入口 >トップメニュー >ネット小説 >ベルム達の夜明け >現ページ
第六章 所長との会話
日が没する直前、ブラウンは居住棟のデビッド所長の部屋を訪れた。彼がノックをすると、中から所長の声が聞こえた。
「空いている。入りたまえ。」
そう言われて、ブラウンは部屋の中に入った。所長はポロシャツに着替えてソファーに座り、既に少し飲んでいるようだった。テーブルには、アルマニャックのボトルとグラスが二つ置かれていた。所長が、ブラウンに座るように手招きした。ブラウンが座ると、所長が言った。
「君は、ポートワインが好きだったな。この部屋には、今ウィスキーとアルマニャックしかないが、飲むかね?」。
ブラウンが答えた。
「では、アルマニャックをお願いします。」
所長は、グラスにアルマニャックを注ぎ、それをブラウンの方へ差し出す。
「まず、新しいタッツェルベルムの遺伝子設計の件から話を聞こうか。何故、新たな遺伝子設計が必要なのだね?誕生したばかりの二世達の問題点を聞きたいな。」
ブラウンは、グラスのアルマニャックに少し口をつけてから答えた。
「ご存知のように、我々は今回五十体の実験体を培養しました。しかし、幼体まで成長できたのはわずか七体だけです。率にしたら、二十%にも満たないのです。」
所長は、首を傾げた。
「それが何か問題でも?そもそも実験体なのだから、うまく成長した事自体が奇跡のようなものだ。前回成長できたのは、わずか一体だけだったのだよ。たったの一体だ。今回は七体も生育できたのだから、大成功じゃないのかね?」
ブラウンは、少し考えてから口を開いた。
「実は、そこが問題なのです、所長。七体だけが生育できたことがです。五十体はすべて同じ遺伝子を持ち、同じ環境で培養、生育させたのです。彼らは史上最強の生物で、どんな野生動物よりも遥かに強い生命力と生育能力を持っています。少なくとも、そう設計されたはずです!」
「ところが、五十体の内四十三体が死に、生き残ったのはわずか七体です!生命力がとても強い同じDNAを持っていたのにも、関わらずです!ウォーカーやビンセントは、よくやってくれています。彼らの仕事に、落ち度はありません。とすれば、DNA設計のどこかに問題があったとも考えられます。少なくとも、シュルツと私はその確率が最も高いと考えています。」
所長が、手に持っていたグラスをテーブルにおいた。
「私も今のような管理職に就く前は、君らと同じ研究者だったからよく分かる。正直言って、遺伝子のような膨大な情報の鎖を、全部解き明かすのはあと何百年かかるか分からない。それをたった三十年足らずで、ここまで成果を挙げたのだよ。君達のチームは大したものだと、私は心底感心しているし、心から感謝もしている。」
それからしばらく所長は口をつぐみ、グラスの底を見つめながら考え事をしているようだった。ブラウンも所長との付き合いが短いわけではないので、彼が何か重要な話しをしようとしているに違いないと確信した。こういう態度の時の所長は、大抵重大な話しをしようとしている時に違いないのだ。
ほどなくして、所長がゆっくりと口を開いた。
「実は、君に大事な話がある。これは軍の最重要機密事項で、まだ口外してはならないことなんだが・・・。実質的にこの島の研究全体の責任を負っている君には、話しておかなくちゃならんことだと思うし、君にはそれを聞く権利があると思う・・・。」
所長は、身を乗り出して言った。
「先日の、エンタープライズ号が関係している話しなのだ。」
ブラウンは思考を廻らしたが、シリウス探査とこの島での研究がどうつながるのかまったく理解できなかった。
「宇宙探査とDNA研究の間に、一体何の関係が?」
所長が、その質問も当然と言う感じで答えた。
「直接には、何の関係も無い。問題は、予算に関係することなのだ。ニューダイダロス計画には、莫大な予算がかかっていたことは君も知っているだろ。当初、あの計画はアメリカだけで推し進める予定だったのだが、あまりに規模の大きいプロジェクトだったので、世界各国の経済的な協力が必要になってしまったのだ。アメリカ政府も限界を超えて予算を支出したから、多額の国債を発行する破目に陥ってしまった。六年も膨大な予算を注ぎ込んだため、結局アメリカは大幅な緊縮財政に転じざるを得ない状況だ。軍事予算も例外ではない。」
「それで、こっちにとばっちりが?」と、ブラウン。
「まあ、そんなところだ。昨年から既にそう言った話しが、軍の上層部内でポツポツと出始めていたのだが、具体的な話になったのは今年の一月からだ。来年の予算を組む前に、政府の監査委員会が各省の研究を詳細に調べるかもしれないと言うのだ。監査委員には、その道に詳しい一線級の科学者達もオブザーバーとして加わるらしい。しかも監査委員に対しては、軍の機密扱いと言う切り札は通用しなくなる公算が大きい。必要の無い研究、必要度の低い研究は、どんどん予算が大幅にカットされるか、最悪の場合は研究そのものが中止となる」。
「ここの研究予算の名目は、化学兵器や細菌兵器によって損傷を受けた細胞組織の遺伝子治療と言うことになっている。君達も、全員アメリカ本国の研究所にいることになっている・・・。しかし、ここでの我々の実際の研究は、遺伝子組み替えによる生物兵器の開発だ。間違いなく予算の認可は無理だろう。それだけではない。倫理的な面から、議会から激しい追及を受けるだろうし、マスコミからも総攻撃を受けることになるだろう。単に科学倫理的な問題だけでなく、詐欺罪から国家反逆罪まで、様々な訴訟の的にもなるかもしれない。それで、今年初めからこの件に関して、軍の上層部と胃の痛くなる話し合いを重ねてきたのだ。」
そこで所長が一旦黙って、数秒間沈黙の時が流れた。そこで、ブラウンが尋ねた。
「で、ここの研究は即刻中止と言うことに?」
所長が、再び口を開いた。
「なんとも言えんのだ、これが。監査が入るとしたら、来年の二月以降になるだろう。だから十二月中には、決断を下さなくてはならない。現在、上層部が考えている案は三つだ。一つ目の案は、うまくカムフラージュをして、ここで研究を続ける。しかし、これは設備やスタッフの整合性が付かないから、監査員の目をごまかすことはほぼ無理だろう。二つ目は、一時ここの研究所を閉鎖し本国に研究所を移して、研究内容を偽装して研究を続ける。これも、研究施設をくまなく調査されたり、データを発見されたりしたら結局ばれるので、難しいところだろう。三つ目は、ここの研究所を完全に閉鎖して、設備も人員も本国の研究所に移し、本来するべき遺伝子治療の研究をする道だ。実際に、本国で遺伝子治療研究をしている小さなグループがいるので、データは監査委員会に提出できる。ただし、それだけの豊富なスタッフが揃っているのに、その割には研究データが貧弱だと言うことで、研究者達が無能扱いされるかもしれないがね・・・。これらの案のどれを選択するかは、十二月中には決定される・・・。私は、おそらく三つ目の案が通るのではないかと踏んでいる。なぜなら、軍の上層部の連中は今間違いなく自己保身の方向へ向かっていると、私は感じているのだ。三十年近いここでの研究が中止されてしまうと考えると、私はとても辛いのだ。」
そう言った後、所長はグラスを口に持っていった。
夕陽は完全に海の向こうに沈んだらしく、窓の外は既に暗くなっていた。一陣の風が島を通り抜け、窓の外の木々の葉を揺らした。ブラウンは、所長の目を見ながら言った。
「それは、それで仕方のないことです。時代と言うのは、いつも流動的ですから。取りあえず、貴重な研究データだけは残せますし、すべてが無駄になるわけではありません。いつの日にか、そのデータが役立つ日も来るでしょう。」
所長は、テーブルに目を落としながら言った。
「確かにデータは残る。しかし、残念でならない。コンピューターのプログラムや、研究のデータは、確かに残せる・・・小さなディスクに保存して、ほとぼりが冷めるまで人目から隠しておくことも可能だろう。それらは、もちろん貴重だ。しかし、本当に貴重なのは、人間の活きた経験や知恵や技術だ。正しい資質を持った人材を見つけ、優れた研究者に育てるには、膨大な月日と予算がかかる。一度研究が止まってしまってから、再び研究を軌道に乗せて遅れを取り戻すには、何年、何十年もの年月がかかるのだ。ここまでのレベルに達した君達のチームを解散させるのは、とても惜しいのだ!たいへん悔しい。」
所長が気にしていたのは、議会やマスコミの追及、詐欺罪で訴訟を起こされる事などではなかった。人類の叡智が結集して成し遂げようとしていた研究が、中途で頓挫してしまうことだった。彼も、本質は根っからの科学者なのだ。彼は、一年以上研究所の他のスタッフにそれを打ち明ける事ができず、ずっと一人でその重荷を負ってきたのだった。ブラウンは、苦楽を共にしてきた所長の気持ちが痛いほど良く分かった。
「ここの研究員達は、様々な葛藤を持ちながら研究に勤しんでいます。多くの者が、ここでの研究が民間企業では倫理上許されない類の研究であるが故に、ここでの研究にチャレンジしています。私にしても、同じです。ここでの研究は、確実に遺伝子治療の前進につながります。世界中の難病で苦しむ人達の治療に役立つでしょう。個人的には、妻の原因不明の視力悪化の治療にも、役立つと思っています。」
ブラウンは、一拍置いてから続けた。
「しかし、ここでの研究の最終目的は生物兵器を生み出すことです。味方の兵士の犠牲を抑えるため、戦略に従って優れた戦果を上げられる一定の知能を持った最強の生物を作ることです。それが、多くの研究員の心を悩ませます。研究成果は上げたいが、彼らの作った生物達が、将来戦場での殺戮に使用されるのは到底我慢できないのでしょう。彼らは、フランケンシュタイン博士になりたいわけではないのです。もし、ここの研究所が閉鎖されるとしたら、それは喜ぶべきことかもしれません。素晴らしい研究成果を上げて貴重なデータを残すことができ、その一方であの生物達を戦場に送り出さなくてすむのです。」
ブラウンがそう言うと、ようやく所長はテーブルから目を上げた。
「君の言う通りかもしれんな・・・。十二月にどう言う結論が出るにせよ、少なくともまだ三ヶ月も、研究期間が残っている。ここでの話しは私達二人だけの話しにしておいて、残りの期間、研究者達が研究にベストを尽くせるようできるだけ尽力しよう。ブラウン博士、その一方で研究者達に気づかれぬように、研究成果のデータを全部まとめる労を取ってくれないか。」
所長は、少し元気を取り戻したようだった。
「分かりました。」
と、ブラウンは答えた。所長が、付け加えて言った。
「それと、もう一つお願いがある。できれば冷凍状態の細胞組織でも構わないから、新しいタッツェルベルムの最高の固体の生体サンプルを極秘に保存してくれないだろうか。いつか研究を再開する時に、生体サンプルがあるのと無いのとでは、研究の進展度合いがまったく違うだろうからね。」
ブラウンは、再び大きく頷いた。
「最大限、努力してみます。」
ブラウンは、グラスのアルマニャックを飲み干すと立ち上がり、所長の部屋を出た。
ブラウンは、頭をフル回転させた。残り三ヶ月・・・時間は少ないが、やることは多い。明日からはとても忙しくなりそうだ。しばらくまともに寝られないかもしれないから、今日だけは早めに寝ておこう。そう思いながら、自分の部屋へ帰っていった。