犯罪的傾向のある宗教および反社会的な宗教

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2.オウム真理教(現アレフ)

 オウム真理教。この名前を聞いただけで、嫌悪感を持つ人は少なくないはずだ。地下鉄サリン事件の日の当日を、僕は鮮明に覚えている。朝、地元の駅に着くと、電車は止まっていて、ホームもコンコースも通勤客でごった返していた。最初は「築地駅で灯油が撒かれた模様」と言う駅アナウンスだったが、その後に「薬品が撒かれた模様です」に変わった。情報が錯綜していた。日本の中枢"霞ヶ関"でよもや毒ガス"サリン"が撒かれたなどと、当時の人々の一体誰が想像し得ただろうか?毒ガスだと推測できたのは、おそらくテレビを見ていた自衛隊の化学防護の専門家ぐらいではないだろうか。我々一般人がサリンだと分かったのは、それからずっと時間が経過した後の事である。サリンは、多数の死者と5,000名もの重軽傷者を出した。オウム真理教の犯罪について語られる事は多いが、「オウム真理教が何であったのか」を正確に理解・把握している人は意外に少ない。何故、日本史上(と言うか世界史上)類をみない極悪非道な犯罪をオウム真理教が起こしたのか、その教理とは何だったのか、(思い返したくないと言う思いを我慢つつ)正面から考えてみたい。

 オウム真理教は、反社会的なテロ集団、犯罪組織、カルト宗教と色々な分類で呼ばれるが、"原理主義的"な傾向も持っている原始仏教の教えを奉ずる新興宗教である。「選民思想(※自分達だけが救われる)」、「内と外の明確な区別(※一般人は死んでも仕方ない人々である)」、「カリスマ的指導者の存在(※教祖の松本智津夫)」、「厳格な規律・規範(※解脱するための厳しい修行体系)」等、オウム真理教は正に原理主義組織の特徴をすべて備えている。思想的特徴も、「国家への敵視」、「仏教経典から都合の良い経典を選択する」、「オウムの教義(麻原の教え)に誤りは無いという絶対的な主張」、「ハルマゲドンと言う終末思想と救世思想、並びに自分達だけ救われると言う選民思想」・・・これらは、典型的な原理主義の思想的特徴である。おいおい詳述していくが、オウム真理教はカルト宗教であり原理主義的宗教であると同時に、暴力団や武器商人等の闇社会とも関わっていた犯罪組織・テロ集団でもあった。

 このオウム真理教がどのように成立したのか、その過程を見てみたい。教祖・麻原彰晃(本名:松本智津夫)の足跡をなるべく簡潔に辿りながら、オウム真理教がどう変遷していき、テロに至ったかを見ていきたい。

教祖・麻原彰晃(松本智津夫)の青年期

 松本智津夫(※以下松本と略す/混乱を避ける為、本人が麻原彰晃と名乗った以降も"松本"表記で統一)は、1955年、熊本県南部八代市の畳職人の家に、男五人、女二人の四男として生まれる。父親の職人としての腕は良かったが、家は貧しかった。松本は、左目が全く見えず、右目も0.3の弱視だった。そのため、小学校の時から熊本市にある県立の盲学校に入学し、親元を離れて寄宿生活をする。高等部専攻科を卒業するまで、14年間をそこで生活を送った。小学校では盲人野球をやり、中学後半から柔道に熱中して二段まで進んだ(盲人で二段を取る事はたいへんな事だそうだ)。リーダーシップを取るのが好きで、活発な少年だったようだ。柔道部の下級生の面倒をみる一方、自分の言う事を聞かないと押し付けてきて、それを聞かないと殴る事もあり、恐がられていた面もあった。強い立場の者には従順で、弱い立場の者には強くでる、と言うようなところがあったようだ。高等部での成績は、それなりに良くて、特に理系科目が得意だったと言う。学校ではマッサージ、鍼灸師になる学習があり、松本もその資格を取っている。貧しい家庭であったので、高校まで奨学金を受けていた。学校を休んでアルバイトにマッサージに行ったりして、教師に叱られた時は、「金が一番大事」と返答したと言う。その頃は、毛沢東の著作物を読みふけっていたと言う事だ。高等部の時、医学部へ進むため熊本大学に相談したが、視力の点で拒否される。しかし、専攻科を卒業してからも、マッサージや鍼灸のアルバイトをしながら受験勉強を続けた。この辺りまでは、松本には宗教的なものには、まったく関わっていない。
 松本の目指す大学は東大で、上京してアルバイトをしながら予備校に通ったが、東大受験は失敗。1977年、彼は知子夫人(当時予備校生/後のヤソーダラー正大師)と出会い、宗教へと傾倒し始める。松本22歳、知子19歳の事である。出会った年の夏に、二人は千葉県の船橋市に新居を構え、市街のビルに鍼灸院を開設した。知子夫人も手伝った。78年に長女が生まれ、その後計6人の子が誕生している。仕事は順調だったが、彼が鍼灸で治した人々も、日々の生活に戻るとまた元に戻ってしまう。精神が疲れ、不安定になり始めたこの頃から、松本は運命学、占いに心が向いていく。初めに学んだのが「気学」。彼はこれに傾倒するあまり精神病的症状に陥り、気学の不完全さを知る。その後に、「四柱推命」に目が向く。運命鑑定ができる力を身につけるべく学んだが、運命を知っても人の運命自体は変えられない事を知り、これは自分が求めるものではないと結論づける。他にも仙道などにも首を突っ込むが、次第に本格的に宗教の世界へ足を踏み入れて行く。
 松本は、GLA(ゴッド・ライト・アソシエーション)の創始者、高橋信次(1927~76年)の著作を読んで影響を受ける。高橋は、自分は釈迦の生れ変わりと主張したりして、自分なりにとらえた仏教を基本軸に、イエス・キリストも自己の宗教に取り入れたりした人物だ。これらの教えが後の松本に影響しているのは、松本の後々の行動から明らかなようだ(ちなみに、この高橋信次は「幸福の科学」の大川隆法にも大きな影響を与えている)。1977年にはすでに中村元の「原始仏典」に触れていたようだが、自覚的に仏教に関わるようになったのは、これ以降である。「阿含経」に最も熱中した。阿含経と出会ったことにより、松本は1981年ごろ阿含宗に入信する。「阿含の星祭り」で有名な阿含宗もまた、桐山靖雄を教祖とする新興宗教である。マスコミでの「派手な宣伝活動」や、「超能力」、「原始仏教」の強調は、先述のGLAも、この阿含宗も得意とするところだった。阿含宗は原始仏教を標榜する一方、霊障を肯定したり、密教を取り入れると言う点で、原始仏教とは言い難い教団である。桐山氏は、瞑想の指導も行なっていた。松本は熱心に活動し、若い信者のリーダー的存在だったと言う。松本が阿含経で最も感動したのが、「解脱」だと言う。

オウム真理教の前身と転機

 1982年、彼は薬事法違反に問われ逮捕される。無許可で漢方薬を「万能薬」として売っていたためだ。彼は経済的基盤を失い、多額の借金もする。松本は、阿含宗を辞めた仲間を含めた15人で、1984年に渋谷区桜丘町のマンションの一室で"ヨーガ(※ヨガの事である)を修する会"を創設する。煩悩や輪廻から脱して絶対自由の境地に「解脱」するために、翻訳されたヨーガ経典を基に松本は独習していく。同年、株式会社オウムも設立されている。代表取締役の松本、取締役は妻の知子と一番弟子の石井久子(後のオウムの大蔵大臣のマハー・ケイマ正大師である)。ヨーガ教室も出版事業も、この会社の経営である。松本はヨーガ教室で、自分の修行と共に、弟子を集めて指導していた。
 松本が空中飛行(正確にはジャンプ。後に何故かこれが空中浮揚に変えられていく)を経験したのが、1985年。空中飛行と同時に、テレパシー、予知、念力などの「超能力」も強くなったと主張する。この空中飛行は、プレイボーイ誌を初め、マスコミにはけっこう受けが良かった。同年、松本は天から神が降り「アビラケツノミコト(※神軍を率いる光の命)を任ずる」と宣せられたと言う神秘体験をしたと主張する。超能力を得た民の国、シャンバラ(理想郷)王国を築く必要性を強く感じたと言う。この年には、岩手県の五葉山に行き、超古代史家を自称する酒井勝軍(かついき)のハルマゲドン説に触れ、終末論を触発される。オウムの終末論や各種陰謀説の源流かもしれない。オウムのイニシエーションの中核にある「シャクティパット(※松本の霊的エネルギーを相手に直接注入すると言うもの)」を開始したのもこの年である。オウムの転機は数度あるが、1985年は間違いなく松本にとっての転機の年だったのではないか。この年に、その後のオウムの萌芽が見て取れる。

 ヨーガ教室は会員数が増え、松本は組織の必要性を感じて1986年4月に「オウム神仙の会」を作る。世田谷区に本部を移す時には、会員数は350名になっていた。集団生活をする出家制度は、9月に芽生える。後の裁判で明らかになるが、この出家制度や全財産の布施のシステムを作ったのはある人物で(裁判での証人で彼は松本の偽者性を見抜き早々に退会する)で、その人物の作ったシステムがオウム真理教にその後も受け継がれていく。各地で失踪問題や金銭問題などのトラブルの起源は、ここにある。オウムは、全財産を布施させるだけでなく、強制的に借金をさせてでも金銭を供出させていく。信徒の生活自体を破壊するようなこうした高額な金銭の取り立ては、カルト宗教や詐欺的な霊感商法宗教によく見られる傾向である。
 この1986年の7月に、松本はヒマラヤのガンゴトリて、最終解脱を果たしたと宣言する。日本で唯一最終解脱をしたのであり、信徒にとっては絶対的な存在である事の宣言だった。当時、松本はオカルト雑誌「トワイライト・ゾーン」で執筆して、興味を持つ若者読者の心を掴んでいった(※超能力を全否定する大槻教授については色々と賛否両論があるが、科学的根拠の無い記事をさも科学的事実であるかのように記述して若者に提供するオカルト雑誌については、僕もやはり否定的・批判的にならざるを得ない)。こうした記事を読んで、オウムに興味を持ち、入信していった若者達は決して少なくない。

オウム真理教の各種犯罪の萌芽とその背景

 1987年、オウム神仙の会に青年部が結成されて活動に弾みがつく。7月に「オウム真理教」と名称を改める。実はこの年の2月、松本はインドのダラムマサラでダライ・ラマと会う。これはオウム真理教のPRビデオや出版物で繰り返し使われ、オウムの権威づけに利用されてきた(※有名人を権威づけに使うのは、カルト宗教や新興宗教が好んで使う方法である)。ちなみにダライ・ラマ自身は、来日の際に「オウム真理教の教えは認めてもいないし、松本は弟子でもない」ときっぱり否定して帰った。オウムの修行は、我々一般人の目から見ると、どんどん過激さをましていった。地中の真っ暗な部屋で一週間も一人で閉じこもったり、同様に真っ暗なコンテナの中で孤独に耐えたりする独房修行なども行なわれる。これらコンテナが、後々監禁の舞台になっていく。教団機関紙「マハーヤーナ」が刊行され、松本の著作物も次々と出版される。
 1988年には、富士山総本部道場が完成する。衣食住から医療、教育、雇用機関まで備えた世間から完全に独立した空間だった。信徒は、2,500名に増えていた。オウム教団が、様々なイニシエーションなセミナー、コースの料金体系が成立したのもこの頃である。松本の声をデジタル録音したものを聴かせる、松本の血(DNA)、髪の毛、風呂の残り湯を飲ませる、最終的には松本の脳波をコピーするヘッドギアまで登場することになる。お笑いのような話だが、あのヘッドギアは一個たった数千円程度で作れるそうだが、教団での価格は1,000万円、レンタルでも100万円である。一般人の目から見ればあからさまなインチキ商法なのだが、しかし信じこんでいる信徒はいたって真剣である。
 翌1989年には、終末論の教義が体系化される。1999~2003年までに「確実に」核戦争が起こる、と主張した(※もちろん預言は外れている)。オウム真理教は、「原始仏教」を標榜して「解脱」を最終目標としながらも、一方でノストラダムスや聖書のヨハネの黙示録まで出しながら、終末論を語っていった。東京都から、宗教法人の認定を受けたのもこの年である。認定を受ける際に、都側と一悶着あってかなりもめた(オウム真理教の反社会的な行為の苦情が、既に都に寄せられていたからである)。この1989年の10月から90年にかけて、オウムを激震が襲った。「サンデー毎日」が、坂本弁護一家失踪事件にオウム真理教が関わっているのではないかと言う批判キャンペーンが始まったのである。誰もが「冗談だろう」と思っていたオウムの活動に対して、「え~!!おまえらマジだったのかよ!」と思わせた衆議院総選挙出馬。熊本県波野村進出にまつわる数々のトラブル。裁判の過程で明らかになった事実を言えば、1989年2月上旬に既に田口修二さんリンチ殺害事件が起こっているし、同年11月2日の坂本弁護士一家殺害事件も彼らの仕業であった。既に彼らの手は犯罪の色で染まっていた。「教祖のポア(※殺す事)の指示は殺される人の魂を救うためのもの」と言う松本の独善的考えを基にして、殺人は正当化されたのである。オウムの教義の考え方には、「小乗・大乗・秘密金剛乗(※タントラ・ヴァジラヤーナ)」と言う三段階の考え方がある。「ヴァジラヤーナ」とは、「生きていたら悪業を積むばかりになって、死んだら地獄に落ちてしまう人を、殺して天界に上げてあげる(オウムはそれを"ポア"と呼ぶ)」と言う考え方だ。誰をポアするかは、最終解脱をした者のみが決定でき、つまり松本智津夫のみが決定できると言うことである。これがオウムの考え方の一つだった。松本が最終解脱したと主張する1986年から、最初の殺人を犯した1989年までが、オウムのそして松本智津夫自身の第二の転換点だったように思う。そして、1990年の総選挙大敗が、第三のそしてもはや引き返す事のできない最後の大きな転換点となった。

 1991年には一連のオウム批判報道の熱も冷め、再びオウムや松本がマスコミに登場する事になる。オウムは、上手にマスコミを利用する事に熱心だった。例えば、TBSが坂本弁護士のオウム告発の内容を流そうとした時、抗議してTBSに番組放映を中止させる。その数日後に、坂本弁護士一家の拉致・殺害が起こっている。その見返りに、後日TBSに独占会見をさせたりしている(TBSはこれらの事実をずっと隠して否定していたが、これらの事実が裁判で明らかになった。TBSの放映中止が間接的に坂本一家惨殺に結びつき、ひいてはその後のオウムの犯罪拡大につながったのだと、TBSは大非難される)。このように、オウムはマスコミを利用していく。様々な有名人との対談もあった。オウムの松本を堂々と認め評価する大学教授や、評論家等も多かった。「日本に今いるいろいろな宗教家の中でも知性においてかなり上等なレベルにいる人だと思いました」と某大学教授は平然と週刊誌で語り、「仏教の伝統を正しく受け継いでいる」と別の某大学の助教授も語る。これらは(世間に知られていなかったとは言え)、驚くべき事に一連の殺人事件等を起こした後の、オウムに対する学者達の評価なのである。オウム真理教には、サリンを作ってしまうほどの知識を持つ大学院生や、優秀な医者や弁護士と言った高学歴な人が何故引きつけられてしまうのだろうと言う議論がよくあるが、学生を教える大学の教授や助教授にでさえまんまとオウムを高評価させてしまうのである。一つの例を挙げよう。大学を首席で卒業した広瀬健一被告(※地下鉄サリン事件の実行犯の一人)は、大学院で物理学、とりわけ超伝導の研究で優秀な論文を書いていた。法廷に証人として出廷した担当教授によれば、オウムに関わらなければ世界の物理学に多大な功績を残しただろうと言う。そのように優秀な広瀬は、幻覚でも幻聴でもない自分の知識を超えた神秘体験をする(※後の獄内の勉強で、脳性理学的に説明がつく現象だと自ら気がつく)。論理を超えた世界に、広瀬は心を奪われる。また教団は、豊富な資金力にものを言わせて、学生が見た事も触った事も無い高価な分析機器や研究機材を揃え、必要ならどんなに高価な機器も導入でき、大学とは違い自由な研究をすることができるように思えたのも魅力だった。広瀬は、家族や周囲の反対を押し切って(大手電機会社の研究所も内定していたのに)、出家してしまう。広瀬のような多くの優秀な理系学生は、「オウムと言う宗教世界の方がリアルで、現世的な真理より重要だ」と、とらえたようである。

オウム真理教の犯罪活動と反社会的活動、そして前代未聞のテロ行動へ

 オウムは高額の布施による莫大な資金力を背景に、各地の土地を買い漁り、拠点施設を作っていく。オウムのやり方は、プロの占有屋顔負けのやり方である。このオウムに、広域暴力団が目をつける。占有している問題物件を暴力団側が、オウムに売ったり賃貸したりする。すると、地域住民や関係者はオウムが居住するのを嫌うから、高額の立退き料を払う。もしくは、自治体が法外な金額で当該物件を買い取る。結果、オウムも暴力団も莫大な資金を獲得できると言うわけだ。オウムは不動産だけでなく、休眠宗教法人を買い取ったり、企業買収にも動いていた。関連会社ダミー企業も数々作り、その数は50にものぼった。パソコンショップやラーメン屋、弁当屋から風俗店まであった。これらの企業では、信者がただ同然で働いており、通常の商売の粗利益の数倍の利益を叩き出し、オウムを支える潤沢な資金となった。オウムがサリン等の製造に使うための薬剤等を仕入れるのに利用した会社等もあった。施設用地買収、施設建設、高価な機械、化学薬品などに百億円を超える資金が投入されたと言う。組織も拡大するにつれて、擬似国家化された。1994年6月、「神聖法王」の松本を頂点に、「大蔵省」「文部省」「建設省」を初め24の省庁が置かれた。「自治省」は、松本の身辺警戒や施設警戒、脱走信徒の連れ戻しや拉致等の任務にあたった。サリン製造を統括していたのは、科学技術省である。
 一方で、オウム真理教は、終末の教義を先鋭化させていく。衆院選挙での大敗が、この方向への動きを決定的にした。彼らの考えによれば、「衆院選は、マハーヤーナ(※大乗)における麻原(※松本)の救済のテストケースだった。その結果、マハーヤーナではもはや救済ができない事が分かったので、ヴァジラヤーナ(※先述の殺人を正当化する考え方)でいく」ことになっていったのである。裏では、実際の武装化も始める。ロシアにも進出し教義を広めるだけでなく、ロシア高官とのパイプ作りも画策する。オウムがロシアで活動できたのは情報機関の関与と容認がなければ不可能と考えられるから、それなりの根回し(※具体的には金銭の受け渡し)があったのだろうとも考えられる。ロシアへの射撃旅行を計画したり、ロシア製のヘリコプター(※軍用にも使用される機種)を買い取ったりもしている。この他、武器商人とバズーガ砲から核兵器まで、入手を画策していたようである。AK銃のコピー部品を作っていた事も判明している。そして、ご存知のように毒ガスのサリンやVXガスの開発、細菌兵器の研究も行なっていた。優秀な頭脳を結集して、SFの世界にしかないプラズマ砲を作ろうとして失敗したり、潜水艦を作って試乗したら上手くいかなくて信者が溺死しそうになった話もある。笑い話のようだが、彼らは大真面目だったのだ。
 このような事を行ないながら、信徒に対してはまったく逆の事を言う。国家に弾圧を受けている、外部から毒ガス攻撃を受けている、と言った被害妄想を信徒に植え付けていった。検知器等も導入して、科学的根拠も示す。「ほら、毒ガスの、実際にこう言う検地の値が出ています」と。そして終末がやってくるが、厳しい修行をしている我々は助かると言う事を述べる。ハルマゲドンを阻止して、汚れた世を救済するのはオウムだと述べる。松本の外敵勢力のイメージは抽象論ではなく、具体的な団体名や個人名にまで及ぶ。外の世界の人間は「なんでこんな馬鹿げた事を信じられるの?」と思うかもしれないが、修行の過程のイメージで見た三悪趣(地獄、動物界、餓鬼界)などをリアルに感じていた信徒は、現在が末法の世で、我々は真理を訴えるので迫害されている、終末はすぐ来るが教祖に従っていれば大丈夫、と言う松本の発言を疑うことはなかった。日頃から、オウムを裏切ったり脱会すれば無間地獄に落ちる、と叩き込まれていた彼らは、教祖に従順に従う事が最も大事な修行だと考えていた。教団を脱会したりすると「地獄に落ちると」か「罰が当たるぞ」と脅すやり方は、多くのカルト宗教が使う方法である。
 我々から見ると正に思考停止状態なのだが、信徒の彼らにしてみると、それはグル(※教祖の事)に心から帰依することに他ならなかった。大きくなり統括が難しくなった組織を、「外敵(※実際は仮想敵でしかない)を作る事で内側を強制的に結束させる」と言うやり方は、カルト宗教や全体主義的な組織によく見られる方法論である。こう言う教義を受け入れていって、オウム信徒の(敵と見なしている)社会に対する行動は過激さを増していくのである。
 こうした動きと時を同じくして、オウムと社会との間のトラブルが激増していく。地域社会で反社会的な活動を繰り返す一方で、批判されると「基本的人権の侵害」や「思想・信教の自由」を盾に自己を正当化する。信徒への薬物(LSDや覚醒剤)の投与や監禁の疑い、限りなく拉致に近い出家の強要、詐欺の方法を用いた高額の布施の搾取、オウム施設周辺での異臭騒ぎ等々のトラブルが頻発する。各地のトラブルに対して、オウムは訴訟の乱発を繰り返す。上九一色村の異臭事件では、あろうことか村民に毒ガス攻撃を受けたとして、被疑者不明のまま村民を訴える。オウムのこうした訴訟は、百件に上ると言う。「訴訟を乱発して自分が被害者であるかのように装う」のは、カルト宗教によく見られる傾向である。
 オウム真理教が犯した犯罪のすべてを細かくここで述べる事はできないが、上記の他にも松本サリン事件、仮谷さん拉致・殺害事件等数多くある。そして1995年3月20日、冒頭で述べた地下鉄サリン事件が起こったのである。その後の経緯は、マスコミで現在も伝えられている裁判の状況を見る通りである。このページでは、主に松本智津夫の人生の進行に合わせて、オウム真理教の歴史を概観した。オウムを一言で表現すると、戦前の全体主義の軍国国家・日本を縮小したような団体だった。信徒はほとんど思考停止状態で、一人の絶対的な教祖の理不尽な要求も修行として受け入れ、ヴァジラヤーナと言う大義の下に、あってはならない非道な行いを全体でしでかしてしまった。オウム事件が提示した問題は、根が深い。オウム真理教は世の不正に憤りを持つ若者や生き方に迷う学生達に、彼らの行くべき道を示し、そして彼らの人生からすべてを奪ってしまった。その闇の暗さは、いかほどだろうか。また、現在も多くのオウム犯罪による被害者達が、苦しみ続けている。その苦悩の深さは、いったいどのくらいだろうか。

政治家、官僚、闇組織との関連

 オウム真理教は名称をアレフと改名し、表向きは改革したように装っているが、これは団体規制法逃れのために行なっていると見られ、教義の本質はオウム真理教時代と大差ない。また本来被害者に当てるべき不動産を信者名義に移したり、利益を賠償に当てると言っていた一部のオウム関連企業を撤退したりと、とうてい被害者賠償への誠意は感じられない。オウムは活動全盛期から暴力団や闇社会との関連が取りざたされていたが、使途不明の金を獲得したり、信者の煽動に長けていたり、殺人兵器の調達すらできる闇の謎の人物達も、(いったん脱会したが)またオウムに戻ってきている。未だに近隣住民や社会との融和とは、ほど遠いのがオウム真理教(現アレフ)現状なのである。
 また、オウム事件の背後には、オウム真理教の莫大な利益・資金の甘い蜜を吸おうとしたり利用しようとした暴力団、政治家、官僚、ロシアマフィア、北朝鮮関係者がいたとされるが、闇社会の大物フィクサーと大物政治家で事件の幕引きが決定され、一連の事件をすべてオウム真理教に押し付て捜査が完了されてしまうのではないかと危ぶまれている。オウム真理教は暴力団に食い込まれてしまい、資金共々骨の髄までしゃぶり尽くされつつあり、その暴力団への恐れや、警察への恐れ、自分の病気への恐れも重なって、松本智津夫は狂ってしまって破滅したと言う証言もある。
 オウムの莫大な資金の流れ、武器や麻薬の密輸等に関するオウム真理教と闇社会並びに政治家・官僚との関わりの実体はほとんど解明されない状態で決着と言うわけだが、オウムの幹部が関わっていた"別のある宗教団体"が、やはりオウム背後で動いていた暴力団と関わりがあるとされ、しかもその"宗教団体"は勢力を拡大していると言う話しも出ている。暴力団関与説でオウム事件を捜査していた現場の捜査官は、次々と左遷されたり圧力を受けたと言う話しもあり、警察上層部はオウム事件はオウム単独犯行と言う事で幕引きしたいようである。いずれにせよ松本教祖の側近中の側近の村井は刺殺され、裏事情を知っているはずの教団幹部は、警察よりも闇社会の(自分と身内への)報復を恐れてか、すべての責任を死んだ村井と教祖に押し付けて余計な事は一切語らない。オウム真理教事件の全体を解明しなかった事により、第二・第三のオウム事件的な被害が今後も出てくるかもしれない・・・そんな不安も残されている。


(記載:2005年 9月25日)