現代自然環境破壊学概論

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3.環境破壊と経済
★1987年1月論文の内容

 以上、自然環境の破壊について5つの分類をして見てきたが、これは一例に過ぎない。記さなかった他の自然環境の危機や具体的な事象例等はまだ数多くあるのであって、ここにはそれらの中からほんの一部を示したに過ぎない。また、この論文の冒頭でも述べたように、社会的・政治的・経済的様々な要因が絡み合って環境破壊を起こしているので、原因や影響について他の観点から考えねばならないことがまだまだ数多くあることを素直に認める。

①.原因についての総括
 今まで見てきた自然環境の破壊の人間の手による原因について、もう一度簡潔にまとめてみる。

(1)森林破壊・・・開発途上国の大規模な森林伐採とその輸出、過剰農耕、過放牧、焼き畑農耕や過度の薪の採取が原因となっている。これらは、多額の累積債務を背負った開発途上国の経済面重視の政策や、増え続ける貧困層に起因している。その他、工業国の大気汚染から発生する酸性雨も原因となっている。
(2)動植物の減少・・・人口増加による生活域の拡大や、開発による森林等の動物の生息地の破壊、人間による乱獲や狩猟(背景にある先進国の高値大量輸入)、農薬などの影響が原因となっている。植物も、同様に森林の破壊や酸性雨等が原因となっている。
(3)大気汚染・・・工場からの大量の汚染物質の排出、増大した交通機関からの汚染物質排出、家庭や農業での化学物質の大量使用、砂漠化の進行等が、原因となっている。
(4)水の汚染・・・工場からの大量の汚染物質の排出、都市下水の不備、家庭からの洗剤や油等の排出またはゴミの投棄、農業で使用された化学物質の蓄積、核実験や土壌の破壊が、原因となっている。
(5)土壌の破壊・・・森林の破壊(砂漠化)、排水(及び灌漑)施設への投資や啓発的努力の消極さ、化学肥料重視により(輪作や休耕期間等の)従来の農法の軽視、近代化による土地利用の偏り等が、原因となっている。

 以上の事を、企業・国家・個人の各項目ごとに、その原因をまとめる。

(一)企業・・・企業は「最小費用、最大利潤」の原則で営まれ、これが自然環境へ悪影響を与えている。大気汚染や水の汚染で見たように、企業は汚染物質の除去装置への投資や賠償責任等に対して、積極的ではない。製造コストの上昇をもたらすためだ。土壌の破壊でも見たが、現代の農業(※営利を目的とする企業と言う観点から見た農業)は、長期的な視野をもたぬ焼き畑や化学肥料の使用と言った、安易かつ低コストの農法に傾きやすい。また企業は、二国間以上の国際的な輸出入を行っており、自国の物より他国の物が安価な場合、それらの輸入を増やすことでコストを下げる。森林破壊の章で見たように、開発途上国の木材は安く、大規模な伐採が行われ、大量に輸出される―等である。
(二)国家(行政)・・・20世紀以降は人口の増加が著しく、一方土地や資源と言ったものは有限であり、好むと好まざるとに関わらず自然環境破壊は進行している。破壊の防止もしくは回復は、国の政策にかかっている。しかし世界規模で見れば、今のところは破壊を進行させている。近代化重視による偏った政策(土地の利用方法、開発事業のあり方、税体系・補償等のあり方、様々な方面での偏り)が、自然環境の破壊を推し進めている例を数多く見ることができる。また、行政は個人の企業の守備範囲を超えた環境破壊の保全の投資(下水処理設備、保林事業、様々な基幹工事等)に対して、非積極的であるか不適切なことが多い。更に、今まで見たように現在の法律の規制では、大気や水の汚染を抑える事ができない。これは規制と言うものが、汚染が重度に進行してしまった後の事後的に(法制化される)規制であることが多く、また現在科学的、経済的に汚染物質の処理が可能な範囲内の規制である事も挙げられる(そうでないと、ほとんどすべての工場を停止させなければならなくなる)。また過去の例を振り返ると、たいていのどこの国においても、国家(行政)側は企業を保護もしくは弁護する傾向にあり、規制や補償に対する対応が遅れがちである。政党を支える企業との関係や、政治家個人や官僚達と企業の間の癒着の問題なども考えねばならない。被害を訴える弱い立場にある住民側の裁判が、莫大な裁判費用や裁判の長期化により不利になる傾向も無視できない。
 次に、個々の国家の枠を超えた全国的な問題について述べておく。開発途上国の累積債務が、自然環境破壊の根本的原因となっているからである。返済不可能な累積債務が、開発途上国を急激な近代化、工業化、経済の高度成長化を強いており―長期的な視野を持たない急激な自然地域の開発や地力を無視した農業、工業に対する緩やかな規制等―を招いているのである。
(三)個人・・・個人による破壊の原因は、道徳的・倫理的な面が強い。実質的には、不適当な洗剤の使用や油やゴミの廃棄、不必要な自動車の使用、意識的な自然環境の破壊等を挙げることができる。しかしそう言った事以上に、潜在的・意識的な自然環境保護の精神が個人個人に培われていない場合、企業や国家、個人による破壊を見逃して不必要に破壊を行わせてしまうし、現にそう言う状況になっている。今後、全世界規模での環境教育が必要になるだろう。

②.環境破壊への経済の対応
 本論文の初めで述べたように、自然環境の破壊は、社会的・政治的・経済的様々な要因が複雑に絡み合って起こっている(前章で原因の総括をしたが、要因の一部をまとめたにすぎない)。それぞれを引き離して考えるのは難しいが、この章では経済の面になるべく絞って、自然環境破壊への対応を考える。
 我々は、現代の社会において「共有」の財産を有している。時に、それが森林、漁場、河川、海洋、大気、土地であったりする。そして、「共有財」に、増え続ける人口の圧力が働いて、悲劇が生ずるのである。伝統社会的文化圏における遊牧民達は、人口と家畜の増大により過剰放牧を余儀無くされ、草地を消滅させ砂漠化をもたらした。一頭の家畜増加の影響は、他の全牧夫に分割されるため、その牧夫には大きなマイナスとならないためである。人口増加と経済成長の下で、資源の保護は極めて難しい管理問題であり、限られた人類共有の資源は、保護措置が講じられなければ「共有財の悲劇」を生む。各個人は、共有財産を短期的に最高の利益を出すような使い方をするのだが、それは社会全体の長期的福祉の見地からは、好ましくない状況をもたらす。しかし、多くの伝統社会的文化圏に住む人々は、その経験から共有財である諸資源に対する需要を制限する解決法を見出していた。これらの要素は、産業化社会と接することによって変革を余儀無くされ、その結果遊牧社会の場合、利用可能な草地では、維持できないほどの人口と家畜頭数の増大をもたらした。
 現代の産業社会的文化圏もまた、環境に対して人口圧力を及ぼしている。産業社会は伝統的社会と比べると、人口一人の追加が世界の諸資源に対してより大きな需要を生じさせ、また環境への影響が通商と言う手段によって遥かに広い地域に及び、経済の仕組みが遥かに複雑である。一般的に、「産業社会的人間」は、「伝統的社会人間」よりも、世界や資源に対してより大きな作用を及ぼす。しかし産業社会的人間は、その環境悪化の深刻な事態から(地理的、意識的に)隔てられているため、環境的影響を直接経験する事が少ない。産業的社会においては、様々な種類の廃棄物が増大し、様々な破壊が行なわれ、環境に悪影響を及ぼしてきたのは、この論文で見てきた通りである。
 産業的社会―社会主義(計画経済)、資本主義(市場経済)を問わず―は、共有財としての環境資源を保護する際には、完全には解決され得ない困難な問題に直面する。環境資源を貨幣価値に換算し、現在及び将来の費用と資源及び保護施策の便益とを比較考量しているからである。
 市場経済の理論では、財(あるいはサービス)の価格は需要に対して大きな作用を持っており、環境的費用が市場価格に含まれるようになれば、市場による環境的共有財の需要量や使用量の制御が可能となる。多くの環境的犠牲(今まで見たような水質、空気質の悪化、種や森林の喪失等)が、社会の大きな部分ないし全体で引き起こされるために、その評価問題が生ずる。(経済学者が言うところの)「外部性」のため、こうした費用(犠牲)は一般的には、個々の財たるサービスの価格には含まれていない。もし環境費用が市場価格に含まれないならば、市場は環境を保護するためには機能できないことになる。同様の環境評価問題は、社会主義体制下でも生ずる。政府公定価格は、しばしば外部費用を市場価格より適切に反映させる事に失敗する。また、環境的共有財を保護しようとする際に、社会主義体制下でも市場主義体制化でも、時間選好率決定を行なう際に、現在価値還元法が用いられている。この方法下では、将来の便益ならびに費用が、現在価値に割り引かれることになる。割引率が大きいほど、環境保護の困難性は増大する。
 さて、経済主体(生産者や消費者)は、プラスの影響を発し福祉を増す面(外部経済の発生)と、福祉を損なうようなマイナスの影響を生じさせる面(外部不経済の発生)を持つ。環境の破壊―ここで言うところの外部不経済―が起これば、必ず被害を受ける側が存在いることは、様々な例を通して見てきた―河川・海洋の水質が汚濁された場合、漁業者は漁業が成り立たなくなり生活危機に陥る。上流の森林が伐採されれば、洪水や土砂崩れが起こりやすくなり、人家や人命、農地や工場、学校等に多くの被害(時として森林伐採から得られる利益の数十倍の損害)を与える―等々である。
 ここで考えなければならない事は、経済機構つまり経済システムのあり方である。我々は、借りた金や本は返すし、人の物を壊せば修理(原状復帰)をして返す―これらは全国共通の社会の一般常識である。経済活動主体も、これらの常識をわきまえる必要がある。「外部性」がどうの、と言うような経済用語を駆使しての言い逃れはできない。使用した水は、汚染物質を取り除き元のきれいな水に戻してから河川や海洋へ返す。使用した空気は、汚染物質を取り除いてから大気へ返す。使用して壊した自然環境は、原状復帰して病害の起こらない状態に戻す。現在の市場経済の体制では、多くの場合、環境費用が価格に含まれていない。市場機構の種々の利点は認めるが、そこで一歩進展した経済の枠組みを考える必要がある。企業が自ら環境保全を行なうような仕組み―つまり市場価格に、環境費用が含まれるような市場機構―が必要である。これは単に企業の道徳的・倫理的な努力と言う以上に、国家規模の働きかけが必要である(具体的には環境規制強化や環境技術開発への協力等)。一部の企業のみが環境保全のコスト負担をするような事があれば、正常な市場機構を崩す。この事は、国家同士の場合も同様である。世界規模による、多国家間の「相互強制と相互協定」が必要である(現在までの世界の環境保全の歩みは、表Aと表Bを参照、また、現在のところ国家間の経済の不均衡や多額の累積債務問題解決ね、環境保全のためには急務であるが、別の問題となるのでここでは述べない)。
 このように現在進行する環境破壊には、個々の破壊の対処療法的な保全も必要なのであるが、現在の地球規模の破壊の進行を見た時、上記のような新しい市場機構や、他国家間の相互の協定や強制等の新しい経済の枠組みが必要である。そうした長期的かつ全世界規模の視野が、現在の自然環境破壊防止・回復のために必要である。

③.今後の展望―私の望むこと―
 一年に渡って自然環境破壊の歴史を調べてきて、憤りに近い思いを持った。(この論文にはあまり多くの事例を載せられなかったが)公害のため病気となり一生涯苦しまねばならなくなった人々、亡くなった人々、訴えることもできずに死んでいく木々や動物、毒水で満たされた川や海、濁りきった大気等々。
 政治家が法律や条例を作り、行政が法律に従って規制を実施し、学者が調査をし、マスコミが公害状況を報じ、企業が自らの社会的責任を叫ぶ―そう言ったことは必要であろう。しかし、私が最終的に望む事ではない。それらは今までも行なわれてきたが、疑問を抱かざるを得ない(偽善的な)ものが数多くあるし、現に環境の破壊は進行し続けているからだ。
 私が望むのは、次の事である。公害病によって苦しみ涙する人達がいなくなること。動植物がなるべく本来あるままに生きて寿命をまっとうできること。川や海や空気がきれいになること。そして草加の松並木が元気を取り戻すこと、綾瀬川や伝右川が悪臭を放たないこと、部屋の中に舞う埃が少しでも減ること―である。

表A・動植物に関する保全の歩み


表B・海洋汚染に対する環境保全の歩み


★2004年10月現在の最新情報

環境保全に対する意識の変化

 上記論文を書いたのが、1987年。今から17年も前のことである。その頃と2004年の現在を比較すると、環境に対する国民意識は大きく変わった。人々の口やマスコミに、当然のように「環境」と言う言葉が上り、ゴミの分別や捨てる油やゴミ等に対する取り組みも当たり前のようになったが、17年前は環境に対する意識はかなり低かった。燃えるゴミ、不燃物、危険物、資源ゴミ等と言う細かい"分別"は当時ではまず考えられなかったし、東京都下での事業系ゴミの"有料"収集などはSF世界の出来事だった。
 変わったのは、国民の意識だけではない。実際に、経済システムも変わった。大きく変わった点は、環境費用がきちんと商品の価格に含まれるようになってきたことで、これも以前は考えられなかった。これは「企業の意識変革」と「法律による規制」の両面が、大きく作用している。かつては環境はお金にならないと言われていたが、現在は世界中の企業が環境技術開発に凌ぎを削っている。環境技術に投資しない企業は、21世紀には生き残れないとさえ言われる。かつては、ほとんどの国で規制は比較的緩やかだったが、これは当時の「環境対応の科学技術の限界」と「環境費用増加による経済競争力の低下の懸念」等が背景にあった。しかし、今では世界的に環境基準が厳しくなりつつあり、日本の屋台骨を支える自動車メーカーも、排ガス規制適合車の開発や、燃料電池車開発をはじめ、環境新技術の開発に凌ぎを削っている。
 海洋汚染防止や大気汚染防止を初め、様々な環境保全のための国際的取り組みもなされている。具体的には、主に国際条約の批准となって表れるのだが、最も資源の消費率の高い(言ってしまえば環境に優しくない)アメリカ合衆国が"京都会議"の議定書を批准しないのは、とても残念な事である。世界一の大国が批准しない条約と言うのは、実効性に乏しいからだ。アメリカが批准しないのは、アメリカの経済界が強く反発しているためだと言われている。
 また、発展段階の開発途上国の反発も厳然として存在している。先進国は(さんざん環境を破壊して)既に経済成長を成し遂げてしまったから良いかもしれないが、開発途上国にもこれから同様に経済成長する権利があるはずだ・・・と、そう主張する。しかしながら、世界の全体的な潮流は、環境保全の方向へと向かっている。こうした潮流にあるとは言っても、世界の自然環境の破壊は未だ進行し続けているし、過去に破壊された自然環境の復元はこれから長い長い時間を要するのである。一国家や一企業を超えた、更なる国際的取り組みが求められているのである。

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