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第二部:第一章 再会
50.従僕アレクサンドロス
後日、アレクサンドロスの意志を確認した後、クロディウスは騎士階級の商売人、ローマのマルクス・フィルムスに手紙をしたためた。全てを正直に書き送った。
自分が第Ⅳ軍団マケドニカの百人隊長であること、自分がローマでペトゥロニウスやアレクサンドロスにとてもお世話になったこと、アレクサンドロスが本来はカルウィシウスの下で10年勤務の後に自由の身に解放されるはずであったこと、そして自分がアレクサンドロスを従僕として買い取りたいこと、そのために300デナリウスを用意していること、など。
一ヶ月半後、船便でローマのマルクスから手紙が届いた。内容は次のようなものだった。
アレクサンドロスが自分の下に来た経緯を理解したこと、金に抜け目のないカルウィシウスならそれをやりそうなこと、タッラコでの商売の現状を確認するために海が荒れる冬よりも前にタッラコに赴くこと、手紙を送った2週間後には自分も出立する予定であること、タッラコに到着したらクロディウスに会って話がしたいと言うこと、などが書き綴ってあった。
手紙が着いた正に2週間後、マルクス・フィルム本人がタッラコの港に到着した。マルクスが従者をタッラコ基地に寄こして、クロディウスは休息日にマルクスに会う事になった。そこに、アレクサンドロスも同席する。
季節は既にオクトーベル月に入っており、吹く風に涼しさが感じられた。クロディウスは証文やデナリウスの入った革の鞄を抱え、タッラコにあるマルクスの邸宅に向かった。クロディウスが指定された場所には、新しい邸宅が建っていた。その邸宅からは、海岸が見える。商売を手広く手掛ける騎士階級の経済人だけあって、立派な佇まいの御屋敷である。クロディウスは、ローマのペトゥロニウス邸を思い出した。
ドアをノックするまでもなく、マルクスの家僕が入口で待っていてくれた。彼は、クロディウスを屋敷の中に招き入れた。居間には、既にマルクスとアレクサンドロスが待っていた。部屋の中を見ると、床には格子模様のタイルが貼られ、その上には優れた職人が作ったと思われる美しいテーブルとソファーが置かれていた。マルクスは、クロディウスの手を握って挨拶する。
「ようこそ、クロディウスさん。さあ、こちらへどうぞ。」
そう言って、ソファーに誘導した。マルクスとクロディウスはソファーに腰かけたが、家僕のアレクサンドロスは座らない。主人のマルクスが、家僕であるアレクサンドロスに言う。
「今日は気にせず、ここに座りなさい。」
アレクサンドロスは、主人に促されて隣に座った。
クロディウスがマルクスを観察したところ、年の頃は40代後半か50代前半と言ったところか。自分やアレクサンドロスよりも、年上である事は間違いない。顔に刻まれた目の周りの皺と増えつつある白髪が、彼が激しい経済活動の荒波を乗り越えてきた事を物語っていた。クロディウスが、厳しい軍団生活を潜り抜けてきたように。
マルクスが、最初に会話の口火を切った。
「お手紙をいただいて感謝しております、クロディウスさん。」
マルクスがそう言うと、クロディウスも感謝の意を伝えた。
「いえ、私の方こそ、面識の無い私に手紙を送って下さり、こうしてお会いしていただけることに感謝しております。」
「早速、アレクサンドロスの件ですが。」
マルクスは経済人らしく、単刀直入に本題に入った。
「私のところは、従者が多くて奴隷の数は20人程もおります。アレクサンドロスの事は、従者に任せておりましたので、うちに来る事になった経緯を詳しくは承知しておりませんでした。なんせ相手が、あのやり手の商売人カルウィシウスですからね。彼から聞いていたのは、アレクサンドロスがギリシャ語やラテン語が堪能で諸学問にも通じているギリシャ人と言う事だけでした。それで300デナリウスならば十分に値打ちがあると思い、カルウィシウスに300デナリウスを支払った、と言う訳です。」
クロディウスは頷いた。
「アレクサンドロスは、知識も人間性も本当に優れています。今の私があるのも、彼のお陰です。」
マルクスも頷いた。
「お手紙でその事は重々承知しておりますし、アレクサンドロスの気の毒な境遇も理解いたしました。アレクサンドロスは、この2年間私の商売にも随分と貢献してくれて、このタッラコの本屋の開業にも尽力してくれました。クロディウスさんの申し出を受けて、アレクサンドロスをお譲りいたしましょう。」
「ありがとうございます、マルクスさん!300デナリウスと、証文は用意してきました。」
マルクスは首を横に振った。
「いえ、お代はけっこうです。アレクサンドロスは、300デナリウス以上の十分な働きをしてくれましたのでね。」
今度は、クロディウスが首を横に振った。
「いえ、それはいけません。マルクスさんには、1デナリウスの損害も与えたくはないのです。それにアレクサンドロスには、お金には変えられない恩があるのです。お約束通り300デナリウスを支払って、後ろめたいことは微塵も残さず、正当に彼を買い取りたいのです。」
マルクスの表情は、驚きに変わった。
「経済界でも、これほどの信念と律義さを持った人にはお会いした事がありません。誰もが1デナリウスとて損をしたく無いと言う世の中で、きっちり300デナリウスを支払うと言う。今まで仕事でお会いしてきた軍団関係者は、皆さん高飛車な方や狡猾な方ばかりでした。分かりました、300デナリウスをお受け取りいたします。」
2人は合意に至った。マルクスは、部屋の入口に控えていた家僕に、ペンとインクを用意するように指示した。そしてクロディウスが用意してきた証文をじっくり読んで確認し、家僕が持ってきたインクとペンで署名した。続いて、クロディウスもその証文に署名した。 その署名を終えて300デナリウスを渡し終えると、クロディウスがもう一枚の証文を鞄から取り出した。
「マルクスさんに、もう一つお願いがあります。」
「なんでしょうか?」
「ここに、アレクサンドロスのために用意した証文があります。マルクスさんに、この契約の証人になっていただきたいのです。」
「ほお?」
「ここには、アレクサンドロスが私の従僕として仕えること、私が退役した暁には彼は奴隷から解放されて自由の身となること、万が一私が任務中に死亡した際には、その時点で自由の身となること、彼が自由の身となった暁には、私の軍団預金から300デナリウスを支払うこと、などが書かれています。」
マルクスは、更に驚いたようだった。
「なんと!ここまで気前の良い話は、聞いたことがない!」
クロディウスは、続けて言った。
「もし私に予期せぬ何かがあり、まあ具体的には戦闘で死ぬなどした時ですが、アレクサンドロスの立場が困難にならぬよう、この証文が正当な物である事の保証が欲しいのです。アレクサンドロスの自由のために、カルウィシウスさんの時の徹を踏まないためにも、第3者であるマルクスさんの署名もいただきたいのです。」
「なるほど。念には念を、と言う訳ですな。」
マルクスは、その証文を最後まで読んだ。
「分かりました。私がその証人となり、署名をいたしましょう。」
証文にクロディウスとアレクサンドロスが署名し、正当な証文である旨の署名をマルクスが行った。署名を終えると、マルクスが言った。
「私からも、一つお願いがあるのですが・・・よろしいですかな?」
「どうぞおっしゃってください。」
「私も商売人なものでして、身勝手なお願いとは思うのですが、軍団内で本好きな方がいたら、ぜひ『マルクスの本屋』を薦めてもらえないでしょうか?6,000人もおる訳ですから、本の好きな方もおるでしょう。軍団に必要な、兵法や軍事に関する本も仕入れる事ができますし、軍団のお役に立てると思います。」
クロディウスは、答えた。
「分かりました。私も本は好きですから、最大限尽力いたしましょう。」
「それと、お願いがもう一つありまして・・・。うちの従者は20人もいるのに、本に造詣が深い者が一人もおりません。今すぐ代役を見つける事も難しいでしょう。そこで、アレクサンドロスに本を購入する際の相談役を引き受けてもらえないかと思っております。もちろんクロディウスさんの仕事が無い時で構わないし、もはや我が家の従僕ではないので給与もお支払いいたします。いかがでしょうか?」
クロディウスは、アレクサンドロスの顔を見た。
「それはたいへん有難い話です、アレクサンドロスも貯えができますし。アレクサンドロスさえ承知すれば、私は構いません。どうだろう、アレクサンドロス?」
アレクサンドロスが、答える。
「本は大好きなので、この仕事も続けることができるならば、喜んでお手伝いさせていただきます。」
こうして全ての話しがまとまった。マルクスが言った。
「良い取引になりました。私も長年商売をしていますが、あなたのような正直な人にはなかなか出会えませんよ。ぜひ、今後とも良い関係を続けさせてください。」
「ありがとうございます、マルクスさん。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」
2人は握手を交わした。
「アレクサンドロス、荷物をまとめたらタッラコ基地に向かいなさい。明日から主人は、こちらのクロディウスさんだ。」
マルクスがアレクサンドロスにそう言うと、滅多に表情を変えないアレクサンドロスが笑顔になった。
「私は、昨日まで自分の不運を嘆いていましたが、今日の事で全てが報われた気がいたします。このように笑える日が来るとは、思ってもいませんでした。マルクスさんやクロディウスさんに、これほど良くしてもらった自分は果報者です。
2年間ありがとうございました、マルクスさん。明日からよろしくお願いいたします、クロディウスさん。」
笑顔のアレクサンドの頬を、涙が伝う。クロディウスが、初めて見るアレクサンドの涙であった。アレクサンドロスは、明日からクロディウスの従僕となるのである。
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