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第一部:第一章 クロディウスの希望
3.父アンニウスの夢
アンニウス・ロングスは、午後の仕事を終えようとするところだった。ローマの鍛冶工房で働き始めて、既に2年が経っていた。工房の親方が、職人達に声をかけた。
「さあ、そろそろ、仕事を終わりにすんべぇか。切りのいいとこでな!女房を家で待たすんでねぇぞ!」
「はい、親方!」
と、職人たちは威勢よく答えた。親方の名は、ヌムと言った。年齢は、五十代後半といったところか。ヌム親方が、仕事を終え道具を片付けているアンニウスの傍らにやって来て、彼の左肩にポンと右手を置く。
「あっ、ヌム親方、何でしょう?」
親方は言った。
「アンニウス、おめえさん、ここに来てどれくらいだ?」
「2年経ちました。そろそろ3年目に入ります。」
「そうか。おめえさんの親父さんには、わしが若い頃、だいぶ世話になってな。親父さんは、南の州では、名の知れた優れた鍛冶職人じゃった。その親父さんの下で鍛えられたおかげで、今、こうしてローマで親方として鍛冶工房を営むこともできておる。」
いったいヌム親方は、自分に何を言わんとしているのだろう?
「はい、その話は父から聞いて、存じ上げております。常々父は、ヌム親方はとても腕の良い鍛冶職人だったと話していました。」
アンニウスがそう言うと、ヌム親方は上機嫌そうに言った。
「おお、そうかえ。でな、わしも恩返しと言う訳でもないんじゃが、おめえさんの腕の良さを見込んで、おめえさんを独立させてやりたいって思っとるんじゃ。どうかな?」
アンニウスは、突然の申し出に驚いた。将来の独立は考えていたが、そんなに早くとは。
「とても嬉しいお言葉ですが、まだここで働き始めて2年ですし…。」
「おめえさん、親父さんの下で既に十年以上の下積み経験があるんだし、腕は間違いねぇ。おめえさんにお客が付くまで、回してやれるぐらいの仕事も十分にあるしな。」
ヌム親方の工房は、ローマ軍団の会計係から直々に仕事を得ている。新規の武具を作るだけでなく、補修の仕事も大量にあった。なんせ何万もの兵士の武具に関わる仕事である。仕事が尽きる心配はなかった。中でも多い依頼が、組み立て式甲冑の補修であった。鎧自体は鉄製なのだが、留め金が青銅製だったため、メンテナンスがたいへんだった。鉄と銅の接続部分が腐食して破損してしまうのである。炊事から橋の建築まで何でもこなす軍団兵でも、流石に甲冑の修理まではできなかった。そんな甲冑の修理もこの工房の仕事だったので、仕事には事欠かなかったのである。
「まあ、すぐにとは言わねえが、考えといてくれ。」
そう言って、親方はアントニウスの方をポンポンと二度叩いて、部屋の奥に去っていった。
夕暮れ時のローマの街路は、荷馬車や人の往来が多くて騒々しかった。騒々しいだけでなく、荷馬車が混雑時に歩行者を轢いてしまうこともあり、危険でもある。そんな通りをアンニウスは注意深く歩きながら、先ほどの親方の言葉を反芻していた。10区にあるヌム親方の工房を出てから14区の我が家に帰る道は、誰にも邪魔されない自分の時間である。彼は、過去の事を思い出していた。
生まれ故郷であるルカーニア・ブルッティウム州の港町で、父は鍛冶工房を営んでいた。工房では、漁師が使う船や漁の道具から、家の鍋までなんでも対応したが、何と言っても実入りが大きいのは軍団からの受注品であった。軍団からの受注品は高精度が求められたが、腕の良い父はそれをこなし、いつしか工房の職人の数も倍に増えていた。その職人の内の一人が、現在のヌム親方である。
アンニウスが29歳の時、彼は意を決して、父のクロディウスに相談した。ちなみにアンニウスの息子のクロディウスは、父の名から取ったのである。
「お父さん、私はローマに行きたいと思っています。」
「ほう、ローマ。何故だね?」
父は怒ることなく、静かに聞き返した。工房の親方は気の短い人も多かったが、父はそうではなかった。
「ローマでは、もっとたくさんの仕事を受注できると聞いています。私も、もう29歳ですし、息子も2人おります。上の子には、ローマの優れたギリシャ式の教育を受けさせたいですし、自分の工房も持ちたいと思います。」
「ここの工房は継がないのか?」
「ここには腕の良い弟のルキウスもいますし、優れた職人もたくさんいます。評判の良いこの工房は、ルキウスに継いでもらったらどうかと思います。ルキウスにしても、私の下で働くよりも気が楽でしょう。ロングス家の看板の工房をここだけでなく、ローマにも出したいのです、お父さん。」
実は、アンニウスにはもっと壮大な夢があった。小さな工房をローマに出すだけでなく、もっと大きな工房にして、工房の生産品をイタリア中や海外でも売って財産を築き、息子のクロディウスはギリシャに留学させて、ロングス家を騎士階級にまで押し上げたいのである。その夢は、父には語らなかった。
父クロディウスは怒るどころか、にっこりと笑った。日頃は、滅多に笑わない人なのに。
「わしの若い頃に似ておるな。わしは、若い頃、自分の店を持ちたくてようやくそれを実現できた。夢を持つのは、若者の特権だ。それを取り上げる権利は、わしにはない。お前は、思い付きでそんな事を言う性格ではない事は分かっている。じっくりと考えた上でのことだろう。ローマに行ってこい。そして、夢を叶えよ。」
アンニウスは、驚いた。父は寡黙なので考えていることは分かりにくい人だったが、こんなにあっさりとアンニウスの要望を受け入れてくれるとは思わなかった。その後、ローマ行きの準備には一年をかけた。父が、ローマで活躍しているヌム親方に連絡も取ってくれ、そこで修行できることになった。そして、今の彼がある。
家に帰ったアンニウスは、早速妻のベレニケに今日の親方の言葉を伝えた。ベレニケの側には、昨年生まれたばかりの三人目の子、娘のドゥルシラがすやすやと寝ていた。ベレニケは、ドゥルシラが起きないように、小声で喜びを伝えた。
「あら、凄いじゃない、たった2年で独立を勧められるなんて!」
「ああ、私も喜んでいるんだよ、ベレニケ。ただ、もう少し独立の資金を蓄えてからの方が良いんじゃないかと思うんだ。親方やお前に、借金で迷惑かける訳にはいかないし、独立資金を貯めるには3年はかかると思うんだ。ヌム親方はそういう事あんまり気にしない方だけど、私はどんぶり勘定は好きじゃないんだ。」
「知っています。あなたがそう判断したのなら、それで良いんじゃない?」
「うん。親方には、明日そう伝えてみるよ。」
しばらくして、次男のカルが、外遊びから帰ってきた。ベレニケが、夕飯の支度を始める。ほどなくして、長男のクロディウスも意気揚々と帰宅してペトゥロニウス大隊長とカエサルの話をまくし立て始めた。弟のカルは、それを愉快そうに聞いている。娘のドゥルシラは、静かに寝ている。その光景を見て、アンニウスの心は満たされた。
アンニウスの前途は、明るかった。仕事は順調、家族は健康。長男のクロディウスには、将来ギリシャのアテネにでも留学させてやれるかもしれない。そして、ロングス家はいつか成功して騎士階級に躍り上がるのだ。
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