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第二部:第二章 ユダヤへ

55.航海の途中で

タッラコを勇ましく出航した雄牛隊であったが、その半日後は酷い有様だった。ほぼ全員が、船酔いで参っていた。甲板から海に向かって、食べた物を吐く隊員が後を絶たない。海軍ならいざ知らず、陸上の歩兵一筋の軍団兵にとって船にはいささか辛いものがる。例外は、漁師や船乗り出身の軍団兵達だった。屈強な軍団兵が青い顔をしてよろめいているのを、彼らは面白がって見ていた。
ユリウスやクロディウスら百人隊長達士官も例外ではなく、船酔いで酷い気分だった。しかしその姿を部下に見せる訳にもいかず、全員部屋に閉じ籠っていた。プライドだけは人一倍高いアントニウスですら、部屋からは出てこようとはしない。士官達は、どうしても甲板に出なければいけない時だけは胸を張って歩き、何事も無いような顔をしているのだが明らかに顔は青ざめていた。
次の寄港地は、タッラコから約450ローママイル先のサルディーニャ島だが、どのくらいの日数がかかるかは風次第である。3日で就けるかもしれないし、1週間かかるかもしれない。とにかく陸地が恋しい軍団兵の面々であった。
慣れというのは面白い物で、3日も経つと船酔いも収まってきて、気持ち悪さで苦しむ人数もかなり減ってきていた。4日目の朝、船はサルディーニャ島の港に着いた。船は民間輸送船なので、積み荷を下ろしたり、また別の荷物を積み込むための一時寄港であり、夕方にはまた出航する。軍団兵はほぼ全員が船から降りたが、おかしな気分だった。陸上のはずなのに、何故か逆に揺れているような感覚に陥った。陸の上で昼食を取って少々羽を伸ばしたところで、夕方には全員が船に戻った。

次の寄港地は約250ローママイル先のシチリア島だが、いつ着くのかはやはり風任せの帆船の旅である。結局3日後に、シチリア島に到着した。島では1泊する事となり、軍団兵は1週間ぶりに揺れのない安定した場所で睡眠を取った。

シチリア島の次の寄港地は、エジプトのアレクサンドリアである。士官達が船長から受けた説明によれば、直接にアレクサンドリアには向かわず、まずは一旦南東の方角に進み、海岸線に近づいてから方向を東に変えるのだと言う。その方が、安全な航海になるとの事だった。距離は、今までで最長の550ローママイルはあるらしい。
流石にタッラコを出発して以来、1週間以上船上生活をしているので、軍団兵にも余裕が出てきた。筆頭百人隊長のユリウス・ルフスが、かつてのマルキウス隊のカッシウステント組のフラウィスとユリウスとクロディウスを、自分の船室に呼んだ。懐かしい面々が、顔を揃える。烏のユリウスが、最初に口を開く。
「皆も承知の通り、私は軍団生活25年を終えた。雄牛隊をユダヤの任地に送った後、私は勇退する事になっている。まあこのプリムス・ピルス(筆頭百人隊長)と言う肩書きは、軍団が用意してくれた最後の贐の肩書きだな。これで退役後は、私も騎士階級と言う訳だ。」
そう言って、彼は笑った。そして話を続けた。
「ユリウス隊の百人隊長は今の副隊長ヘレニウスに譲るが、この雄牛隊の次の筆頭百人隊長はフラウィスを推薦して、軍団司令部に受け入れられた。」
「ありがとうございます、ユリウス隊長。私も、騎士階級って訳ですね。」
と、穴熊のフラウィスも笑った。
「私はユダヤの基地に着いたら、そこで任を解かれる。雄牛隊の後の事は、全てフラウィスに任せる。ユリウスとクロディウスで、フラウィスを支えてほしい。」
紅鶴のユリウスと熊のクロディウスが、頷いて言った。
「もちろんです。」
「実はあのアントニウスが、袖の下を上級士官に送って、この雄牛隊の筆頭百人隊長になろうと画策していたようだ。彼はどんな汚い手を使ってでも、最終的にプリムス・ピルス(筆頭百人隊長)、あわよくばトリブヌス・アングスティクラウィウス(連隊長)にまで上り詰めたいのだろう。彼の行動には、十分に注意してくれ。」
「はい。彼のやり方や性格は皆、承知しています。」
と3人は答えた。烏のユリウスは、付け加えて言った。
「ユダヤの地は、ローマやヒスパニアとは文化が違う。彼らの事をしっかり調べて、十分に気をつけてほしい。マルキウス隊の生き残りには、退役まで生き残って欲しいと願っている。皆が無事に退役した暁には、集まって一緒にテルマエに浸かり、美味い飯でも食おう。ユダヤでは無益な戦闘を避けて、融和の道を探ってほしい。」
ユリウス筆頭百人隊長は、言いたい事を全て伝えた。その後は、マルキウス百人隊での思い出話に花を咲かせる時間となった。

シチリアから出発して、3日。海風は凪いでおり、アレクサンドリアまではまだ時間がかかりそうな気配である。
百人隊長クロディウスは、百人隊の副隊長と旗手、並びに十人隊長全員を船の食堂に集めた。そもそもが民間の物資輸送船なので、食堂と言うよりも倉庫という感じが漂っている。船員や乗船客らが交替で食事を取るようなさして広くはない空間で、食堂の奥には様々な陶製の壺や木製の箱が置かれている。それらは荒波でも動かないように、縄でしっかりと止められていた。壺には葡萄酒等の酒類が、箱には芋などの食材が入っているのだろう。

クロディウスは食堂に集まった隊員達を見回して、ゆっくりと話し出した。
「我々のこれからの任務は、平穏なヒスパニアでの任務とは根本的に異なる。今までは、日々基地内で必要な業務を淡々とこなし、教練を続けていれば良かった。しかし、ユダヤの地ではそうはいかない。かの地では、ローマに対する反目の感情が日に日に高まっていると聞く。だからこそ我々は、彼らを武力で圧力をかけるのではなく、現地の人々の反感を買わぬよう最大限の注意を払いつつ、彼らを理解して交流する必要がある。
陳情があれば事細かに聞いてやり、市民を脅したり侮辱する輩は、それが例えローマ人や兵士であっても、我々は取り締まらねばならない。市民に対し、決して高圧的な態度で臨んではならない。口先で平和を唱えていても、決して平和は訪れない。お互いの理解と友好には時間はかかるが、それが平和を作りだす道だと私は考える。諸君のテント組の隊員達には、その事を周知徹底させてほしい。」
十人隊長達は頷いて言った。
「はい、隊長殿!」
クロディウスは一息つき、1人1人の表情と目をしっかり見て、自分の言葉がきちんと全員の腑に落ちているかを確認してから話を続ける。
「同時に、現地の不穏な動きにも警戒しなければならない。強盗や暴動や反乱を、未然に防がねばならん。通常のパトロールだけでなく、不穏な動きのある所へは密偵を送って探らせるつもりだ。そのためには、我々は彼らの言葉、風習、文化も良く知らねばならない。そのための努力を惜しまぬよう、隊員達に伝えなさい。」
再び十人隊長たちは頷いた。
「はい、隊長殿!」
「話は以上だ。」
ユリウス筆頭百人隊長と同じように、クロディウスも伝えたい事は全て伝えた。十人隊長達は、それぞれの持ち場に戻っていった。

副隊長ミヌキウス・マクシムスと、旗手のケルシアヌス・アッリアノスの二人だけは食堂に残した。クロディウスは、二人に語った。
「最近は、ローマによる安寧と秩序により、大きな戦闘は無くなった。カエサルのガリアでのいくつもの戦闘、ポンペイウスとの合戦、アントニウスとオクタウィアヌスとの戦い、何万もの軍勢同士がぶつかり合う戦争、それらは今や過去のものとなった。しかし、ローマの支配への反抗の火は各地で燻り続けている。
私が軍団に入った最初の年、ヒスパニアの北部でヴィリアトゥスと言う男が率いる集団が、ローマ人や村々を襲った。知っているな?」
その問いに、ミヌキウス副隊長が答えた。
「はい。私が入団する4年前の山賊退治ですね。2,400人の盗賊集団と戦って、大勝利を収めたと聞いております。」
「彼らは盗賊とされていたが、実際は反乱軍だった。首領のヴィリアトゥスは、おそらくどこかの属州の支援部隊の士官だったのだろう。ヴィリアトゥスの軍団は短期間ながらも訓練され、決して無秩序な盗賊集団では無かった。
ヒスパニアの地は、ローマ人の軍門に下った後も、何度もローマ人同士の内乱に巻き込まれて、その度に村は焼かれ、多くの人々が死に、時には同盟を誓ったローマ軍にさえ裏切られもした。ヴィリアトゥスは、長年の恨みや怒りを抑えられなかったのだろう。ローマに対する反乱を決意して立ち上がったのだ。
我々第Ⅳ軍団は、反乱の火が大きくなる前に彼らを殲滅した。一人残らずだ。命乞いをする敵の兵士を次々と殺した。2,400人のうち兵士は1,600人で、残り800人は老人と女と子供だった。軍団は、兵士だけでなく老人も女も子ども容赦なく殺した。幼児は母親と共に剣で刺し貫かれ、老人は生きたまま火の中に投げ入れられた。それは戦闘ですらなく、もはや虐殺だったよ。
我々が村に戻った時は、死体と血の海だった。軍団兵は、燃え盛る村で略奪の限りを尽くしていた。人間がそこまで非道、残虐になれるものかと、わが目を疑った。そこで殺されているのが私の父や母や兄弟だったらと思うと、とても他人事とは思えなかった。
私は死体の海を歩き回って、離れ離れになったテント組の仲間達を探した。十人隊長のカッシウスも、最も世話になったファビウスも死んでいた。ヴィリアトゥス反乱軍との戦いで、私のテント組で親しい者が4人も亡くなってしまったのだ。軍団全体では、59人もの兵士が亡くなった。
この戦闘は、盗賊討伐としてローマに報告された。この戦いの陰の部分は、決して誰も語らないし、書き残されなかった。おそらく歴史には残らず、消えてしまう話となるのだろう。
今ユダヤでは、第2、第3のヴィリアトゥスが生まれている。これを放置しておけば、第2、第3のカッシウスやファビウスやあの800人の村人のような悲惨な死を生むことになる。私は百人隊の部下の命を守るため、ユダヤの人々を無益な死から守るため、最大限の尽力をしたいと考えている。これを、2人には良く理解してもらい、肝に銘じてほしいのだ。」
副隊長のミヌキウスが答えた。
「隊長のお考えは良く分かりました。私も、平和が築けるように最大限の努力をすると誓います。」
旗手のケルシアヌスも続いて言った。
「私自身は、大きな戦闘の経験はありませんが、それをしたいとも望んでもいません。勇猛さでは誰にも引けを取らない自信はありますが、それを安寧と秩序のために使います。」
「ありがとう、ミヌキウス、ケルシアヌス。」
クロディウスは、言葉にこそ出さなかったが「君たち二人が、私の退役後にこの百人隊や雄牛隊を率いていくのだ」と心の中で思っていた。


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