ホンダSシリーズ(S500~S2000)

(2006年3月12日記載)

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 ホンダのS500、S600、そしてS800。その名前の響きは、いかに多くの車好きの心を魅了し、カーマニアの心に刻まれた事だろうか。今見ても、そのエクステリアデザインは美しい。今回はこの世界の名車、ライトウェイトスポーツカー"ホンダS"の系譜を辿っていこう。

 ホンダS500(栃木県・ホンダミュージアムにて)

 さて、ホンダの名車"S"を語るのだから、せっかくなのでホンダの歴史にも軽く触れておきたい。ホンダを語るには、当然本田宗一郎を抜きには語れない。色んな雑誌に様々な逸話が乗っているし、車好きなら各種伝説を知っている人も多いと思うので、今さら僕が書くまでも無いとは思いつつも、簡潔にまとめてみた。
 本田宗一郎氏(以下、宗一郎と略す)は、1906年、静岡にて生まれる(と言うことは、今年は偶然にも宗一郎"生誕百年記念"と言う事ですね~)。二俣尋常高等小学校を卒業後、東京本郷の自動車修理工場"アート商会"に入社。この頃、宗一郎はレース活動をしている。アメリカ車オークランドの車体に、カーチス航空機用エンジンを載せた車を製作し、同乗メカニックとして日本で始まったばかりのレースに挑戦している。
 1928年、22歳で独立し浜松でアート商会浜松支店を設立する(※所謂"のれん分け"である)。レース活動も続けており、1936年、30歳の時には4気筒のフォードエンジンに"自作の"スーパーチャージャーを装着したマシンで、レースに参戦(※このレースで、宗一郎は事故にあって大ケガをする)。1936年の全日本スピードラリー大会で優勝を飾る。
 自動車修理業として成功した宗一郎だが、メーカーを志して、エンジンやピストンの研究を始める。しかし残念ながら失敗が続き、1938年から浜松高等工業で2年間基礎知識を学ぶ。
 実は、アート商会の後、東海精機重工業と言う会社を作り、ピストンリングも製造している。このピストンリングは業界で認められたが、宗一郎は突然経営から手を引く(※東海精機重工業の大株主がトヨタであり、トヨタの部品メーカーになるよう迫ったとも言われる。この会社は、現在"東海精機"と名を変えて存続している。取引先は豊田織機やヤマハ)。宗一郎は、トヨタに自分の持ち株を売却し、自分の腹心10名を連れて東海精機から離れた。

 1946年、宗一郎は個人で本田技術研究所を創業する。技術研究所と言うネーミングは、エンジニアでありメカニックであった宗一郎らしいネーミングである。自転車に小型エンジンを載せた、通称"バタバタ"を発売。旧陸軍の無線機用発電機のエンジンを自転車に取り付けたものだが、戦後の物不足の中、ガソリンタンクに湯たんぽを代用して開発を進めた話は、つとに有名で伝説となっている。そして、1948年に本田技研工業(株)に改組し、1949年にオートバイ"ドリーム号"を発売した。以後、ベンリイ号、スーパーカブ号等を次々と開発・販売し、二輪車では世界のトップメーカーに成長していく。
 ホンダは、世界的なレースに出て優秀な成績を収めない事には、世界のシェアを獲得できないと考えていた。そう言う切羽詰った思いで、1961年にマン島TTレースをはじめとする世界の二輪レースに参加する。そして、圧倒的な力を発揮し、その年のメーカー・チャンピオンを獲得する。この時点で「二輪を制覇した後は、次にF1へ行く」と言うのは、ホンダ内では暗黙の了解だったと言う(しかし宗一郎は1961年にモンツァGPで初観戦するまで、F1を見た事もなかったと言う…笑)。ちなみにホンダの二輪は、1966年に国際二輪レースで五種目を完全制覇した。

 世界の頂点を極めたRA272F(栃木県・ホンダミュージアムにて)

 ホンダF1の初参戦は、1964年8月2日のドイツGP。横置きの1495ccV型12気筒エンジン(220ps/1,2000rpm)のRA271だった。そして、遂に翌1965年10月、メキシコグランプリにおいて、アメリカ人ドライバー、リッチー・ギンサーの駆るホンダのF1マシン"RA272F"が初優勝を飾った。F1参戦2年目にしての快挙であった。その後の1980年代の、マクラーレン・ホンダの快進撃や英雄アイルトン・セナの快挙は、まだ皆さんの記憶に鮮明な事と思う。

 マクラーレン・ホンダF1(栃木県・ホンダミュージアムにて)

 宗一郎は、1973年に社長を退き、最高顧問に就任する。その後、お礼行脚の旅に出るが、旅先で次のようなエピソードがある。従業員が、宗一郎と握手しようとしたら、その手が油で汚れていたので手を引っ込めた。すると、宗一郎は「いいんだよ。その油まみれの手がいいんだ。俺は、油の匂いが大好きなんだよ」と言って、従業員の手を強く握りしめたと言う。宗一郎はいつまでも技術屋であり、ホンダを築き上げた人々からは"オヤジ"と親しみをこめて呼ばれた。

 彼は、社長を退いてからは、現場に口出しをせず静かにホンダを見守っていたようだ。宗一郎は、ホンダを同属企業とはせず、彼の子息の本田博俊氏はホンダには入らなかった。博俊氏は、やはり血は争えないと言うか、1973年に自ら"無限"と言う会社を立ち上げた(無限はホンダの子会社ではない。ホンダが無限に資本参加するのは1993年の事だ)。自由闊達と言うホンダのカラーを考えると、宗一郎にとって封建的な同属企業と言うスタイルはなじまない。車とバイクをこよなく愛する最高の技術屋にして、本物の企業人であった。
 そして、本田宗一郎は1989年に日本人として初めて米国自動車殿堂に入った。1991年死去。享年84歳。


 さて、ここからいよいよホンダSの系譜を辿っていこう…話しは、再び過去へと遡りまする…。

 本田宗一郎が夢と希望を胸に創設したホンダは、高性能を武器に2輪界で大成功を収めた。そして、1962年1月遂に4輪市場への参入を表明した。だが後発メーカーの不幸と言うべきか、自動車業界が共倒れになるのを恐れて新規参入を渋った通産省の厚い壁が立ちはだかる。その苦悶の中から生まれたのが、競合のほとんどない2シーターのオープンスポーツカーの開発だった。
 本田宗一郎が、開発に小型のスポーツカーを躊躇なく選択した理由には、もう一つ宗一郎氏のスポーツカー好きと言う背景があった。特にロータスが好きで、当時数台しか輸入されていなかったロータス・エリートをプライベートで購入している。ロータスを生み出したコーリン・チャップマンの独創性とカリスマ性にも傾倒していたと言う(→ロータス社とコーリン・チャップマンについては、ここをクリック!)。

 ホンダの4輪開発は、1958年9月に現在の埼玉県和光市のテクニカル・センターで開始された。大メーカーとの競合を避けるため、最初に挑んだのは軽自動車の開発だった。最初の試作車はFF形式で、当時のエンジンの主流から外れた高性能な360cc水冷V型4気筒OHCエンジンを採用した。しかし、これは短期間の走行テストだけで中断された。
 このような状況下、本田宗一郎の推すスポーツカー構想が試作2号車の基本となっていった。1959年12月に、試作車のゴーサインが出された。今度は、FF車ではなくスポーツカーのセオリー通りにFR形式になった。エンジンもV型エンジンではなく、水平対向エンジンに換えられた。小型車ではあるが、後に"走る精密機械"と表現されるほどに素晴らしいスポーツカーに結実していく。
 ホンダSが初めて一般に公開されたのは、1962年の第9回全日本自動車ショーにおいて。この時展示されたのが、ホンダ・スポーツ360とスポーツ500だった(まだ、Sとは呼ばれていなかった)。結局360は市販されず、500のみが市販されることとなる(360の方はトラックのT360に結実する)。
 なぜ、スポーツ360は市販されなかったのか。なんと他のメーカーから、猛烈な反対が巻き起こったのである。ライバルメーカーの多くが、同じ軽規格に収まるスポーツ360の高性能に恐れをなし、「あんな高性能車が売りに出されたのでは、他の軽自動車が売れなくなる」との言い分だった。滅茶苦茶な論理だが、戦後間もない自動車業界復興期での話なので(まだまだ足腰の弱い自動車産業を守るためには)こう言った理屈がまかり通ったのかもしれない。いずれにせよ、そのくらいスポーツ360のインパクトは大きかった。

 そして、ホンダS500は翌年1963年10月にデビュー。ホンダ初の市販乗用車である
(※注1参照)。531ccの水冷4サイクル4気筒DOHCエンジンを積み、8,000回転で44psを発生した。驚くべき事に、精巧なDOHCエンジンが搭載され、2輪グランプリ界の王者ホンダのパワーテクノロジーを見せつけた。

注1:厳密に言えば、ホンダ初の市販4輪車は軽トラックのT360である。ホンダは車の販売網を持っていなかったので、オートバイ店でも扱え、しかもライバル社の少ないトラックが第一弾に設定されたのである。後発メーカー、ホンダの苦肉の策である。しかし、このT360もすごかった。ブルーバード1000が34psだった時代に、360ccエンジンで30psを発揮していたのだった。さすがホンダ・テクノロジー。

 バイクメーカーとして出発したメーカーらしく、S500はチェーン駆動を採用していた(※チェーン駆動採用は、宗一郎氏の方針・決断である…しかし実は、チェーン駆動はデメリットの方が大きかったとも言われる)。エンジンのパワーは現在の基準では決して高出力ではないが、725kgと言う軽量ボディにより最高速度は130km/hに達した。リアには、トレーリングアームサスペンションを採用していた。
 全長は、わずかに3,300mm。現在の軽規格より短いと言う、コンパクトなボディサイズ。全幅は1,430mm、全高は1,200m。車重は、675kg。このスポーツカーで、ホンダは自動車メーカーに参入したのである。価格は、予想を遥かに下回る45.9万円で発売され(※当時の大卒初任給は2万5千円ほどである)、1963年に生産台数は136台、1964年には1,363台に達した。

 ホンダS500(石川県・日本自動車博物館にて)

 S500のデビューの翌年3月、S500をベースに、エンジンをスケールアップし、性能、装備とも発展させて、海外への輸出も考慮したモデルが発表された。これが、ホンダS600である。606ccのエンジン出力は、8,500回転で57psを発揮し、最高速度は145km/hに達した。サイズは、S500とほぼ同じ(※全幅は30mm短くなっている)。車重は695kg。
 エンジンだけでなく、フロントグリルやバンパーのデザインも変更された。インテリアでは、ステッキタイプのパーキングブレーキが、ハンドレバー式に変わり、内張りもビニールレザーになった。価格は、50万9,000円だった。1964年以降ののタイプは、ヘッドライトのガラスカバーを取り去り、フロントサスペンションも改良された。
 このS600は、サーキットでも大活躍した。なんと海外のラリーでも優勝を果たしている。レースシーンについて言えば、浮谷東次郎の駆るトヨタスポーツ800と生沢徹の駆るホンダS600のレース・バトルの名勝負は有名だ。浮谷東次郎のS600に関わる面白い逸話があるので、一つ紹介しておこう。
 日本のカーレースの黎明期に、彗星の如く現れた浮谷東次郎。彼は、21歳でトヨタと契約。しかし、プライベートの愛車はホンダS800。それが許される牧歌的な時代だった。出来たばかりの鈴鹿サーキットで練習を重ねる東次郎は、林ミノル氏(※現童夢社長)と運命的な出会いをする。S600を改造してレースに参戦したいと考える林氏に、東次郎は自分のS600を好きに改造しろと、愛車をあっさりと提供。
 出来上がったマシンが、通称"カラス"と呼ばれた真っ黒な改造車。製作期間は、わずか一ヶ月だった。東次郎は、出来上がったマシンを、わざわざ本田宗一郎の家まで持っていき自慢気に披露したと言う。で、この"カラス"S600は、1965年の第二回クラブマンレースに初登場した。周囲からは、あまりのボロさに失笑を持って迎えられたと言う。しかし、レースが始まるとあれよあれよと言う間に1位になり、失笑は、喚声と拍手に変わった。S600のカラス伝説が生まれた瞬間だった。

 ホンダS600(栃木県・ホンダミュージアムにて)

 
ホンダS600(石川県・日本自動車博物館にて)

 翌1965年2月には、S600のクーペタイプも登場した。オープンの爽快感も捨てがたいが、クーペのエクステリアもなかなか良く、今見ても美しいと思うデザイン。デラックス使用のSM600もラインナップされた。
 S600は1万3,084台も生産され、1966年夏に生産中止となった。

 少年時代撮影したホンダS600クーペ(地元市内にて)

 ホンダS600クーペ(栃木県・ホンダミュージアムにて)


 1966年1月には、より大きなパワーを望んだユーザーのためにS800が発売された。排気量は791ccで出力は70ps(8,000rpm)になり、最高速度は遂に160km/hに達し、ホンダ初の100マイルカーとなった。サイズは、S600よりも全長が僅か35mmだけ長い3,335mm。車体重量の方は720kg。
 デザインも変更され、ホンダマークを埋め込みブラックアウトしたグリルを採用し、ボンネットにはパワーバルジが設けられている。リヤコンビネーションランプは、丸型から横長デザインに改められた。価格は65万8千円で、初代のS500より15万円ほど高い価格となっている。ラジオやヒーターを標準装備したデラックスタイプ、SM600もラインナップされた。
 このモデルチェンジの際に、グリルやボンネットの形状も変更された。トヨタS800の"ヨタハチ"に対し、ホンダS800は"エスハチ"と呼ばれた(※S600も同様にエスロクと呼ばれた)。S800も当初は、S500やS600と同様にチェーン駆動方式だったが、同年5月にはシャフト駆動化された。チェーン駆動は、最大のマーケットのアメリカでは車としての市民権が得られず、輸出されなかったのである。シャフトドライブになったホンダのSは普通のスポーツカーとなり、いくつかの変更も行われ、アメリカへも輸出された。

 ホンダS800(福島県磐梯山近辺にて)

 ホンダS800(栃木県・ホンダミュージアムにて)

 ホンダS800(お台場・ヒストリーガレージにて)

 上記の幌を閉じた状態(ヒストリーガレージにて)


 クーペタイプは、オープンタイプと同じく1966年1月に登場した。
 S800は、ホンダミュージック(※高回転で回る独特のエンジン音の事)を奏で、多くのカーマニアを魅了した。軽快でかん高いエキゾーストサウンドこそ、エスハチの大きな魅力だった。
 1968年には、ラジアルタイヤを装着し、ディスクブレーキを装備し、安全対策が強化されたS800が登場した。これが、旧Sシリーズの最後のマイナーチェンジで、S800も1970年5月に終焉を迎える。S800の総生産台数は、1万1,406台だった。Sシリーズ全体では、約2万5,200台が生産された。その内、約70%が輸出された車両である。
 その後、ホンダはコストも技術も存分にかけられたスポーツカー生産を封印し、軽自動車やファミリーカーを作る巨大自動車メーカーへの進出を試みることとなる。

 少年時代撮影したホンダS800クーペ(地元市内にて)

※下の写真のS800は、1968年の鈴鹿12時間自動車レースに出場したレース仕様車。GT-Iクラスで優勝しただけでなく、3,000CCクラスの車とも競い合って総合でも3位入賞を果たした。ホンダの技術力の高さを、世間に証明した。

 S800のレース仕様車

 ホンダS800が生産中止になって、30年近い歳月が経った1999年の4月、ホンダのSが帰ってきた。ホンダのS2000である。満を持して投入した、ホンダ久々のFRスポーツだ。その力の入れ具合は半端ではなく、すべてに渡って専用開発の新設計。前後50対50の理想的な重量配分を実現するため、エンジンはフロントミッドシップに搭載される。
 まずエンジンが半端ではない。直列4気筒DOHCの2リッターエンジンは、自然吸気ながら250ps(8,300rpm)の出力を発生する。タイプVは、速度によっとギア比を変えるバリアブルステアリングを採用する。
 同様にフレームは、専用開発のハイバックボーン式フレームを採用し、クーペと同等の高いボディ剛性を備えた。これにハードなセッティングのサスペンションを組み合わせる。乗り心地は、相当にハード。

 S2000(中央区銀座近辺にて)

 後方から見たS2000(秋葉原にて)


 次にインテリア。幅広いセンターコンソールを採用し、キャビンは走りに必要な操作系以外は極力排除し、印象は極めてシンプル。2003年10月のマイナーチェンジにより、センターコンソールやオーディオリッド等のデザインが変わった。同マイナーチェンジで、タイヤは17インチ化された。
 シートは、もちろんバケットタイプ。表皮は、ファブリックタイプとレザータイプが選択できる。着座位置はかなり低く、一方フロントウィンドウの回り込みも大きいので、オープンモデルながらあまり開放感は無い。シートの背面部分には小物入れが用意され、下段はキーでロックできる。シート後方には、風の巻き込みを抑えるウィンドディフレクターも装備されている。ロールバーはシートと同色のパッドが巻かれる。リアウィンドウはガラスを採用し、熱線ディフォガーも装着されて後方視界を確保。

 ホンダS2000(ツインリンク・オフィシャルカー)

 S2000のサイズは、旧Sシリーズと比較するとかなり大きくなり、全長4,135mm(全幅1,750mm×全高1,285mm)となった。重量は、最新のスポーツカーとしてはそれなりに抑えられていて1,250kg。
 エンジンパワーは決して高出力ではなかったが、コンパクトかつ軽量なボディで軽快に走れた"旧S"シリーズを知る人にとっては、サイズ、パワーともに、かなり違和感のある"新S"に感じるかもしれない。
 専用開発と言う事で367万5千円の高価格(Vタイプは388万5千円)となり、価格の面でも比較的安価だった旧Sシリーズとは大きく変わった。同じSの名を冠していても、そのコンセプトやイメージはまったく違う。

 S2000ハードトップ装着車(千代田区市ヶ谷近辺にて)

 S2000は、マツダのロードスターのように気軽にワインディング・ロードで軽快な走行を楽しめる車ではなく、サーキットのようなシチュエーションでの本格的なスポーツ走行に照準を絞ったスポーツカーなので、誰にでも気軽に乗れるスポーツカーではない。乗り手を選ぶ。S2000は存在目的がピンポイントなので、日常の買い物などの生活もS2000で間に合わせたいのならちょっと辛いかもしれない。一般の人には、決してお奨めできる車ではないことは確か。お金と駐車スペースにゆとりのある、休日や趣味用のセカンド・カーとしての役割がふさわしい車だと思う。
 正直、個人的な好みで言えば、ホンダS500からS800までコンセプトと同様、ファン・トゥ・ドライブな車にS2000を仕立ててほしかったなぁ…とも思う(僕は、そんなにドラテクに自信がないので!)。今後、ホンダのSシリーズに、そう言うコンパクトかつ小排気量のタイプも加えて欲しいと思います。よろしくホンダ様。














 マイコレクションより"ホンダRA272"

 マイコレクションより"ホンダS600クーペ"

 マイコレクションより"ホンダS800"

マイコレクションより"ホンダS800"

マイコレクションより"ホンダS800・レース仕様車"

 マイコレクションより"チョロQ・ホンダS800"

 マイコレクションより"ホンダS800とS2000"

 マイコレクションより"S2000"

 マイコレクションより"S2000"

 マイコレクションより"ミッキーとS2000"


参考・引用文献
俺の考え                  本田 宗一郎 著 (新潮文庫)
ホンダS800         (レーシングカー・コレクション/デルプラド)
ホンダS2000のすべてが分かるスーパーカタログ    (内外出版)
S500・S600・S800復刻版カタログ     (※上記本の中に記載)
昭和の名車                          (JTB・MOOK)
国産名車コレクション/本田宗一郎(アシェット・コレクション・ジャパン)
国産名車コレクション/ホンダS800(アシェット・コレクション・ジャパン)
ホンダホームページ
ホンダミュージアム・説明プレート
日本自動車博物館・説明プレート
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