人の感覚だし、事実憲法作成の指揮を執った占領軍の司令官マッカーサー元帥の意図は、条文に見られるそのままの意味だったと考えられている。どうだ、世界で初めての理想の平和憲法を持つ国が誕生するのだぞ、すごいだろ!ということだったのである。日本の政治家の発言も、そのままの意味で解釈していた。要するに、「平和国家日本は、戦争は金輪際放棄するし、軍隊はもちません」ということなのだ。
 ところが…、である。その後、世界はソ連対アメリカの冷戦構造となってしまった。マッカーサーは共産主義国の脅威が拡大していく中、日本をアジアの戦略拠点にする必要に迫られる。「でも平和憲法って、宣言しちゃったしなぁ…」と言う事で、憲法の解釈を変更、1950年1月にマッカーサーは「憲法第九条は自衛をも否定したものではない」と発言し、吉田首相の発言も「憲法第九条の戦争放棄条項は、自衛権を否定してはいない」となる。その年6月に朝鮮戦争が勃発、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日本は7万5千人もの警察予備隊を創設、同時に海上保安庁も定員を増員した。で、この警察予備隊だが、吉田首相は「警察予備隊は治安維持を目的としており、憲法違反ではない」と語る。要するに「警察に毛が生えた程度のもので、とてもとても軍隊なんて呼べるもんじゃあ、ございません」ということである。それを言い続けて、世界第三位の軍隊である自衛隊となっても、「自衛隊は軍隊ではない」と頑固に言っているのである。占領軍であるアメリカの日本再軍備方針は決定していたのだが、被占領国家たる日本には平和憲法がある…。大きな矛盾。
 そこで、ひたすら政府は「自衛隊は軍隊ではない」の方針の下で、憲法第九条をどんどん拡大解釈していく。現在、どこまで解釈が進んだかというと、「国際紛争を解決する手段として」は、「永久にこれ(国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使)を放棄する」と言っていると、言っている。どういう意味かお分かりだろうか?要するに、「"国際紛争を解決する手段"という条件に当てはまらなければ、武力は行使していいんじゃないの?」と言っているのだ。「他国から攻撃されるのは、国際紛争とは言えない」→「だから、自国を守る権利(自衛権)を放棄したことにはならない」→「ということは、憲法第九条は明らかに自衛権を認める憲法である」という、解釈、解釈、解釈の連続で「日本は、自衛のためなら戦争するよ」という解釈になっている。
 ちなみに、国連憲章は51条で国の固有の権利として自衛権を認めている。「他国から攻撃されたら、世界警察の国連軍が結成されるまでは時間がかかるから、自国の軍隊で持ちこたえてね」ということである。


・憲法第九条と集団的自衛権

 さて、最近問題となっているのが、集団的自衛権の問題である。「集団的自衛権」とは、同盟国が攻撃を受けた時に自国が攻撃されたのと同様に、敵国に軍事力を行使できる権利のことを言う。NATOは、この権利を行使する典型的な軍事同盟である。日米安保条約も、同様である。先ほどの国連憲章の第51条ではこの「集団的自衛権」も認められている。で、日本はどうかというと、「国際法上は集団的自衛権の権利はある」が、「国内法により集団的自衛権は行使できない」という解釈をしてきた。つまり平和憲法で自国防衛は認められるが、同盟国アメリカが攻撃されても平和憲法によってアメリカには軍隊を派遣できないよということである。
 ところが、様々な国際紛争やテロ事件で、日本の国際舞台での活躍が求められるようになった。しかし、日本は平和憲法の下、解釈により自衛権はあるとしたが、日本から出て活動できない。またまたジレンマである。そこで、またまた解釈の連続を駆使する。「集団的自衛権でも、目的が自国自衛のためならOK」、「集団的自衛権行使には、軍事手段以外のものなら当然OK」と言う事となった。このことが、またまた国際分野で世界の常識では理解されない分けの分からない混沌とした国際貢献を生み出していくこととなる。しかし、これについては次回以降触れる予定。

 さて、この章の最初で湾岸戦争時、日本は莫大な資金を出したにも関わらず世界中の嘲笑を浴びたと書いた。歴史に「if」はないが、「もし日本が平和憲法を堅持し」ていたら、世界中の尊敬を集めていたかもしれないし、侵略・工作によって朝鮮半島の北朝鮮のようなとても悲惨な国家になっていたかもしれない。一方、「もし日本が平和憲法を止」めて、国際舞台に自衛隊を派遣していたら敬意を払われていたかもしれないが、日本が戦争に巻き込まれていたり、公共事業と同様に軍備に莫大な税金を垂れ流していたかもしれない(今でも十分莫大な額だが)。しかし、少なくとも今のままのような中途半端なあやふやな状態では、世界中からあざ笑われ続けるだけだろう。

 次回は、自衛隊のシステムや装備、そして自衛隊の国際舞台での貢献について考えていく。


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