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第二部:第一章 再会

46.百人隊長クロディウス

クロディウスがこのヒスパニアの地に来てから、14年目の夏が到来しようとしていた。来月、ユリウス月になれば彼も31歳になり、そしてこの夏いよいよ第1戦列の百人隊長に任官される。
彼は、兵舎の副隊長と旗手の専用部屋の窓から降り注ぐ、ユーニウス月の強い日差しの下、この14年間を感慨深く思い返す。

クロディウスがマルキウス百人隊で迎えた4年目、烏のユリウスは隊の旗手となり、クロディウスがユリウスの後を継いで十人隊長となった。しかも彼の語学力が認められ、連絡士官兼務での昇進である。
穴熊のフラウィスと紅鶴のユリウス・デクリウスも、別のテント組の十人隊長に昇格した。ヴィリアトゥス村での戦いで多数の欠員が生じたため、隊の仲間も先輩も異例の速さの出世となった。マルキウス隊長はあの戦闘での功績が認められて、再編成の際に、より上級の第2戦列の第3席百人隊長のプリンケプス・ポステリオルに昇格した。その後は、副隊長だったウァレリウス・ルフスが百人隊長を継ぎ、旗手のロンギヌス・セレヌスが副隊長を継いだ。

その年の春は、嬉しい報告がローマからもたらされた。弟カルからの手紙が、クロディウスの下に届いた。カルも2年前からペトゥロニウス家でギリシャ語やラテン語を教わり、読み書きができるようになっていたのである。その弟が書いた、初めての手紙である。家族の近況を知らせてくれたばかりでなく、弟自身がヌル親方の工房で見習いとして働き始めた事も書かれていた。その手紙を読んで、クロディウスは少しほっとした。自分の・・・僅かではあるが・・・仕送り金、母の内職の収入、父の不定期の船着き場の仕事の収入に加えて、カルの見習いの収入で家計も少しは楽になるだろう。
だがその2ヶ月後、もう1通の手紙では悲しい知らせを受け取った。自分とカルがお世話になったペトゥロニウス死去の知らせだった。ギリシャ人奴隷の家僕アレクサンドロスが、タッラコ基地のクロディウスにわざわざ手紙を書き送ってくれたのである。ローマ軍団で筆頭百人隊長を努め、ローマの消防隊で消防大隊長を努めたペトゥロニウス・ユリウス・セクンドゥス、享年83歳。「自分が今こうしていられるのも、ペトゥロニウスさんのおかげだ」。クロディウスはそう思って心から感謝した。それがクロディウス、21歳の夏。

その2年後、再びカルからの手紙が届いた。彼は工房の見習いから工房の職人に昇格し、一人前の給料をいただけることになった、との報告だった。そして、いつか独立して自分の工房を開き、父の夢を叶えるつもりだ、とも書かれていた。優れた職人であった父の血を引くだけあって、カルも仕事の覚えは早かったのだろう。また、ヌル親方もロングス家の事を思いやって、色々カルの指導に尽力してくれたのに違いない。
それを読んでクロディウスは喜び、すぐに返信の手紙を書いた。お祝いの言葉、事故や災害にはくれぐれも気をつけるように、そして家族への伝言も書き添えた。

そして今から6年前、クロディウス入団8年目の25歳の年、彼は百人隊の旗手に昇進した。先輩や仲間達の多くも、クロディウス同様に昇進していった。
その年のアウグストゥス月、大きな悲報がローマならびにローマ属州に伝播し、このヒスパニアにも届いた。アウグストゥス月の19日、正にその月の名前になっているアウグストゥスが死去したのである。共和政に復帰すると宣言して元老院を狂喜させたインペラトール・ユリウス・カエサル・アウグストゥスは、75歳で静かに世を去った。彼は自らを皇帝と名乗る事は無かったが、ユリウス・カエサルの意志を引き継ぎ、ローマを実質的に帝政の国家に変えた狡猾な指導者であった。タッラコ基地も、喪に服した。
アウグストゥスの後は、名実ともに帝国となったローマをティベリウス帝が引き継いだ。

それから4年後、軍団生活12年目29歳で、クロディウスは副隊長に昇進した。その年、マルキウス隊長が25年の軍団勤務を終え、退役することとなった。
退役の日、皆から尊敬を集めたマルキウス隊長の下に、かつてのマルキウス隊の部下も大勢駆けつけた。マルキウスを敬愛する多くの軍団兵が、彼を取り囲んだ。クロディウスも、2人のユリウスや穴熊のフラウィスと共に、マルキウス隊長を取り囲んだ。ローマ軍団兵は所属軍団そのものへ忠誠心よりも、歩兵隊への帰属意識、更には百人隊への愛着心の方が強い。特に戦いでお互いに命を預け合った仲間は、別格な戦友意識を共有している。かつて第1戦列で命をかけて戦ったマルキウス隊が集うのも、自然の成り行きであった。
マルキウス隊長は一人一人に声をかけ、クロディウスがかつてのマルキウス隊の副隊長を努める事を、たいそう喜んでくれた。挨拶の最期にマルキウスは、「ガリア・ナルボネンシス属州で農園を開くから、いつか遊びに来い!」と皆に告げた。
金や虚栄心に仕えることなく、実直に頑固に軍団兵としての使命を全うした男、マルキウス・フスクス。彼の最終的な肩書きは、ピールス・ポステリオル。第3戦列歩兵隊の第2席百人隊長と言う軍歴を残し、惜しまれつつ第Ⅳ軍団を去った。

軍団生活14年目31歳で、遂にクロディウスは百人隊長に任官される事が決まった。元老院階級や貴族階級のようなコネが無い叩き上げの軍団兵としては、出世は決して遅い方ではない。彼の軍団兵としての経験や努力、つまり実力が正当に評価された結果である。第1戦列歩兵隊の最下席の百人隊長、ハスタートゥス・ポステリオルに昇進する予定だが、今現在も実績と忍耐力と知恵がある副隊長として、部下からも仲間の上官達からも大きな信頼を寄せられていた。
同期入団のアッリウス・シドも、同時に百人隊長任官される予定である。そして、テント組の先輩だった烏のユリウス、穴熊のフラウィス、紅鶴のユリウスは、それぞれ既に上位の第5席百人隊長ハスタートゥス・プリオルに昇進していた。クロディウスが属する歩兵隊、通称「雄牛隊」の百人隊長は、全員彼と旧知の仲間や先輩達で組織されるのである。雄牛隊は、固い絆で結ばれていた。ただし、アントニウス隊を除いて。

ティトゥス隊の百人隊長ティトゥス・サトゥルヌスは、騎士階級の財力と人脈に物を言わせて異例の速さで昇進し、5年前に37歳の若さで第3戦列の第2席百人隊長、ピールス・ポステリオルにまで上り詰めていた。そしてティトゥス隊を、これもまた異例の速さで、4年前に若き28歳のアントニウス・ウァレンスが百人隊長として隊を引き継いでいた。彼もまたティトゥスと同様、騎士階級の財力とコネを、最大限駆使した一人である。アントニウス百人隊長は、雄牛隊の他の百人隊長と反りが合わなかった。上官への袖の下、実力を無視した裏工作での昇進や仕事の割り振り、陰惨な若い隊員への暴力、一般市民への脅しや強請り、様々な悪い噂が漏れ聞こえてくるアントニウス百人隊だった。
ただし、これはアントニウス隊だけの問題ではなかった。他の第1戦列歩兵隊の中でも次第に増えつつある傾向で、第2戦列歩兵隊や第3戦列歩兵隊でも同様な傾向が見られた。規律や実力よりも、金やコネと言った物が幅を利かせるようになっていた。理由は、明らかである。ローマの安寧と秩序が長く続き、軍団も官僚主義に陥りつつあったのだ。
大規模な反乱や蜂起はなく、あるのはちっぽけな強盗騒ぎや地方の騒乱だけで、軍団兵もそれら厄介者を捕えたり、騒ぎを起こす者達を鎮圧する程度の小規模の任務がほとんどだった。それ以外は、来る日も来る日も見張りや清掃や街道パトロールと言った日常業務の繰り返しである。戦う最強部隊としての軍団兵の出番は、現在はほぼ無かった。

このような背景で、ヒスパニアの司令官も軍人としての実力を問われる事は無くなっていき、官僚主義的な司令官と化していった。第Ⅳ軍団マケドニカの司令官は、かつてのように総督や執政官が務めるドゥクス(大将)が務めているのではなく、レガトゥス・レギオニス(軍団長)が軍団司令官を務めているのである。軍団長は30代の元老院議員で、3年か4年もすると交替になる。過酷な軍団経験も無く、深い軍事知識も無い、名目上の司令官の交代が繰り返される。
ヒスパニア・タッラコネンシス属州にローマから送られてくる司令官は、出世過程の短期間の元老院議員である。彼ら腰掛け司令官の頭にあるのは、自分の利益と、自分の在任中に属州や基地内で面倒事が起こらない事と、司令官として経歴に箔をつけた後の出世コースの事だけである。
軍団内で、袖の下が上官達の懐を潤していようと、裏工作で何が行われていようと、現場さえ上手く回ってくれていればそれで良かった。任期中の司令官は、誰もが見て見ぬ振りを決め込む。その様な司令官達が、次から次へとローマからやって来ては、任期が終わるとまた去って行く。
そう言う状況では、軍団の規律や団結が維持できないのも、無理は無かった。黙々と忠実に日常業務をこなしていても、公平に評価されることが難しくなっていた。逆に雄牛隊の様に、規律を重んじ日々の任務に忠実な歩兵隊は、少数派になりつつあったのである。 これが、クロディウスが振り返った14年間の軍団生活だった。


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