クリスチャンのための仏教講座

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2.釈迦の生涯・後編

釈迦、説法を開始する

 シッダッタは、川辺の菩提樹の樹陰で、長年思索に思索を重ねて追求してきた真理を得た。"無処有所"の思想を飛び越え、一切を無と感ずることによって、心の安静を得て、"輪廻"の濁流を越え、欲望も苦悩も死滅させることができた。「万物はすべて無常である。欲望も恐怖も苦悩も、すべて無我によって死滅する」。 シッダッタの得た"さとり"は、閃きによって得たもので、言葉では言い尽くせない体験であった。後の人は、このシッダッタの正覚を"成道"と言い、四諦八正道(したいはっしょうどう)とか十二因縁(いんねん)と分析したりする。
 現在我々が耳にする"涅槃(ねはん)"と言う言葉は(漢訳の文字自体には何の意味も無く)、ニルヴァーナのことで、心の平安や安静心を意味する。同じく"般若(はんにゃ)"にも文字自体には意味が無く、プラジニューのことで、"無分別智"と言う哲学的体験の表現である。常識的な分別智(大小、善悪、美醜等)は相対的なもので、絶対的なものではない。常識的分別差というのは、本来存在しない。つまり物を認識する場合は、本来のありのままの分別されない実体において(分別しない意識で)把握しなければならない。よって、分別智によって認識された善と悪も生も死も、すべて無分別智では否定され、その実体性も否定される。多くの人の迷いや悩みは、常にこの分別智から生まれてくる。無分別智(プラジニュー)は、悟りへの知恵である。現代の"般若心経"は、この無分別智を説いており、多くの仏教宗派がこの般若心経を尊重している(般若心経の概略訳はここをクリック)。

 無分別智の完成者、真理を自覚したゴータマ・ブッダ(※ここからシッダッタをブッダの表記に変更させていただく)は、アジャパーラーの樹の陰に坐し瞑想していたが、その姿は寛いだ姿で、思索の苦しみから解放された楽しみを味わっているような風情だった。その前を通りかかったバラモンが、ゴータマ・ブッダの姿を見て、はっと立ち止まった。ブッダが、苦行を怠けているのだと思ったのである。ブッダはバラモンを諭し、最後に言った。「真のバラモンはこの世にある何物についても高慢な態度は示さない。人が、バラモンと呼ぶかどうかは、当人の徳性の如何によるもので、生まれがどの階級からであろうと関係はない」。バラモンは恥じ入って、ブッダを合掌礼拝して立ち去った。
 翌日、二人の旅の商人がブッダを訪ねてきた。この二人は、ブッダとブッダの教えに帰依すると述べ、在俗信者として認めてくれるよう頼み、ブッダは大衆教化と精神救済に向かう決心をした。そればかりでなく、ブッダがウルヴェーラーに行くと、以前ブッダを誘惑して堕落させようとした女人達が、ブッダの法に帰依すると誓った。ブッダは、この女人たちは初めての女人の信者だった。

 ゴータマ・ブッダは、真理を把握するためにたいへんな苦行と思索を重ねたが、それを大衆に説くのは簡単なことではなかった。ブッダは、まず仙人と仰いだアーラーラ・カーラーマ仙人を訪ねるつもりだったが、彼も彼の子も既に亡くなっていたので、以前苦行を共にした5人の仲間に会うことにした。彼らはヴァーナラシーの近くにいたが、ブッダがそこに着く前に、アージーヴィカ教徒のウバカと逢った。この宗派は生活派と呼ばれ、バラモン教・ジャイナ教と並ぶ三大宗派であった。ウバカはブッダとの会話の後、去っていった。その後、川を渡る為に船渡場へ行ったが、ブッダは金銭を持っていなかった。そこで、激しい濁流を静めることを条件に、船に乗船した。ブッダが瞑目して激流鎮静を祈ると、激しい流れは穏やかになったと言う。こうして、ブッダは5人の苦行者のいるサルナートの美しい森の鹿野苑(ろくやおん)に歩を進めた。五人の修行者は、苦行から脱落したブッダを無視することと決めた。しかし、ブッダには威厳が備わったせいか、彼らは自然とブッダをもてなし、会話を始めた。しかし、ブッダの教えに即座には承服しなかった。それほど単純な真理ではなかったからだ。
 ブッダは、"五種の欲望"について述べた。一つ目は、視覚を通して情をそそる色象。二つ目は、聴覚に訴えて情をそそる声。三つ目は、嗅覚を刺戟して情をそそる香り。四つ目は、味覚を通じて情をそそる味。五つ目は、触覚による感触で、情をそそられ触れようとする欲望。・・・の五つである。いかなる修行者でも、これらを喜び享受するものは、災いを招き、悪魔の意のままにされてしまうことを知らねばならない。
 修行者がこれらの欲望から離れ、悪業から遠ざかり、悪魔に見られなくなった時、"初禅(しょぜん)"を成就した者と言われる。更に思索を静め、心を安静にし、心身を統一して、粗雑な思考を無くし精神統一ができるようになった時、"第二禅"が成就したとされる。更に、喜悦に染まず、はっきり意識しながら、身をもって安楽を享受できることを、"第三禅"の成就とみる。更に、修行者が楽を断ち、喜びや憂いを滅し、不苦不落で、無念夢想の"清浄行(せいじょうぎょう)"に達するのを"第四禅"の成就とみる。そして、物質的な形の観念をすべて超越し、物として対立する観念が消滅し、"虚空(こくう)"は無辺であると観ぜられた時、"虚空無辺処"を成就する。この虚空無辺処をまったく超越し、"識"は無辺であると知り、"識無辺"を超越して、この世に何物も存在しないと言う"無処有処(むしょうしょ)"を成就し、"無所有処"を超越した時、この智恵によって"煩悩(ぼんのう)"は滅ぼされ、修行は完成する。修行完成により、迷妄執着の濁流を越え、自由に安心して生き、安心して歩み、安心して坐臥(ざが)するのである。
 ブッダの体得した真理は、五人の修行者にも伝達された。論理的認証と思索によって他の修行者へ伝達可能であったことは、ブッダの教えを広める上での飛躍であった(こうした理由で、後代の人々はブッダガヤー(※ナイランジャー川の菩提樹の下)だけでなく、この鹿野苑も重要な仏跡とした)。このサルナートでのブッダの最初の説法を、"初転法輪(しょてんほうりん)"と言う。

 ヴァーナラシー(※ベナレス)に、ヤサと言う富豪の青年がいた。ヤサは、ブッダのもとを訪れて教えを乞うた。己の青春時代と似た生活を送っているヤサに、ブッダは鹿野苑で修行するように勧める。ヤサがいなくなったので、家族は彼を探したが、ブッダは彼を林泉の奥にかくまった。しかし、遂に彼がブッダのもとにいることが分かったので、ブッダは父に人間の"四苦"や、解脱するための無常無我の教えを説いた。こうして、ヤサの父も(家族も)ブッダの教えに帰依した。こうして、ヤサはブッダの7番目の弟子となった。ヤサは幅広い交友関係を持っていたので、友人50人もヤサ同様に出家した。ブッダは、ヴァーナラシーに教えが根付いたのを見て、ヤサと五人の聖者にそこを任せて、自らはウルヴェーラーへ行った。
 ウルヴェーラーの森で安坐していると、妻を同伴した三十組の一団が森に遊びに来た。そのうちの一人が妻がいないので、売春婦を連れてきていたが、その女性が男の財布を盗んで逃げた。大勢が、この売春婦を追った。彼らがゴータマ・ブッダに逢うと、逃げた女の行く先を尋ねた。するとブッダは、物への執着心が、中間達を危険にさらしていることを男に説く。男と仲間達はブッダの言葉により目を開かれ、ブッダの教えに聞き、信奉者となった。この女に逃げられた男は、ブッダを自分の馬車に乗せウルヴェーラーに行った。男の村には、高い呪力を持ち洞窟に火竜を養うバラモンのウルヴェーラー・カッサパがいて、彼の魔力を恐れる村の五百人もカッサパの意のままだということだった。そこでブッダは、カッサパに会うことにした。男性はブッダに、カッサパの周りには狂信者が常に二十人もいると心配するが、ブッダは「一切を空と感ずる私に、死への恐怖は無い」ことを男に説明する。
 ブッダは、教えられた通り、カッサパのいる洞窟へ向かった。洞窟の中では、三十人近い信者が火を拝んで呪文を唱えていた。ブッダはカッサパの了承を得て、洞窟へ泊まった。ブッダは、洞窟の聖火台を守る大毒蛇(※コブラ)に襲われそうになったが、首を簡単に押さえつけ毒を岩に流してから、蛇の胴体を引きずりながら洞窟を出てきた。驚くカッサパを尻目に、ブッダは毒蛇を深い谷底の川に投げ捨てた。こうしてカッサパとその修行者は、ブッダの足もとにひざまづいた。ブッダは、洞窟でインドラ(※帝釈天)に真理を説いたと言うが、カッサパは疑っていた・・・"訓練を積めば蛇などたやすく扱える"と。その思いを知ったブッダは、人間の四苦(老・病・衰・死)からは毒蛇での恐怖では解放できないことから初め、彼の教えを説いた。三日間に渡り、カッサパと弟子はブッダの教えを聞いた。こうして、カッサパは自ら髪を切り、髭を剃り、黄衣を着て、拝火教の祭具を川に捨てた。
 カッサパの弟のナディ・カッサパとガヤ・カッサパが、五百人余りの信者を連れて、ウルヴェーラーのもとに来たが、最終的にこの兄弟もブッダの信者となった。カッサパ兄弟の弟子は千人もいたので、ブッダの教えを信ずる大教団となった。ブッダは、拝火教の霊場ガヤーシーサ山に千人の修行者を連れて行き、拝火教の教義の誤りを正した。ブッダは、しばらくガヤーシーサ山に留まった。千人がブッダの教理を正しく把握するには、それなりの時間が必要だったからである。
 その後、ブッダは千人近くの弟子と山を下り、マカダ国の王都ラージャグリハ(王舎城)へ行き、国王のピンビサーラを訪ねた。ピンビサーラはブッダが"正覚者(しょうがくしゃ)"として、千人もの門弟をひきいる身となったのを喜び、千人の集団を収容できる竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を城外に寄付した。ブッダは、マカダ国12万人の国民を教化するために布教に努めた。
 国の人々には、カッサパがブッダの弟子となったことは信じがたかった。そこで、ブッダはラージャグリハの人々を竹林精舎に集め、カッサパと問答を行なった。これを見た市民は、カッサパがブッダのもとで修行をしていることを知り、ブッダの教えを聞きに来るようになった。こうして、マカダ国ではブッダの教えが尊法されるようになった。ピンビサーラ王も、国内の村長を集めて、ブッダの教えを聞くように命令した。
 ラジャーグリハには、250名の仲間を引き連れる懐疑派のサンジャヤと言うバラモンが住んでいたが、サーリブッダとモッガラーナの二人も彼に従って修行していた。この二人はブッダに会い彼の説く真理にひかれるが、ブッダは二人に「師と250人の仲間と相談」してくるように説き、一旦帰す。懐疑派サンジャヤの教徒は、心理の存在を信じずすべてを疑う(否定もしないが、肯定もしない)。この懐疑派の判断中止の思想は、深い思索による叡智によって無を認識するブッダの思想を妨げるものだったから、正覚を得ようとする修行の妨げになると考え、二人をサンジャヤの元へ戻し、教団の者たちと話し合いをすることをすすめたのである。二人は、サンジャヤに、ゴータマ・ブッダの思想について話し論じ合った結果、サンジャヤは理論に破れ血を吐いて死んだ。こうして、サンジャヤの弟子250人もすべて竹林精舎に来て、ブッダの弟子となった。サンジャヤの弟子までもがブッダの弟子となったので、マカダ国の人々は竹林精舎に畏怖感を抱いた。国中の全員が出家したら、誰も仕事に従事するものがいなくなってしまう。しかし、ブッダは、竹林精舎の修行者は元々出家したものたちばかりだったから心配いらないと告げ、町の人々の畏怖を解消させた。
 
さて、コーサラ国の大富豪アナータ・ピンダダが、商用でマカダ国に来ていた。彼は慈悲深い人で、貧しい人々を救済したり、未開の土地を解放して農村を作ったりと、慈善事業も行なっていた。彼は、シャーカ族の王子が新しい真理を自覚して、その教義を広めていることを知り、興味を持って長旅を続けてきた。彼は、竹林精舎のブッダを訪ね、サマデー(坐禅での心の統一)の"功徳(くどく)と縁起(えんぎ)の理法"を教えられる(この世の存在する一切のものが、相互依存し相互関連していることの教え)。ピンダダもブッダの信者となり、コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に精舎を建設するから、そこへ来てくれるようにブッダに頼んだ。
 ブッダの約束を取り付けたピンダダは、帰国後すぐに精舎の場所探しを始めた。良い場所が見つかったが、ところがそこはコーサラ国王子ジェーダの遊猟地だった。ピンダダは、王子にその土地を譲ってくれるように頼んだが、王子はコーサラ国の小国シャーカ族の太子が何万人もの信者を持つ教祖になっているのが、気に食わなかったので土地を譲らないと断った。ピンダダは、熱心に粘り強く王子を説得し、また王子も軍備の為の黄金が必要だったから、結局土地を手放すこととした。ここに立派な宿泊施設もある施設が建設され、"祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)"と名づけられた。ブッダは、マカダ国をサーリブッダやモッガラー等に任せて、コーサラのシュラーヴァスティーに移る事とした。その途上、ブッダは五人の弟子を連れ、故郷のカピラヴァスツを訪れた。太子のシダッタが、尊敬を受けるブッダとなって帰ってきたと言う事で、カピラヴァスツの町は熱狂的な歓迎で迎えようとしていた。路傍に座っている老人と出会ったが、それはかつての馬丁のチャンナだった。王宮への路上、歩きながら二人は積もり積もる話しを続けた。王も、王妃(※ブッダの叔母)も、弟のアーナンダも、ヤショーダラーも、ラーラフ王子も、みな元気とのことだった。ブッダの父シュットダナ王は待ちきれず、輿に乗って城外に出てブッダを迎えた。王宮に着くと、ヤショーダラーがブッダにしがみついて泣いた。ラーフラ王子は、孫娘を引き合わせた。
 ブッダは、父に「業とは、人間本来の本能行為であり、この業から離れなければ、人間は浄治できない」こと、「人生における五欲の楽しみは危険である」こと、「苦の止滅への道を修めるなら、餓鬼道や畜生道へ生れ変わる恐怖も取り除かれる」こと等を説く。シュットダナ王は、息子ブッダの教えを聞き、恩愛の情から離れ、楽を捨てて道のために努力することを誓う。そして、ラーフラ王子を副王に命じ、林泉の離宮へ移り、禅寂の修行を始めた。
 町の人々は公会堂を建て、ブッダの教えを乞うた。異母弟のアーナンダも出家の決意を、ブッダに告げる。

釈迦の死

 ゴータマ・ブッダは、祗園精舎(正確にはジェーダの園林・・・ジェーダ王子の別荘地だったので)に着いた。ブッダは王城に出向いて布教することを告げる。翌日、コーサラ国のパセーナディ国王自らが、祗園精舎を訪れた。王は、大国を治める心労をブッダに語った。コーサラは大国なので、強大な王権に対する陰の権力闘争が激しいのだった。ブッダは王権に執着せず、生活から享楽を追放し、四苦を克服し、心に安静を得るように勧める。王は、ブッダの戒めを守ると約束し、帰っていった。
 コーサラの王には多くの王妃がいたが、その中のカッティヤ妃にはヴィドゥーダ王子がいた。彼は勇猛だったので、将軍達軍部からの強い指示があった。このヴィドゥーダ王子は、少年の頃、彼の母カッティヤを奴隷の子だと言って、シャーカ族の人たちがその身分をさげすみ冷遇したので、強い怨みと敵意を抱いていた。当然、シャーカ族のゴータマ・ブッダにも好感は持っていなかった。父王やジェーダ王子が、ブッダに帰依しているのを苦々しく思い、もっぱら軍隊の強化に努めていた。

 ある日、カピラヴァスツ王宮から、ブッダの従兄弟バッデーヤやバグ兄弟、アヌルーダ、ディバダッタ、異母弟アーナンダと貴族のキンピラの6人が、理髪師のウバーリを連れて、祗園精舎のブッダのもとにやって来て出家を願い出た。彼らは王位継承権のあるものだったが、王の病状が重くなり、王亡き後の権力闘争を避ける為ガンダーラ付近まで行軍し、そこで軍隊を解散し、ここへ来たのだと言う(この時点で、父王シュットダナは死亡していた)。ブッダは、バラモンの階級を認めず平等主義を守っていたので、身分の低い職人のウバーリから出家させた。ディバダッタは、ウバーリよりも後に(実際は一番最後に)出家させられ、内心不愉快に思っていた。それから間もなく、義母のマハー・パジャーパティが精舎を訪れ、出家を願い出た。女人に関しては在俗信者は認めていたが、ブッダは彼女の切なる願いに出家を許した。女の修行者はビクニ(比丘尼)と呼ばれた(男はビク(比丘)と呼ばれた)。

 ブッダが七十歳になった頃、パセーナディ国王が精舎を訪れた。王は、相変わらず国事の心労でいっぱいだった。特に、王位継承には頭を悩ませていた。ジェーダ王子は温厚だが、軍部の信頼がまったくない。一方、ヴィドゥーダバ王子は軍部の信頼はあるが、無慈悲で残虐的な男である。どちらの王子を王に据えても問題があった。ブッダと王は、日が傾く頃までブッダと話を続けた。ところがそんな折、カーラーヤナ将軍が反旗を翻し、ヴィドゥーダバ王子の下に兵を連れ去った。パセーナディ王はたいへん怒り、ヴィドゥーダバ王子を懲らしめるために、マカダ国に援軍を求めるためラージャグリハ城へ向かった。しかし、マカダ国の王に会う前に、パセーナディ王は熱風にやられて亡くなってしまった。マカダ国のアジャータサット王は、亡きコーサラ国王のため盛大な葬儀を行なった。
 一方、王となったヴィドゥーダバは、かねてからの怨恨を晴らすため、カピラヴァスツを襲撃しシャーカ族を全部殺す気であった。ジェーダ王子によってその陰謀を知らされたブッダは、彼らの行軍の途上で待ち受け、ヴィドゥーダバを説得した。ヴィドゥーダバは、ブッダの教えは信じていないが、彼の勢力の大きさは知っていた。彼らの部隊の兵士の中にも、ブッダの信者達がいたからだ。そこで、ブッダには危害を加えずに兵を引き上げた。こんな事が計三回もあったが、執念深いヴィドゥーダバは、四回目に遂にカピラヴァスツに攻め込み、手当たり次第に殺戮し、全滅させた。この大虐殺を聞いたブッダは、瞑目した。ブッダは、三回に渡ってシャーカ族に警告し、同時に三度ヴィドゥーダバ王の進軍を阻止したが、シャーカ族の多くの人は土地や財産に対する欲望を捨てきれず移住しなかった。ブッダの警告に従って他国へ移居したものは無事だったから、殺された人々は、前世からの宿業であったかもしれないと、アーナンダは慰めるように言った。ブッダは、瞑想を続けるだけだった。

 ブッダの教えは次第に広がっていった。バラモン達は、ブッダの布教を妨げる画策を始めた。ある時は、チャチャ・マーナヴィカーと言う女行者(娼婦でもあった)を祗園精舎へ送った。ブッダが、淫欲を殺生に次ぐ罪としているため、彼女が妊娠していることにしようとした。彼女は、祗園精舎に泊まったように着衣の乱れを直しながら出てきて、一ヶ月経った頃、ゴータマ尊者の子を宿ったとふれ歩いた。九ヶ月目に、ブッダの説法の座に来て、信者の前でわめき立てた。ブッダが静かに諭すが、マーナヴィカーは一歩もひかない。すると、いきりたった彼女の衣装の下のふくれたお腹から、丸く膨らんだ布切れと板ががたんと落ちた。信者達はどっと笑いくずれ、彼女は精舎の外に放り出された。
 バラモン達は懲りず、今度はスンダリーという女行者を遍歴行者が犯した上で殺し、死体を祗園精舎のゴミ箱に投げ込んだ。信者を装ったシュラマナがその死体を見つけ、シュラーヴァスティーの刑吏に訴え出た。町中は大騒ぎになったが、刑吏が死体を調べると、ジャイナ教の教文を身に付け、右手に握り締めていた布にバラモン遍歴行者の名が記されてあり、犯人が特定された。こうしてバラモンの陰謀が曝露され、反対にブッダへの信頼が高まった。
 ブッダは、自分が祗園精舎に長く滞在しているからこんな事件が起こると考え、アーナンダ一人を連れて旅に出た。ジェーダ王子とピンダダがいるから精舎は維持していけると考え、ディバダッタを監督に残した。

 二人は、南方の都市ヴァンサのコーサンビーに向かった。商業都市で、ヴァーナラシー(ベナレス)に近かった。コーサンビーのウデーナ王も王妃も、半月あまりのうちにブッダの教えを信奉するようになった。ヴァンサ国では、諸種の宗教を追放し、ブッダの教えの南部の伝道の中心地となった。
 コーサンビーを出立したブッダとアーナンダは、鹿野苑(サルナート)を通り、ヴァッジ国のヴェサリーの町に近づいた。すると、大勢の泣き声が聞こえてきた。盗賊五百人が、処刑されるところだった。ブッダはアーナンダを王宮に遣わし、王の赦しを得てアーナンダは盗賊をブッダに帰依させた。ブッダは、盗賊に四つの真理を説き、戒めを与え、弟子に加えた。盗賊を教化したブッダは、ヴェサリー王宮へ行って、五百名の命を救った事について礼を言った。
 その後、二人はマカダ国のラージャグリハ(王舎城)へ行った。新王アジャータサット王は、ヴァッジ族征服のため軍備を強化していた。ブッダは王宮へ寄らず、鷲の峰に向かった。マカダの王はブッダの意見を聞くため、大臣のヴァッサカーラを鷲の峰に派遣した。ブッダは、かつてヴァッジの民にも法を授けていた。彼らは、ブッダと約束した七つの条目も守っていた。そこで、大臣に「ヴァッジ族は争い無く、平和に豊かに暮し、外敵の襲来については強い団結力を持っているから、これを攻めても損害が多く出る」ことを伝える。大臣はその通り王に伝えたので、アジャータサット王は軍事行動を断念した。
 アーナンダ達は食料を得るために、毎日鷲の峰を下りて托鉢していた。この時、一人の少女マトウがアーナンダに一目ぼれをした。母と娘は、アーナンダに娘の気持ち、アーナンダの妻になりたいと言う事を伝えた。母と娘は、自宅の寝室にアーナンダを閉じ込め、なんとか誘惑しようと思い巡らした。二人の修行者がアーナンダを救い出し、山へ戻ったアーナンダはブッダに相談する。ブッダに、そんな事に心を動かされず、乞食行(こつじきぎょう)を続けよ、と諭される。しかし、マトウの思いは動かなかった。そこで、ブッダがマトウを諭すこととなった。マトウもブッダの慈愛のこもった言葉を受け入れ、愛欲の迷妄から覚めた。こうしてマトウは、アーナンダの妻マトウビクニとなった。

 ゴータマブッダは、八十歳になっていた。余命少しと感じたブッダは、鷲の峰を下りて旅に出ることにした。祗園精舎であのディバダッタが、ブッダの教えに異論を立て、修行する人々を説き伏せて、新しい教団を作ろうとしていたので、ブッダは分裂を防ぐため、シュラーヴァスティーに出向く事にした。今回の旅も、アーナンダとマトウビクニ、他お供を申し出た極少数の旅だった。まずラージャグリハに行き、王の後援に感謝し、この旅が最後になるであろうと言う別離の挨拶をした。この後、ナイランジャーのマンゴー樹園へ行って三日ほど休息した。
 その後、彼らは渡し船の船着き場の村パータリ(※現パトナ市)に行き、そこでもブッダは教えを述べた。それから川を渡ってヴァッジ国コーテーに上陸し、しばらく滞在してから、ナーディカ村へ行った。ヴァッジ国はブッダの教えを忠実に守る信者が多く、この上陸地はゴータマ渡しと名づけ、長らく聖地として守った。ここでも教えを述べたが、雨季が近づいてきたので、ブッダ達はヴェサリーへ行った。
 ヴェサリーでは、ブッダの教えに帰依していた娼婦のアンパバリーが出迎え、自分のマンゴー林へ案内した。そして翌朝の朝餐会に、一行を招待した。翌朝早く起きたブッダは、アーナンダを初めビク、ビクニを連れて、アンパバリーの屋敷に行く。彼女の心尽くしの朝食を食べ、食後ゆっくりと彼女と語り合い、彼女を励まし諭した。
 まもなく雨季になった。ブッダはアーナンダと共に、竹林の小屋で雨を避けることにした。四ヶ月に渡る雨季の間に、ゴータマ・ブッダは病気になった。日夜、激痛に苦しめられた。アーナンダは、ブッダの死期が近いのを悟り、最後の説法を願った。ブッダは、ブッダが死んでも、真理の教えとしての法と、実践の決まりとしての律を基準としていれば、それが師の代わりになることを伝える。死に際して、その心のあり方を詩句の形で伝えた。

わたしは齢が熟した。
わが余命はいくばくもない。
汝らをすててわたしは行く。
わたしは自己に帰依する。
修行者達よ。
汝らは精励して清浄心を持ち、
よく戒めを保つようにつとめよ。
思惟によって、良く心を統一し、
おのれの心を守れ。
法と律とに精励するものは、
生の流転をはなれて、苦しみも終わるであろう。

 ブッダは、痛みをこらえてヴァディー村に着いた。金属細工師のチェンダのマンゴー林に泊まった。チェンダは、心をこめてブッダをもてなした。ブッダは、スーカラ・マツダヴァ(※茸料理の一種と考えられている)を食膳に供したが、この料理に毒茸が紛れ込んでいた。ブッダは、猛烈な下痢で苦しんだ。ブッダは、無理をおしてクシナガラへ行くと主張した。クシナガラの町の外れまで来て、ヒマニヤヴァティー川の側の、沙羅(サーラ)の樹陰に入った。ブッダは少し休んでから、また歩き出しカクッター川まで来て沐浴した。その後また歩いたが、マンゴーの林を見つけ、疲れきったブッダは横臥(おうが)した。ブッダは、チェンダが自分の料理でブッダが苦しんでいるので心を痛めているのを知っていて、後に誰かがチェンダを責める事がないように、アーナンダを呼んで言った。「わたしには忘れがたい供養があり、一つはさとりを開いた直後の食物と、チェンダの供養を受けた食物だ。それは、最高の功徳であると、チェンダに伝え」るように言う。アーナンダからブッダの言葉を聞いたチェンダは、地に額をおしつけて泣いた。少し疲れが取れたブッダは、再び歩き出した。
 クシナガラに着いたブッダは、アーナンダに言って、二本並んでいる沙羅の下に寝床を作らせた。ブッダは、頭を北にし右脇を下にして横臥した。アーナンダは、ブッダの背を支えるように後ろにいたが泣いていた。異母弟であり、愛弟子であるアーナンダに、ブッダは悲しまぬよう、そして礼を述べた。
 沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で修行僧が病臥している噂が広がり、マツラ族の人々が集まってきた。クシナガラに、スパッダと言う遍歴行者がブッダに教えを請いにやってきた。アーナンダは、ブッダが疲弊しきっているので、その願いを三度こばんだ。すると、ブッダ自身がアーナンダを呼び、スパッダを呼び寄せた。ブッダは、スパッダの問いに「自らの叡智によって真理を得、自ら磨き上げた叡智によって、自得した心理が正覚(しょうがく)であるかを思索する。それ以外に正覚を得る道は存在しない」ことを説く。スパッダは、地に額をつけてブッダを礼拝した。こうしてスパッダは、ブッダの最後の弟子となった。
 夜は更け、ブッダは静かに呼吸を止めた。沙羅の花弁がはらはらと、尊者の遺骸の上に散り落ちた。こうして、ゴータマ・ブッタは、衆苦を断ち、煩悩の業火を消し、不生不滅の法性を認証して、万苦を解脱して、涅槃(ねはん/ニルヴァーナ)の世界に行ったとされる。これは、(諸説あるが)紀元前383年の乾季のある深夜のことだったと言われる(後に釈尊涅槃の日は2月15日と定められ、日本の仏教寺院では、この日に涅槃会(ねはんえ)を修するようになった)。

 以上、これが釈迦の一生として伝えられる物語の概略である。

★本章のポイント整理

・釈迦は真理を得て、無処有所の思想を飛び越え、輪廻の濁流を越え、欲望も苦悩も克服したとされる。
・釈迦は、自分の得た真理を他の人々にも説き始め、多くの人が彼の教えを受け入れる。
・沙羅双樹の下で、釈迦はその生涯を終えて、涅槃の世界に行ったとされる。

(2005年 4月10日記載)

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