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馬の縁から友禅染絵画そしてアートと数学へのさすらい-プロローグ
成嶋弘著/東海大学名誉教授会   (2020年11月17日記載)



今日、「馬の縁から友禅染絵画そしてアートと数学へのさすらい-プロローグ」と言う本(※小冊子)を読みました。この小論を書かれたのは、東海大学理学部の数学者の先生。友禅染作家の紅林愛子さんが、小論の研究対象。
「数学とアートと何の関りが?」と思われるかもしれませんが、僕もこれは以前から考えていました。(それについては、後述します)。
執筆者の先生は乗馬をされているということですが、友禅染作家の紅林愛子さんも子どもの頃からの馬好きで乗馬をされている。それだけでなく、馬場馬術の県大会で受賞され全日本の大会にも出場されていると言う、混じりけ無しの本物の馬好き。
馬好きの数学者が描き出す、馬好きの友禅染作家の姿。
特に友禅染と言うのは、その制作課程において、一度のミスも許されない繊細さと緻密さが要求される。どこか一つでも失敗すれば、作品は台無しになり、作品は成立しないと言う長期間に渡る集中が必要な技法である。
「文系」や所謂「右脳」の領域と思われているアートの分野であるが、紅林さんは物理の成績がトップでもあったことから「左脳」感覚も鋭いのではと、先生は書かれている。
この小論にも書かれている通り、科学でも美術でも「観て、感じ、捉え、考え、現す」と言う課程は、同じなのである。 絵を作り出すイマジネーション(想像)力と、緻密な計算によって成り立つ繊細な職人芸的な力、この二つの力の融合で、紅林さんの友禅染の作品は成立していると考えることができるのでは・・・と僕も思ったりする。

以前読んだとある本で、このような事が書かれていた。「優れた数学者は、自然に溢れた田舎で育った人たちが多い」と言う記述である。コンクリートジャングルの教室で、一生懸命、数学の勉強をしている青年よりも、大自然の中で幼少時代を過ごした青年の方が数学的な閃きがあるようなのである。
まだ推測の域を出ないが、自然の中で暮らす事は人知を超えた驚異の中で暮らす事である。それは、まだ人自身の気がつかないことへ誘う空間と時間である。定められた空間、時間通りに来る電車、便利な電気製品、細かい規則生活・・・そのような都会生活では得られない、体と脳への刺激が考えられると僕は思う。
大自然溢れるインドが、ゼロの概念を生み出し、優れた数学者やコンピュータ世界の天才を世に送り出しているのは、決して偶然ではないと思う。

写真と言うものが発明されて以来、リアルは絵画に求められなくなっていった。今や写真に対峙するもの、それを超える感動をもたらすものとして、スーパーリアリズムと言うアートの分野が成熟していったが、ある時期から多くのアーティストはリアルとは違う方向の模索を始めた。
印象しか残らないと言う皮肉を込めて呼ばれた「印象派」、同じく揶揄を込めて呼ばれた「野獣派」などは、その先駆けとなった。ラスコーやアルタミラの壁画の時代、人々は見た光景を素直に写し取る才能を発揮した。今、人々は、見た情景を、自分の頭の中に取り込み、分解し、自分なりに咀嚼し、自分なりに組み立てる・・・そう言う現代アートへと昇華している。
アートは振り子のように、時代の中で「リアリズムの世界」と「脳内で構築した世界」の狭間を行ったり来たりしているようにも感じらるし、リアリズムの世界を独自の世界観で再構築しているようにも感じられる。
哲学者が100人いれば、100の哲学があると言われるように、100人のアーティストがいれば、100のアートがあると思うのである。ただし、多くの哲学に「価値があるか?」と問われれば疑問が残ると同じく、アートにもそれが言えると思っている。

今、都会で幼少時代を過ごし、都会で学び、都会で活動するアーティストが、圧倒的に増えていると思う。
そのような中、稀有な数学者がそうであるように、素晴らしいアートを生み出せるアーティストは、大自然の中で育った者達から出て来る可能性が高いのではと思ったりする。
毎日10時間以上もパソコンの前に座ってCGを作っている私は、特にそう思えて仕方ないのである。インターネットの仮想空間から得られる僅かな情報量と、五感をフルに使って本物の自然を「体感」する情報量は圧倒的に違うのである。
ああ、山の麓やきれいな小川が流れる田舎で仕事したい。今は、綾瀬川と松並木で我慢します!(笑)

この小冊子を読み終わって、そんなことを徒然に考えました。
もう、かれこれ1時間も徒然に書いているので、ここいら辺りで終わりにします。

このページの最初の写真は、「冊子」と本日ゲットした「馬の絵のミラー」です。