フライング フェザー

(2006年8月20記載)

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 全長僅か3.0m、全幅1.3m、全高2.0mで、搭載できるエンジンの排気量は360cc以下で、大人4人が乗ることができ、最高速度は100km/h以上…戦後間もない日本において無謀とも思えるこの仕様こそ、1949年に旧通産省が日本の自動車を育成するために公表した、国民車構想の骨子である。これを具体化して開発・発売し、大衆に受け入れられたのがスバル360であるのは、以前このコーナーで見た通り。
 しかしスバル360以前にも、日本では軽4輪車が作られている。今回から、その軽自動車黎明期の元祖達を追ってみたい。

 日本初の4輪軽自動車は、1951年に名古屋の中野自動車工業が完成させた"オートサンダル"である。中野自動車工業は、元々3輪トラック"ヂャイアント号"を製造販売するメーカーだったが、風雨に影響されることなくオートバイ免許で乗れる4輪車と言う事で開発された。この試作車は、三菱メイキ製の248ccエンジンを搭載したFR駆動車。なんと重量物用のリヤカーのタイヤを流用していたそうだ。サンダルを履くように手軽に乗れるようにとの願いを込めて"オートサンダル"と名付けられたそうな。残念ながら僕が見たのは写真だけで、現物は見たことも無いので当然写真も無くここでお見せできませんが、スタイルはちょっと無骨でキュートです…ブリキのおもちゃみたいな…。
 翌1952年には量産車が完成し、本格的な生産が始まった(オートサンダル/ロードスター・ローリー)。搭載されたエンジンは三菱メイキ製の空冷4サイクルの単気筒349ccエンジンで、RR駆動車となった。翌1953年には、フルモデルチェンジをし、エンジンを自社製の238ccの水冷2サイクル2気筒エンジンに変更し、再びFR駆動となった。出力は、10psとなり最高速度も、50km/hから70km/hにアップした。オートサンダルは、この2年間に200台が販売され、生産を終了した。

 日本初の4輪軽自動車は名古屋のオートサンダルだったが、関東地域での初の軽自動車は、1953年に横浜市で日本軽自動車が製作した"NJ号"である。NJ号は、358ccの強制空冷V型2気筒OHVエンジンを積み、RR駆動だった。モノコックボディを採用しているのも特徴だった。これまた僕は写真しか見た事がないのでここではお見せできないが、スタイルはなんと言うか、子どもがペダルでこぐおもちゃのクルマを彷彿とさせる外観だ(笑)。
 1955年には、後継車の"ニッケータロー"が発売となった。駆動方式は、FR方式に変更になった。車種構成は、2人乗りピックアップトラックと3人乗りライトバンがあった。総生産台数は、1956年が169台、1957年が17台。そして生産終了。ニッケイタローが生産中止となった後、この車は日建機械工業によって引き継がれた。ニッケイタローのボディに手を加え、エンジンも改良して、1958年にコンスタックという車(ライトバンとトラック)で発売となったが、成功せず145台が生産されて1961年に生産を終了した。

 フライング・フェザー(石川県・日本自動車博物館にて)

 そして1954年、いよいよフライング・フェザーが登場する。
 フライング・フェザーは、住江製作所によって製作された軽自動車。住江製作所は1943年に東京大森に設立された会社で、日産自動車のダットサン乗用車ボディの外注先(※要は日産系のボディ加装メーカー)だった。フライング・フェザーの開発を語る時に決して忘れてはならないのが、富谷龍一氏の名。
 富谷龍一氏は、戦前、日産のダットサン開発に関わった設計者で、日産社内で孤軍奮闘で孤立気味になり日産を辞める気でいたが、同じく日産の片山豊氏によって住江製作所行きを進められた(※片山氏はやはり日産で孤軍奮闘気味に活躍した人で、ダットサンZを大成功させミスターKと呼ばれ、アメリカ日産の社長になり、本田宗一郎と共にアメリカの自動車殿堂入りを果たした人だ。→片山豊氏についてはここをクリック!)。
 フライング・フェザーは、この富谷龍一と志村実と言う二人の技術力で、軽自動車として製作された。試作車は1948年だったが、完成までには数年の時を要した。6年の試作期間を得て1954年4月に発表されたのが、"フライング・フェザー"である。フェザーは鳥の羽の事であり、フライング・フェザーは鳥(カモメ)の飛翔を意味していると言う。それだけ軽いと言う事だろう。
 エンジンは、自社製の350cc空冷4サイクルのV型2気筒OHVをリヤに積むRR駆動車で、2人乗りのオープンカーだった。エンジンパワーは、12.5ps。全長は、2,767mmとかなりコンパクト(全幅1,296mm×全高1,300mm)。軽量化にこだわり、車重はわずか400kg。
 エンジンパワーの不足や戦後の物不足を補うため、軽量化と省資源化を目指したフライング・フェザーは、抵抗の少ない細い2輪用のタイヤを使用している。サスは4輪独立懸架方式。ブレーキは、リヤのみ(ドラム式ブレーキ)。6年もの開発期間をかけたこともあり、当時としては技術的にかなり進歩的な車だったようだ。スタイルも、上の写真を見ても分かるように、軽快で洒落たデザインだ(今見てもモダンな感じで、現代の技術でうまくこれを再表現できたらけっこう受けるのではないだろうか…)。
 1954年の全日本自動車ショウで市販型モデルが公開され、38万円で販売が開始されたが、経営環境悪化等により1955年で生産停止。市販台数は48台だった。

 フライング・フェザーは、今から50年も昔に、しかも世に僅か48台しか出なかった車だから、当然街中で見た事は一度も無い。しかし、その存在は、車好きの身として以前から知っていた。そして初めて自動車博物館で対面した時、形容しがたい感動に襲われた事を覚えている。フライング・フェザーは、日本の自動車史にしっかりと名を刻む車である事は間違いない。

おまけ
 フライング・フェザーMKⅡ(河口湖自動車博物館にて)
※↑富谷龍一氏により、スバル360のエンジンを用いてセントラル自動車で1960年に作られた、総アルミボディの試作車である。
  2009年4月20日訂正/正しくは「1975年(昭和50年)にアイダエンジニアリングの協力で作られた」です。

2009年4月20日追記:富谷龍一氏のご子息様より、メールをいただきました貴重な情報に大感謝です!!謹んで訂正させていただきます。

Google検索で、父の名「富谷龍一」をキーにして検索してたどり着きました。フライングフェザーの項目はよく調べてあると思いました。でも、家族として訂正をお願いしたい事柄がありました。 記事中、所々「富谷龍一」が「富田龍一」に成ってるのはさておき、最後の「おまけ」画像の説明文です。
フライングフェザーMK.IIが「1960年にセントラル自動車で作られた」と有りますが、正しくは「1975年(昭和50年)にアイダエンジニアリングの協力で作られ た」です。その年の第21回東京モーターショーにて、テーマ館に展示されました。また、この時期のNHK教育の「みんなの科学」という番組で「もう一つのスーパーカー」というタイトルで紹介されました。
その2年後である1977年(昭和52年)、フライングフェザー3世とも言うべき車両 が、総アルミボディの軽量実験車としてセントラル自動車で作られました。MK.II同様に、第22回東京モーターショーに展示されましたが、このときはトヨタ自動車ブースで「軽量実験車」として発表。エンジンはトヨタグループとして、ダイハツフェローMAXのFF用水冷360ccがフロントに搭載していました。(※以下省略)。
○○県××市 TT(※個人の特定できる住所と名前なので割愛)。














参考・引用文献
pen      (TBSブリタニカ)
かわいいクルマで遊びたい (二見書房)
スバル・ホームページ/カー・ヒストリー
日本自動車博物館説明プレート


Pen(ペン) 2002年11/15号 No.95

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