原理主義に関する考察    入口 >トップメニュー >キリスト教研究 >諸宗教 >原理主義 >現ページ

3.ユダヤ民族主義(シオニズム)

 さて、前回のイスラム教の原理主義に引き続き、ユダヤ教の原理的主義、シオニズムについて考えてみよう。

 パレスチナ問題によって、中東アラブ諸国の絶対的な宿命の敵となっているイスラエル。何故、イスラエルはこのようなイスラム諸国の憎悪の標的になっているのだろうか。アジアの東端に位置する日本人には今ひとつ理解し難い問題だと思うが、その憎悪の根はとても深いのだ。
 直接的なパレスチナ問題の発端は、19世紀後半からヨーロッパ(特に東欧および中欧)に興ったシオニズム運動と、ユダヤ人のパレスチナ入植開始である。シオニズムは、言い換えれば「ユダヤ民族主義」であり、紀元70年に追われた祖国パレスチナに戻ろうという運動であった。またシオニズムは、第1章で取り上げた原理主義の特徴である「選択的な教義」「善悪二言論の世界観」「聖典の無謬性」「選民思想」「組織の内と外の明確な区別」「厳格な規律」等々を備えると言う、原理主義の側面も持っている。シオニズムはユダヤ民族主義であり、またユダヤ教原理主義の面も持つと言えよう。
 何故このようなシオニズムが登場したかと言うと、帝政ロシアにおいて東欧ユダヤ人の虐殺を容認していて、彼らをこの迫害と離散から救うために当時の東欧の社会主義学者達がシオニズムを理論化し、パレスチナ入植促進委員会が設立され最初の入植が行われたのである。そして、シオニズムが明確な姿をとったのは、1896年ユダヤ建国の父と言われるオーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルが「ユダヤ人国家」を著し、翌年スイスで第一回シオニスト会議が開催されてからである。ここで、公にパレスチナに「ユダヤ人のために公法によって保証される郷土(ホーム)を創設する」ことが宣言された。この時から、アラブ諸国とイスラエルの対立が始まったと考えられる(パレスチナには既に多数のアラブ住民が住んでいたのであり、ユダヤ人入植者は極僅か2%であった)。このユダヤ人国家創設計画に同情的であったのは、唯一イギリスのみであった。イギリスは、中東権益に深い関わりを持っていて、1840年のダマスカスにおけるユダヤ教徒迫害が、シオニズムへの関心に拍車をかけた。
 しかし、イギリスは初めから入植地をパレスチナに考えていたわけではない。当初イギリスは、ユダヤ人の入植地はキプロスを考慮し、次いでシナイ半島北部を考えていた(もちろんエジプトの反対に遭い頓挫)。その後、イギリスは1903年に東アフリカのウガンダの"無人の"高地を提案。しかし、この案は第六回シオニスト会議で混乱を極め、第七回シオニスト会議で「ユダヤの郷土はパレスチナ以外のいずれの土地をも対象としない」ことが決定された。この時から、ユダヤ人の本格的なパレスチナでのユダヤ人国家建設が本格的に画策されていく。シオニストがパレスチナにこだわる根拠が旧約聖書で、パレスチナの土地は神がユダヤ人与えた地であり、彼等が再びそこに彼らの国家を建設のは当然であると、彼らは旧約聖書を解釈する。

 さて、時代は第一次世界大戦に突入。イギリス帝国は、アラビアのロレンスで有名な"砂漠の反乱"を起こさせることに成功。この反乱の代償として、イギリスは「アラブ地域の独立」を約束した(その約束の独立地域にはパレスチナも含まれていた)。その一方で、ユダヤ人富豪ロスチャイルド達の働きかけもあり、イギリス帝国は「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土建設することに好意をもってのぞみ、その目的達成を容易ならしめるため、最善を尽くすこと」も後から約束した(バルフォア宣言)。正反対の約束を両者にした、正に二重外交である。この時点で、今日のアラブ・イスラエル問題が本格的に始まったのである。(ちなみに、この矛盾し混乱した二枚舌外交に留まらず、イギリスはフランスと密約を結び、トルコ領土の大半をイギリス、フランス、ロシアにおいて分割することをも決めていた)。
 歴史上破廉恥極まりない"バルフォア宣言"は、第一次大戦後に着々と実行されていった。第一次大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治となったが、バルフォア宣言に基づいて統治されることが決定された。19世紀初頭にはパレスチナにユダヤ人は僅か2%しかいなかったが、第一次世界大戦後は10%を超えるようになる。1933年以降、ナチスの迫害が開始されると移民の数は激増の一途を辿った。しかし、当然現地パレスチナには多数のアラブ人達が住んでいるので、イギリスの委任統治に激しい抵抗が起こるようになった。ユダヤとアラブ双方の利害はますます激しくなり、イギリスは自らの委任統治の矛盾を認めるようになり、1939年にイギリスはアラブ側にくみする白書を公表するに至った。これは、シオニストにとって裏切り行為となり、シオニストによる反英テロ活動が横行することとなった。
 第二次大戦後、1947年2月にイギリスはパレスチナの統治能力を喪失したことを認め、この問題を国連に移管した。国連特別総会は、同年4月にパレスチナ問題を調査するための特別委員会(UNSCOP)の設置と、同委員会による現地調査派遣を決定した。この委員会には、大国を除く11カ国から構成された。5月に現地調査が行われ、8月末に報告書が提出されたが、多数案と少数案が併記された。多数案(カナダ等7カ国案)は「アラブ国家とユダヤ国家の分割案で、聖地エルサレムとベツレヘムは国連による永久信託統治する」というもので、少数案(インド等3カ国案)は「エルサレムを首都とするアラブ人とユダヤ人の連邦国家」であった。オーストラリアは、両案に反対した。多数案は、必要な3分の2の賛成を得られなかった。ここから、シオニストとアメリカによる猛烈な多数派工作が展開されることとなった。
 アメリカ国内には、多くのユダヤ人社会が存在し、選挙母胎としての圧力をかけていた。そして、財界の実力者にユダヤ人が多いと言うのも事実であった。ルーズベルトの後を継いだトルーマン大統領は、早くからユダヤ人国家の創設に賛成していた。トルーマン曰く「ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない」のである。国連総会におけるシオニストと強国アメリカによる多数派工作や圧力は、熾烈を極めた。工作の対象となったのは、ハイチ、リベリア、フィリピン、中国、エチオピア、ギリシャの六カ国。最後まで分割案に反対し通したのはギリシャだけで、残りは棄権と賛成にまわった。運命の1947年11月29日、国連総会はパレスチナ分割案を賛成33、反対13、棄権10をもって可決した。かくして、シオニストは即日イスラエル国家の設立を宣言し、アメリカは直ちにこれを承認し、三日後ソビエトもこれに倣い、イスエラルは建国されたのである。
 このイスラエル建国が不当であったことは、改めて言うまでもない。現地アラブ住民の主権を侵害し、外国からの移民にパレスチナの大部分を割譲し、現地アラブ住民の正当な自決権の行使を否定した。この不当性は、分割案で示されたイスラエル国家とアラブ国家の人口と面積比や土地所有の割合などに照らせば、極めて明白だった。イスラエル国家に割り当てられた面積は、全パレスチナの57%を占めていたが、人口はパレスチナ人口192万人のわずか31%…約61万人を占めるにすぎなかった。その61万人のうち、当初からパレスチナに住んでいたのはせいぜい十分の一ほどであった。また、この国連の分割案で承認されたイスラエル国家自身でさえ、そこに居住するユダヤ人は490,020人なのに対して、同国に居住するアラブ人は509,780人を数えユダヤ人が少数側だったのである。更に土地所有を見ると、1945年時点でユダヤ人の所有する土地は僅か5.66%に過ぎなかった。国連分割案ではこの「わずか6%ほどの土地所有者であるユダヤ人にバレスチナ全土のほぼ3分の2が与えられた」のである。正に「軒下を貸して母屋を取られる」状況であり、歴史上類を見ない極端に非道な国家建設だったと言える。

 もちろん、この歴史上希に見る不当なイスラエル建国を、アラブ諸国が黙ってみているわけがなかった。1948年5月14日、イギリス軍の撤退が完了すると同時に、周辺アラブ諸国、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノンは、イスラエルの殲滅を目指してパレスチナに攻め込んだ。パレスチナ戦争(第一回中東戦争)の勃発である。緒戦ではアラブに有利に進んだこの戦争も、最終的にアラブは大きく敗退した。この戦争の結果、イスラエルの領域は逆に拡張し、なんとパレスチナの80%にのぼった。この戦争と、ユダヤ機関のテロ活動の結果、多くのアラブ人がイスラエル領から追い出された(※ちなみに、後のイスラエル首相メナハム・ベギンは、アラブの老若男女254人が虐殺された小村デイル・ヤデイル・ヤシーン事件のシオニスト武装集団イルグンの部隊長だったのである)。かつて東欧やドイツでユダヤ人が受けた迫害や虐殺を、テロ活動でアラブ人に対して容赦なく行い、アラブ人はパレスチナを去らざるを得なかった。そしてパレスチナ戦争によってパレスチナから追い出されたアラブ人は、75万人から100万人にのぼると言われる。国連の中にパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が創設されたが、登録されたパレスチナ難民の数は96万人に達した。こうしてイスラエル建国はアラブ・イスラエル問題を定着させ、パレスチナ難民という新たな問題を発生させたのである。
 その後、この地域では3回に渡る大規模な戦争が発生した。第二回目の1956年のスエズ運河のエジプト国有に伴う戦争は、国際世論の盛り上がりと米ソの圧力で、エジプトの外交的勝利に終わった。第三回目の1967年の戦争は圧倒的な電撃作戦を行ったイスラエルの勝利で終わり、新たな占領地を得、同時に新たな難民を生んだ。この頃から、暗にイスラエルの存在を認めることに同意した穏健派アラブ諸国と、イスラエルの建国を認めないパレスチナ解放機構(PLO/パレスチナ人の運動を統合するために1964年に結成された組織)らの解放勢力との溝も広がっていった。1973年の第四次中東戦争は、アラブ諸国(エジプトとシリア)が曲がりになりにもイスラエルと互角に戦った初めての戦争だった。そして、初めて石油輸出を武器とした画期的な戦略が用いられた。そして、この戦争でエジプト側は、1967年の国連理事会決議(※イスラエルの全占領地からの撤退)の全面履行開始を要請した。しかし、決議の解釈の曖昧さで、双方が譲れないものがあった。
 その後、アメリカの強力な介入でエジプトとイスラエルの直接和平の道が開かれた。1978年9月17日に両国はカーター大統領の立会いのもとに合意し、これは「キャンプ・デービッドの合意」と名づけられた。しかしエジプト・イスラエル問題は、ほとんどパレスチナとは関係が薄い紛争だったからこそ成し得た和平であり、イスラエル・アラブ対立の中東問題の本質の解決とはほど遠いものだった。「キャンプ・デービッド」の合意においては、ヨルダン川西岸、ガザ地区の最終領土の帰属、聖地エルサレムの処遇、パレスチナ人の民族自決権、パレスチナ人国家の樹立等については、全く触れられていず、パレスチナ解放機構についてはその存在すら完全に無視されている。この合意は、PLOはもとより穏健派アラブ諸国にとっても、到底受け入れられないものだった。アラブ首脳会議で、アラブ諸国は「キャンプ・デービッドの合意」に反対する決議を行い、エジプトに調印しないように呼びかけたが、エジプトはこれに調印。以後、エジプトはアラブ諸国から断行されることとなった。

 イスラエル・パレスチナ問題は、単にこの両当事者だけの問題ではない。上の歴史で明らかなように、イギリスやアメリカ等の欧米諸国の介入によって引き起こされた問題なのである。最近の例を見ても、湾岸戦争におけるイラクへの武力行使は、「イラクはクェートから即時撤退すべし」という国連決議を根拠としていた。ところが、同じく国連決議で「イスラエルはその占領地から撤退すべし」というものが出ていても、こちらは20年もアメリカは放置している。同様に、「イスラエルは追放パレスチナ人を帰還させること」という国連決議をイスラエルは無視し続けているが、これもまた何の制裁も与えられていない。こうしたアメリカを中心とした専横的なダブルスタンダードが、イスラエル・パレスチナ問題を解決から遠ざけている。アメリカでは、ユダヤ人勢力だけでなく、キリスト教原理主義の人々がイスラエル支持を強硬に主張しており、アメリカのイスラエル支持の姿勢は今後も変わらないと考えられる(アメリカのキリスト教原理主義については、次回取り上げる)。
 イスラエルはアメリカの最新鋭の武器と高度な軍事訓練を背景に、小国ながらも圧倒的な軍事的優位を保つ一方で、パレスチナの人々は土地も住む家も奪われ、武力では圧倒的に劣っている。将来に望みのない貧しいパレスチナの人々は、女性ですら喜んで自爆テロを志願すると言う…しかしパレスチナ側が爆弾テロを起こすと、イスラエルの武力報復は5倍となって返ってくると言われている。イスラエル国家でのユダヤ民族主義は相当に強い権力を保持しており、家と故郷を奪われたパレスチナの人々への視点をまったく欠いている。彼らの旧約聖書解釈に従えば、ユダヤ人は神に選ばれた民族(選民思想)であり、周囲の国家や民族は滅ぶべき異邦人・外敵だとすら考えられる。パレスチナの銃を持たない子供たちは、銃を持ったイスラエルの兵士に対して今日も石を投げ続ける。
 シオニストの主張は、イスラエル建国と言う不当なユダヤ人国家建設によって、今もパレスチナの人々との紛争の基となっているだけでなく、中東アラブ諸国のイスラムの人々の反感を買い、過激なテロを起こすイスラム原理主義へと走らせる要因の一つとなっているのだ。


(2004年11月14日記載)


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