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第一部:第一章 クロディウスの希望

4.アレクサンドロスの授業

クロディウスが、初めてペトゥロニウス大隊長に会ってから三年が経った。
70歳を過ぎたペトゥロニウスは、第7消防大隊隊長の座を後任に譲り、公務から引退した。10歳になったクロディウスは、隠居生活に入ったペトゥロニクスの家を度々訪れていた。ペトゥロニウスは筆頭百人隊長まで務めたので、退役する時に騎士階級(エクィテス)の称号を得ており名実ともに名士となり、邸宅をローマ10区のパラティーノ丘の中腹に建てた。丘の上は閑静な高級住宅街であり、貴族階級の錚々たる元老院議員や金持ちの騎士階級の人々の邸宅で占められている。一方、丘の麓は庶民の家や店で犇めき合い、朝から商店に出入りする人々でごった返していた。その地域は、朝から晩まで煩い事この上ない場所である。ペトゥロニウス邸の場所はちょうどその中間であったが、邸宅自体は、元筆頭百人隊長であり元消防大隊隊長でもある貴族階級に相応しい風情のある建物であった。
クロディウスは、足早にテヴェレ川にかかるパラティーノ橋を渡り、11区に入る。そこまで来れば、10区のペトゥロニウス邸はすぐそこだ。パラティーノの丘を上るほどに周囲は静かになり、人々の喧騒の代わりに鳥の音さえ聴こえるのだった。ペトゥロニウス家の玄関に着くと、クロディウスは煩くならない程度に呼びかけた。
「ペトゥロニウス隊長、いますか?」
彼が、敢えて隊長と呼ぶのは、百人隊長と消防大隊隊長、どちらの意味にも取れるからである。奥の方から、返事が返ってきた。
「クロディウスだな?入りなさい。」
彼は、中に入った。強烈な陽光が降り注ぐローマでも、石造りの建物の中は涼しく、そして麓の喧騒が嘘のように静寂であった。日頃、騒がしさでは満点の14区に住んでいるクロディウスにとって、ここは人里離れた避暑地のような場所にすら感じられる。建物内は左右に部屋があり、中央の通路には小さなプールと中庭があり、小さな中庭は内側に陽の光を呼び込んでいた。更にその奥には応接室のような場所のタプラリウムがあった。そこにペトゥロニウス隊長がおり、奴隷の家僕に向かって何かを語っていた。手紙の口述筆記をしている最中である。
奴隷の名は、アレクサンドロス。年の頃は二十代半ばと言ったところ。奴隷と言っても、ギリシャ出身の学識ある人物で、ペトゥロニウスの会計処理や手紙の代筆までを一手に担う優秀な家僕であった。クロディウスは、色んな知識を教えてくれるアレクサンドロスが大好きだった。口述筆記が終わると、ペトゥロニウスはクロディウスに向き直った。
「待たせたな、クロディウスよ。まあ、座りなさい。父上は元気かな?」
「はい、元気です。隊長様によろしくと言っておりました。父は、いよいよ自分の工房を立ち上げるそうです!」
「おお、そうか。それは素晴らしい!その時は、私の記念の鎧や剣の手入れも頼むとしよう。私がカエサルの軍団で戦った時の話は、もうしたかの?」
おそらく百回以上は聴いている。
「カエサルの軍団では、連絡士官を務めていたのだがな。その時、ガリアのかのベルチンジェトリックスの軍団が・・・」。
この3年間、話す度に話が盛られる度合いが激しくなっていた。最初、十七歳の新兵でカエサルの軍団に仕えたはずだったが、いつしかそれは十人隊長になり、遂に百人隊の連絡士官にまで進んでいた。今の年齢と、どんどん計算が合わなくなっている。しかし、クロディウスはそんな事に一々反論せず、この先どこまで話が盛られ続けるのか、内心面白がって聴いていた。
一通り話し終えると、ペトゥロニウスはアレクサンドロスに命じて、小麦と蜂蜜の焼き菓子を持って来させた。クロディウスは、これがここに来る楽しみの一つである。家では決して口にする事のできない、様々な甘い高級菓子をここでは食べる事ができるのだ。そして、ここでのもう一つの楽しみは、ラテン語やギリシャ語の読み書きや様々な学問を教えてもらえると言う事である。ペトゥロニウスぐらいの肩書きを持つ人物となると、地域貢献も行うことが当然とされており、子弟の教育も例外ではなかった。
「ところで、クロディウスよ。最近、他の子を見かけんが、皆どうしている?」
この質問も、今回が最初ではなかった。おそらく20回以上は繰り返されている。そして、クロディウスも毎回同じように答える。
「全員ではないのですが、友達の多くはユヴェントス(少年団)に入りました。運動でチームワークを学んだり、競って鍛錬をするんです。」
「君は、そこに入らないのか?」
「僕も入っていますが、ユヴェントスの活動は午後からなのです。」
「ほう、そうか・・・。アレクサンドロス!」
ペトゥロニウスは、家僕のアレクサンドロスを呼ぶと、カエサルの著書「ガリア戦記」を持ってこさせ、前回の続きをクロディウスに読み聞かせて教えるように命じて席を立った。家僕のアレクサンドロスは、10歳の子供に対してであっても高飛車で高圧的なところや嫌味なところは一切なく、ゆっくりと理性的に教えてくれるので、クロディウスは彼が大好きだった。
こうして、僅か十歳ながらもクロディウスは、ギリシャ語やラテン語を少しずつ覚え、様々な本に親しむ貴重な機会を得ていたのだった。彼と同世代の子らが、何故に体育競技だけに夢中になり、本を読まないのか、学問を学ばないのかが不思議でならなかった。

アレクサンドロスが今日の分を教え終わると、クロディウスは彼にお礼を言ってお暇した。午後のユヴェントスの活動までまだ時間があるので、一旦家に帰って母のお昼ご飯をいただくつもり。
クロディウスの家がある14区は、テヴェレ川西岸に作られた比較的新しい街区で、テヴェレ川東岸の旧街区に居住できなかった外国人や貧しい人も多く住んでいる。クロディウスは、元々良くなかったこの地区の治安が、更に悪化しているのではないかと、子ども心に感じていた。この3年間で胡散臭い露天商や怪しい占い師の天幕が次第に増えて行き、大通りに所狭しと立ち並ぶようになっていた。
中でもユダヤ人と言われる人々が、増えていた。父のアンニウスの話しによれば、彼らの母国のユダヤ王国は残忍な王が支配していたので、このローマに逃れてくる民が元々多かったのだそうだ。3年前にその残忍な王が死去したにも関わらず、混乱は収まらずに王国は3つの領土に分割され、それぞれ王の3人の子の領地になったらしい。それらの領主は、父王に劣らず残忍な統治を続けたおかげで、ユダヤからローマに流れてくる貧しい人々の数は減らず、この14区の治安は悪化を続けているのだった。ユダヤ人たちは彼ら独自の文化や習慣を曲げず、自分達だけのコミュニティで固まる傾向が強いので、ローマ人は彼らを快く思わず、いつしか嫌悪の対象にすらなっていた。
クロディウスは、この通りを歩くのが嫌いになりつつあった。油断ならず、常に緊張を強いられるから。特にペトゥロニウスの閑静な住宅街から戻って来た時は、尚更そう感じる。彼がこの地区で唯一落ち着くのは、母ベレニケがいる我が家に帰った時である。彼は、大きな声で自宅のドアを開けた。
「ただ今!」
しかし、母ベレニケの返事は無い。家の中は暗く、静まり返っていた。

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