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第十一章 ビンセントの疑惑

 会議の翌日から、新たな検証実験が始まった。生き残った七体のタッツェルベルムから細胞が採取され、各五つずつ、計35パターンが培養に廻されるのである。その中の各二体ずつの計十体は、生体まで育てられる事となった。これらの培養された細胞の遺伝子と、現在も成長しているタッツェルベルムの細胞の遺伝子を、比較するのである。
 35個の培養パレットは、AからFまでの英字と、1から5までの数字の組み合わせで、番号を割り当てられていた。チビが、A1~5。太っちょが、B1~5。チョコマカが、C1~5。暴れん坊が、D1~5。ノッポが、E1~5。プルプルが、F1~5。怖がりが、G1~5。

 これらの培養を担当するマイケル・ビンセント博士の生体培養技術部門の部屋に、保冷バッグを持ったブラウン博士がやってきたのは、培養の準備でビンセント博士とスタッフ達が忙しく立ち回っている真っ最中だった。
「ビンセント博士、ちょっといいかな?」
ビンセントは、その声に気が付いて足を止めた。
「ブラウン博士。いいですよ、どうぞ。」
「チーフ部屋で、二人で話しができるかな?」
そう言われて、ビンセントはブラウンをチーフ専用部屋へ案内した。部屋のドアを閉めると、二人は椅子に座った。ビンセントが、先に口を開いた。
「で、何でしょう?」
ブラウンは、ビンセントの目を真っ直ぐ見て言った。
「忙しい時にすまないが、君にお願いしたいことがある。軍事機密に関する事なんだが・・・。」
ビンセントは笑って言った。
「何を言っているんですか。ここでの研究は、一つ残らず軍事機密じゃないですか。我々は、全員機密保持の為の署名にサインしていますよ。」
ブラウンは、頷いた。
「今回の依頼は、他のチームのチーフともスタッフとも情報を共有することができない、最重要軍事機密に属するのだ。」
こう言われて、今度はビンセントの顔は真顔になって、口元が引き締まった。
「分かりました。で、その内容というのは?」
ブラウンは手にもっていた保冷用のバッグから、試験管型の小さな保管ケースを取り出した。
「このケースには、ウォーカー博士に組替えてもらった最新のDNAが入っている。もちろん、ウォーカー博士も最重要軍事機密である事を知っているので、この事は誰にも話していない。このDNAは、水際作戦用実戦型の水掻きのあるタイプのタッツェルベルムで、陸軍上層部が培養を求めているのだ。もしかしたら、実戦用の臨床実験の第一号になるかもしれない。」
ブラウンは続けた。
「これは、他のスタッフにも知られてはならないので、これから培養予定の35個のパレットの一つを、この水掻きタッツェルベルムの細胞培養に当ててもらいたい。」
ビンセントは、しばらく考え込んでから頷いた。
「分かりました。私が培養を担当するD列の五番のパレットを、この新タッツェルベルムの培養に割り当てましょう。培養が失敗しないように、最善の注意を払います。」
ビンセントがそう言うと、ブラウンはケースを保冷バッグにしまい込んで、それをビンセントに手渡した。
「では、よろしく頼むよ。ビンセント博士。」
ブラウンは、立ち上がりながらそう言った。
「最大限の努力をしますよ、ブラウン博士。」
そう言って、ビンセントはブラウンを部屋から送り出した。
 ブラウンは、ビンセントのチームの研究室からの帰路、ホッと安堵の息をもらした。これで、彼自身の計画はほぼ完了した。あとは、ビンセントが失敗しないことを祈るだけだ。

 十月の後半までに、35個の培養パレットの細胞は順調に成長していった。本来死すべき定めだったタッツェルベルム達の、僅かに生き残った七体の細胞の生命力と成長力は異常に高かった。
 十月の最終週には、サム・シュルツ博士のチームが、培養されている細胞のうち21パレットのサンプルの遺伝子解析を始めた。十一月の初旬にはその結果が出て、培養中の細胞とタッツェルベルム二世達の遺伝子の間には差異がない事が確認され、改変された遺伝子は固定化されたものと判断された。この時点で、21個の細胞の培養は止められて、細胞保存用の保冷庫に廻された。長期的な遺伝子の改変状況を探る為、残りの14パレットの細胞だけが培養を続けられた。

 この鉄かぶと島での二十八年もの研究は、軍事機密の故に世間に公表できないとは言え、驚くべき成果を挙げていた。研究初期から中期にかけての大きな研究成果は、主に二つあった。
 一つは、一部の動物が尾や手足等の部位を失った時に、万能細胞内の休眠状態の遺伝子を叩き起こして欠損のある体の部位を再生すると言う、動物の特異なシステムを解明したことだった。もう一つは、受精した卵子が単一の細胞から分裂を繰り返していく過程で、ある細胞の部位が必ず頭になり、ある細胞の部位が必ず手になり、足になると言う現象・・・例え、足部分になるべき細胞を手に移植しても、その細胞は足にならずに必ず手に成長していく・・・そう言う不思議な現象の原因を解明したことである。つまり、万能の胚性幹細胞の遺伝子システムを解明したのである。これらのシステムが解明されたことで、人工授精によらない一細胞からの直接的な生体への培養すら可能になったのである。
 これらの研究成果が得られたのは、サム・シュルツ博士の論文"DNA配列における機能塩基配置の特定及び相関する塩基配置の予測"の功績による所が大きかった。これらの細胞の働きを遺伝子レベルで解明し、再現を可能にしたことが、その後のタッツェルベルム誕生へ大きく拍車をかけたのである。
 マイケル・ビンセントも、ここでの研究を通じて最先端の細胞培養技術の権威となりつつあった。同じく既に遺伝子組み替えの権威となったロビン・ウォーカー博士が度々嘆いていることではあるが、これが軍事機密を伴う研究でなかったら、この島の研究成果は学会に衝撃を与え、ノーベル賞を獲得するには十分なものであっただろう。しかし、その日は永久にやって来ないのだ。
 もちろん、この研究所の研究がこのレベルに達するまで、何百何千と言う固体が培養や成育に失敗して死滅した。失敗の原因は、遺伝子設計上の問題から、培養技術の未熟さまで様々であったが、それらが生命活動を停止する度に、ビンセントは心を痛めた。その度に、彼は培養技術をより高度化、洗練化するため、スタッフと共に血の滲むような努力を重ねてきたのだ。

 十一月の二週の終わりには、培養されたタッツェルベルムの細胞達は、幼体としてのしっかりした形を取り始めた。まだ小さな魚のような形態だったが、その成長は凄まじく、日々形を変えつつあった。徐々に小さな手や足も、形作られ始めた。
 このように細胞の培養自体は順調であったが、ビンセントには気になる事がひとつあった。十一月の三週目の終わり頃には、顔や手足の形がかなりはっきりしてきて、産毛も生え始め、二週目には存在していた各生体の指の間の水掻きも消えつつあった。ビンセントにとっては、そこが問題だった。
 Dの5番のパレットの固体も、同様に手足から水掻きが消えつつあった。ブラウン博士は、確かに 水掻きのあるタイプ"と言たのではなかったか?それなのに、手足から水掻きが消えようとしている。培養自体には、何ら問題は無い。この固体の遺伝子設計、ないし遺伝子組み替えは失敗しているのではないか?ビンセントは、その事を心の奥底に留め、D5番のタッツェルベルムの幼体がもう少し成長するまで様子を見ることにした。