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第一部:第一章 クロディウスの希望
7.アンニウスの歩む道
あの事故から、6年が経過していた。アンニウスは41歳となり、妻ベレニケは39歳となっていた。兄のクロディウスは16歳に、弟のカルは13歳に、妹のドュルシラは10歳に、一番下の妹のポッペアは7歳となっている。 父アンニウスは、妻のベレニケにぼそりと言った。
「今日は、荷運びの仕事があるから行ってくる。夕方には帰る。」
かつてのような明るさはなく、ただ疲労感に覆われたような顔をしながら家を出て行った。
夫を送り出した後、ベレニケは息子に言った。
「クロディウス、今日の予定は?」
「親方の仕事の手伝いはないから、今日は久しぶりにペトゥロニウスさんの所に行こうと思う。お昼前には帰る。」
「分かったわ。馬車には気をつけてね。」
父親に続いて、息子クロディウスも家を出た。
ロングス家の家長であるアンニウス。彼は、右脚を引きずりながら、テヴェレ川沿いの軍団の船着き場に向かって歩いていた。彼は、過去を振り返ってみた。
六年前のあの事故のおかげで、彼の人生全てが狂ってしまった。暴走事故を起こした荷馬車の持ち主である騎士階級の男は、彼に幾ばくかの見舞金を支払ったが、それはあっという間に高額な治療費に消えた。 アソピオス医師の紹介で、より腕利きのギリシャ人医師マカリオスの医院に通うこととなった。骨折した右脚は、なんとか引きずって歩けるまでに回復したが、右腕の方は全く動かないまま。しかしアンニウスは、また腕が元通りに動くようになると信じて疑わなかった。絶対に、また鍛冶職人に戻るのだ!予定より遅れてしまったが、またお金を貯めて自分の工房を持ってみせる!彼の決意は、固かった。
名医と謳われたギリシャ人医師のマカリオスは、ありとあらゆる治療法を試し高価な薬も用いたが、アンニウスの右腕は、ついぞピクリとも動くことがなかった。治療費は高額で、工房の開業のために蓄えた資金はどんどん目減りしていった。その上、最後には「もう治癒はあきらめなさい」とマカリオスに勧告された。日頃は穏やかなアンニウスであったが、その時ばかりは、怒りを抑えられず当たり散らした。
「やぶ医者め!さんざんお金をふんだくっておいて、今さら治せないだと!ふざけるな!」
その後、アンニウスは、医師の助手たちによって医院を放り出された。
医者に見放されたアンニウスは、来る日も来る日も、脚を引きずりながらローマ中の神殿を巡った。ローマにはこれだけたくさんの有名な神やら女神やらがいるのだから、誰か一神くらいは彼の願いを聞いてくれるだろう。しかし、アンニウスの腕を治してくれる神は、ローマにはただの一神もいなかった。
ある雨の日、大通りの天幕前で、一人の女性占い師に呼び止められた。女性は、優し気な表情をしている。
「ずぶ濡れになってしまいますよ、雨宿りしてらっしゃいな。」
彼はその天幕の下で、その女占い師といくらかの会話をした。打ち解けてくると、女占い師は、不幸な事故にあったアンニウスに同情して言った。
「あんまり大きな声では言えないのだけど・・・普段は絶対に人には教えないのだけれどね・・・あなたは良い人そうだから、あなただけに特別にお教えしましょう。私は、あなたの腕を治せる呪術師を知っています。しかし、彼は特別な人なので、彼を紹介するにはそれなりの見返りがいるの・・・前金として三十デナリウス必要なんだけど・・・ごめんなさいね、無理ならこの話は忘れてね。」
30デナリウスと言えば、職人の賃金一ヶ月分に相当する大金であったが、藁にもすがる思いで、蓄えてきたお金からアンニウスは前金を支払った。約束の三日後に再びそこに行くと、天幕は影も形もなかった。彼は、まんまと騙されたのだ。またもや怒り狂ったが、どうにもならなかった。
最初の数か月は、そんな風に過ぎ去った。その後は、怒る代わりに神を呪うようになった。何故、自分だけがこんな目に!神に正義はあるのか!サイコロ遊びでもして人間の人生を決めているのか!
呪うだけ呪うと、今度は神の存在自体が空虚に思え、鬱々とした日を過ごすようになった。そもそも神などいないのだ。存在しないから、誰にも祈りは届かないのだ。アンニウスの貯金は、底を尽きかけていた。妻ベレニケは彼を励ましたが、その言葉さえ虚しく感じられる日々が続く。
そして遂にロングス家は、食糧庁から小麦の無料配給を受ける権利を得ることとなった。無料で小麦を受け取るローマの失業者15万人、その中の一人にアンニウスは仲間入りしたのだ。それが更に、彼を憂鬱にさせた。自分の手で稼ぎ、家族を養う。そのプライドすら彼の手から奪い去られて、彼は無産階級へと落ちたのである。
一年もすると、その鬱々とした状態も消えつつあった。何故ならば、貯金を全て使い果たしてしまったため、家族のため前進せねばならないからだった。無料の小麦配給だけでは、とても家族を養ってはいけない。アンニウスは、新たな仕事を探す必要があった。右脚は不自由で、右腕は全く動かない。従来の鍛冶の仕事は不可能だったが、ヌム親方が軍団の会計係に話を付けてくれて、テヴェレ川沿いにある外港からの荷揚げ地での軍団の仕事を見つけてくれた。積み荷の荷下ろしや運搬の仕事である。毎日ある仕事ではなかったが、不平を言える身ではなかったし、片腕で出来る事は何でもこなした。次第に仕事に慣れて行き、同僚が感心するほどに、片腕と肩を上手く使って荷物を運べるようになった。おかげで、左腕はかなり太くなった。そんな生活が、今に至るまで続いているのである。
親方となって工房を開業する希望は消え失せ、騎士階級に成り上がる夢も泡のように消えた。妻や子供たちには、迷惑をかけっぱなし。息子のクロディウスには、特にすまない事をしたと思う。同年齢の子らは私塾やユヴェントスに通い、勉学や体の鍛錬に時間を費やしている。しかし、クロディウスは11歳から親方の仕事を手伝い、家計を助けてくれている。その息子も、もう16歳を過ぎた。彼をギリシャに留学させるどころか、彼の将来を奪ってしまったかもしれないと思うと、居たたまれない気持ちになるのであった。
歩きながらそんな事を考えていると、テヴェレ川沿いの荷揚げ地に到着した。家族のため、今日も力の限り働こう。私は、理想主義者のギリシャ人とは違うし、唯一神教主義者のユダヤ人とも違う。現実を受け入れ、現実を生きる、現実主義者のローマ人なのだ。
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