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2.イスラム教の原理主義
前回も触れたが、「イスラム原理主義」と言うと、欧米に強く反発して過激テロを行ない、近代以前のイスラム教の原点に回帰させるため過激な行動を取ると言うイメージが強い。しかし、これは決して正しい見方ではない。イスラム原理主義者には、西洋的教養や科学技術を身に付けた知識人や欧米留学者が多いのである。何故、西洋近代の影響を受けつつ、彼らは欧米に反発するのか・・・歴史を振り返りながら、この背景を探っていこう。
イスラム原理主義は一部の国や地域で起こったわけでなく、様々な地域で起こった運動や思想が時代と共に紡ぎ合わされていく。中東の地域から、インドネシアなどの南アジア地域まで、様々な潮流が複雑に絡んでいる。全体的な流れを分かりやすくとらえるため、エジプトを中心に話しを進めていこう。
エジプトはオスマン帝国の属州だったが、ナポレオンの遠征で近代世界に引きずり込まれる。ナポレオン撤退後、1805年にムハンマド・アリーが政権を打ち立てる。彼は西洋文明を取り入れ、西洋型の軍隊制度も取り入れた。また多くの青年を、西洋諸国に留学させた。このような近代改革を進めたトルコやエジプトに対して、アラビア半島ではまったく方向の異なった、ワッハーブ派のイスラム改革運動が始まっていた。これは、預言者ムハンマド時代の純粋なイスラムに回帰せよと言う原理的な主張だった。彼らは、スーフィズム(イスラム神秘主義)や近代改革イスラム勢力を、不純物として攻撃した(第一次ワッハーブ王国はエジプトとの戦いに敗れるが、その末裔が20世紀にサウジアラビアを建国する)。
さて、19世紀前半留学させたエジプトの青年達が帰国して、活躍を始めていた。その青年の代表格に、リファー・アル・タフターウィーがいた。彼は、エジプト国民は西洋に学ぶべきだと強く主張した。ヨーロッパの科学はもともとイスラムから学んだものであるから、近代科学はイスラムの脅威ではないとした。彼は、西洋を敵視しなかった。彼は、西洋の国民国家概念を、イスラム社会に移植することを試みた。
その一方で、西洋帝国主義を敵視する者もいた。1871年にカイロに現れたジャマル・アル・アフガーニーと言うウラマー(イスラムの法学等を修めた知識人、指導者の事)が、その人である。彼はヨーロッパ諸国を巡り、また支配された非西洋諸国の苦悩も見て回った。西洋諸国に対抗するには、イスラムと言う宗教の下に大同団結を図っていくしかないと考えた。アフガーニーは、「イジュティーハード」と呼ばれるイスラム学者による教義解釈で、イスラムの教理を科学的、合理的に解釈しなおす事を主張した。彼は、西洋の近代知識人の民族、人種偏見に対して、果敢に戦いを挑んだ。彼は、イスラム教を救いたいならば、現実の政治の世界に関与すべきだとも訴えた。彼は、反政府運動の疑いでトルコやエジプトから追放され、その上弟子がイラン皇帝を暗殺した為、彼自身も幽閉されて遂に世を去った。
アフガーニーの弟子に、ムハンマド・アブドゥフと言う人がいる。彼も、西洋植民地支配に対する東洋とイスラムの団結を訴えた。アブドゥフは、「エジプト人のためのエジプト」のスローガンの下決起した1882年のオーラビー革命に関わったが、英国軍にあえなく鎮圧され、彼も国外追放処分を受けた。彼は、強力な西洋勢力に対する劣等感に苛まされたが、イスラムに求められるのは、教育と法律の改革であると言う立場に行き着いた。彼の師アフガーニーの説く政治の関わりには、反対した。1888年、アブドゥフは赦免を受けてエジプトに帰国したが、近代的な政教分離型の政治制度はエジプトでは無理なので、イスラムの法、政治概念を近代に合致するよう再解釈を試みた。こうして、彼は1899年、エジプト最高のムフティー(イスラム法学者)に選出され、彼の主張はイスラム全世界に大きな影響力を持つ事となる。
さて、20世紀初頭、トルコのオスマン帝国が倒れ、西洋近代化を目指すトルコ革命が勃発した。第一次世界大戦を経験し、1923年に連合国との間にローザンヌ条約を締結して共和国が成立。イスラム世界で、初めて近代的な政教分離を原則とする世俗主義国家トルコ共和国が誕生した。さてエジプトの知識人も、トルコ同様に世俗化に傾いていた。1925年にカイロ初代学長に就任したルトフィー・サイイドはアブドゥフの弟子だったが、イスラムを近代的な国民意識形成の単なる手段としてしか見ていなかった。これに強く反発したのも、やはりアブドゥフの弟子のジャーナリストのラシード・リダーだった。彼自身はイスラムと近代思想の調和を試みた穏健な思想家であったが、後世の原理主義思想に影響を与える。彼は、反西洋と言う思想が強く、前出のワッハーブと言うイスラム改革思想家を再評価した。西洋の脅威に対抗するには、「サラフ」と呼ばれる初期イスラムの時代の原則、精神に回帰すべきだと説いた。これは、サラフィー主義と呼ばれる。リダーは、外部の影響を排除するサラフィー主義に従って、イスラム法によるイスラム国家の樹立を構想した。
アフガーニー、アブドゥフ、リダーのイスラム改革思想は、一部の先覚的な知識層に限られていた。これを大衆レベルにまで普及させたのが、ハサン・アル・バンナーである。1920年代のエジプトの閉息状況に、学生だったバンナーは強い危機感を抱いていた。彼にとって西洋の侵略は、精神世界にも及ぶものだった。第一次世界大戦後、英国は一方的にエジプトの独立を宣言(1922年)し憲法が公布された(1923年)が、独立は見せ掛けに過ぎず、エジプトの議会に力は無かった。英国植民地支配者によるエジプト同胞に対する屈辱的な扱いを目の当たりにして、バンナーは衝撃を受けた。深刻な危機意識が、バンナーを行動へと駆り立てた。バンナーの演説はカリスマ的な力を持ち、触発された人々と共に(後に様々な原理主義団体の母体となる)「ムスリム同胞団」を結成する(1928年)。この組織は、最盛期にはエジプト全土に4千の支部と二百万人を超えるメンバーを擁したと言われる。バンナー自身は、教育の普及によるイスラム国家樹立を目標としていた。
ムスリム同胞団は全国組織に発展し、男子だけでなく女子の教育のための学校、村落からの貧しい移住者のための支援活動を行なったりもした。政府によって見捨てられた貧しい人々に相互扶助のネットワークを張り巡らしていき、急速に組織を拡大させていった。バンナーは、ムスリム同胞団が教育と福祉の為の機関であることにこだわったが、同胞団の政治的影響力は次第に高まっていった。バンナーは政治的要求のために暴力を行使することを拒絶したが、組織が巨大化すると、バンナーの改革姿勢を離れて暴力的な抵抗を試みる者も出てきた。こうした不満層から、より過激な暴力的な秘密組織が登場して暴走し首相を暗殺し、報復としてバンナーが秘密警察に暗殺されてしまう。ムスリム同胞団は指導者を失って迷走し、やがてナセル大統領によって非合法化されてしまう。
このナセル大統領だが、ご存知の如く第二次中東戦争で勝利を勝ち取り、英国から完全独立を果たし、アジア・アフリカ諸国の民族主義の旗手として登場し国際的にも注目を集めたエジプトの英雄である。1958年には、エジプトとシリアはアラブ民族主義に基づくアラブ連合共和国を結成した。ナセルは、政教分離について「宗教も国家に服従すべし」との確固たる信念を持っていた。ナセル統治初期はムスリム同胞団に対して融和的な態度を示していたが、同胞団に反革命の陰謀ありとして1954年に非合法化。活動家達は地下に潜行し、そのうちの一人がナセルを狙撃。暗殺未遂事件により、同胞団の指導者達には死刑判決が下り、数千を超えるムスリム同胞団の活動家が逮捕された。獄中での拷問などは過酷を極め、多くの青年が獄中で命を落とした。この時の仕打ちが、後にムスリム同胞団活動家達に深い恨みと反感を植え付けた。ナセル大統領の方はと言うと、第三次中東戦争の敗北して権威が失墜していく。官僚の腐敗も横行し、民衆は再びイスラムに目を向けるようになる。
ナセル的な世俗主義的な民族主義が中東イスラム諸国を席巻している頃、パキスタンの思想家でジャーナリストでもあるマウデューディーが、イスラム原理主義に大きな影響を及ぼす思想を紡いでいた。南アジアで最も有力なイスラム原理主義団体「ジャマーアテ・イスラーミー」は、彼によって1941年に創設され、パキスタン建国の中核を担ったムスリム連盟の近代主義的イスラム理念に反対した。彼の思想の中核にあるのが、「神の主権(ハーキミーヤ)」論である。西洋国民国家の根幹である「国民主権」を否定し、神のみの主権を説く。イスラム国家は、イスラム法(シャーリア)と宗教指導者の合意(イジュマー)によって運営されるべきだと主張する。この「神の主権論」は、革命理論へと転化する。世俗権力者に対する反逆、革命を、個人の権利ではなく、神に対する義務ととらえる。こうした認識に基づき、マウドューディーは普遍的なジハードを提唱した。ジハードは聖戦でもなければ自衛の為の戦いでもなく、人類の福祉のために権力奪取を目指す「革命闘争」だと説く。現代は預言者ムハンドが現れる前と同じ無名の時代(ジャーヒリーヤ)だが、イスラム教徒はあらゆる手段を駆使して、西洋が押し付ける「ジャーヒリーヤ」に抵抗すべきで、やむを得ない場合は武力に訴えることも許される、と説いた。
マウデューディーの議論を更に推し進めたのが、エジプトのスンナ派イスラムのサイイド・クトュブである。クトュブは、上エジプトで貧農の子として生まれたが、師範学校の学生時代は知性的でインテリ的な青年だった。アメリカ留学後も、穏健な改革主義者だった。帰国後の1953年にムスリム同胞団に入団し、指導評議会のメンバーとなった。その翌年の1954年、ナセルのムスリム同胞団非合法化により、クトュブも逮捕された。獄中で、彼は国家による残虐な行為を目の当たりにする。預言者ムハンマドがメッカの「ジャーヒリー(無明社会)」と戦ったように、現代のイスラム教徒は「ジャーヒリー」に対して戦いを挑まなければならないと、クトュブは考えた。彼は物質的なものにしか関心が及ばない現代社会に無明の闇を見い出し、物質主義に毒された現代社会から脱してイスラムの本義に立ち返り、ジハードを戦え、と説く。クトュブは、コーランやムハンマドの言行の中から、自説に合う部分を引っ張り出して理論武装を進めた。彼は、無宗教者、ユダヤ人、キリスト教徒、十字軍、モンゴル帝国、共産主義者、資本主義者、植民地主義者、シオニストが、ナセルを支援し、イスラムを消滅させようとしていると言う被害妄想的な世界像を持っていた。コーランは、唯一自衛の手段としてのみジハードが許されると説くが、クトゥブのジハード論の中ではそれがそぎ落とされている。彼が獄中で書いた評論は、イスラム社会の現状に危機感を抱く青年達を感化して急進的な政治運動が発生する。サダト大統領暗殺のジハード団や、外国人観光客殺害事件を起こしたイスラム集団、そしてオサマ・ビンラディンもクトュブの思想から大きな影響を受けている。クトュブは、原理主義の父と呼ばれる。
ナセルの後を継いで大統領に就任したのが、サダト大統領である。サダトは、第四次中東戦争で政治的勝利を得て、権力基盤を固めた。ナセルの社会主義的政策を市場経済に転換し、外貨導入を進めた。そしてこれまで敵対してきたアメリカに接近した。キャンプ・デービッドの合意で、宿敵イスラエルとの平和条約も結んだ。サダトの経済政策は貧富の差の拡大を招き、出稼ぎと社会的な不正義を増大させただけでなく、イスラエルと和平は中東に激震を走らせた。大半の国民は、サダトの宗教心に不信感を抱いていた。。
貧者に対する救済活動を行なう市民組織が大学などで生まれて、スラムでは青年達が福祉活動に励み、次々と建設されるモスクは市民組織の相互扶助、慈善活動の拠点となっていく。サダトは、ムスリム同胞団の危険思想を骨抜きにして、穏健化を進めていった。しかし、穏健化した組織を離れて、過激な新運動組織を作り始める青年達も出てきた。「タクフィール・ワ・ヒジュラ(断罪と逃亡団)」も、そう言う組織の一つである。創始者シュクリー・ムスタファーは、獄中でクトュブとマウドゥーディーの思想に触れて傾倒し、仲間と共に組織を結成したのである。彼の思想は極端に排他的で、「タクフィール・ワ・ヒジュラ」のメンバーでない者は、すべて不信心者であると断罪した。1977年、彼らはザハビー元宗教財産省大臣を殺害してしまい、翌年シュクリーは死刑となった。
先にも述べたように、サダトのイスラエル和平はイスラム諸国において強い反発を招いた。この反対を力で抑え込もうと、1,500名を超える反対派を一斉検挙した。そしてその翌日、サダトは「ジハード団」によって暗殺された。ジハード団の理論的指導者がムハンマド・ファラジュで、イスラムの教義のうち特に攻撃的な部分に着目して、彼の主張に沿わない穏健な部分は意図的に軽視した。ファラジュは、剣のみが真の社会を作る手段であるとした。彼は、例えイスラム教徒を自称する権力者でも、イスラム法に背いた権力者はジハードの対象とした。ファラジュ達は処刑され、ジハード団は組織的な弾圧を受けるが、幹部のアイマン・ザワヒリやムハンマド・アティフは、オサマ・ビンラディンに合流してアルカイダの幹部になる。ジハード団の、現代イスラム原理主義運動に及ぼした影響は大きい。
サダトの後を受けて登場したのが、ムバラク大統領である。彼は時代の動きを敏感に感じ取り、弾圧された多くの受刑者を釈放し、一部の過激勢力を除いてイスラム勢力に対して融和的な政策を取った。穏健化したムスリム同胞団の政治進出も認められた。一方、過激な勢力が存在するのも事実で、ルクソールの古代遺跡で「イスラム集団」のテロリストが58名もの観光客を襲撃する事件が発生した。エジプト政府の外貨獲得の観光資源に、打撃を与えるための凄惨な事件だった。イスラム集団の幹部は、医学、工学等を学んだ高学歴者達だった。彼らはナセル社会主義統治の矛盾を背負わされた人々だった。イスラム集団は、ジハード団と協力してサダト暗殺謀議に加わり、ジハード団のサダト暗殺後に、アシュート警察を襲撃して武装隆起した(オマル・アブドルラハマンは、共同謀議の主犯格として裁判にかけられるが無罪釈放となり、その後アメリカに極秘入国して、1993年2月、世界貿易センタービル爆破のテロ容疑で逮捕され、終身刑判決を受けた)。
サダト暗殺による政権転覆、イスラム国家建設というジハード団、イスラム集団の世直し運動は失敗に終わった。おりしもソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻を始め、両集団の青年達の多くは、義勇兵としてアフガニスタン戦争に参加するために出国していった。こうして、1980年代、原理主義の国際的なネットワークが形成されていく。彼らは、サウジアラビアからやって来た青年オサマ・ビンラディンに大きな影響を与える。
オサマ・ビンラディンの激しい怒りの根底にあるのは、いったい何なのか。上記に触れた数々のイスラムの思想と運動が、オサマ・ビンラディンと言う人間に凝縮されている。オサマ・ビンラディンは、サウジアラビアの富豪の家の出である。サウジアラビアは、先にも触れた「ワッハーブ主義思想」を大義名分に建国された国である。ビンラディンも、少年時代に厳格なワッハーブ主義の教育を受けていたと言われる。16歳の時には、彼はエジプトのムスリム同胞団に接近して、クトュブの著作から多大な影響を受けたと言われる。神に敵対する西洋とその手先、「ジャーヒリー」に対するイスラムの戦いの大義に、ビンラディンは目覚めていく。彼はアフガニスタンのイスラム同胞を救う為、アフガニスタンに渡る。そしてジハート団幹部のアイマン・ザワヒリ、ムハマド・アティフから影響を受けて、アルカイダ結成に向かう。
そして、1991年の湾岸戦争。ワッハーブ主義を奉じるはずのサウジアラビアの国家指導者は、聖地メッカやメディナがある清浄の地にもアメリカをはじめとする西洋の軍隊を引き入れた。この状況は、ビンラディンに屈辱を与えた。ビンラディンの怒りと憎悪は深く、イスラムの大義を回復する為、ビンラディンは1996年9月にアメリカに宣戦を布告した。後は、現在ニュースで伝えられるような、血みどろの戦争とテロ報復の日々が続いている。
イスラム原理主義の流れをざっと見たが、イランのイスラム革命と、アルカイダのネットワークが広がりつつあるインドネシアについても、少しだけ触れておきたい。
1921年のイラン。英国の後押しを受けた軍人レザー・シャーが軍事クーデターを起こして、トルコに倣った共和制国家を作り元首になる事を狙ったが、ウラマーが反対して、狡猾なレザー・シャーは、これを王制運動にすり替えて、1925年に彼を国王とする国家(パフラヴィー朝)が成立する。レザー・シャーは、イランの近代化に着手した。政策的力点は、中央集権的な国家樹立に置かれていたので、教育、福祉は後回しにされた。西洋服着用、ベール禁止も法制化された。国家予算の50%が軍事費で、教育予算は僅か4%だった。富裕層と貧困層の間には、埋めがたい溝が形成される。レザー・シャーは、ウラマーの権威を削ぐ政策を取りつづけ、イスラム教徒の最重要事のメッカ巡礼すら禁じた。こうした抑圧的な近代政策下、最高権威のイスラム法学者に就任した宗教指導者ハーエリー師は、聖都コムに多数の弟子と移住した。この時、共にコムに移ってきたのが、若き日のホメイニーである。彼は、イスラム神学の主流派から冷遇されていた、イスラム神秘学に関心を示していた。
イランの二代目国王、モハンマド・レザー・パフラビィーは、権益を失うことを恐れた英米の協力で国王の反対勢力の首相を、軍事クーデターで失脚させる。アメリカの支援を受けて、様々な改革を行なう。石油の莫大な利益を背景に、巨大な経済開発プロジェクトや軍事力強化に努める。しかし、一方で貧富の差はどんどんと広がっていき、伝統的な生活、地域共同体は破壊され、首都テヘランには農村から多数の人口が流入して、スラム街を形成していく。自由や民権を説く英米が反動クーデターに加担したことは、知識人にも深い失望と挫折感をもたらした。国王は、アメリカのCIAの協力により秘密警察を創設し、不満分子に情け容赦ない弾圧を加えていく。イラン国民は、お互い疑心暗鬼になっていき、革命の土壌が生まれていく。
このような状況下、ホメイニー師が熱狂的に、マドラサの学生達たら迎えられた。彼は、アメリカやイスラエルと組む国王の外交姿勢や、弾圧する国内政策を「イスラムの敵」として厳しく糾弾。また、貧困層の苦境についても語った。しかしすぐに秘密警察がマドラサを急襲し、数名の学生が殺され、ホメイニーは逮捕された。釈放された後も国王批判を続け、再び逮捕される。数千の抗議行動を抑え込む為、秘密警察と軍隊がモスクを包囲し、数百名の命を奪った。ホメイニーは、国外追放の身となり、イラクのシーア派の拠点ナジャフに移った。しかし、彼の演説テープや著作はイランに密輸され、影響力を失うことはなかった。イラン国内では、反政府デモと弾圧が繰り返され、1978年9月に国王は戒厳令を布告するが、反政府運動のうねりを止めることはできなかった。12月には、ホメイニーはついに海外から王制打倒の命令を発した。1979年1月に国王は国外に脱出、2月にホメイニーはイランに帰国した。革命成就後も血なまぐさい抗争が続くが、ホメイニーはイスラム革命の最高指導者として実権を固めていった。1981年11月に、イラン共和党は単独で政権を獲得し、司法、立法、行政の全ての要職にイスラム法学者が就任した。「イスラム原理主義」と言う用語が登場するのは、このイランのイスラム革命の影響からである。
イランは、世界初のイスラム革命によるイスラム原理主義国家である。イランではシーア派が国教の位置を占めるが、イスラム教全体では約一割の少数派である。シーア派の特徴は、預言者ムハンマドの従兄弟の第四代カリフのアリーと、その血を継ぐイマーム(宗教的指導者のこと。カトリックの法皇のような存在)を重視すると言う点。11代目イマームは子を残さず死んでしまうが、12代目イマームは終末の日まで隠れたまま生き続けている(隠れイマーム)と言う独特の信仰が生ずる。多数派であるスンナ派の中東のイスラム諸国が、イスラム革命が自国に浸透するのを恐れてサダム・フセインを後押しした。その結果、イラクがイランを攻撃を開始し、イラン・イラク戦争が勃発したのである(ちなみにサダム・フセインが、イスラム擁護者的発言を取り始めるのは湾岸戦争以降である)。
ホメイニーの死後、保守派の大統領ハメナイが最高指導者に昇格し、その後に穏健派のラフサンジャニが大統領となった。その後大統領に就任したハタミ大統領は、民主改革を進めると共に、欧州諸国との関係改善を図ろうとしているが、保守派は「イスラム法学者による支配」が揺らぐことに危惧を感じている。イラン大統領には、軍や司法の指揮権が無いので、保守派はその力でハタミの足を引っ張っている。改革派の新聞も、保守派の力で発売禁止になった。保守派と改革派の暗闘が続く微妙なイラン国内情勢の中、アメリカがイランを「悪の枢軸」と決め付けたために、イラン国内の穏健派、改革派の立場を一挙に難しいものにしてしまった。イラン国民の大勢が反米で結束してしまうと、イラン国内の穏健派、改革派の発言力の低下は免れないだろう。
次に南アジア最大のイスラム国家、インドネシアにも触れておこう。
アメリカやシンガポールは、かねてから世界最大のイスラム教国インドネシアがテロリスト達の温床になっていると警戒してきたが、2002年10月12日、バリ島のディスコで爆弾が爆発して、オーストラリア人等500人以上の死者を出す大惨事が起こった。インドネシア当局は7名のイスラム教徒を拘束、指名手配した。逮捕した主犯格のイマム・サムドラは、マレーシアでイスラム過激派の活動に加わり、アフガニスタンで2年半、ゲリラ戦や爆弾製造等の軍事訓練を受けていたと言う。
そもそもインドネシアは基層のアミニズムの上に、ヒンドゥーや中華思想、イスラム思想、西洋文明等を重層に受け入れながら、独特の文化を育んできた。本格的にイスラム化が進むのは、15世紀以降である。インドネシアのイスラム教徒にはいくつかの類型が認められるが、イスラム本来の教義に忠実であるとするイスラム教徒にも民間信仰の流れが入り込んでいる。
近代に入って、中東イスラム世界の思想潮流は、インドネシアにも大きな影響を及ぼすようになる。1821年からは、16年にも渡って、反植民地闘争とイスラム宗教改革が融合した「パドゥリ戦争」が起こっている。1825年から88年にかけては、西部ジャワのバンテン地方で、イスラム指導者によるオランダに対する反乱が7回も発生している。19世紀後半に入ると、交通が整備されて、東南アジアからも中東へ巡礼に向かうイスラム教徒が増大し、中東のイスラム近代改革の思想が東南アジアに影響を与えるようになる。不純物を抱え込んだ蘭領東インドのイスラム教を純化するための団体「ムハマディヤ」が、ジョクジャカルタでアフマド・ダフラン達によって、1912年に創設された。今日でも、ムハマディヤはイスラム改革派の最大組織で、2,500万人もの支持者がいると言う。一方、1911年、インドネシア初の大衆的な近代民族運動団体「サレカット・イスラーム(イスラム同盟)」が結成され、組織は急速に蘭領東インド全土に拡大した。多様な層を抱え込んでいた団体だったが、後に共産党員を追放し、ムハマディヤと連携する組織になった。
1910年代から45年にかけて、今日のインドネシアの国民国家の枠組みが形成されていった。イスラム内部における保守派と改革派の角逐は、第二次大戦時の日本占領期にある程度改善された。日本軍政はイスラム諸団体の統合を図り、1943年に「マシュミ(インドネシア・イスラム協議会)」を作らせた。日本軍は、イスラムを懐柔する様々な政策を取ったが、それ以上に民族主義者のスカルノを重視した。インドネシアの独立に当たっては、世俗国家とするかイスラム国家とするかで重大な選択の問題があったが、スカルノは妥協案としてインドネシアに多様な宗教が存在することを容認する一方で、すべてのインドネシア国民は「唯一の神性」に帰すべきと言う原則を示した。1945年8月18日のインドネシア独立に際して公布された憲法では、「唯一なる神への信仰」と記された。
新生インドネシア共和国は世俗国家とイスラム国家の妥協の産物としてスタートしたが、イスラム国家樹立を求めていた勢力にとって、失望と不満以外の何者でもなかった。60年代にスカルノと対立したマシュミは、非合法化された。一方、イスラム国家樹立を求める勢力は、各地で国家に対する反乱を起こしていた。イスラム国家を樹立しようと言う動きは、「ダルル・イスラム(イスラムの家)」運動と呼ばれている。1949年、ジャワのバンドンでは、オランダ軍、共和国軍、イスラム軍の三つ巴の戦闘が展開されたが、イスラム軍が敗れてテロ活動に重点を移すと、住民の指示を失っていき、指導者が逮捕されるとジャワでの運動は収束した。しかしそれ以外の地方の抵抗は続き、イスラムは危険な勢力と言う印象は、スカルノ失脚後の後のスハルト軍事政権のイスラム政策に大きな影響を与えることとなる。70~80年代は、イスラム国家樹立を目指す勢力は、スハルトの鉄の支配を覆すことはできなかった。しかし、水面下では「イスラム覚醒」「イスラム復興」と言う大きな変動が起こりつつあった。
1980年代以降、各地でイスラム・モスクの建築ラッシュが起こった。バンドン工科大学で始まった「サルマン運動」と言うイスラム覚醒運動は、瞬く間に全国に広がった。彼らはウラマーの保守的なイスラム解釈を拒否し、イスラムの政治利用にも反対した。当初はイスラムの政治的影響を抑えてきたスハルトだったが、政権末期は自らイスラム教徒であることをアピールし、イスラムを政治的に利用しようとした。スハルトの高齢化と共に、後継や莫大な利権を巡って暗闘が始まっており、国軍幹部の中にもスハルトを快く思わないものもあり、これに対抗するためスハルトはイスラムを利用した。「全インドネシア・ムスリム知識人協会」は、スハルトの懐刀だったが、そもそもムスリム知識人協会は寄り合い所帯で統一性を欠いていた。第一にハビビのようなスハルト政権を支える利権関係の人々、第二に本当のムスリム知識人と呼ばれる人々、第三にイスラムを排外主義に利用して、反キリスト教、反華人感情を煽った人々である。
1994年、インドネシア政府は、ハビビの汚職疑惑を報じた雑誌を発禁処分にした。ライバルを競わせて分断し脅威を排除する権力掌握術に長けていたスハルトだったが、市民派イスラムを抑圧し、排外的なイスラム強硬派の勢力拡張を図ると言う分断戦術を取り始めた。しかし、これがスハルト政権崩壊の序曲となっていく。スハルトがイスラム強硬派を利用し始めた頃から、全土で紛争が起こり始める。1996年10月には、東ジャワで(明らかによそ者である現地人ではない)イスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が発生、12月には西ジャワので(やはりよそ者の現地人ではない)イスラム教徒がキリスト教会や華人商店を焼き討ちしている。これらの地域は寛容を説くウラマーが強い地域なので、スハルトが「彼らの寛容は見せかけ」と思わせるための政治的陰謀による謀略事件だと考えられている。
スハルト政権による弾圧は、穏健改革派イスラム、市民派イスラム、世俗ナショナリストの三つの勢力の連帯を強めさせた。三つの勢力は、民主化闘争と言う共通の目的のため共闘した。1997年7月にタイで起こった通貨危機は、インドネシアにも押し寄せ、貧困層が急速に拡大。スハルト退陣を求めるデモも公然と行なわれるようになった。スハルトのブレーンのプラボー少将達は、民衆の怒りを別の方向に向かわせる事を考えた。「経済危機は、真のイスラム教徒であるスハルトに対する欧米の陰謀。IMFは、ユダヤ教徒、カソリック教会、華人資本の巣窟である。国内の反スハルト勢力は、CIA、バチカン、モサドと組んで、海外華人資本がそれを経済支援している」と主張して回る。こうした煽動で、1995年首都ジャカルタで大暴動が起こり、多数の華人系住民の殺害とレイプが起こった。国軍司令官はプラボー少将を解任し、スハルトは遂に国軍からも見限られ、1998年5月21日遂に大統領職を辞任した。その後、5年の間に、ハビビ、ワヒッド、メガワティと大統領が目まぐるしく変わった。
ワヒッドやメガワティは、民主化闘争の主役であったので、穏健派イスラムや市民派イスラムを活気づかせた。しかし、アメリカのアフガニスタン攻撃や対イラク戦争は、イスラム強硬派台頭の背景となってしまった。寛容な穏健派と非寛容な強硬派が、今でもインドネシアで勢力を競い合っているのである。
こうして見てきたように、イスラム教は決して一枚岩ではないし、イスラムの教え(に対する解釈)も決して同じではない。穏健派から過激な急進派まで様々な勢力が存在するが、アメリカの親イスラエル政策や対イラク戦争は、こうした穏健派のイスラムの立場を困難なものにし、より排外的なイスラムの人々を助長する要因となっている。またイスラエルによるパレスチナへの武力攻撃は、力を持たない人々の生活を破壊し、家族を失わせ、将来の希望を奪い、人々をより過激な自爆テロ行動へ走らせる要因となっている。我々がイスラム原理主義の成り立ちを考える時、先に近代化を果たした欧米列強諸国が彼らの地を植民地化し、彼らの尊厳を奪い劣等感を与えた歴史的背景もしっかりと胸に刻んでおく必要があると私は考える。
(2004年10月17日記載)
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