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第一部:第一章 クロディウスの希望

9.父との会話

クロディウスは、ペトゥロニウス邸から帰ると、「軍団に入隊希望である事」、「ペトゥロニウスさんから推薦状をいただいた事」などを母ベレニケに話した。最初は軍団兵士と聞いて、身の危険はどうとか、遠くに行くのかとか、母は色々心配して動揺していたが、次第に落ち着いてきて、父アンニウスの帰宅を待つことになった。
夕方、アンニウスが船着き場から帰宅すると、母ベレニケはクロディウスから告げられたことを彼に小声で報告した。アンニウスは特段怒った様子もなく、クロディウスに向かって言った。
「ちょっと表に出ようか、クロディウス。」
そう言うと、妻のベレニケにも告げた。
「今夜は二人で出かけてくる。」
「行ってらっしゃい、気をつけて。」
弟のカルは何かを察したようで何も語らなかったが、妹達は騒ぎ立てる。
「クロ兄ちゃんだけずるいぃ!私も行きたいぃ!」
ベレニケは、それを制して言った。
「お父様とお兄さんは大事なお話があるの。ドゥルシラとポッペアは、お家でお夕飯よ。」

父と二人きりで歩くなんて、いつ以来だろう?と、クロディウスは思った。アンニウスにしても同じだった。仕事とお金のことばかりに追われて、最近は家族と一緒に過ごす時間も無かったな、と思う。
アンニウスがクロディウスを連れて行った場所は、ケレルの店だった。クロディウスは、この店のことは知ってはいたが入ったことは無い。
「父さん、この店は高いのでは?」
「クロディウス、気にするな。実はもっと前に、ここに連れて来たいと思っていたんだ。ちょうど良い機会だ。」
店の中はほぼ満席だったが、店主のケレルがアンニウスの姿を認めると、二人分の席を用意してくれた。アンニウスはケレルに「ありがとう」とお礼を言うと、ケレルも頷いて応えた。二人はテーブルの前の寝台に体を預けて、肘をついて上半身を支える。
「この店のお薦めは、豚肉と季節野菜炒めと、鶏肉とレンズ豆の煮込みなんだが、それで良いかな?」
「どれも分からないので、任せます。でも、高くない?」
「今日は、お金の心配は無しだ。荷下ろしの仕事で、今日はそれなりに貰ったから。」
そう言うと、アンニウスは料理を注文した。
「ケレル炒めと、ケレル煮込みを2つずつ!」
これから、クロディウスに向き直った。
「ローマ軍団入隊の決意をしたのか。」
「はい。ペトゥロニウスさんに、推薦状もいただきました。」
「一言、相談してくれても良かったのにな。」
「反対されると決意が揺らぐと思って。お母さんも、絶対心配するだろうし。」
「お前が真剣に考えて決めたことなら、反対はせんよ。」
アンニウスは、かつての父との会話を思い出していた。父は、自分の決断を尊重してくれた。彼も、息子にそうするつもりである。
「私も、自分の店を持ちたくて努力してきた。知っての通り、あの事故で夢は断たれてしまったが・・・。だが、夢を持つのは若者の特権だ。それを取り上げる権利は、私にはない。お前は、思い付きでそんな事を言う性格ではない事は分かっている。じっくりと考えた上でのことだろう。夢を叶えなさい。」
アンニウスは、もちろん知っていた。息子の夢が、軍団入隊などではない事を。息子は家族の事を考えて、兵士の給与を得るために入隊する事を。しかし、その事を口に出すことは無かった。息子も、それを望んでいないだろう。
「お父さん。僕は、お父さんの苦労を知っています。ここまで育ててくれた恩に応えるため、勇敢な軍団兵となって、いつかは百人隊長になって、きっとこのローマに錦を飾ります。この町の名士の一人となって、ロングス家に名誉をもたらします。それが、僕の夢です。」
クロディウスも、知っていた。父が、自分をギリシャに留学させたがっていた事を。それをさせてやれない自分の不甲斐なさを感じている事を。しかし、その事を口に出すことは決して無かった。父のプライドだけは、傷つけたくない。
「父親として、一つだけ助言をしておこう。病気とケガだけには、気をつけなさい。どんな大金も名誉も、不治の病や死の前には何の役にも立たない。ギリシャやローマの神々でさえも助けてはくれない。神などはこの世におらんのだ。頼れるのは自分の体と信頼できる仲間だけだ。この事を忘れるな。」
「ありがとう、父さん。病気や怪我には、くれぐれも気をつけるよ。」
ほどなくして、注文した料理がハーブの良い香りと共に運ばれてきた。クロディウスは、まずは鶏肉とレンズ豆の煮込みのスープから飲んでみる。
「これ、すごく美味しいね!こんな味、初めてだ!」
それを聴いた父の顔は、とても嬉しそうだった。
「そうだろ。ここの料理は、絶品なんだ。ここの料理を、そのうち家族全員に味あわせてやりたいと思っている。」
クロディウスは、次に豚肉と野菜炒めを食べた。これも、煮込みと同じく美味しかった。母ベレニケの料理とこのケレル料理店の味が、故郷の味としていつか懐かしく感じられる日がくるのだろうか?いや、余計な事は考えない。今は父と過ごす時間を味わい、そしてこの料理の味をゆっくりと味わおう。

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