ダットサン・240Z(フェアレディZ)

(2002年10月13日記載)

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 前々回、トヨタ2000GTを取り上げたが、スーパーカー世代としてはダットサン240Z(フェアレディZ)も絶対外せない車。で、今回はZのお話。僕らが子供時代のスーパーカーの教典"サーキットの狼"で、沖田が乗っていたパトカーがこのZだった。スーパーカー全盛の時代、Zは非常にチープな扱いをされたスポーツカーだけれど、それはとんでもない話で国産のスポーツカーを牽引してきた名車なのである。


少年時代撮影したフェアレディZ達


 このZは、日本では"フェアレディZ"と命名されたが、アメリカではダットサン240Zの名で販売された。このダットサンZを語る時、片山豊氏の名前を忘れてはならない。この人は、故・本田宗一郎氏や豊田英二氏らと並んで、アメリカの自動車の殿堂入りをしているのだ(と言っても故人ではなく、現在93歳でピンピンしている)。本田宗一郎や豊田英二なら多くの日本人は知っているが、片山豊氏の名前を知っている人はまずいないだろう。しかし、彼は"Zカーの父"もしくは"ミスターK"としてアメリカでは有名なのだ。この人は日産ではちょっと異端児で…もっとはっきり言うと邪魔者だった人で、日本では煙たがれて1960年にアメリカへ出されてしまった。日産は当時ニューヨークにエリートを派遣していたが、片山氏が活動の舞台に選んだ場所はロサンゼルス。1960年代のアメリカでは日本車など誰も鼻にもかけなかったが、彼はダットサンブランドを認知させることに成功し、どんどん売り上げを伸ばしていく。彼はエンジニアではなかったが車を愛し、またサービスやパーツ供給の重要さなどを早くから見抜いていた。正規軍の東海岸の日産より、ゲリラ部隊の西海岸の日産の方が遥かに売り上げを伸ばしていく。その後、西と東に分かれていた販売網は統合され、アメリカ日産という現地法人が設立された。その社長に就任したのが、片山豊氏であった。彼は、クローズドボディで、アメリカを横断できるくらいパワフルでかつ快適で、日本車のイメージを一新するような車の必要を感じていた。日本の本社と何度も折衝し、エンジニアやデザイナーに、片山氏が求める車のイメージを伝えていった。

初代Z(S30型/日産本社ギャラリーにて)

 そして、1970年についに待望のダットサン240Zが発売となった(日本の発売は1969年)。当時ジャガーやポルシェは1万ドルもしたが、Zは約1/3の価格3,600ドルだった。発表するや否や、6千台もの注文が殺到。Zなど売れるなどと思ってもいなかった日産本社は大慌て、なんせ月産2千台程度しか予定されていなかったのである。サファリ・ラリーの優勝など、レースシーンでもZのポテンシャルの優秀性は証明されていった。こうして、初代Zだけで発売9年間で54万台という脅威の販売記録を作り上げた。その後、アメリカでは自然発生的にZカー・ファンクラブが各地で活動をはじめていく(日本で言うと、例えばミニのクラブやアルファのクラブのようなもの…現在では「全米Zカークラブ」という大きな組織となり、アメリカに60、ヨーロッパに20の支部があり、会員数は6千名を超える)。
 アメリカでいつの間にか"Zカーの父"と呼ばれ、ダットサンの名を全米に知らしめた片山氏であったが、所詮は日産の正規軍ではないゲリラ部隊の異端児…1970年に日本の日産本社へ呼び戻されたが、社長に抜擢されることもなく、役員にすらなれなかった。片山氏は、1977年に日産を退社した。この後、日産は実力主義でない情実人事で社内の反目と不信を生む。かつ豊田のような労使協調路線ではなく労使の対立路線を続ける。そして、なんとアメリカ中に浸透していたダットサンのブランド名を取り止めてしまった…これも裏目に出た。経営トップは車作りの大切な魂を忘れ、結果として販売は伸びず経営は一機に低迷していく。この事は、後でもう一度振り返ろう。

 サファリラリー優勝Z(HS30型/日産本社ギャラリーにて)

 で、この初代S30型Zの性能だが、アメリカでは240Zとして知られるごとく2400ccの直列6気筒エンジンを積み、151psの出力で最高速は200km/hを超えた。一方日本では、2リッターL型エンジンを積む"Z"と"Z-L"、DOHCユニットで160psを発揮する"Z432"でスタートする。その後、240も追加されたり、豪華装備のZ-T型も発売された。

2006年5月7日追記:Z432の名前の由来:Z432と言うネーミングは、4バルブ、3キャブレター、2カムシャフトの4と3と2から取られている。それは事実だが、実はその前段の話しがある。S20型エンジンは、スカイラインGT-Rにも積まれている訳だが、同じエンジンを積む高性能Zのグレード名をどうするか、議題が上がった。スカイラインと同様、GT-Rにするか、Rだけ冠するか。ひとりのスタッフが会議室の部屋番号を思い出す。その会議室が、432号室だった。Z432の名前の由来は、元を辿ると会議室の番号に起因しているのだ。

Z-T型(日産本社ギャラリーにて)"

 大成功の初代の後を受けて1978年に登場したのが、2代目のS130型のZ。これは、初代の超キープコンセプトで、デザインにほとんど変化はなかった。良いものは良いのだから変える必要はない、と言うことであろうか。エンジンは2リッターエンジンに加え2.8リッターエンジンが用意され、1982年にはターボエンジンも追加となった。
 1983年には、3代目のZ31型が登場。2リッターと3リッターのV6ターボエンジンで登場したが、結局直6ターボエンジンも搭載することとなり、1年後2リッターV6エンジンは姿を消す。個人的に言うと、この3台目のZが一番かっこ悪い…と思う。このZが出た時、漠然と「なんか違うんだよなぁ…」と感じたことを覚えている。そのことはGT-Rにも言えて、二代目以降のケンメリGT-Rも鉄仮面GT-Rもどうも釈然としないデザインに感じた、と言うかデザインに一貫性がないように思えた。日産の技術者の立場をフォローするわけではないが、エンジニアやデザイナーがボンクラだったわけではない。良いデザインが出来上がっても、上に回っていく内にお偉いさんが寄ってたかって「ここを直せ」「あそこをこうしろ!」と、どんどんいじってしまう。結果的として、デザイナーが狙ったポイントが微塵も残らない車として発売される。そして販売は振るわず失敗する。あれだけ多くの人が口を出したのに、失敗しても誰も責任を取らない…。車作りで成功して出世する実力主義でなく、人間関係などの情実で出世していく。日産は、どんどん下降線を辿っていった。


 三代目Z(Z31型/日産本社ギャラリーにて)

 1989年に登場した4代目のZ32型は、優れた車だった。パワーのあるV6エンジン(ターボ"有り"と"無し"の2種類があった)を積み、シャシーも最新のもので、操舵系の武装も優れ、デザインも良かった(僕の義兄がかつて真っ赤な4代目Zに乗っていたので、歴代Zの中でとても身近なZだった)。しかし、このZは対ポルシェを意識して作られた最先端スポーツカーだった。これが日産にとって、またまた裏目に出た。ここでも、日産トップは経営を誤った。価格が高額となり、若者には購入が困難なスポーツカーとなってしまったのである。ホンダのNS-Xが登場時に「プアマンズ・フェラーリ」と呼ばれていたのと同様に、240Zも発売当初は「プアマンズ・ポルシェ」と呼ばれていた。高価なポルシェは買えないし、例えポルシェが買えても無茶な運転はもったいなくてできなかったが、Zなら多少の無理な運転もできたしサービスや補充のパーツも安心だったため、アメリカの若者たちはこぞって240Zを買って、自分でいじったり改良しながら乗っていたのだ。しかし、4代目Zはポルシェと同じ土俵で勝負をしようとした。若者たちには買えない高価な車となってしまった。Zが売れなくなったのではない…欲しい人はたくさんいたが、欲しくても買えない車になってしまったのだ。日産本社は、勝手にアメリカではZは売れないと判断してしまった。

 四代目Z(Z32型/日産本社ギャラリーにて)

 「Zは北米では売らない」…これが日産本社の決断だった。一方のアメリカでは、「Zを送ってくれ」と言う要望が依然として強かった。日産の悲劇は、本当に車の好きな経営者がいなかったせいかもしれない。エンジニアや社員の中には車好き人間も大勢いただろう。しかし、会社を引っ張るのはリーダーたる経営者である。経営者が物作りのなんたるかを分かっていなければ、良い物が作れるわけがないのである…儲けるために車を作るのではなく、良い車を作ったから結果として儲かるのである。日産は、どんどん下降していった。しかし、そんなどん底にあっても"ZのDNA"を引き継ぎ、"Zの魂"の灯を保ち続けた男たちが日産社内にはいたのである。新型Zのプロトタイプが、秘密裏に作られていた。

 IMSAシリーズ参戦Z(日産本社ギャラリーにて)

 今年2002年、新環境基準に適合するスポーツカー用エンジンの開発が間に合わない、もしくはコスト面で採算が取れないため、各社はスポーツカー生産から一時撤退してしまった。日産のGT-R、シルビア、トヨタのスープラ、マツダのRX-7などのスポーツカーが、ラインナップから姿を消した(まあ開発を終えたら、すぐ戻ってくるだろうけど…)。そんな中、この夏、日産は五代目Zを登場させたのである。

 五代目Z(日産本社ギャラリーにて)

 後方から見た五代目Z(日産本社前にて)


 日産の異端児だった片山豊氏と240Zは、日産のタブーとされ社史からもその存在を消されていた。片山氏は、日米のZファン達に囲まれながら、彼らと交流を保って素晴らしい余生を送っている。全米のファンの後押しもあって、自動車殿堂入りもした。90歳を超えて、今だ現役ドライバーでもある。その片山氏が、1999年9月にカルロス・ゴーン氏と会った。ゴーン氏は、なんとZという車を非常に認めていた。彼はアメリカのミシュランにいた時代、なんと3年間もZに乗っていたのだった。だからZのことを、とてもよく知っていた。そして2002年に、新型Zを発売することとなった。

 ロードスタータイプのZ(日産本社ギャラリーにて)

 ゴーン氏は日産の財務の建て直しを図った後、いよいよ本業である車づくりで勝負を挑んできた。新型車は、すべてゴーン氏が最終決定を下した(つまり失敗したら責任を取るのもゴーン氏である…トップの責任を明確化したのだ)。新型Zは、新生日産のフラッグシップカーであった。DOHC・V型6気筒エンジンは280psの出力を発揮し、足回り関係もそれに相応しいものになっている。しかしなんと言っても、デザインである。複雑な曲線をスッキリとまとめ、一つの塊として存在感を出している。240ZのデザインはどことなくジャガーEタイプを感じさせるデザインだったが、新型Zはポルシェを思わせる曲線美で、後方からのラインは240Zの面影を残している。価格の設定も、微妙なラインに設定してある。これほどのスポーツカーにして、価格を300万円ほどに抑えたのは立派である。500万円だったら、5年ローンにしても月10万円の支払いになる。若者には、ちっょと買えない。しかし300万円なら、若者たちが夢を持ってなんとかがんばって買える価格設定だ。

 GTレース仕様Z(日産本社ギャラリーにて)

 確かに日産は、変化・改革の途上にある。トヨタに置いてけぼりにされ、ホンダにも抜かれてしまったが、これからの日産はがんばれるのではないか…そんなことを予感させる"新型Z"だ。私は、この新型Zは売れると思う。なぜなら「物作りの魂を思い起こした車」、「新時代への意志を持った車」、デザインと性能にそれが如実に現れているからだ。Zカーの父、ミスターKこと片山豊氏は、ZのDNAを継いだ新型Zの発売をとても喜んでいるという。


追記:2005年7月、スポコン仕様のZロードスターを見ました。




追記:2006年1月、日産銀座ギャラリーにてZ432を見ました。




追記:2006年7月、近所で新型Zロードスターを見ました。




追記:2009年8月、お台場ヒストリーガレージにて、再び240Zのサファリラリー優勝車を見ました。




追記:2011年6月、僕の通うスポーツジムの駐車場で、Zの2by2を見ました。この色もオバフォンもホイールも最高!オーナーさん、めっちゃセンスが良いなぁ。




追記:2017年7月15日、サイクリングで、栃木県の魔法陣スーパーカーミュージアムに行き、240ZGを見ました。




追記:2019年3月30日、ランニング中に、Zの2×2を見ました。





 マイ・コレクションより"240Z"

 マイ・コレクションより"Z432"

 マイ・コレクションより"トミカ復刻版Z432"

 マイ・コレクションより"五代目Z"

 マイ・コレクションより"自走式五代目Z"

 うちの子のプルバック三代目Z

 うちの子のプルバック四代目Zパトカー


参考・引用文献
Zカー  片山 豊・財部誠一 著   (光文社新書)
カー・コレクション          (デルプラド・ジャパン)
国産名車コレクション/フェアレディZ (アシェット・コレクション・ジャパン)
日産本社ギャラリー 展示プレート