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第二部:第四章 この人を見よ

68.カファルナウムでの説教

その翌年、クロディウスがローマ軍に入団して22年目の年。フェブルアーリウス月に、クロディウスに不穏な情報がもたらされた。町によそ者がやってきて、人々の耳目を集めていると言う事だった。
クロディウスは副隊長や旗手と共に、カファルナムの家で長老のアンナスと会った。アンナスが挨拶をする。
「平和がありますように。」
クロディウスも挨拶で応える。
「平和がありますように。」
そして、率直に尋ねた。
「町に見知らぬ男が来て、皆を扇動していると言う話ですが、もし彼を知っておられるようなら、お話しをお伺いしたいのですが。またもや、熱心党か何かの者ですか?」
「いえ、そうではないようです。シナゴクで教えたり、屋外でも教えたりしていますが、私が聴いた範囲では、ローマ人の排斥やユダヤの独立などの話しは、一切していないようです。ファリサイ派やサドカイ派とも違うようです。彼は自分の名を、イエスと名乗っています。」
クロディウスもこの地に来てから二年も経つので、ユダヤの各派の教義の違いもよく理解していた。アンナスから、この道の教えを受けていたからである。クロディウスは、質問を続ける。
「では、エッセネ派か何ですか?もしくは、噂が漏れ伝わってくるヨルダン川のヨハネのような男なのでしょうか?」
アンナスも困っているようであった。
「それが、私にもよく分からないのです。彼の伝える教義が、今までの聖典の解釈と異なると言うか、何か変わったことを感じるのです。
それと私が直接見た訳ではなくて祭司から聞いた話ですが、ある男が祭司の所に来たそうです。祭司はその男が以前は重い皮膚病を患っていて、町から遠く離れた場所で生活している事を知っていましたが、男は完全に治っていたそうです。祭司は、男が治った事を人々に証明するために神に捧げものをしましたが、その男によれば彼を治したのもイエスだそうです。それ以上の事は、私にも分かりません。イエスは隠れずに、堂々と毎日郊外で教えておりますので、直に聞いてみればいかがでしょうか?」
クロディウスは、私服の部下にイエスが騒動を起こす者かどうか見張らせて、日々報告を受けていたが、今一つ要領を得なかった。アンナスの言う通り、騒動になる前に自ら話を聴くべきかもしれない。
「ありがとうございます、アンナス長老。そうしてみます。平和がありますように。」
「平和がありますように。」
アンナスは帰っていった。

クロディウスは、警戒されないように私服に着替えた。私服と言っても、目立ち過ぎるローマ式のトーガでなく、町に解け込むためにユダヤ人と同じタイプの長衣を着るようになっていた。しかしまだ髭を生やす気にだけは、どうしてもなれない。
同じくユダヤ式の私服に着替えた副隊長ミヌキウスと2人の十人隊長、そして従僕のアレクサンドロスを連れて、イエスと言う男がよく演説を行うと言うカファルナウムの郊外に向かう。
密偵として放った私服の軍団兵の報告によれば、演説は海辺に近い平地で行う事も、内陸部の山や丘の上で行う事もあるようだった。今日は群衆が、丘の上に向かっている。クロディウス達も、群衆に紛れて一緒にそちらに向かう。イエスの演説は日々人気を増していて、それを聴きに来るカファルナウムの人々の数も増えているようだった。
カファルナウムから北に1ローママイルほど登った丘で、人々は立ち止まった。丘の上には、男とそれを取り囲む男達がいた。イエスの仲間であろうか?丘の上の男は、カファルナムの人々が集まったのを確認すると、腰を下ろした。彼がイエスに違いない。
そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。
(※1)

イエスの演説は続いた。それはクロディウスが今まで幾度となく聞いてきた、熱心党派の人々の、群衆を煽るような扇動演説ではなかった。むしろ、一人一人の心に届くように語られ、大きな声ではあるが口調は穏やかだった。隣で聴いていたアレクサンドロスが、クロディウスに言った。
「哲学教師の説教みたいですね。」
クロディウスは、静かに頷いた。彼はイエスが何を語らんとしているのか、その本質を理解しようとして耳を傾ける。単なる道徳律や倫理観を教えようとしているようには、クロディウスには思えなかった。

20年以上昔、カッシウス隊長と山の中で交わした会話を思い出していた。あの時、カッシウス隊長は言った。
「『真実』って、何だろうな?」
あの時、クロディウスはこう答えた。
「真実は・・・正直、分かりません。」
今でも、「真実」が何であるのか理解していないのは同じである。イエスは、その「真実」に迫ろうとしているのだろうか?
イエスの教えで最も不可解な教えは、「敵を愛せよ」と言う言葉だった。敵を赦すどころか、愛せと言う。今まで自分は、どれだけの反乱者や盗賊達と戦ってきた事だろう。その敵を愛することなど、どうしてできようか?ローマ軍は、反抗した敵を容赦なく殺してきた。もしローマ軍がそれを行わなかったら、あちこちで反乱が起こり、ローマ帝国は壊滅してしまう。そうなったら、どんな秩序が世界に平和をもたらすと言うのか?武力なしで、どうして世界の安寧と秩序が維持できると言うのか?その意味では、あのアントニウスの冷徹で残酷な意見ですら、その一面では正しく思える。
アントニウスの残虐性を非難する自分の手ですら、多くの人を殺して血にまみれているのだ。ヴィリアトゥス村では、多くの子供や女や老人達が殺されるのをただ傍観しているだけで、一人も救えなかった、いや救わなかった罪深い存在なのだ。それが、軍団兵の自分の姿なのだ。敵を愛する?どうして、そんな事ができようか?
イエスと自分は、対極の場所に立っている。光と闇、慈愛と無慈悲、平和と暴力。イエスは前者の位置に、自分は後者の位置に立っているのだ。

イエスの山上の説教が終わると、群衆は帰途に着いた。クロディウスは、ミヌキウス副隊長と2人の十人隊長に告げる。
「あのイエスと言う男は、ローマ人への反抗やユダヤの蜂起を促している訳ではないようだ。だが念のため、今まで通り私服の軍団兵を警戒に当たらせよ。」
「了解しました、隊長殿。」
とミヌキウスは答えた。クロディウス達は、群衆と共に町に戻った。



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(※1:新共同訳聖書:マタイによる福音書5書2節~10節)