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第二部:第四章 この人を見よ

74.2度目のエルサレム

デケンブル月が終わり、ヤーヌアーリウス月に変わる。また新しい年が訪れた。クロディウスが入団して、24年目の年である。1日目の軍団給与支払い閲兵式が終わった後、クロディウスはカファルナムの町に戻った。
直接自分の家には戻らず、長老アンナスの家に寄った。ちょうど、ヤツフェルがアンナスから聖典の教えを受けている最中だった。クロディウスは邪魔しないように、その様子を静かに眺める。15歳だった少年のヤツフェルも、そろそろ18歳となる。一方、長老のアンナスは、この3年で一気に老けた気がする。
講釈が終わると、アンナスは彼を部屋に招き入れ挨拶をした。
「ようこそ、クロディウスさん。平和がありますように。」
ヤツフェルも挨拶をした。
「平和がありますように。」
クロディウスも、挨拶を返した。
「平和がありますように。今日の学びは何処の箇所だったかな?」
「イザヤの書です。暗唱したんですよ。聴いてくださいますか?」
「ぜひ、聴きたいな。」
クロディウスは、ヤツフェルの声に耳を傾ける。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。
わたしたちは思っていた、 神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
わたしたちは羊の群れ。
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように、
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、
彼は口を開かなかった。
捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、
命ある者の地から断たれたことを。
彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、
その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、
彼らの罪を自ら負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。
(※6)

「ほお、たいしたものだな、ヤツフェル。」
ヤツフェルは照れくさそうだった。
「不思議な預言ですよね、これ。この預言の巻物に書かれた人は神の僕なのに、軽蔑されて、皆の病や痛みや罪を負って、捕らえられて裁かれ、罪人として死ぬんです。でもその人の死で、多くの人が正しい者とされる。意味が、よく分からないです。」
アンナスが、クロディウスに言う。
「今日は、難解な箇所じゃったな。クロディウスさん、ヤツフェルは創世記からこのイザヤ書まで暗記しました。あと1年もあれば、聖典全部の暗記を終えるでしょう。」
クロディウスは、頷きながらその言葉を聞いた。そして言う。
「ヤツフェル、これまで学んだ教えの中で、何が一番重要だと思う?」
ヤツフェルは、少し考えてから答えた。
「神を愛することと、人を愛することではないでしょうか?」
クロディウスは、今度はアンナスに聞いた。
「あっていますか、アンナス長老?」
アンナスは答えた。
「その通りじゃ。ヤツフェルは、賢い子じゃな。」
クロディウスは、再びヤツフェルの方を向いた。
「今日は、実はヤツフェルに話があってきたのだ。」
「何でしょうか?」
とヤツフェル。
「少し前からアンナスと相談していたのだが・・・ヤツフェル、我がロングス家の養子とならないか?」
ヤツフェルの顔は、青天の霹靂といった表情に変わった。クロディウスの代わりに、アンナスがゆっくりと説明する。
「ヤツフェルよ、ご覧の通り、私もこの齢じゃ。いつ神の御下に召されてもおかしくない。もし私が亡くなれば、お前はまた孤児になってしまう。それは、良くない事じゃ。よく知らぬ私の縁戚の下で暮らすのも、辛かろうし、嫌じゃろ?それで、クロディウスさんとよく相談したのじゃ。」
ヤツフェルは、悲しい表情だった。
「アンナスさんも、クロディウスさんも、私にとっては父同然です。どちらかを選ぶ事などできません。」
クロディウスが、静かな口調で言う。
「もしお前が望むなら、この地に留まって仕事を見つけてアンナスと暮らす道を模索しても良いし、ヒスパニアやローマで私と共に暮らす道を選択しても良い。手紙で、妻も賛成してくれている。何れの道を選ぶにせよ、お前の意思で選択することができる。私の退役は来年だ。まだ1年あるから、じっくりと考えなさい。どの結論を選んでも、私はそれを尊重しよう、ヤツフェル。」



ヤーヌアーリウス月が終り、フェブルアーリウス月も過ぎてマルティウス月となり、再びユダヤの過ぎ越しの祭が近づいた。今年も、雄牛隊がエルサレムに派遣される事となった。大鷲隊と士官達に見送られて、雄牛隊が出発する。2回目ともなると、軍団兵も慣れたものだった。出発から5日後、過ぎ越しの祭の2日前には速やかにエルサレムに到着し、アントニア要塞に荷物を運びこんだ。 ただ一つ前年と違っていたのは、雄牛隊の指揮を執っていたのが、筆頭百人隊長となったアントニウスと言う事である。アントニウスは、自分の隊が最もポンテオ・ピラト総督にアピールできる任務を担当し、同期のクロディウスやアッリウスの隊には、面倒できつくて目立たない任務を割り当てた。クロディウスが、再び美しい神殿や城砦の門の警備を担当する事はなかった。

警備任務は、過ぎ越しの祭の前日から始まる。祭の前日も、過ぎ越しの準備のために多くの人がエルサレムにやってきて、市内を行き交う。クロディウス隊は、ヘロデ宮殿に通ずる道の警備に当たった。この過ぎ越しの祭には、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスも来ていたからである。
何千何万と言う人々が、市内の狭い道を通過する。市内の何処でも、軍団兵がそこに立っているだけで邪魔で、迷惑そうに睨まれる。クロディウス隊は、無事にその日の任務を終えてアントニア要塞に戻った。

その夜、夕食を終えて、部屋でクロディウスとアレクサンドロスが休んでいると、当然副隊長のミヌキウスと旗手のケルシアヌスがやってきた。
「クロディウス隊長、お休みの所申し訳ございません。至急、お知らせしたいことが!」
「うむ、聞こう。」
「あのイエスが捕まり、大祭司カイアファの家に連れて行かれました!」
「何!よし、すぐ行こう。」
クロディウスは外出着に着替えて、大祭司の家に向かった。

大祭司の家には、騒ぎを聞きつけた大勢の人が詰めかけていた。中庭では中央で火が焚かれ、周囲を照らしている。大祭司の家にも、見張り役の警備兵が配置されていた。

クロディウスの位置からでは、イエスと大祭司らの間でどのようなやり取りがされているのか全く分からなかった。
中庭で些細な口論があったので、クロディウスはそちらを見た。見覚えのある男がいた。焚火に照らされたその顔は、カファルナウムで何度も見た男である。確かイエスの弟子だったはずだ。彼は周囲の人との小競り合いの後、中庭を出て行った。イエスの仲間だと気づかれ、逃げたのだろう。すると鶏が鳴いた。夜明けが近づいている。大祭司の尋問が終ると、見張り役の兵士達がイエスを中庭に引きずり出した。

さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。そして目隠しをして、
「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」
と尋ねた。そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
(※7)

アレクサンドロスや町の人々を癒した恩人が、侮辱されて殴られている。副隊長のミヌキウスは、怒って言った。
「何て酷いことを!止めさせますか?」
クロディウスは、制止した。
「いや、軍団同士の揉め事は、御法度だ。」
クロディウスは、ヤツフェルの暗唱していたイザヤ書の言葉を思い出していた。

見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに。


その後、イエスは最高法院に連れて行かれた。ミヌキウスが言う。
「夜が明けます。我々の今日の任務が始まります。」
「うむ、分かっている。戻ろう。」
クロディウスは頷いて、アントニア要塞に戻っていった。


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(※6:新共同訳聖書:イザヤ書53章2~12節)