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第一部:第一章 クロディウスの希望

1.ヘロデ大王の最期

ユダヤ王国の王、ヘロデ。彼は、エリコの町で病の床に臥せっていた。エルサレムから僅か14ローママイルの距離にあるエリコは、このオリエントでも最古の町の一つである。まさかこのような場所で倒れるとは…年老いた王は、自分の死期がすぐそこまで迫っていることを悟っていた。
自分自身が築き、自分の名を冠した都市ヘロディオンでもなく、インペラトール・ユリウス・カエサル・アウグストゥスの名を冠したカエサリアでもなく、巨費を投じたエルサレムの荘厳な宮殿でもなく、彼の事績とはほとんど関係ないこのエリコで死を迎える事になるとは、人生とは皮肉なものである。虚栄心の塊であるヘロデにとっては、決して納得のいく最期ではなかった。エリコは、かつてヨシュアがイスラエルの放浪の民を率いて、その城壁を崩した城塞都市である。今、その町でヘロデの命が崩れ落ちようとしていた。
ヘロデはこのユダヤ王国を維持するために、否、正確には、自分自身の王権を維持するために、多くの策謀を練り、多くの残虐な行為を繰り返してきた。自己の王権を危険に晒すような輩は、例え愛する妻や我が子であっても次々と命を奪った。彼に反抗的、批判的だと密告された者達は次々と拷問にかけて処刑し、その財産を奪い取った。それらの没収財産は、自己の虚栄心を満たすための都市や劇場や闘技場の建設、また王権を維持するための豪勢な贈り物に浪費されていったのである。
アントニウスが隆盛を誇っていた時にはアントニウスに、カエサルが彼を破った後にはカエサルに、カエサル亡き後はアウグストゥスにと多大な金品を贈り、そして彼らに忠誠を誓う。このように湯水のように金を使いつつ、狡猾に身を処していた。ローマに恭順の意を示し、名声を得るために近隣他国には多額の金を投じる一方で、自国のユダヤ人民に対しては冷酷さを貫き通した。どこかに大金を貢ぐのであれば、別のどこかから富を絞り取らねばならなかったからである。
死の床にあっても、彼の思考の大半を占めていたのは、彼の王権の行方である。彼の王権を脅かす者は、例え実の我が子でも次々と命を奪ってきた。生き残った後継者候補は、完璧とは言い難いが、死後のヘロデの名声を汚すことまではしないだろうと思われた。

ただ一つ、気になることがしつこく頭に浮かんでくる。多くの王権後継者を排除してきたヘロデだったが、その結果が未だに知らされていない王権候補者のことが頭の隅から離れないのだ。
今から、3年前、はて?…それとも4年前であったか?…老齢のため記憶が薄れてはいるが…東方の地から、占星術の学者達がエルサレムの王宮に訪れたことがある。その年には、確か空には一つの星が一際明るく輝いていた。その年は、またローマから全国に人口調査の布告がなされた年だったとも、記憶している。老齢のヘロデには、その学者達の名を思い出すことができない。彼らは、その輝く星を追ってわざわざユダヤの地まで来たのだと言う。学者の一人が言った。
「ユダヤの王としてお生まれになった方は、どちらにおいでですか?」と。
ユダヤの王?お生まれになった?それらの言葉に、ヘロデの心中は穏やかではなかったが、不安のそぶりは彼らに一切見せなかった。ヘロデは、側近の律法学者や祭司長達を集めて、「メシヤはどこに生まれるのか?」と問い尋ねた。
彼らが預言書を調べたところ、「ベツレヘムに指導者が生まれる」と書かれていると言う。そこで、ヘロデは東方の学者達に向かって言った。
「ベツレヘムに行って、その子の事を詳しく調べ、見つかったらぜひ知らせてくれ。わしも、ぜひ行ってその顔を拝みたいのでな。」
学者達は、その言葉を拝受して王宮を去っていった。しかし、その後何週間経っても、学者達からの使者も手紙も、何一つ連絡が無かった。ヘロデは騙されたと知って大いに怒り、兵士らをベツレヘムとその周辺に送り、2歳児以下の男児を皆殺しにした。ヘロデ家の王権を将来奪うかもしれない男児は、その時に死んだのだろうか。生きていれば、3歳か、もしくは4歳か。残された時間を考えれば、ヘロデにそれを知る時間はもはや無かった。それが心残りの一つであった。

もう一つの心残りは、彼の死後に語り伝えられるべき、ヘロデ自身の「栄誉」である。これは、自分で解決できる問題に思えたし、その手も既に打ってあった。ヘロデは、妹のサロメと息子のアルケラオスを病床に呼んだ。彼らは、ヘロデの殺戮から逃れて生き残った数少ない肉親達の中の二人である。彼らの顔を、自分の顔に近づけさせて言った。
「良いか、よく聞け。わしは、このユダヤの地で国民どもに大いに尽くしてやった。飢饉の時には、私財を投げうってエジプトから食料を買い付けてもやった。あのエルサレム神殿を大改修して、立派に立て替えたのも、このわしじゃ!だが、その恩を忘れ、国民共はわしを嫌っておる。それに気が付かないほど、わしは愚かではない!わしが死んだら、奴らは悲しむどころか、大喜びして踊り騒ぐだろう」。
サロメもアルケラオスも、ヘロデの言う事に黙って耳を傾けていた。ヘロデは、続ける。
「今、王国各地からユダヤ人どもを闘技場に集めてあるはずじゃったな?もし、わしが亡くなったら、彼らを一人残らず処刑せよ。全員、皆殺しじゃ!そうすれば、わしの死を喜ぶどころか、この王国は悲しみに包まれ、ヘロデ王の死に際し多くの国民が嘆き悲しんだと、後世まで語り伝えられるじゃろう!お前たちは、今まで私に忠実だった数少ない身内じゃ!必ずこれを実行すると約束してくれ!」
妹のサロメは、ヘロデ王の目をじっと見つめて返答した
「仰せの通り必ず遺言のお言葉は実行いたします、偉大な王よ」。

しばらくの時を経て、大王と称されたヘロデは世を去った。しかし、陰険な謀略家の妹サロメもヘロデの息子のアルケラオスも、流石にその残虐な遺言の実行は躊躇うことなく中止を決め、闘技場に集められたユダヤ人達を殺さず、「王命である」としてそれぞれの故郷に帰るようにと言って、闘技場から全員を解放した。こうしてヘロデ王の最期の遺言は、最も信頼していた身内にすら裏切られて、実行されることはなかった。

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