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第一部:第二章 クロディウスの旅立ち

13.遥かなるヒスパニア

休息日を挟んで、再び行軍の日々は始まった。次に目指すのは、ユリア・アウグスタ街道の終点の町アルル。ピサから430ローママイル。それを僅か11日で踏破する。一日ぴったり40ローママイルと言う訳ではない。宿場町までの距離によって、その日の行軍距離が変わる。40ローママイル以下で済む日もあれば、一日で50ローママイル以上を歩かねばならない日もある。新兵候補者達にとっては、苦行の日々である。
ピサでアウレリア街道は終わり、そこから先はユリア・アウグスタ街道が始まる。ジェノヴァまでの道のりは、若者達にとって今までよりは比較的楽に思えた。105ローママイルを3日で行軍すれば良かったので、一日平均35ローママイルだ。
しかしジェノヴァを超え、ユリア・アウグスタ街道がアルプス山脈南端の地域アルペス・アリティアエを超えると、いよいよガリア・ナルボネンシス属州に入る。新兵候補者達のほとんどは、ローマの外に出たことのない若者達だったので、異国への興味と緊張が入り混じっていた。ガリアには未だ獰猛な蛮族が闊歩している、と思い込んでいる若者すらいた。
異国を旅すると言うこと以上にたいへんなのは、ジェノヴァから次の目的地ニカイアまでの距離140ローママイル以上を、3日で踏破しなければならないと言う事である。ジェノヴァからサボナまでの38ローママイルから始まり、次はサボナからインペリアまでの46ローママイル、更にインペリアからニカイアまでの57ローママイルを、それぞれ一日で踏破しなければならなかった。
新兵候補者の若者達は、毎日、黙々と行軍を続けた。疲労と暑さで食欲を失いつつあったが、水分や塩分の不足、またシャリバテを防ぐため、副隊長は無理にでも糧食を食べるよう命ずる。体力が著しく低下していたフリウスも、パンやベーコンや干し芋を水で胃に流し込むように飲み込んだ。

ニカイアに到着した時は、体力に自信のあったアントニウスやクロディウスですらヘトヘトに疲れ切った。ほとんどの若者の足の裏は、いくつもの血豆ができている。流石に感染症は隊の行軍に支障をきたすので、隊長の命令でベテランの軍団兵達が若者達の足の手当を行い、足を清潔に保つ方法や行軍の効率的な方法も教えた。クロディウスは、行軍の初期の頃は軍団兵らを畏怖していたが、彼ら一人一人と接してみると、意外と優しい面や面倒見の良い点があることを知った。

二番目の目的地アルルまでは休息日はないので、翌朝も同じように出発した。次の目的地はマッサリアで、更に長距離の行軍となる。マッサリアまでの距離152ローママイルを、また僅か3日で行軍するのである。ニカイアからフレジュスまで43ローママイル、翌日はイエールまで52ローママイル、そして3日目のマッサリアまでは、更に長い57ローママイルを、連日行軍すると言う過酷な行程であった。

異国のガリア・ナルボネンシス属州は、若者達が想像していたほどの言葉や風習の違いは無かった。多くの町や都市がローマ化されており、蛮族や盗賊襲来の心配はいらなかった。アウグストゥスによる治世で、どの町もローマによる安寧と秩序「パクスロマーナ」が定着している。
179九人は、南部ガリア属州の町々で温かく迎えられた。特に隊の96人が訓練を受けていない新兵候補者の若者達であると分かると、宿の主人やおばちゃんらは一層親切にもてなしてくれた。行軍中は乾燥したパンや干した芋や果実や肉ばかりを食べていた若者にとって、温かくて美味しい宿の食事がとてもあり難かった。 一同が3日をかけてマッサリアに着いた時は、96人の若者達は疲労の極みに達していた。しかしそこから先、マッサリアからアルルまでは62ローママイルしかなく、そこを2日で移動すれば良かった。マッサリアからマルティーグまで25ローママイル、マルティーグからアルルまでは36マイルと、これまでの鬼のような行軍と比較すればかなり短く感じられる。これは、血豆だらけの若者達にとっては朗報だった。
そして彼らは、2日後に無事アルルに到着した。ローマを出てから、早くも17日間が経過。家族と別れてマルス広場を出発したのが、クロディウスには遥か遠い昔に感じられる。
アルルに到着した彼らは、そこでようやく2回目の休息日を迎えた。ピサのように温泉こそなかったものの、大きな公衆浴場はあるので、一同は過酷な行軍の疲れを湯で癒した。そして、ピサに続き2度目の宴会が催された。 翌朝、彼らの預託金は40デナリウスになっていた。

アルルを出発すると、いよいよ最後の行程となるタッラコまでの350ローママイルである。そこを9日で踏破しなければならない。ユリア・アウグスタ街道はアルルで終わりとなり、その先はヒスパニアへ続くドミティア街道となる。ローマが敷設した、ガリア地方最古の街道だ。
アルルで休息した一行は、115ローママイル先の都市コロニア・ナルボ・マルティウスを目指して意気揚々と出発した。その距離を4日で踏破する。しかし正にその4日目から、行軍の雲行きが怪しくなってきた。文字通り空が雲で覆われて、雨が降り始めたのである。思えば、今まで3週間も雨が降らなかっただけ幸運とも言える。
小雨のうちは、真夏の暑い陽射しを和らげてくれる程度に気持ち良いと感じたが、雨足が強まると、そうも言ってはいられなくなった。5分ほど進んで、雨がしばらく止みそうもないと判断した百人隊長は、隊を止めて雨への対策を全員に命じた。
軍団兵は、軍団の一般装備のパエヌラ(※ポンチョ型外套)を驢馬から降ろして身に付け、頭にフードを被った。しかし軍団支給品を一切持たない新兵候補者達は、右往左往していた。皆、まともな雨具を持っていない。大きな雨具は、荷物の詰まった背嚢に入り切らなかったからである。雨具替わりに大きな布を羽織る者、着替えの短衣を頭から被る者、皆それぞれ雨に対処しようとしている。中には雨用の外套を持っている者も、何人かはいた。アントニウスはとても薄い外套を背嚢から取り出して、すっぽりと頭から被った。クロディウスは、アントニウスに言う。
「良いものを持っているね。」
「珍しいだろ?これは、父が外国から買ってきた物だよ。蝋や油なんかで作った特別な液が塗り込んであるので、雨も弾く。軽くて薄いから、持ち運びにも便利だ。行軍で雨が降るのも、想定内さ。」
世の中には面白い道具もあるものだ、とクロディウスは感心した。しかし彼の家は貧しかったので、当然そのような最新の外套は持っていなかった。雨具の代わりに大き目の布を取り出して肩からかけてみたが、あっという間に雨が布に滲みてビショビショになった。他の多くの新兵候補者達も同様だった。
見かねた百人隊長は、副隊長に命じて驢馬から軍団のテントを降ろすよう命じた。驢馬の背に積まれたテントから、そのうちの8枚を降ろした。テントは革製で、十分に雨を防ぐことができる。1列4名で三列、計12名1組で、1枚のテントを頭上に持ち上げて移動する。それが8組。傍から見ると、まるで8体のテントの群れが、前後40名の軍団兵に護衛されて移動しているようだった。

大雨はなかなか止まず、テント行軍は数時間も続いた。革のテントは決して軽くないので、新兵候補者達も腕を上げ続けるのが辛くなってきて、片腕ずつ交代でテントを支えるように工夫するようになった。テントの中は、雨の湿度と夏の気温で蒸し暑く、若者達の額から汗が滴り落ちる。自分だけ特殊な雨具を被ってしまったアントニウスはさらに蒸し暑くなり、こんなものを自慢げに被った事を後悔していた。
結局、その日はナルボンヌの町に着くまで雨が止まず、ずっとテント行進だった。ナルボの町に入ると、町の住民たちが移動するテントの行進を見て珍しがっていた。町の人々は、彼らに「テント仮装一座」と言うあだ名を付けて面白がった。
その夜、フリウスは高熱を出した。他にも10名ほどが熱を出した。雨に打たれた上、テントの中で大量の汗をかいて汗冷えしたのに加え、連日の過酷な行軍で体の抵抗力が落ちていたためだろう。百人隊長は、若者の行軍は無理と判断し、例外的にこの宿場町で休息日を一日設けることにした。若者達は、翌日は寝て体力の回復に努めた。追加の1泊分として1デナリウスが余分に支払われて、この町での支払いは2デナリウスとなった。

ナルボの町は、その名が示す通りガリア・ナルボネンシス属州の州都であり、ローマ属州の有力な都市の一つである。この町では、ローマ軍団を退役した兵士達がコロニーを作っていたので、町の人々はローマ軍団兵に好感を持っていた。退役軍団兵の多くが、この町の娘達を妻に迎えているからである。このローマの属州が、何故ローマ本国のように秩序があり治安が安定しているかを、少し理解したクロディウスであった。
軍団を懐かしがって、またナルボの人々が「テント仮装一座」とあだ名を付けたおかしな若者達に会おうとして、退役したローマ兵達が隊の宿屋に差し入れを持ってきた。彼らの多くが農園を営んでいた。葡萄を栽培しかつ葡萄酒を作っている者らも多く、軍団兵に壺詰の葡萄酒20本を贈った。そのお礼として百人隊長は、隊員達の前で彼らに感謝の言葉を述べ、カエサル司令官指揮下でのかつての彼らの大いなる功績を讃えた。
退役したと言っても、元軍団兵達の体は日々の農作業で鍛えられていて、威厳ある存在感を放っていた。それを前にして、百人隊の80人の兵士達は緊張している様子で、直立不動の姿勢で隊長の謝辞に耳を傾けていた。カエサル下で戦った歴戦の勇士のベテラン退役兵を前にすれば、新兵候補者達が恐れる護衛役の軍団兵すら、まだまだ若いひよっ子同然なのである。

熱を出した若者達全員が回復した訳ではなかったが、隊は2日後に出発した。副隊長曰く、「病気だからと言って、敵は手加減などしてくれない」なのだそうだ。
クロディウスは、まだ微熱があり完調ではないフリウスの背嚢を代わりに背負った。二つの背嚢のため、彼の背中はまるで大きな動物を背負っているように見える。クロディウスは、密かに同期の新兵候補者達から「熊を背負う男」と言うあだ名を付けられた。

このナルボの町でドミティア街道は終点となり、アウグストゥスの名を冠したアウグスタ街道になった。ここを南に進んで行けばピレネー山脈を越えて、いよいよヒスパニアである。ナルボンヌからヒスパニアのジローナまでは、106ローママイルである。これを3日で行軍する。
ローマから北に行軍していた時は、ティレニア海の西の水平線に陽が沈むのを見ていた。しかし、ヒスパニアに向かって南に行軍している今は、その逆で東の水平線から朝陽が昇るのを見ている。随分遠くへ来たものだ、とクロディウスは感慨深く感じた。

ナルボを出発して3日目、アルルを出発してからは7日目、ピレネー山脈の東端を越えて、遂にヒスパニア・タッラコネンシス属州に入り、ジローナに到着した。
ジローナは、かつてかのローマの将軍ポンペイウスが築いた城砦都市である。ここまで来ると、最終目的地のタッラコまでは、残り129ローママイル。この距離を3日で踏破すれば、この過酷な行軍も終わりを迎えるのだ。

不思議なもので、何の訓練も受けていない新兵候補者の若者達であったが、この長く過酷な行軍の間に、軍団兵らしき秩序のようなものが見られるようになってきた。あのマルス広場で凸凹だった整列も、副長の号令でそれなりに揃うようになり、バラバラだった無秩序な行進も足並みが揃うようになりつつあった。隊長や副長の叱咤激励の効果もあったろうが、3週間以上に渡って先輩軍団兵の行進をその目で見て、実際に真似して覚えていった結果である。秩序ある行動や統率されたリズミカルな行進の方が、結果的に無秩序な行軍よりも楽であると、体が自然に悟ったのであろう。

3日後、隊はヒスパニア・タッラコネンシス属州の州都タッラコに到着した。ローマを出発して27日目、新兵候補者96名、一名も欠けることなくタッラコに到着した。体の疲労は、若者達の限界をとっくに超えていた。
タッラコの軍団基地は海岸とタッラコの町からさほど遠くない位置にあり、東西南北に一つずつの門があり、東側の門の前にはカナバエの町が広がっている。 若者達は軍団兵に伴われて、タッラコの軍団基地の北の門前まで来た。門は、まだ閉まっている。隊の先頭に、百人隊長と副長と旗手の3名が進み出て、馬を止めて振り返る。そして、軍団兵と新兵候補者達に向き直った。まずは、副隊長が最初に口を開いた。
「新兵候補者の諸君。諸君らは、過酷な行軍によく耐えてこのヒスパニアに到着した。隊長も私も、一人も欠けることなく全員が行軍を成し遂げたことに満足している。以上だ。続いて、旗手より報告と今後の連絡がある。」
その後、旗手から会計報告と事務連絡がなされた。
「諸君の旅費として、アウグストゥスから各々が授かった75デナリウスの残高は、現在32デナリウスである。これは軍団の会計係に預託され、諸君の日々の諸経費に充てられる。必要があれば、それぞれ会計係に申し出るように。軍団内での宿舎の割り当て、今後のスケジュール、規則等については、基地内にて担当者より説明がある。以上!」
若者達がマルス広場で受け取った大金は、タッラコに着いた時は、僅か32デナリウスにまで減っていた。次の給与まで、32デナリウスでやり繰りしなければならない。クロディウスは、今回は家族への仕送りは諦めざるを得ないと思った。
副隊長と旗手に続いて、最後に全員を安全にここまで率いてきた百人隊長が語る。
「一ヶ月の行軍を完遂した諸君!この門をくぐったら、諸君らはもはや新兵候補者ではない。軍団兵として扱われ、軍団兵としての訓練を受け、軍団に配属され、軍団兵の給与を受け取るのだ。訓練が始まると、諸君らは知るであろう。この一ヶ月間の行軍が天国に思えるほど、軍団の訓練が厳しいことを。それはもはや、血を流さぬ戦争に等しい。一人前の軍団兵となるためには、諸君はその訓練に耐えねばならない。軍団での諸君の検討を祈る。ローマの神々のご加護があらんことを!」
百人隊長が語り終えると、若者達の多くは涙ぐんだ。クロディウスも、この長い一ヶ月の辛い行軍…暑さ、喉の渇き、空腹、連日の疲労、脚の痙攣や足の裏の多数の血豆等々・・・を思い出して、そしてローマの家族の事を思い出して胸が熱くなったが、涙はこらえた。仲間に、涙は見せたくない。
左隣りのフリウスは、人目もはばからず涙を流していた。彼は、クロディウスもよりも体力が無くてきつかったし、高熱も出たし、色々辛くて感極まったのであろう。一方、右隣りのアントニウスは、クロディウスに小声で言った。
「なんでこいつらみんな、泣いているんだ?馬鹿じゃねえの2・・・。」
クロディウスは、アントニウスが本気でそう言っているのか、照れ隠しで言っているのか、判断できなかった。本気で言っているのなら、人間として何かが欠落している。
百人隊長が前に向き直ると、軍団基地の門の扉が開いた。クロディウスは、いよいよ本物の軍団兵になるのだ。

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