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第二部:第二章 ユダヤへ
53.タッラコからの船出
それから一週間後に、雄牛隊はユダヤへ出発することとなった。雄牛隊は、1週間で旅立ちの用意を全て終えねばならなかった。軍団側は、民間船の確保、船ルートの策定を終えていた。まるでずっと以前から計画されていたかのような、手際の良さである。しかしまだ、軍団内事務の諸手続き、引っ越しに最低限必要な物の梱包や、不用品の処分など、すべき事は山積みだった。そしてカナバエに住む家族との別れや、故郷への手紙の送付なども忘れてはならないことだった。
その日の夕方、クロディウスはカナバエのパン屋に向かった。ユリアとラウディウスに、ユダヤ行きの報告を行うためである。春故、日も少しずつ長くなっており、陽はまだ沈んではいなかった。夕陽に照らされるカナバエの大通り、足早に家へ帰ろうとする人々の中を、考え事をしながら歩くクロディウス。パン屋に着くと、そっと店のドアを開ける。
ラウディウスとポッペアが、閉店後の店の後片付けをしている。棚を拭いていたポッペアが、最初にクロディウスに気がついた。
「お父さん!」
「元気にしているな、ポッペア。」
ポッペアももう10歳であり、顔つきから幼児っぽさは消えていた。
「おお、クロディウス!こんな早い時間に珍しいな。」
とラウディウスが言うと、クロディウスが答えた。
「今日は、とても大事な話がありまして。」
「おお、そうか。ユリア、クロディウスが来ているぞ!」
ラウディウスが大声で呼ぶと、窯の掃除やパン作り用の道具を洗っていたユリアが奥から出てきた。
「旦那様、お帰りなさい。こんな時間に珍しいですね。」
流石、親子である。同じことを言う。彼も、答えを繰り返した。
「今日は、とても大事な話があってね。」
ユリアが言う。
「直ぐに後片付け終わりますから、ちょっと待っていてくださいね。」
クロディウスが答える。
「大丈夫だよ。ゆっくり片付けて。」
ユリアとラウディウスが後片付けをしている間、クロディウスとポッペアは最近読んだ本について語り合った。
小一時間ほどして、ラウディウス家の夕食となった。ラウディウスとクロディウスは、テーブルを挟んで寝台に肘をついて横たわり、ポッペアは椅子に座った。ユリアが、料理を運んでくる。
「今日の献立は、今朝タッラコ沖で採れたマトウダイを使ったパティナ、それにポタージュスープと塩パンです。クルミとナツメヤシのデザートもあります。」
ユリアが厨房を4回往復して、全ての料理を運び終えると食事が始まった。食事の間、ユリアが給仕役に徹しようとしているのを見て、クロディウスは寝台から身を起こし座って言った。
「今日は皆にとって大事な話だから、ユリアも一緒に食事しながら聞いてほしい。」
ユリアはそう促されて、ポッペアの隣の椅子に座る。ラウディウスも、寝台から身を起こして座り直した。
「で、大事な話とは?」
「実は1週間後に、雄牛隊がユダヤの地に派遣される事になりました。」
突然の報告に、ユリアの顔は驚きに変わった。ラウディウスも、驚いたようだった。ポッペアが、無邪気に言う。
「ユダヤってどこ?」
その問いに、クロディウスが答える。
「ローマやギリシャよりも遠いところだよ。船に乗って、海を越えて行くんだ。」
「随分と急な話ね・・・1週間後って・・・。」
ユリアの表情は、驚きから不安な表情に変わっていた。
「そうなんだ。今日、司令官から発表があったばかりでね。」
ラウディウスは不服そうだった。
「軍団のお偉方がやりそうな事だ。たった1週間じゃ、不平不満を言っている暇も、抗議の根回しをしている時間も無いからな。強制的に、さよなら、いってらっしゃい、って訳だ。」
軍団司令部の裏の意図をまるで見透かしているかの様な、軍団生活の長かったラウディウスの言葉である。
「しかし、なぜお前達の歩兵隊なのだ?そんなもん、第1戦列の若造を行かせれば済む話しじゃないのか?」
「今、ユダヤの地では反乱の不穏な空気があって、実際に多数のローマ人が殺されています。暴動や反乱に十分対処できるベテラン兵を送るようにと言う、ティベリウス帝の要請なのです。」
「皇帝の命令では、軍団司令官も逆らえんな・・・。」
ポッペアが言う。
「いつ帰ってくるの?来月?再来月?」
クロディウスは、返答に困った。
「もっと先だよ、ポッペア。何年も先になるかもしれない。」
「ええ~、そんなの嫌だぁ!」
ポッペアは、泣きそうな表情に変わった。
「最悪、退役までの残り5年間を、ユダヤで過ごさねばならないかもしれない。」
クロディウスは、家族に対して正直に話した。退役の頃には、ポッペアも15歳になっている。5年も娘の成長を見ることができない。それを考えると、クロディウスの心にも寂しさが広がった。
「パン屋の方は、誰かを雇えばなんとかなるかもしれない。ユリアとポッペアだけでも、ユダヤに連れてはいけないものか?」
娘家族の事を案じての、ラウディウスの発言だった。
「ユダヤの地の現状は見ていないので、私もよく分かりません。しかし私たちが派遣されるほど治安が悪く、反乱や暴動が頻繁で、盗賊どもも跋扈しているのであれば、ユリアやポッペアをそんな危険な地に連れて行くことは、とてもできません。」
「それも、そうだな・・・。」
そう頷くラウディウスに、クロディウスは言った。
「私がユダヤの地で任務を果たしている間、ユリアとポッペアをお願いいたします。」
そして、ユリアとポッペアに顔を向けた。
「ユリア、なるべく手紙は書くから。ポッペアの事をよろしく頼む。」
「旦那様、ぜひ、無事に帰って来てください。5年は長すぎます。できるならば、もっと早く帰ってきていただきとうございます。」
ユリアもポッペアと同じく、今にも泣きそうな表情だった。
「軍団兵の努めはしっかり果たすが、無事で帰って来られるよう、最大限の努力をすると誓うよ、ユリア。」
ポッペアは、10歳ながら今は泣いてはいけないと思ったらしく涙をこらえていた。そのポッペアに、クロディウスが言う。
「ポッペア、お母さんの言う事を聞いて、良い子にしているんだぞ。ユダヤで、面白い本があったら持って帰るからな。約束だ。」
「うん、お父さん。」
「よし、料理が冷めないうちに食べよう。」
ポタージュスープを飲み、塩パンを頬張り、パティナを食べ、食後にはクルミとナツメヤシのデザートを楽しんだ。これがユダヤに出立する前に、家族揃って食べた最後の夕食となった。
翌日、クロディウスは家族への手紙を書くことにした。クロディウスが、考えをまとめてから口を開く。
「拝啓、息子のクロディウスより、父アンニウスと母ベレニケへ。」
クロディウスがそう言うと、いつもの様にアレクサンドロスはその言葉を羊皮紙に書き写す。
「我が雄牛隊は、この住み慣れたヒスパニア・タッラコネンシスを離れ、ユダヤの地へと向かう事となりました。かの地ではローマ帝国に反抗する人々も未だ多く、経験豊富で強い軍団兵が必要とされたためです。今後は、手紙はユダヤのカエサリア軍団基地宛に送るよう、弟のカルに伝えてください。妹のドゥルシラやポッペア、そしてヌム親方にもよろしくお伝えください。」
アレクサンドロスが口述筆記を終えると、手紙の最後にクロディウスが署名し、手紙を蜜蝋で封をした。海が荒れる冬は去り、船便の手紙も無事にローマに届くことだろう。
ユダヤへの出立の日が訪れた。タッラコの港に、民間の帆船が接岸している。雄牛隊全6個百人隊480人と、士官18人、そして数十人の従者や軍の事務官らが、港に集合していた。カナバエに住む百人以上の家族も、港に集まって遠巻きに見ている。その中に、一際目立つ熊のような大男のラウディウスの姿が見え、その隣にはユリアとポッペアもいた。
雄牛隊はピカピカに磨いた第一種正式軍装で整列し、司令官や士官達が雄牛隊の前に整列している。第Ⅳ軍団マケドニカの司令官が、口を開く。
「勇猛なる雄牛隊の諸君!諸君であれば、ティベリウス帝より命じられし任務を、必ずや達成してくれるものと信じている!雄牛隊の上に栄光と、ローマの神々のご加護があらんことを!」
雄牛隊は、応答した。
「我が祖国ローマと、ティベリウス帝と、第Ⅳ軍団に栄光があらんことを!」
雄牛隊を率いていくプリムス・ピルス(筆頭百人隊長)のユリウス・ルフスが、掛け声をかける。
「雄牛隊、全員乗船!」
足並みを揃えた軍団兵が、船に架けられた舷梯を上っていく。
全員の乗船を終えると、軍団兵は船の縁に整列して岸に向き直った。岸では、カナバエの家族たちが手を振って別れを惜しんでいる。戦場の軍団兵は規律を保ち、眉一つ動かさない。船が岸から離れ始める。
その瞬間を見計らって、筆頭百人隊長のユリウスが号令をかけた。
「タッラコの町の人々の、平和と幸せが続くように!」
ユリウス隊長がそう言うと、軍団兵は声を合わせて言った。
「タッラコの町の人々の、平和と幸せが続くように!」
日焼け顔の烏のユリウス隊長から、軍団兵と別れてタッラコに残されるカナバエの家族への贐の言葉だった。
「タッラコの町の人々の、平和と幸せが続くように!」
クロディウスも部下の兵士達と共に、大声で叫び続けた。
「タッラコの町の人々の、平和と幸せが続くように!」
やがて船上の声も岸から遠ざかって聞こえなくなり、船は水平線の彼方に消えた。
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