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7.原理主義をどう乗り越えていくか
さて、過去6回に渡って、原理主義の定義と原理主義的な傾向のある宗教について考察してきた。いかに原理主義が人々の思考を停止させ、時には考えもつかないような恐ろしい行動に走らせるかと言う、教義的要因、歴史的要因、心理的要因についても触れてきた。
しかし、これは宗教の世界だけの話しでなく、我々の日本社会の縮図のようにも思える。戦後、日本は高度成長期を駆け登ってきた。その高度成長期を支えるため、多くのお父さんがサラリーマンとして、会社の歯車として働いてきた。それは取りも直さず、会社に忠誠を近い、会社に忠義を尽くす姿そのものであった。僕もサラリーマンだったし、会社の研修を受けているからそう言う感覚が理解できる。企業戦士としてマインドコントロールされ、経済戦争と言う戦場で勝利を勝ち取るべく、ライバル他社を蹴散らしながら前へ前へと進んでいくのである。
会社だけの話ではない。官公庁のお役人にしてもそうだ。大学を卒業して、多くの若者が社会正義に燃えて国の役に立とうと、官公庁の門をくぐったであろう。それがいつしか、自分達の役所の権益確保や、ひいては裏金作りにも励んでしまうような、さもしい精神に変えられていってしまう。その組織で生き残るため、自己保身を図っていくようになる。バブル崩壊以後、会社・官公庁・政治家を問わず、次々と不祥事が炙り出されている。「もうそんなニュースは見たくも無い」と言うぐらいに、あちこちで不正や矛盾が噴出している。これらは、戦後の日本社会の"膿"なのではないだろうか。日本全体が、国民の一人一人が、一口では形容のしがたいある種の原理主義に取り付かれていたようにさえ思う。
よくある議論に、戦後の日本は「押し付けられた民主主義や基本的人権」が過度に尊重され過ぎたので、家庭や教育が崩壊したのだ、と言う論理がある。しかし、それはまったく逆ではないのだろうか。戦後、我々日本が辿って来た道は、会社に自ら服従し人生を会社に捧げてきた道、人が作った社会のシステムやマニュアル(例えば有名大学に進学し一流企業に勤めるのが幸せになる方法・・・のような)に思考停止的に従おうとする道、ではなかったか。これは基本的人権を、正に軽視してきた歩みではなかったのだろうか。前回考察したオウム真理教教団には、人権意識は皆無だった。修行の名の下に、信徒は独裁教祖に従う事のみが正しいとされ、敢えて人の嫌がる事をさせられ、ある時は治療と称して電気ショックで脳の記憶機能領域を破壊され、密告や薬物でスパイかどうかを探られ、監禁や拉致をされたり自らそれに加担したり、あまつさえ人を殺しさえしたのである。この思考停止状態の凶行は、正に戦前の一億総火の玉になって戦争に突入していった日本の縮図ではないか。原理主義の本質とは、ある思想に無批判に従い思考停止をする事であり、つまり余計な事は「見ない、聞かない、言わない」と言う事であり、意見の合わない人を排斥する事なのだと思う。自由に生きるとは、本来たいへんなことだ。責任も伴うし、辛いことも多々ある。"誰か"ではなく"自分自身"で判断し実行する事は、思考停止状態の"ただ従っていれば良い"と言う原理主義の本質とは正反対の事だ。
人権や民主主義が尊重され過ぎたから、家庭や教育が壊れつつあるのではない。それらが、あまりにも軽く扱われ軽く考えられてきたから、社会がここまで崩壊してしまったと思うのだ。自律・自立して、立つことのできない多くの個々人。どの組織にもボスがいて、その鶴の一声で物事が決定される。単身でボスに逆らってはいけない。政治家、官僚、企業、地域社会、暴力団に至るまで、そう言う仕組みになっている。「それは間違っているのではないか」と声を上げるのが、いかに勇気のいる事か。その社会で生きていくには、その中で当り障り無く生きていく方が楽なのだ・・・民主主義や基本的人権とは、相容れない土壌。日本の隅々まではびこる原理主義的側面を思う時、そう言う日本社会の背景とは無縁ではないと思うのである。
養老孟司さんも自著の中で何度も述べられているが、原理主義というのは世界のあちこちにはびこっていて、それと戦い続けていくことはかなりのエネルギーを消耗する。先端の頭脳の学者たちが集う学会ですら、例外では無いと言う。ある学説…例えば進化論でも何でも良いのだが…が一度主流な学説として認められると、それ以外の可能性は隅に追いやられてしまう。新しい斬新な可能性を追求する学説は少数派となり、隅に追いやられてしまうのだ。これは、企業で社長の意見に疑義の声を差し挟んだ社員が、左遷させられるのに似ている。
町内会、サークル、学校、企業、その他ありとあらゆる人の集まりには、時間の経過と共に原理主義がはびこっていく可能性がある。彼ら自ら一丸となって、袋小路に入り込んでいく。そこに進歩は無い。思考停止と言うのは、ぬるま湯状態である。ただ言われているままに思考し行動していれば、あまり問題は起こらない。しかし、その思考停止的主張に疑問を唱えた途端に、その輪から弾き出され、敵対視されることになる…子供の陰湿ないじめではないが、いじめていた側がいじめられる側に回る瞬間である。いじめる側の子供達は、時に相手の子供が死ぬまでその陰湿ないじめの手を緩めない。加害者が小さな子供から巨大な力を持つ国家や宗教組織に変わると、被害者は兵器で殺される何万人もの人々に変わる。
原理主義は、自分と違う相手の考え方を認めない。原理主義は、自分と違う考え方の相手を徹底的に駆逐しようとする。原理主義は、自らを改革・改善しようとせず、自己勢力の拡大のみに力を注ぐ。つまり原理主義とは、突き詰めると非寛容で狭量で頑迷な"自己中心主義"であると言えると思う。原理主義とは違う生き方…相手を受け入れ、時には赦し、時には自己も改革し、周囲の人々と共に歩んで行く生き方…現代では、これがいかに難しいことか。しかしこの生き方が、今もって続けられている世界中の悲惨な争いの終結に必要なものだと思う。そして、世界中で争いを煽っているリーダーや人を殺し続けている残忍な人々は、この寛容で融和的な生き方を受け入れないだろう。自らを変えていこうとは、決してしないだろう。そう言う状況下では、絶望的な思いに囚われることが多いが、"あきらめ"こそ原理主義を拡大させる要因である。原理主義と対峙していくことは確かにエネルギーが必要だが、これを乗り越えていかないと地球人類の未来はとても暗いと思う。いきなり世界を変えることは難しい…まずは身の回りの原理主義の束縛を、一つ一つ解いていくことから始めたい。
(2005年 4月10日記載)
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