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第一部:第五章 盗賊討伐

45.カナバエで

盗賊討伐隊がタッラコの基地に戻ってから、一週間が過ぎた。アプリーリス月も後半に入っている。第1戦列の中の、マルキウス隊ら6個百人隊が属する歩兵隊は、いつしか「雄牛隊」と言うあだ名で呼ばれるようになっていた。その前の通称名は、「隼隊」だった。「雄牛隊」と言う名称は歩兵隊自らが付けた訳ではなく、周囲の軍団兵が名付けた名前である。日頃は畑を耕す牛のように淡々と忠実に任務をこなし、戦闘ともなれば猛牛の様に敵に突進していくその姿から、自然とその愛称が定着していった。

第Ⅳ軍団は59人も失い、かつ多数の軍役満了の退役者が出るので、今年も隊員補充が行われることになった。あと3ヶ月もすると、百人近い新兵候補者達が長旅の行軍を行い、暑い陽射しの下、この遠いタッラコまでやって来るのだろう。新兵がローマを出立する頃には、クロディウスも18歳になっている。考えてみれば、クロディウスがローマを出発して、もう9ヶ月も経っていた。光陰矢の如し、月日の経つのは早い。

カッシウスの隊は、烏のユリウスが引き継いだ。これからは、十人隊長ユリウスである。とは言っても、他に隊員と言えば、クロディウスと、穴熊のフラウィスと、紅鶴のユリウスしかいなかったが。新兵が到着するまでは、この4人がテント組である。紅鶴のユリウスは脚の怪我が深くて病院に入院中で、このテント組の兵舎の部屋は3人しかいない。
その3人ですら、戦闘での傷がまだ癒えていない。全員が腕に脚に顔にと、いたる所に包帯が巻かれていた。
穴熊のファビウスが言う。
「この8人部屋も流石に3人だけだと、広すぎるな。」
十人隊長の烏のユリウスが言う。
「まあ、その内、もう一人のユリウスも元気になって帰ってくるさ。」
クロディウスが、相槌を打った。3人とも言葉には出さないが、同じ思いを共有している。語らずとも、お互い理解していた。あの経験を共有した者にしか、決して分からない感情や記憶。
クロディウスは、着替えながら言った。
「今日、せっかくの休息日なので、久しぶりにカナバエに行ってきます。」
彼は、緑の服を着た。ファビウスと一緒に行って、レピディナおばさんの店で買った、あの最初の服である。フラウィスが言った。
「おっ?パン屋かい?」
「えっ、まあ…。」
「じゃあ、俺にも、あの豆入りのパンを買って来てくれよ!」
「はい、分かりました。」
すると、ユリウスも言った。
「じゃあ、もう2つ買ってきてくれ。1つは、病院に入院中のお洒落軍団兵に差し入れしてやろう!」
「はい、了解しました。」
クロディウスはそう返事して、部屋を出た。

兵舎を出ると、他の隊員達が作業の手を止めて、腕や脚に包帯を巻かれたクロディウスを見つめた。軍団兵達のマルキウス隊隊員を見る目が以前と違っているのを、クロディウスも隊の仲間も感じていた。それは、自分の身と命を犠牲にして他の軍団兵を守ったマルキウス隊へ注がれる、敬意の眼差しである。
ただし、ただ一人の眼差しを除いて。ティトゥス隊のアントニウスの眼差しだけは、敵意と嫉妬の混ぜ合わさったような冷たく鋭い視線だった。

カナバエに来るのは、久しぶりだった。この前カナバエに来たのは、討伐退治に向かう前だったから、まだ肌寒い冬の終わりだった。今はもう、完全に春の陽気だ。
クロディウスは、店の外からユリアが店頭にいるのを確認してから、店のドアを開けた。
「いらっしゃい。あら、クロディウスさん、久しぶり!」
ユリアがそう話しかけると、クロディウスは照れくさそうに答えた。
「どうも。久しぶりです。」
ユリアは、包帯だらけのクロディウスを見て言う。
「たいへんだったようですね。傷は痛みますか?」
クロディウスは答える。
「たいした事ないです。大丈夫です。」
本当は、どこもかしこもズキズキと痛くて仕方がない。ユリアが振り返って、店の奥に呼びかける。
「お父さん!クロディウスさん、来たわよ!」
えっ?お父さん、呼ぶの?呼ばなくても、いいんじゃ・・・。そう言う思いを吹き飛ばすように、熊の様な親父さんのラウディウスが出てきた。
「お、久しぶりだな、ロングス君!」
ロングス君?何故に家系名?
「軍団の活躍、聞いたぞ。2,400人の盗賊に勝ったんだってな!大勝利じゃないか!」
いや、盗賊は1,600人で、残り800人はその家族で、女や子供や老人なんですよ。全員殺しましたがね、親父さん・・・とは、口が裂けても言えなかった。ユリアが言った。
「あら?いつも一緒にいらっしゃっていたファビウスさんは?」
クロディウスはどう答えようか一瞬迷ったが、率直に伝えることにした。
「盗賊との戦闘で亡くなりました。」
「そうだったのですか・・・残念です。」
と、ユリアは哀悼の意を表した。クロディウスは、この際全部話すことにした。
「実は、テント組の4名が亡くなりました。生き残ったのは4名だけで、その内の1人はまだ入院中です。」
「そうか、たいへんだったな・・・。余程、激しい戦闘だったのだな。」
と、元軍団兵だった親父さんも同情を寄せた。
「でも、ようやく気持ちも落ち着いてきました。豆の入ったパン4つください。テント組の仲間と食べようと思っています。」
「おっ、4つな。待ってな!」
そう言って、ラウディウスは店の奥に戻った。店頭にユリアと自分の2人だけ残されて、クロディウスは何を話せば良いのか分からなくなった。注文もしちゃったし、気まずい沈黙。取り敢えず、先に銅貨でパンの代金を支払う。緊張感半端ない!親父さん、早く戻って来て! その願いに応えるように、親父さんが店の奥から豆入りパンを持って出てきた。ラウディウスは、パンを4つ袋に入れて渡した。
「あいよ、豆パン4つ!」
すると。もう一つパンを袋に入れた。
「これは、サービス。」
そう言って、クロディウスの右肩にポンと手を置いた。
「まあ、これ食って元気だしな!」
クロディウスは、にっこり笑ってお礼を言った。
「ありがとうございます。」
と言った瞬間、クロディウスの目から涙がこぼれ落ちた。
えっ?何で?彼自身にも、理由が分からなかった。ローマで家族と別れる時にも、そして厳しい軍団訓練ですら、人前では涙を見せなかったのに。涙は止まるどころか溢れ出す一方で、それはいつしか号泣に変わり、ラウディウスの腕にしがみついて慟哭していた。
熊のようなラウディウスのがっしりした左手が、クロディウスの右肩をしっかり抱いた。そして娘ユリアも、右腕で彼の左肩を抱いた。
パン屋の中で号泣する若者の声が、カナバエの通りに響き渡る。何事が起こったかと店を横目で見ながら、通行人が通り過ぎて行く。親父さんも娘も、外のそんな様子は一切気にせず、クロディウスが心行くまで泣けるように、肩を抱いて静かに見守る。ファビウスがクロクマと呼んだ17歳の青年は、2人の腕の中で子どものように泣き続けた。


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