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第二部:第三章 カファルナウムの平和

67.シナゴクの完成

年が明けて、またヤーヌアーリウス月が巡ってきた。第1日目に軍団の給与支払い閲兵式が行われ、その翌日から早速シナゴク建築が再開された。軍団の専門工兵の指示の下、クロディウス隊の兵士達が交替で建築作業を続ける。
新しいシナゴクの建築が進むにつれて、見物人も日増しに増えていった。暖かいユダヤとは言っても、ヤーヌアーリウス月の朝晩の気温は5度から零度近くになることもあり、その中で凍えた手で作業を黙々と続ける軍団兵の姿を見て、感動や感謝をする人々も増えていった。自分達のシナゴク建築のために働く異邦の軍団兵に刺激されて、食べ物の差し入れする者も増え、手伝いを率先して手伝う若者も2ヶ月前から現れている。
翌フェブルアーリウス月の10日目に、シナゴクは完成した。美しい白い石造りで、入口の門柱も立派だった。今までの古いシナゴクの何倍もの大きさがあり、安息日には多くの信者が集まれる十分な広さがあった。軍団の専門工兵も、クロディウス隊の隊員達も、設計から建築まで一切手を抜かなかった。旧シナゴクの会堂から、次々と聖典の巻物の入った壺や調度品が運ばれてきて、新しいシナゴクに納められる。
町の人々は大いに喜び、全容が露わになった美しい建築の会堂前に集まった。まるでお祭り状態である。アンナスが、会衆に向かって言った。
「カファルナウムの皆さん。遂に、我が町の新しいシナゴクが完成しました。皆さんもご存知の通り、これはクロディウス百人隊長と兵士達の尽力のお陰です!彼らに感謝すると共に、この会堂を我々に与えてくださった神様に感謝いたしましょう!」
人々は、一斉に喜びの声を上げた。その群衆の中に紛れていたシカリ党の者達は、ある覚悟を決めた。このカファルナウムはローマ軍に支配され、町の人々も長老も親ローマ派に成り下がっている。彼らに天罰を食らわせるための決起が必要であると。

それから一週間後、シナゴクの奉献式が行われた。町の人々が、大勢シナゴクの前に集った。流石に、町の人々全員はシナゴクには入れず、建物の外に集まっていた。奉献式には、他の地方から長老達も多数招待されていて、会堂の中に案内された。クロディウス百人隊長とミヌキウス副隊長、町での勤務になった2個十人隊も招待され、隊長と副隊長はトーガを着て、軍団兵もその場に相応しい装いで列席した。エルサレムからやって来たファリサイ派やサドカイ派の人々は、シナゴクの奉献式に異邦のローマ人が参列している事を訝しがった。
アンナスの挨拶の後、詩篇が朗読された。奉献式は粛々と進み、そして無事に終わった。広場では祝宴の準備が整えられていて、シナゴクから出てきた人々が続々とやって来る。その中に、一人の若者が今やその時を待ち構えていた。彼は懐に手をいれて、その手にシーカーリィー短剣の柄を握った。ローマの百人隊長が広場に来たら、それがいよいよ決行の瞬間である。
大きな歓声と共に、長老や百人隊長達が広場に入ってきた。若者が、懐から短剣を取り出して突進しようと思った次の瞬間、彼は力強い力で腕を抑えられた。懐から短剣を抜き出す事すらできなかった。若者の耳元で、男が小さな声で囁いた。
「若者よ。こんなにめでたい日を、血で汚すではない。」
若者が振り返ると、大きな男が彼をしっかりと掴まえていて全く身動きが取れなかった。
「抵抗すれば、一撃で命を奪う。命が惜しくば、抵抗をせずに静かにしていろ。」
顔を見上げると、その男は見覚えのある顔である。若者は彼の名前を知らなかったが、彼はクロディウス百人隊の旗手ケルシアヌスであった。

騒ぎにならないように、若者は群衆からそっと引きはがされて、クロディウス邸に連れて行かれた。ケルシアヌスは奥の部屋に若者を入れ、クロディウス隊長を呼ぶために連絡士官を使いに出した。しばらくして、クロディウスが屋敷に入って来た。ケルシアヌスが、クロディウスに報告する。
「シカリ党の一人を捕らえました。」
「他の仲間は?」
クロディウスがそう聞くと、ケルシアヌスが答えた。
「軍団兵が、隠れ家に踏み込んだ時には蛻の空で、全員逃げ去った後でした。」
憎しみの籠った目で睨む若者は、叫ぶように言った。
「逃げたなんて嘘だ!俺達は今日全員で決起して、お前達ローマ人とローマに協力している奴らを殺すんだ!」
クロディウスは、彼の方に向き直って言った。
「驚くかもしれないが、我々は君たちの事を良く知っている。」
シカリ党の若者は、猛烈に反発して叫ぶ。
「それも嘘だ!騙そうったって、そうはいかない!」
「嘘ではない。この町のシカリ党の君の仲間は、全部で12人。君を含めてだ。隠れ家は取税人レビの家の3軒先のフシムの家だ。どこか間違っているかな?それとも、仲間の名前も全部言った方が納得するかな?」
クロディウスの正確な情報に、若者は言い返す事ができずに睨んだまま黙ってしまった。
「君たちがいつどこで集まり、何を話していたかも全部知っている。今日の暗殺計画も、全部筒抜けだったよ。何故だと思う?」
クロディウスは少し黙って、若者に考える時間を与えた。返答がないので、そのまま続ける。
「私たちの事を、町を巡回したり、建築ばかりしている、のろまで間抜けなローマの兵隊さんだとでも思っていたのかな?私たちは、その間も色々調べていたのだよ。町に病人はどれだけいるのか、夫を失ったやもめ暮らしの女性がどれだけいるのか、孤児や貧しい人はどれだけいるのか、半年かけてずっと情報を収集していたのだ。平和を願うだけなら、誰にでもできる。しかし、平和を実現するのは、並大抵の努力では決してできない。私たちは、どうすれば町の平和を維持できるのか、真剣に考えているのだ。
君たちシカリ党の存在も早々に分かっていて、この半年間ずっと調べてきた。君は残念に思うかもしれないが、君の仲間の1人は我々が雇った情報屋の密偵だ。君たちの情報は、全部筒抜けだったのだよ。」
「嘘だ!嘘だ!俺を騙して、秘密を聞き出そうとしても無駄だぞ!」
「君の名は、ヤフツェル。年齢は、おそらく15歳前後。年齢が分からないのは、君が孤児だったからだ。」
若者は、まだ15歳の少年だった。
「俺の両親は、お前達ローマ兵に殺されたんだ!」
クロディウスは、静かな口調で話を続ける。
「ヤフツェルよ。辛いかもしれないが、真実を話そう。君の親を殺したのは、ローマ兵ではない。君をここまで育てたシムロンが、君の両親を殺したのだ。商人である君の親を襲って、多額の金品を奪ったのだ。これは、殺害した本人のシムロンの口から密偵が直に聞いた話だ。まだ幼かった君を暗殺者に育て上げるために、ローマ軍を心底恨むように仕向けたのだと。」
少年ヤフツェルは、動揺を隠しきれない。
「嘘だ、嘘だ、全部嘘だ!」
「君の仲間は、君を見捨てて逃げた。悲しい事だが、君は捨て石にされたのだ。若くて、逃走に足手まといになるからだろう。」
「嘘だ、嘘だ!」
クロディウスを睨む少年の声は、震え始めていた。
「これから、君はローマ軍に引き渡され、尋問を受ける。ローマ軍の拷責官の過酷さを、君は知らないだろう。君が秘密を隠していようがいまいが、君はローマ兵の暗殺を企てたから、拷責官は容赦せず君を拷問して尋問するだろう。
例えその拷問に耐えたとしても、君の罪は重い。処刑か、運よく処刑を免れても鞭打ちの刑は免れない。ローマ軍の鞭打ちがどんなものか知っているか?
鞭の先には、尖った鉛や骨が埋め込まれている。鞭が打たれる度に皮膚が裂け、肉と血が飛び散る。屈強な軍団兵ですら、叫び声を上げるほどだ。やがて骨が見え、遂には内臓も飛び散り始める。そんな光景を、何度も見てきた。鞭打ち40回で死ぬと言われるが、その半分でさえ命も落とす場合もある。鞭打ちの傷は深く、その痛みで数か月も仰向けで寝る事は叶わず、その傷跡は一生消えることはない。」
強情を張っていたヤフツェルの体が、前後に揺れ始めて俯いた。
「そんな脅しには乗らないぞ・・・俺は死ぬ事なんて、怖くなんかない!」

クロディウスは、一旦口を閉じた。部屋の壁を通して、広場の祝宴の歓声が聴こえてくる。ユダヤの音楽に合わせて、皆が踊っているようだ。喜びの歌声に、陽気な笑い声。対照的に静まり返ったこの部屋。ヤフツェルの声が、すすり泣く声に変わった。クロディウスは、諭すように穏やかに語る。
「私が軍団に入った時、フリウスと言う友人がいたんだ。私も彼も、今の君と2歳しか違わない17歳だった。私達は地獄のような軍団の訓練を乗り越えて、1人前の屈強な軍団兵になった気でいた。命知らずで、どんな事にも立ち向かえる勇気を得たと信じていたんだよ。
その1年目に、盗賊集団との大きな戦いがあってな。激しい戦闘で、フリウスは敵前逃亡をしてしまった。味方が次々に命を落としていくので、死ぬのが怖くなったのだろう。しかし彼は、自分の命を救おうとして、反対に死ぬことになった。隊長自らが、躊躇う事なく彼を剣で殺したのだ。彼は最後まで死にたくない、と命乞いをしていた。彼はまだ、17歳の少年だったんだよ。私は未だに彼のあの時の、死の恐怖を目前にした赦しと憐れみを乞う顔が忘れられない。」

広場の歓声が、一段と大きくなった。久々の祝宴で、盛り上がっているのだろう。それに釣られるように、ヤフツェルの泣き声も大きくなっていった。
「仲間がいれば、どんな恐怖にも打ち勝て、信念のためには命をも捨てられると固く信じている人間が、独りぼっちになって死の恐怖に晒されると、友や愛する人をすら裏切ってしまう。人は弱いものだ。
わが友フリウスがそうしてしまった様に、君の仲間は君を見捨てて逃げてしまった。君は死をも恐れないと今は語っているが、たった独りで壮絶な痛みと死の恐怖に直面して、何処からも救いが来ないと悟った時、君は未体験の恐怖と孤独を味わうことになるだろう。」
泣きじゃくる少年は、俯いた姿のままだった。
「ヤフツェルよ。私にも、君より少し若い年の娘がいる。彼女は、家族みんなの愛情をいっぱい受けて育っている。しかし不幸な事に、君は親代わりのシムロンの言葉しか知らずに育った。ローマ人を憎み、殺す事が正義と信じて生きてきた。しかし君は、まだ15歳だ。殺人を犯してもいない。だから私は、君に機会を与えたい。
君に、2つの道を用意しよう。それを自分で選び取る事ができる。1つは、このまま石の様な硬いな頑迷さを貫き遠し、反乱者や暗殺者としてローマ軍に引き渡される道。もう1つの道は、シカリ党と決別し、新しい生活を始める道。
もし、後者の道を選ぶならば・・・本来ならば許されないことだが・・・私もローマの軍規を破って君の罪に目を瞑ろう。そして我が子同然に君を処遇し、長老のアンナスに君を託そうと思う。
私が君を預かりたいと思うが、ローマ人とユダヤ人が共に住むのはこのユダヤでは反発を招くからね。時間をかけて、新しい人生を私と共に見つけよう。」
俯いた姿のままの少年の泣き声は、嗚咽に変わった。
「今日は色々あったから、混乱もしているだろう。一晩ゆっくり考えなさい。」
クロディウスはその少年の泣く姿を見て、17歳の時にラディウスやユリアの前で泣きじゃくった自分の姿を思い出していた。彼とケルシアヌス旗手の前で、15歳の少年のヤフツェルは頭を垂れたまま泣き続けた。

翌朝、ヤフツェルは、長老のアンナスに預けられる事を受け入れた。クロディウスの家にアンナスがやって来て、少年を引き取っていった。


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