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4.アメリカのキリスト教原理主義

 日頃マスメディアが使用している「原理主義」と言う言葉は、イスラム教の専売特許のように思われているが、実はアメリカの保守的なキリスト教の主張から生まれてきた言葉なのである。今年の夏ごろに、とある新聞において、アメリカのキリスト教原理主義を取材した小さな特集記事があった。その中の一例として、グランドキャニオン観光の例が挙げられていた。あの偉大な渓谷ができたのは、科学的には数十万年と言う悠久の時を得て形成されたことは明らかである。しかし、キリスト教原理主義の観光ガイドは、聖書の記述に従えばグランドキャニオンができたのは六千年前だと観光客に説明する。こうした科学的根拠のない説明に、地元の博物館の館長も困惑気味と言うか、苦笑い。こんなツアーが人気を博する一方で、科学的な視点を軽視するこうした態度が、子供の教育に良くない影響を与えると言う危惧も出ている。私もキリスト者として、このアメリカの排他的かつ攻撃的で頑ななキリスト教の原理主義に危惧を抱いている一人である。こうしたキリスト教原理主義が、何故アメリカで勢力を持つに至ったのか、その背景と歴史を見ていきたい。

 アメリカと言う国は、国家そのものが宗教との極めて密接な関わりの中で生まれた。英国のピューリタンが、英国国教会の不徹底な宗教改革を批判して、ニューイングランドへやって来た。彼らが目指したのは政教一致の政治体制だったが、ワシントンやジェファーソンらの啓蒙主義者によって、アメリカの憲法は政教分離を定めた。とは言いつつも、ピューリタン達の政教一致の理想は建国神話の中に組み込まれ、「見えざる国教」として継承されていく。
 19世紀後半に南北戦争が起こるが、その後のアメリカ社会の変化はかつて無いほど大規模だった。こうした混乱の大転換期に、「前千年王国説」が語られ、「神の審判が下る終末の直前に救世主キリストが降臨し、彼の支配による千年王国が打ち立てられる」と言う主張で、これがアメリカの原理主義の思想的特徴となる。資本主義体制下にあって(農業社会ではあり得なかった)かつてない失業の増大は、社会に不安感を増大させ、こう言った明快な主張は受け入れられやすかった。
 19世紀末に、科学と合理主義が万能とされた時代、聖書と科学、聖書と合理主義は矛盾しないと主張する動きが、アメリカの宗教界内部に高まる。彼らは、フロイトやダーウィンを拒否し、一昔前のフランシス・ベーコンの科学を拠り所とした。この考えは、推論や仮説を排した。しかし、論理的な近代思考と信仰を調和させる方法は、すぐに破綻をきたした。キリスト教の教義には、科学を超える信仰が含まれ、かつ聖書にも数々の科学では説明のつかない奇跡物語が登場するからだ。こうして、科学的な宗教理解は袋小路へと追い込まれた。こうした状況下で、「ダーウィン主義とは何か」(C・ホッジ著)と言うダーウィン批判の著作が登場する。神の意志と無関係に、複雑な自然体系が作られていると言うダーウィンの説を、ホッジは受け入れなかった。彼は、合理的なプロテスタント・キリスト教の立場に立ちながら、近代科学の拡大を抑制すると言う矛盾した立場を取らざるを得なかった。
 こうした時代背景の中、ドイツで生まれた「高等批評」がアメリカでも注目されるようになった。リベラルなプロテスタントの「高等批評」は、保守派の憤慨を招いた。リベラル派は、スラムにおける福祉や教育活動を通して、愛を実践することが重要なのだと説く。そして正統とされてきた教義の中の一部には、近代の科学的発展と相容れなくなったものも含まれていると認め、キリストの神性や、キリストの処女降誕と言った、キリスト教の根幹となる教義も否定していく。近代的精神によって、聖書を実証的、歴史的に文献研究対象とする、これが「高等批評」によるリベラル派の主張だった。明治中頃の日本でも同じような運動があり、多くのキリスト教の牧師が牧師の職を辞し、社会運動や事業に身を捧げて行った。それと同じ事が、アメリカでも起こっていたのである。保守派とリベラル派の対立は、激化していった。
 アメリカにおける原理主義の父とも呼ばれるドワイド・ムーディは、1886年にムーディ聖書研究所を設立した。この研究所は、リベラル派の「高等批評」に対する批判活動の牙城となった。一方でムーディも、リベラル派同様に貧困層に対する働きかけを重視した。この研究所と同様な原理主義者を輩出する神学校が、20世紀初頭に相次いで誕生する。アメリカでリベラル派の教会が主流となりつつある中で、保守派も全国的な集会を開催するようになった

 世紀が変わる20世紀初頭、アメリカの社会は多民族化傾向に拍車がかかっていた。労働力不足を補うため欧州から移民がかき集められたが、その多くはイタリアやアイルランド等のカソリック諸国出身者だった。こうした中、職を奪われるホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの人々(一般にWASPと略されて呼ばれる)の不満が強まっていく。1887年に「アメリカ防衛協会」が結成され、200万人を超える参加者が集まり、被害妄想的な懸念を露にし、アメリカ最大の反カソリック団体になった。こうして保守的な原理主義は、反リベラル派に加え反カソリックと言う敵対意識をベースに形成されていく。
 20世紀最初の20年間は、保守派、リベラル派を問わず、社会問題に対して強く関与していくと言う姿勢が高まっていく。1909年にリベラル派のハーバード大学教授が唱える「他者に対する奉仕のみが宗教の使命であり、礼拝は必要なく、聖書も教会も重要な意味を持たない」と言う「社会的福音」が、保守派から強い反発を受ける。保守派は、1910年にプリンストンの神学者が、聖書の無謬性を5つの原理として公理化する。続いて、ロサンゼルス聖書研究所を設立したスチュアートが5年かけてプロジェクトに出資して、「諸原理」と名づけられた12のパンフレットにまとめる。それぞれ300万部が印刷され、無料でアメリカ全土の教会や神学校に配布された。その後マスメディアに登場し続ける「原理主義」と言う言葉は、このプロジェクトに由来している。しかし、このパンフレットに記載された内容は、特に攻撃的なものでも、社会に影響を与えるものでもなかった。
 保守主義を攻撃的、排外的にしていくのは、第一次世界大戦がきっかけだった。大戦の惨状は、黙示録の世界として認識された。無神論者である共産主義者らよるロシア革命は、終末直前の悪魔の勢力拡大としてとらえられた。こうした世界の激変の中で、保守派の教義は反共産主義、反知主義のナショナリズムと結びつき、政治との関係性を深めていった。原理主義は、新移民、共産主義、合理主義に対する激しい憎悪で渦巻く事となる。
 これらの教理は、リベラル派にとって、民主主義の否定、キリスト教教義の否定と映る。1917年にシカゴ大学の神学者達が、原理主義者の説は国家に対する反逆であると批判。両者の論争は、冷静な議論から離れた泥仕合へと進んでいく。
 その後も両者の論争は激しくなっていくのだが、保守的土壌の強い南部諸州は、公教育における進化論教育を禁じる州法を定めた。刑事罰に問う厳しい法律を制定したテネシー州では、ジョン・スコープと言う若い教師が授業で進化論を教えたと告白し、1925年に裁判にかけられた。結論を言えば、スコープスには有罪判決が下されたが、世論は圧倒的にスコープスのリベラル派側に傾き、原理主義者は時代遅れの連中、アメリカの疫病神と厳しく糾弾した。原理主義者が宗教界や政治の世界で権力を握れば、アメリカは表現の自由を失い中世の暗黒時代に突き落とされると言う批判が、メディアで起こった。地動説を否定したような中世暗黒時代の再来と言うことである。この裁判で原理主義者は築きつつあった地位を一挙に失い、アメリカの宗教、言論の場で、長く沈黙を守らざるを得ない立場に追い込まれたのである。

 裁判後、第二次大戦が終わるまで、原理主義者は不遇の時代を過ごしたが、伝道者養成の教育機関を設立したり、神学大学を設立したりして勢力を温存していた。テレビ放送等が本格化して、テレビ伝道等によって全国的な影響力を行使するようになっていく。原理主義的な価値観で設立された神学大学は、敵意を抱く者達によって包囲されていると言う脅迫観念的な憎悪を生み出し、その憎悪はナショナリズム、民族偏見と結びついて増幅されていく。ユダヤ人と共産主義者を悪魔の勢力と呼び、アメリカ・メディアがリベラルなのは共産主義者がアメリカ社会に深く入り込んだためと主張した。イスラエル建国や、長崎・広島の原爆投下は、悲観的な終末論に関心を向けさせ、原理主義者達は、彼らのみが正しい未来を知ると言う自信を回復していく。
 1960年代、ロックやドラッグと言ったヒッピーのような反体制文化を生んだ。こうした退廃的な転換期、宗教復興現象が顕著となり、原理主義も息を吹き返した。60年代以降、北部からのリベラルかつ多民族的な新住民が、南部の美風を壊してしまうと恐れた保守的な南部の人々の恐怖感も、原理主義を南部に浸透させる要因の一つになった。法律の規制によって宗教教育が行なわれていない公立の学校は生徒の規律が乱れていると言う危機感によって、1970年代にキリスト教系の私立学校に通わせる親も急増した。
 原理主義者は世俗的な政治の世界には近づかないようにしていたが、1970年代以降、この姿勢を転換して政治の世界に介入していく。「道徳的多数派」(ニューライト)は、2000万人を超える膨大な保守支持層のデータベースを作り、選挙活動を戦った。1980年のレーガン大統領がカーター大統領を破って勝利した選挙は、保守回帰への重大な転換点だった。「道徳的多数派」は、従来の原理主義者の反進化論に代わって、家族的価値の擁護(フェミニズム、同性愛の否定)、中絶反対、公立学校での宗教教育強化を争点とした。こうした争点を選択することで、「世俗主義者(リベラル派)」を「道徳的少数派」と呼んだ。原理主義者が社会的影響を拡大できたのは、排外的、硬直的な態度を改め、不安定な時代にアメリカ国民が求めていた価値を供給できたからに他ならない。1980年代は、一旦原理主義勢力が退却するが、1990年に再び勢力を盛り返す。ラルフ・リードが初代事務局長を務めた「クリスチャン連合」は、選挙時に2,000万とも3,000万とも言われる票を動かした。それゆえ、共和党も彼らの意向を無視できず、共和党が右傾化する大きな要因となっていく。彼らの主張は、やはり「家族価値の擁護」と「中絶反対」、そして「銃所持規制反対」などである。
 こうした状況下で、ニューヨーク9・11テロは起こった。同時多発テロは、アメリカの民衆が持っていた終末観的ビジョンを甦らせた。原理主義者が牙城とするテレビネットワークでは、有名な原理主義者が「イスラームの宗祖ムハンマドは、テロリストに他ならない。彼は暴力的な、戦争志向の男だ」と言い切る。彼らは、イスラエル指示も明確にしている。「アメリカ政府がイスラエル政府を見捨てたり、反対することは許さない」と主張する。そこには、イスラエルの圧倒的な武力や貧困で苦しむパレスチナの人々に対する暖かい眼差しや配慮は、そこには無いのである。
 ブッシュ大統領自身は、自らを原理主義者と認めていないが、キリスト教的なレトリックを多用して、国民の宗教感情を鼓舞する。ブッシュ大統領の演説のベースになっているのは、「善」か「悪」か、「正義」か「不正義」か、「文明」か「非文明」か、と言う善悪二言論であり、その中庸はない(外交政策的には、「敵」か「味方」かの二者選択である)。アメリカ政府の外交政策は、この善悪を分ける「原理主義」と、イスラエル中心の中東再編を目指す新保守主義者(※ネオコン)によって左右される。こうした危険な連帯は、アメリカを排他的な過剰な攻撃へと走らせている。大義であった大量破壊兵器が今もって発見されていないイラク戦争は、未だ混乱の中にあり一向に出口が見えない。その一方で、アメリカ国民の不安をベースとして、原理主義勢力は今も拡大しつつあるのである。


(2004年11月28日記載)


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