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第二十七章 ペンタゴン

 アメリカ合衆国国防総省、通称名ペンタゴン。キングスレー少尉は、ここへ来るのは初めてだった。顔の火傷の痕は、治療の後でもはっきりと残っていた。痛みはなくなったが、皮膚が突っ張って顔の表情が出しにくい。笑顔を作るには、リハビリが必要なようだ。
 彼の後ろには、ロイ一等兵とホワイト博士が従っていた。入り口で受付を済ますと、彼ら三名は奥へ進んだ。案内係に付き添われてしばらく歩き、ある部屋の前で立ち止まった。案内係がドアを開けると、彼らは部屋の中に入った。入り口のデスクに座った秘書が彼らの名前と写真を確認した後、奥の部屋へ通された。奥の部屋では、オーク製の立派な机の向こうに、硬い表情をした一人の男が座っていた。
「ジョシュア・キングスレー少尉、ロバート・ロイ一等兵、カレン・ホワイト博士。ようこそ、ペンタゴンへ。」
男は六十代前半ぐらいの歳で、胸にはいくつもの勲章がかけられていた。キングスレーは、階級証から彼が少将であることを知った。明らかに彼等に会う為に、軍の正装をしてきたようである。彼は三人に向かって、用意された椅子に座るように合図した。彼らは、指示に従って座った。
「私は、ヘンリー・リチャードソン。あの島で行われていた研究の、統括責任者の中の一人だ。所長のデビッドとは、古くからの友人だった。今回の事件で彼が亡くなったことは、残念でならない。あれから一ヶ月も経った訳だが、諸君らの体調はどうかね?」
キングスレーは、丁重に応えた。
「私達三名は問題ありません、閣下。ローランド二等兵は、現在も治療中ですが意識ははっきりしていて、次第に良くなっています。そろそろリハビリに入れるでしょう。ビンセント博士は肋骨の骨折などで全治二ヶ月ですが、すでに病院内を歩き回っています。」
ヘンリー少将は、それを聞いて先を続けた。
「それは良かった。さて、フィリピンのあの島のその後の顛末が君らの耳に入っているかどうかは分からないが、一応説明しておこう。事件の二日後に、偽装した海兵隊二小隊が島に上陸して、十人の遺体を回収した。余談だがね、彼らが死亡した理由を考え出すのはたいへんだったよ。兵士の死亡は、訓練中の死亡と言う事で遺族に説明した。問題は、研究スタッフ達の死亡だ。理由の辻褄合わせに苦労したよ・・・なんせ、悲惨な遺体破損状況だったからな・・・。色々と理由を考えて遺族に説明したが、未だ納得していない遺族もいる。軍は、訴訟の乱発を抑え込むのに必死だよ。」
彼は、一息ついた。
「まあ、それは別の問題だ。本題に入ろう。その時に、バラバラになった二体のタッツェルベルムの遺体も回収した。しかし、もう一体の遺体は発見できなかった。周囲の島にも、それらしき遺体は打ち上げられていない。それから二週間後、お隣りの国マレーシアのサンダカン付近の村で、家畜の豚が野生動物に襲われる事件が発生。それから現在に至るまで、連続五件の家畜殺害が起こっている。目撃は、たった一件だけ。その目撃談から描き出された容姿は、明らかにタッツェルベルムそのものだ。歯型も、我々のデータと一致した。しかし地元の新聞はその目撃談を一笑に臥して、猫科の野生動物を犯人として報道している。ただし、わが国のゴシップ専門のタブロイド紙の中には、それを面白可笑しく書きたてているものもある。ホワイト博士、これをどう考えるべきかな?」
ホワイトは、答えた。
「タッツェルベルム達は、特定のアミノ酸を作り出せません。そのアミノ酸は、自然界に存在しないもので、我々が与えなければ彼らは死にます。少なくとも、遺伝子でそう設計されたと聞いています。」
ヘンリーは、続けて尋ねた。
「私も、そう聞いていた。だから、逃げ出しても安全だとね。では、何故彼は今も生きているのかね?」
ホワイトは、慎重に言葉を選んだ。
「それは無くなったシュルツ博士の専門ですので、私の専門外ですが、私の考えで良ければ述べさせていただきます。」
「どうぞ。」と、少将は促した。
「彼らは、設計図通りの遺伝子では、一匹残らず死ぬはずでした。何か致命的な問題があったのでしょう…設計は、失敗していたのです。しかし、彼らには生き残るべく、無作為に"遺伝子を改変する能力"がありました・・・これは、シュルツ博士も計算外でした。多くの個体は、改変の方向が間違っていて死滅しましたが、偶然に僅かな個体の改変だけが環境に適合し、生き残ることができました。もしかしたら、その際にアミノ酸に関する遺伝情報も書き換えられた可能性はあると思います。」
ホワイトの考えに、ヘンリーは頷いた。
「我々もそう考えている。そうすると、もう一つ問題が出てくる。彼等の繁殖能力に関する問題だ。彼らは、特定のアミノ酸が無いと繁殖できないと聞いていた。そのアミノ酸がないと、繁殖を促すホルモンを分泌できない、とね。しかし、特定アミノ酸関連の遺伝子が改変されたとすると、彼等の繁殖もまた可能になるのではないかね?彼らは、無性生殖なんだろ?単為生殖と言うのだったかな?いずれにせよ、彼らは繁殖してしまう可能性があるのでは?」
「それについては、私には判断できません。」

 ヘンリー少将は、立派な総革張りの椅子の背にもたれかかった。次に、彼はキングスレーの方に顔を向けた。
「我々陸軍としては、この問題を放っておくわけにはいかない。マレーシア国内で、家畜だけでなく、人にも被害が及べば騒ぎはますます大きくなる。生き残りのタッツェルベルムは非常に用心深い奴で、今はなかなか人目には触れられていないが、それも時間の問題だろう。奴が見つかる前に、秘密裏に処理しなければならない。そこで、キングスレー少尉。君に特別部隊の指揮を取ってもらいたい。奴と戦った経験があるのは、君だけだ。彼等の機能や戦い方を、誰よりも知っている。彼らを狩り出して、始末してもらいたい。今度は、高度に訓練された特殊部隊の兵士達を付けよう。」
キングスレーは、すぐさま答えた。死んだ部下達の仇は、必ず彼が取る。
「了解しました、閣下。一つお願いがありますが、言ってもよろしいでしょうか?」
「言ってみたまえ。」と、ヘンリー。
「このロイ一等兵も、部隊に加えてください。それと、ローランド二等兵もリハビリが終わったら、私の部隊に戻していただけませんか。奴らと実際に戦った経験は、絶対役に立ちます。」
ヘンリーは、頷いた。
「良いだろ。それから、キングスレー少尉。君は特別部隊編成時に、大尉に昇格だ。ロイ一等兵、君は曹長に昇格。ローランド二等兵も、部隊復帰時には伍長を努めてもらう。いいな?」
キングスレーとロイは、一礼した。
「ありがとうございます、閣下。」

 その後、ヘンリー少将は再びホワイトの方に向き直った。
「さて、ホワイト博士。問題はもう一つある。分かっていることと思うが、ブラウン博士が軍事機密としてチーフ達に依頼した、別のタッツェルベルムの件だ。君たちは、我々が別の個体の発注をしたと思っているらしいが、その個体の遺伝子設計も組み替えも培養も、我々は一切デビッドにも、ブラウン博士には依頼していない。もちろん、我々はその個体を受け取ってもいない。つまり、それはブラウンの独自の行動と言う事だ。」
ホワイトが、驚いた表情を見せた。
「では、その個体はどこに送られたのですか、閣下?」
ヘンリーが答えた。
「我々は、即座に調査を開始した。ブラウンは、ダバオから航空便で"蟹"を本国の自分の家に送っている。ペンシルバニアのヨーク市だ。蟹に偽装して、冷凍便で送ったのだな。こんな重大な国家機密の輸送を民間の安っぽい宅配便に任せるとは、ブラウン博士も随分と思い切った事をしたものだ。早速、調査スタッフをヨーク市に派遣したが、一足遅かった。タッツェルベルムは、ブラウンの娘が育てていたが逃げ出してしまった。一度だけ街中で目撃されたが、それ以来一度も目撃されていない。マレーシアでのような、家畜の被害も報告されていない。もしかしたら、死んだのかもしれない。死んだのか、どこかで生き残っているか分からないが、いずれにせよ死体は発見されていない。」
ホワイトは、驚きを持って少将の話を聞いていた。
「そこでだ、ホワイト博士。君に、ヨーク市のタッツェルベルムの調査をしてほしい。今となっては、君以上に奴の事を知っている人間はいないからな・・・。ビンセント博士にも、リハビリが終わり次第、君に協力するよう依頼した。彼の協力の了承は得てある。もう二人、パートナーを加えさせてもらった。有名な生物学の博士と地元の獣医で、タッツェルベルムの事を感づいたようなので、説得して高額な報酬で無理やり仲間にした。もちろん軍事機密漏えい禁止の誓約書に署名させたんだがな・・・まあ、マスコミに漏れるよりはましだろう。どうかな、博士?」
ホワイトにしても、キングスレーと同様にこの件から手を引くことはできなかった。あまりに多くの仲間が死んでいたから、この件を解決することが彼女に課せられた使命だと感じた。
「分かりました、閣下。調査を引き受けさせていただきます。」
キングスレーとホワイトの了解が得られると、初めて少将の口元に微かな笑みが浮かんだ。