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第一部:第一章 クロディウスの希望

5.アンニウスの門出

アンニウスの心は、朝から晴れやかだった。ヌム親方から独立を勧められてから3年、遂に開業のための資金が溜まった。店を借り、道具や材料を購入し、当面の運転資金のための十分なお金が蓄えられたのである。工房に着くと、それをヌム親方に報告した。ヌム親方も、たいそう喜んでくれた。仲間の職人達も、お祝いの言葉をかけてくれた。今、抱えている仕事が一段落したら、この工房とも「さよなら」しなくてはいけない。この工房に来て五年間、良い親方や職人仲間とも出会えた。そして、いよいよ新米親方として、自分の工房をこのローマに持つのだ。工房の場所も、既に交渉済み。10区にあるヌム親方の工房と競合しないように、9区に店を開く予定である。
親方が、アンニウスに言った。
「それじゃあ、今日から得意先のお客様に、少しずつ挨拶しとくと良い。今までお世話になったお礼と、それにこれからも世話になるかもしんねえしな。じゃあ、早速、挨拶がてら、この包丁と鍋をケレルの店に届けてくんな!」
「分かりました、親方!」
アンニウスは、丁寧に布で包まれた三口の鍋と五本の包丁を受け取ると、ケレルの店に向かった。

ケレルの店は、10区でも特に人気のある有名な料理店であった。ローマ人の好きな魚料理の店も多い中、ケレルの店は肉料理をメインに提供している。特に「豚肉と季節野菜の炒めもの」や「鶏肉とレンズ豆の煮込み」の味は絶品で、わざわざ丘の上の貴族が家僕を遣わして買いに来るほどである。人々は、それをそれぞれ「ケレル炒め」、「ケレル煮込み」と呼んだ。アンニウスは開業資金を貯めている身であったので、食に贅沢できるほどの余裕がなく、ケレルの店で食事をするのはヌム親方が工房の祝い事などで場を設けてくれた時の5回ほどしかない。
アンニウスは、ケレルの店のドアを開いた。まだ昼前と言う事もあり、客の姿はちらほらと言った感じである。
「ケレルさん、こんにちは。ヌム工房のアンニウスです。鍋と包丁をお届けに上がりました。」
厨房の奥から、この店の店長であり料理長でもあるケレルが顔を出した。
「おお、アンニウス、わざわざ届けに来てくれたのか!」
アンニウスは、注文の品を渡しながらお礼を言い、自分が近々独立開業する旨をケレルに伝えた。ケレルはそれを聴いて、大いに喜んでくれた。
「お前さんも、いよいよ親方デビューか!じゃあ、お祝いにはちと早いかもしれんが、そろそろ昼時だし、昼飯でも御馳走しよう。好きなもんを、何でも注文してくれ!」
「ありがとうございます、ケレルさん。ではお言葉に甘えて、ケレル炒めをお願いいたします。」
「あいよ!」
そう言うと、ケレル料理長自ら調理を始めた。忙しい昼時なので店内には寝台の用意はなく、アンニウスは椅子に座って料理を待つ。しばらくして、良い香りのするバジルやセージなどの香りと共に豚肉と季節野菜の炒めものが運ばれてきた。アンニウスは、それをフォークで一口頬張る。
「美味しいです、ケレルさん!」
「そうか。今日ぐらい、ゆっくりしていきな!」
「工房を開業したら、絶対に職人たちを引き連れて食べにきますよ!」
「おお、よろしくな!」
そう言って、ケレルは厨房に戻っていった。妻ユリアも料理が上手だったが、流石にプロの料理人の味には敵わない。アンニウスは、将来ケレルの料理を家族にも味わってもらおうと心に誓うのであった。
ケレルの料理を堪能した後、アンニウスはお礼を言って店を出た。するとその瞬間だった。
「あっ、危ない!」
との声が、通りに響いた。次の瞬間、アンニウスは宙を舞ったかと思うと、地面に叩きつけられて、二転三転と地面を転がった。アンニウス自身は、いったい何が起こったのか分からなかった。

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